2025年11月30日日曜日

あゝ、いま Ah, now

  “ガイア”という音楽を知った。『週刊金曜日』のコラム「音楽」で紹介されていたのが、ゴーティエ・カピュソンの“ガイア”という「音楽」。17曲がおさめられている。「輸入盤」ということであるが、わたしはApple Musicに課金しているので、すぐに聴くことができた。

 人間と地球をテーマとした17の曲。

 今日も、わたしは畑に行った。農業は、自然の息吹を感じることができるしごとである。わたしは数年前から、自然が変化してきたことを感じている。農業をはじめて10年以上が経つ。5、6年前からだろうか、今まで見たこともない雑草が生え始めた。2年前から、夏の暑さは堪えられないほどとなった。夕方の1時間弱だけが、農作業ができる。おそらく早朝も可能だろうが、わたしは夕方の1時間弱だけ、畑に立つ。2年前から、毎年つくってきた野菜ができなくなった。今まで通りのつくりかたをしているのに、できない。

 花も、今までとは異なる咲き方をしはじめた。2年前からである。

 おそらく、花も野菜も、2年前から、自然の変化に対応できなくなったのだろう。次は、動物が、今まで通りの生活ができなくなるのだろう。

 カピュソンはチェリストである。彼は、チェロを担いでモンブランに登った。昔の景観との違いを肌で感じた。ヨーロッパの自然も変化している。

 自然は、おそらく破壊されてきている。モンブランの山上で、そして私が立つ畑で、自然が警鐘を鳴らしている。

 地球に生きるわたしたちにとって、地球はホームである。ホームが苦しんでいる。苦しみの咆哮を聞く。

 この音楽は、チェロが語る。地球の鼓動、自然の咆哮、人間の声・・・・音。その間をチェロの音色が歩んでいく。そうした音や声を聴きながら歩く。

 わたしたちは、聴き、それらをこころに留めなければならない。 

 I discovered music called “Gaia.” It was introduced in the ‘Music’ column of Weekly Friday magazine—Gautier Capuçon's “Gaia,” a collection of 17 pieces. It's labeled an “import,” but since I subscribe to Apple Music, I could listen to it right away.Seventeen pieces themed around humanity and the Earth. 

Today, I went to the field again. Farming is work where you can feel nature's breath. For several years now, I've sensed nature changing. It's been over ten years since I started farming. Perhaps five or six years ago, weeds I'd never seen before began growing. Since two years ago, the summer heat has become unbearable. Only for a little less than an hour in the evening can I work the fields. Early morning might be possible too, but I stand in the field only for that hour in the evening. For the past two years, the vegetables I've grown every year have failed. Even though I'm doing things the same way as before, they just won't grow.Flowers, too, have started blooming differently than before. This began two years ago.Probably, both flowers and vegetables have been unable to adapt to nature's changes since two years ago.

 Next, animals will likely find they can no longer live as they always have.

 Capuçon is a cellist. He climbed Mont Blanc carrying his cello. He felt the difference from the old landscape in his bones. Europe's nature is changing too.

 Nature is probably being destroyed. On the summit of Mont Blanc, and in the field where I stand, nature is sounding the alarm. 

For us who live on Earth, Earth is our home. Our home is suffering. We hear its anguished roar.This music is told by the cello. The Earth's pulse, nature's roar, the human voice... sound. The cello's tone walks through these spaces. We walk while listening to these sounds and voices.

We must listen and hold them in our hearts. 

Translated with DeepL.com (free version)


2025年11月28日金曜日

【演劇】劇団文化座『母』

  夜、劇団文化座の「母」を見た。小林多喜二の母、である。その役を、佐々木愛さんが演じた。はまり役だと思った。

 「母」を見ていて、息子・多喜二のすることをどんなことでも受容していく姿勢に、自分の母と同じだ、と思った。私の母も、わたしのすることを止めたり、批判したことはなく、黙って受容し、見ていてくれた。多喜二の母も、わたしの母も、息子を全面的に信用してくれていたのだと思った。

 わたしは、歴史講座で「多喜二とその時代」というテーマで話したことがある。その関係で、多喜二全集を読み、また多喜二に関して言及した諸々の文献を読んだ。

 多喜二が組織のトップとして書いた文を、わたしはそれをすべて読むことが出来なかった。なぜか。多喜二の文学は文学として、わたしは世の人と同様に大きく評価する。しかし政治的な文は、読めなかった。

 往々にして、政治と文学について論じられることがあるが、わたしは文学は政治に従属してはならないという考えを持つ。しかし多喜二は、そうではない。多喜二はこう書いている。

  若し私に一つの「芸術的主張」があるとしたら、それは同時に私たちの所属している「ナップ」芸術的主張であるわけです。私はそこから一歩も出ないことを恥かしがるどころか、その線から誤った方向へいゝ気になったおしゃべりをしていないかと、始終ビクビクしています。(「傲慢な爪立ち」、1930年)
 

 「我が国のプロレタリアートとその党が現在に於て当面している課題を、自らの芸術的活動の課題とする」という問題が、全的に承認されたのである。レーニンの言葉を借りるなら、「文学は党の言葉でなければならぬ」ということが、更に言葉を換えて云えば、文学の党派性が、始めてプロレタリア文学運動の内部に樹立され理解されたのであった。(「「転形期の人々」の創作にあたって」、1932年)

  一旦つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲と云っても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水吞百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からジカに知ることが出来る。だから私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲である考えている。だが、笠原にはそのことが矢張り身に沁みて分らなかったし、それに悪いことには何もかも「私の犠牲」という風に考えていたのだ。「あなたは偉い人だから、私のような馬鹿が犠牲になるの当たり前だ!」ーしかし私は全部の個人生活というもの持たない「私」である。・・・・・私は組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽く迄も行って行くように義務づけられている。・・・・(「党生活者」1932ねん)

 多喜二は素直で誠実な人間であったから、そして母の愛に包まれて育ったから、余計に政治の世界に入り込み、その政治的組織のなかで、組織に忠実であることが貧しき人びとのためになるのだと想っていたのだろう。その点で、多喜二はわたしよりすっと良い人間だと思う。わたしには、出来ない。

 多喜二は、銀行からの初任給で、弟の三吾にヴァイオリンを買ってあげた、三吾は、後に東京交響楽団ヴァイオリニストになる。

 多喜二が虐殺される前、音楽会のチケットが渡された。その音楽会は、ヨゼフ・シゲティによるベートーベンのヴァイオリン協奏曲の演奏会だった。席に坐ったら、隣には三吾がいた。兄弟は、その後生きて会えることはなかった。

 今、わたしはシゲティによるその協奏曲を聴きながら書いている。

 1930年代、治安維持法が吹き荒れた時代、その時代を想いながら聴く。同じような時代の空気を、今吸いながら、多喜二が虐殺されるような時代をつくってはならないと思う。

 

  

2025年11月27日木曜日

国家への従属を凝視することー画家と戦争ー

 はじめに
 昨年、歴史講座で、「画家と戦争」というテーマで三つの話をした。一つは上田市にある無言館に所蔵されている静岡県出身の画家の卵たちのこと、もう一つは戦争画を積極的に描いた高名な画家たちのこと、そして最後は、戦争に動員されシベリアに抑留された香月泰男、中国戦線を体験した浜田知明、ふたりの軌跡を作品を示しながら振り返るというものであった。2回目の高名な画家のなかでは、藤田嗣治を主にとりあげた。藤田については、こう語った。
 

 "ライトがあたるなら、何でも描いた。藤田にとって、現実も、戦争も、パリの女たちも、ただ目に映る風景でしかなかった。その風景を、藤田は描いた。その風景が、どのようなものであろうと、そこになにがあろうとなかろうと、喜びがあろうと、悲しみがあろうと、藤田にとってはそれはどうでもよいことだった。ライトがあたる風景を、藤田は描きつづけた。そしてそのライトを藤田は浴びたかった。才能豊かな空虚な画家であった。〝
 

 そして、戦争画を描いた画家たちについては、こう語った。 
 

○総力戦体制下の戦争は、すべてを統制し、動員する。一般国民は言うまでもなく、画家、彫刻家、作家や音楽家なども統制・動員された。統制と動員に抵抗することは、身体的・経済的・社会的な抑圧をもたらす。
○戦争画は、戦意高揚の図像のひとつとしての役割を果たした。※図像は、ほかに新聞、雑誌、写真、紙芝居、教科書などがあり、それらとともに、戦争画は大日本帝国の戦争を支え、推進した。
○ほとんどの画家は、みずから描いたものが戦意高揚・戦争協力につながることを自覚していた。
○ほとんどの画家たちは、「大日本帝国」という国家に「盲従」していた。「大日本帝国」は無謬性のなかにあった。
○当時の一般の人びと、国家に盲従し、無謬の「大日本帝国」を信じていた。だから、画家たちが戦意昂揚のために戦争画を描いたという行為は、人びとに「寄り添う」ことでもあった。
○展覧会などを通して、彼らの「戦争画」は多くの人びとの目に触れることとなり、一般国民に一定の影響を与えた。
 *           *          *
 その後、菊畑茂久馬『新版 フジタよ眠れ 絵描きと戦争』(花乱社)を読んだ。そして、藤田嗣治がみずからの技巧と才能を最大限に振り向けた、彼の戦争画について、もう一度深く考えなければならないと思った。藤田はなぜ国家に全身でのめり込んだのか、それとの関係から、人びとは国家をどのように捉えていたのかという問いが生じたからであった。
 その問いについて、歴史講座で話したことを一部掲載しながら、考えていこうと思う。
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(1) 昨年、静岡県立美術館で、「無言館と、かつてありし信濃デッサン館―窪島誠一郎の眼」という展覧会が開催されていた(10月12日~12月15日)。
 

 無言館とは、言うまでもなく、戦没した画学生の作品が展示されている美術館で、長野県上田市にある。この美術館建設を推進したのは、画家の野見山暁冶と窪島誠一郎である。建設の経緯は省略するが、そこには5人の静岡県出身の画学生の作品が展示されている。
 

 まず中村萬平(1916~1943)である。浜松出身の中村は東京美術学校油画科に入学し、1941年卒業。卒業後浜松へ帰った。そのとき妊娠している妻・霜子を伴っていた。萬平は42年2月に入隊し中国・華北へ。霜子は42年2月に男子を産んだが、3月に亡くなった。中村は、霜子の死を中国で知った。そして中村も、43年8月戦地で亡くなり、子どもは祖父母に育てられた。中村は首席で卒業したことから、彼の絵「画室」は、東京藝術大学にある。無言館には「霜子」が展示されている。
 

 次に桑原喜八郎(1920~1945)である。彼は掛川中学校卒業後東京美術学校日本画科に入学した。19433年秋、出陣学徒として三島連隊に入営し、44年7月に出征、最期はビルマで戦死した。無言館には「冬の山」があり、他は掛川市二の丸美術館にある。
 

 野末恒三(1909~1945)は、浜松出身、東京美術学校在学中に結婚し、卒業後は旧制中学校の美術教師となり、各地を転々とした。1944年に召集され、フィリピン・ルソン島で戦死。30代半ばでの、子どもを二人残しての死であった。彼の妻も、戦争直後に病死した。無言館に彼の作品は、3点展示されている。
 

 佐藤孝(1923~1945)。賀茂郡河津町生まれ。「繰り上げ卒業」という暴挙のため、佐藤の美術学校在学はたった半年であった。フィリピン・ルソン島で戦死。21歳、彼は一人っ子であった。彼の手記は『きけわだつみのこえ』に収載されている。無言館には、4点が収蔵されている。
 

 須原忠雄(1916~1946)。須原は田方郡韮山村出身、1937年4月東京美術学校日本画科に入学。在学中紀元二千六百年奉祝美術展に「柑橘實る頃」を、第5回大日本美術院展に「五月」を出品。卒業後三島野砲兵連隊に入隊し、1943年6月出征、満州に駐屯。46年1月シベリアで戦病死。彼の作品「柑橘實る頃」が無言館にある。
 静岡県出身の画学生5人を紹介したが、もちろんたくさんの画学生が戦地で命を落としている。窪島は「かれらの「死」のあまりの不条理さが。かれらの絵をいまだに成仏させていない」(『無言館ノオト』集英社新書、2001年)と書いているが、戦没画学生の作品を見るとき、わたしたちはまさに無言になる。彼らが無念の死を強制されたことを知っているからである。

 ところで、彼らの絵は、戦争を描いたものではない。戦争とはまったく関係のない習作をもとにこれからどのような絵を描いていくか、無限の可能性をもった画学生。しかし天皇制国家は、彼らの未来を奪い、死を強制したのであった。
 

(2)戦争画と藤田嗣治 
  戦争画とは、戦争を題材とする絵画のことである。その制作は日中戦争からアジア太平洋戦争期にかけて本格化した。戦闘場面、兵士、戦艦などを大画面に写実的に描いたものが中心だが、戦争を直接の主題としない作品群も含められることがある。例えば過去の合戦や国史を主題とする歴史画、出征した父が不在の家族像を描いた「銃後」の作品、占領地の情景など。洋画が多い。他方日本画では、横山大観のように、国威を示唆する旭日、富士山など象徴的な意味による戦争画を描いた。
 

 戦時下、多くの画家は、自発的に戦地に赴いて戦争画を描いた。陸海軍から公式な依頼を受けた従軍画家、報道班員としてなどさまざまな立場があった。
 

 従軍画家の戦地遠征が始まったのは1937年の日中戦争の勃発からである。翌38年、中支那派遣軍の報道部が中村研一、向井潤吉、小磯良平といった洋画家たちに戦争記録画の制作を公式に委嘱し、同年には「大日本陸軍従軍画家協会」(翌年、陸軍美術協会)も結成された。海軍も藤島武二、藤田嗣治らに戦争記録の制作を依頼した。1939年には、従軍画家は200名を超えた。この頃から軍の委嘱による戦争画が公式には「作戦記録画」とよばれるようになる。
 

 「作戦記録画」は軍に収められ、第一回聖戦美術展(1939)、「大東亜戰爭美術展覧会」(1942)、陸軍美術展(1943)などの美術展で展示され、多くの人びとが鑑賞した(地方でもこうした展覧会が開かれた)。
 

 その「作戦記録画」の主要作品は戦後GHQによって収集され、1951年のサンフランシスコ平和条約調印後、アメリカに送られ、1970年に無期限貸与という名目で返還され、現在、東京国立近代美術館に153点が保管されている。
 

 作戦記録画は、横山大観ら日本画家も描いているが、そのなかでも藤田嗣治(1886~1968)がもっとも積極的に描いていたと言えよう。藤田の経歴を簡単に記すと、藤田は東京に生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業後渡仏、モンパルナスにアトリエを構えた。パリでは、乳白色の地と繊細な線描による作品が高く評価され、名声を得た。1929年に帰国、翌年パリに戻った後、北米南米を旅し、1933年に再度帰国。海軍省嘱託となり、従軍画家として中国大陸に赴く。1939年に再渡仏するも、翌年帰国。以後、帝国芸術院会員となり、陸軍省の依頼により各地の戦線に派遣され、大画面の戦争記録画を多数描いた。戦後、藤田は戦争中の画業を指弾され、再び渡仏。1955年に日本国籍を抹消してフランス国籍を取得、1959年にはランスの大聖堂で洗礼を受け、レオナール・フジタと改名した。1968年、スイスのチューリッヒ州立病院で死去した。
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 さて最初の問題に戻って、菊畑茂久馬『新版 フジタよ眠れ 絵描きと戦争』には、どのようなことが書かれていたか。菊畑は、戦争画を描いた画家はたくさんいるのに、「藤田が全批判を浴び、ほかのほとんどの画家が批判をすりぬけていったのは何故だろうか」と問い、それは、「多くの画家たちが単に「戦争」の絵を描いたのに反し、藤田の画面だけは終始して嗜虐的に対象に食らいつき、ここぞとばかり狂ったように地獄をはいずりまわ」ったからだという。藤田は、「大日本帝国」の要請を受け、渾身の力をもってそれに答えたのである。彼の絵はそれを語っている。
 

 山口洋三は、同書の解説で、「・・「個人」の成立が未成熟であった上に、近代美術は常に制度として明治国家制度の整備と軌を一にして発展してきた。つまり、いくら「個人の自立」を叫んだとはいえ、それは常に国家の懐深いところから一歩もでることはない。」だから、「戦争、万博・・・繰り返される国家プロジェクト、祭典に、反骨の前衛作家たちですら容易に巻き込まれ、やすやすと賛同し、嬉々として作品制作に邁進する」のだと書く。
 

 しかしそれは画家だけではなく、ほとんどの日本人に対して言えることではないだろうか。
 

 多くの日本人は、国家から要請されると、嬉々として協力的な姿勢をとる。「日本国民」も、近代美術と同様に、「近代国家制度の整備と軌を一にして」創られてきたのである。
 

 果たして、「個人の自立」は獲得されたのだろうか。あるいは、個人は果たして「自立」できているのだろうか。
 

 ここでいう「自立」というのは、とりわけ国家からの自立であり、さらにいえば国家(政府)への批判的精神をもつことができるのか、という問題である。こうした疑問をもつ契機になったのは、都議会議員選挙、参議院議員選挙の結果であった。
 

 自民党・公明党政権による悪政の結果、生活困難を抱えた人びとが大きな不安を抱くようになった。人びとは、その不安の原因をさぐり、その原因を除去すべく政府の政策を変えさせるような行動をとるのがあるべき解決策であるにもかかわらず、そうではなく、「日本人ファースト」という具体的に何をどうするのか不明な怪しげなスローガンに乗り、参政党に多くの票を投じた。雨宮処凛が、人びとは、「外国人のせいにして鬱憤を晴らす方向にシフトしたようである。どうせオオモトは改善なんてされないから、それなら誰かをぶっ叩いてスッキリしようということなのだろう。」(「マガジン9」9月10日付)と指摘している。人びとは「オオモト」である国家(政府)への批判はしないのである。
 

 あるいはまた、マイナ保険証にすると2万ポイントが与えられるというと、こぞって役所に駆けつけるという姿も見えた。
 

 国家(政府)への本質的な批判をしなくなった人びと、そういう批判をする人たちを毛嫌いする人びと、あるいは批判的な政党や人間には投票しないという現象。
 もちろん、批判勢力は存在はするが、それらは少数であり、さらに減ってきている。こうした現実をどう考えたらよいのだろうか。

2025年11月26日水曜日

「権威への服従」

  ポピュリズムということばが使われるようになって久しい。ポピュリズムとは、「政治において一般大衆の感情や不満に訴え、支持を得ようとする姿勢や運動のこと」だといわれる。ポピュリズムの動向を見ていると、異端的な主張もあるが、ほとんどは当該地域の支配層の思想と矛盾するものではなく、それをさらに強めた主張となっている。

 「一般大衆」、つまり「普通の人びと」は、反体制的な志向をもたないから、「感情や不満に訴え、支持を得ようとする」と、ポピュリストは、体制の思想をより前へ進めたり、純化させたりした主張をせざるを得ない。だから、「右派ポピュリスト」が注目されるのである。

 ヒトラーも、「右派ポピュリスト」といってよいだろう。

 さて、『ファシズムの教室』(田野大輔、朝日文庫)という本がある。甲南大学の教員である田野が、学生たちに「集団行動」を体験させ、そのなかに一定の「魅力」 があることを認識させようとしたのである。もちろん、「集団行動」に「魅力」があることを気付かせることによって、ファシズムに取り込まれないようにすることを目的としてなされた講義である。

 ファシズムは、強力な指導者が「普通の人びと」を強制的に動員したものではなく、彼らは自主的にかつ積極的にその「集団」のなかに入り込んでいったのである。ドイツでナチスのファシズムが席捲していた時代、日本では天皇制ファシズムが人びとを侵略戦争に巻き込んでいたが、「普通の人びと」は積極的に「国のために」それに参加していったのである。

 田野はこう指摘する。「大きな権力に従うことで自分も小さな権力者となり、虎の威を借りて力を振るうことに魅力を感じていたのである」(25)。

 こういう人は、身近にもいるし、職場にもいた。要するに、「普通の人びと」は「権威に服従する」のだ。

 田野は、権威に服従することによって、「自由」が経験され、また「責任感を麻痺させ」る、と指摘する。そして「支配者と服従者は一種の共犯関係にあった。両者が支え合うこの関係が、最終的には戦争やホロコーストという悲惨な結末を生んだことを、私たちは忘れてはならない」と警告する。

 「権威への服従」、そうした姿は、各所で見ることができる。政府や地方自治体の政策に従順に従う姿、政府の施策を批判するとそれに対して激しい悪罵が投げつけられることもある。

 権威に服従していたほうがラクだし、経済的にもプラスになることもあるだろう。

 権威に服従しない人びとは、少数派である。ということは、警戒していないと、ファシズムへと進んで行ってしまう可能性もあるということである。

 

  

2025年11月24日月曜日

想像すること

  昨年、歴史講座で「画家と戦争」と題して、3回話した。1回目は、藤田嗣治など従軍画家として戦争画を描いた画家を取り上げた。2回目は、浜田知明、香月泰男をとりあげた。浜田は戦争に動員され、中国の戦場で見たこと、体験したことを、復員してから侵略戦争の本質を描いた。香月は、日本の敗戦後シベリアに抑留され、シベリアでの悲惨な体験を絵画に昇華した。3回目は、長野県上田市にある無言館に所蔵展示されている、中村萬平らの絵画について話した。

 それ以来、戦争と画家とのつながりについて関心を持ち続けている。

 今月、岩波書店から『戦争の美術史』(宮下規久朗)が刊行された。刊行と同時に購入し読みはじめている。

 「はじめに」を読み、そこにクラウゼヴィッツ『戦争論』から、「普通の人が戦争の危険を知らないうちは、戦争というものを恐ろしいというよりはむしろすばらしいもののごとく考えている」が引用されていた。

 昨今の日本の輿論の動向をみていると、クラウゼヴィッツの指摘通りのことが起きているような気がする。

 わたしのように、1945年に終わった戦争の諸々を研究してきた者にとっては、戦争とは、多くの人びとの死が横たわり、また人間の残酷さが発揮される忌まわしいものであるという認識をもつ。絶対にしてはならないのが戦争であるという強い気持ちを持っている。

 しかし、日本の極右の首相が、台湾に関して危険な発言をしたことによって、日中間で危ないやりとりが交わされている。その状況について、日本人が中国に対して火に油を注ぐような発言をし、また中国側もそれに呼応している。嘆かわしい状況である。

 日本の「普通の人」は、クラウゼヴィッツの言うように「戦争というものを恐ろしいというよりはむしろすばらしいもののごとく考えているのではないか」と思ってしまう。

 「普通の人」の意識状況をみていると、彼らは目の前に起きたことに対しては過敏に対応するが、起きうる可能性について推測し想像することをしないのではないか。

 たとえば、自民党政権の政策は、高齢者を邪魔者扱いし、高齢者福祉から少しずつ撤退するという方向である。その行く末は、高齢者を抱える「普通の人」の(それはほとんどの人に該当するのだが)クビを絞めるものであることが推測できるにもかかわらず、そうした事態に直面して、はじめてたいへんであることに気がつくのだ。

 極右の首相の言明が何をもたらすのか、それについて想像することをしない。

 歴史は、そうした「普通の人」を動員し、あるいは蹴散らしてつくられてきた。しかし同じような歴史を繰り返してはならない。

  Last year, I gave a three-part lecture series titled “Painters and War” at a history seminar. The first session focused on painters like Tsuguharu Foujita who depicted war scenes as war artists. The second session covered Timei Hamada and Yasuo Kazuki. Hamada was mobilized for war and, after demobilization, painted the essence of the invasion war based on what he saw and experienced on the Chinese battlefield. Kazuki was interned in Siberia after Japan's defeat and sublimated his harrowing Siberian experiences into paintings. The third lecture discussed paintings by artists like Nakamura Manpei, housed and exhibited at the Mugonkan Museum in Ueda City, Nagano Prefecture.

Since then, I have maintained an interest in the connection between war and painters.

 This month, Iwanami Shoten published The Art History of War (by Kikuro Miyashita). I bought it immediately upon release and have started reading it.

Reading the “Introduction,” I found a quote from Clausewitz's On War: “As long as ordinary people are unaware of the dangers of war, they tend to think of it not as something terrible, but rather as something splendid.”

 Observing recent trends in Japanese public opinion, it seems precisely what Clausewitz pointed out is happening.

For someone like me, who has studied the various aspects of the war that ended in 1945, war is recognized as a dreadful thing where countless people die and human cruelty is unleashed. I hold a strong conviction that war is something that must absolutely never happen.

 However, dangerous exchanges are occurring between Japan and China due to the dangerous remarks made by Japan's far-right prime minister regarding Taiwan. In this situation, Japanese people are making statements that pour fuel on the fire toward China, and the Chinese side is responding in kind. It is a deplorable situation.

I can't help but wonder if Japan's “ordinary people,” as Clausewitz said, “think of war not so much as a terrible thing but rather as something splendid.”

 Observing the mindset of these “ordinary people,” it seems they react hypersensitively to events unfolding before them, yet fail to speculate or imagine potential future scenarios.

 For example, the LDP government's policies treat the elderly as a nuisance and gradually withdraw from elderly welfare. Even though one can foresee that this will ultimately strangle the “ordinary people” who care for the elderly (which applies to most people), they only realize the gravity of the situation when confronted with it.

They do not imagine what the statements of an ultra-right-wing prime minister might bring.

 History has been made by mobilizing or scattering such “ordinary people.” But we must not repeat the same history.

Translated with DeepL.com (free version)  I made a few minor adjustments.

 

2025年11月23日日曜日

「日本を愛しなさい」 “Love Japan”

  田舎に住んでいるが、時々東京に行く。子どもの家族が住んでいるからだが、東京に行くと疲れる。どんな時間でも多くの人がいて、電車も混んでいるし、歩道にも人があふれているからである。

 東京とその周辺に、大学を卒業した者たちだけではなく、働く場所を求めて移り住んでいく。東京一極集中は、歴代の自由民主党政権と官僚が推し進めてきた政策である。

 その結果、地方から若者が減っている。

 地方には、昔から伝統的な文化、芸能が残されてきた。しかし、最近、担い手がいなくなったということから、それらの行事が最後を迎えた、という報道が増えてきている。

 地方住民の生活を破壊し、地方での生活を成りたたなくさせてきた自由民主党政権。地方の公共交通機関がなくなったりするなかで、地方では車への依存度が高くなっている。たくさんの店が集中するイオンモールなどが郊外に建設され、大きなスーパーが進出し、地域の商店街が消えていく。住民はみずからの車に乗って買い物に行かなければならなくなった。地方に行くと、昔活気があった商店街は、今はシャッターが下ろされ、歩いている人も少ない。地方は破壊されている。

 地方を破壊する政策をすすめてきた自由民主党のメンバーは、「国を愛するべきだ」「日本の伝統を尊重すべきだ」などと、日本、日本と叫ぶ。

 しかし実態として、伝統的な日本は消えつつある。

 自由民主党政権は、農業も破壊してきた。農業では生活できないようにしてきたのである。したがって、農業の後継者はいなくなり、今、畑や田んぼで作業しているのは、高齢者ばかりである。農業では生きていけない、そういう職業を継ぐ人がいなくなるのは当然である。

 海外、とりわけアメリカから農産物を輸入する。日本の車などの工業製品を輸出するために、そのかわりに農産物を輸入するのだ。

 財界の言うことを聞いて政治を進める自由民主党により、地方の生活や伝統文化の基盤が奪われてきた。その自由民主党の面々が、「日本を愛しなさい」「伝統を尊重せよ」という。そしてそれを学校教育で強制するようになった。

 地方に生きる住民が今まで通りの生活ができていれば、放っておいても、「日本はいい国だ」と思うだろう。

 「日本を愛しなさい」と強制するとき、人々の健全な生活は破壊されている。大日本帝国の時代、日本人は一部を除き、貧しい生活を強いられてきた。そのとき、大日本帝国のリーダーたちは、「忠君愛国」を叫んでいた。 

   I live in the countryside but occasionally visit Tokyo. It's because my children's families live there, but going to Tokyo exhausts me. No matter the time, there are always crowds of people, trains are packed, and sidewalks overflow with pedestrians.

Not only university graduates but also those seeking work move to Tokyo and its surrounding areas. This concentration of population in Tokyo is a policy promoted by successive Liberal Democratic Party administrations and bureaucrats.

As a result, young people are leaving rural areas.

 Traditional culture and performing arts have long been preserved in these regions. However, recent reports increasingly indicate that these traditions are facing their final days due to a lack of successors.

The LDP governments have destroyed the livelihoods of rural residents, making life in the regions unsustainable. As local public transportation disappears, dependence on cars has grown in the countryside. Large shopping malls like AEON Malls, concentrating numerous stores, have been built in the suburbs. Big supermarkets have expanded, causing local shopping districts to disappear. Residents now have to drive their own cars to shop. When you visit rural areas, shopping districts that were once vibrant now have shutters down and few people walking around. Rural Japan is being destroyed.

Members of the Liberal Democratic Party, who have promoted policies destroying rural areas, shout “Japan, Japan,” saying things like “You should love your country” and “You should respect Japanese traditions.”

But in reality, traditional Japan is disappearing.

The LDP government has also destroyed agriculture. They made it impossible to make a living from farming. Consequently, there are no successors to take over farms, and now only elderly people work the fields and rice paddies. It's only natural that no one wants to take over a profession where you can't survive.

 They import agricultural products from overseas, especially America. They import these agricultural goods in exchange for exporting Japanese industrial products like cars.

The LDP, advancing policies dictated by business interests, has stripped away the foundations of local life and traditional culture. Yet these same LDP figures demand, “Love Japan!” and “Respect tradition!” They've even made this mandatory through school education.

 If residents living in rural areas could continue their lives as before, they would naturally think, “Japan is a good country,” even without being told.

When people are forced to “love Japan,” their healthy way of life is being destroyed. During the era of the Empire of Japan, most Japanese people, with few exceptions, were forced into poverty. At that time, the leaders of the Empire of Japan were shouting, “Be loyal to the Emperor and love your country.” 

Translated with DeepL.com (free version)

2025年11月21日金曜日

堕ち行く日本

  円安ドル高がとまらない。日本は、どんどん「安い」国になっていく。一ドルが157円後半、というのが現在の相場である。こうなると、食料を大きく海外に依存している日本の食料品価格の上昇はとまらないだろう。

 この円安政策は、安倍晋三が首相時代に進めたものである。安倍政権のみならず自由民主党政権は、日本の輸出産業を儲けさせるために円安を誘導してきた。安倍の子分という高市が首相になったら、円安はさらに進んだ。

 自由民主党のなかの極右の政策を実行した安倍晋三、その子分の高市は、今日の新聞によると、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずとする日本政府の基本方針)を無化し、軍事費をさらに増額し(ということはアメリカからの購入を増やすということで、円安のなか日本の負担はとんでもない額になる)、日本からの軍需品の輸出をさらに緩和し、日本の軍事産業を儲けさせ、無人機を導入し、長距離ミサイルの配備を進め、さらに原子力潜水艦までつくろうとしている。

 自由民主党は、各国に対して法治主義がどうのこうのといっているが、自由民主党は日本国憲法すら守るつもりはない無法集団である。そうした政党が日本の政治の舵を取るなんて、これでは国際社会から信用されないだろう。

 ついでに記しておけば、国民が物価高で苦しんでいるのに、自由民主党は、国会議員の報酬を月5万円の増額を図ろうとしている。国民が滅んで、輸出産業、軍需産業、そして国会議員だけが栄えていく。それでも、日本国民は、高市政権に高い支持率を与えている。

これは悲劇に容易に転じる喜劇でしかない。 

 The yen's decline and the dollar's rise show no signs of stopping. Japan is steadily becoming an increasingly “cheap” country. The current exchange rate is around 157 yen to the dollar. With this trend, the rise in food prices in Japan—a country heavily dependent on overseas food supplies—will likely continue unabated.

This policy of yen depreciation was advanced during Shinzo Abe's tenure as Prime Minister. Not only the Abe administration but LDP governments in general have engineered yen weakness to boost profits for Japan's export industries. When Takaichi, considered Abe's protégé, became Prime Minister, the yen's decline accelerated further.

According to today's newspapers, Shinzo Abe, who implemented the far-right policies within the LDP, and his protégé Takaichi, are now nullifying the Three Non-Nuclear Principles (Japan's basic policy of not possessing, producing, or allowing the introduction of nuclear weapons). They are further increasing military spending (meaning increased purchases from the US, which will impose an enormous burden on Japan amid the weak yen), further relax restrictions on Japan's military exports to enrich its defense industry, introduce drones, advance the deployment of long-range missiles, and even build nuclear submarines.

The LDP lectures other nations about the rule of law, yet it is a lawless group with no intention of even upholding Japan's own Constitution. For such a party to steer Japan's politics means it will lose credibility in the international community.

 Incidentally, while the people suffer from high prices, the LDP seeks to raise Diet members' salaries by 50,000 yen per month. The people perish while only the export industries, military industries, and Diet members prosper. Yet the Japanese people still give the Takaichi administration high approval ratings.

This is nothing but a comedy that could easily turn into tragedy.

Let us confirm the Preamble of the Constitution of Japan (excerpt). 

  日本国憲法前文(部分)を確認しよう。 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth.We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want. 

 We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

また第九条には、こうある。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.The right of belligerency of the state will not be recognized.


2025年11月20日木曜日

「なんで私には何もしてくれないのか…」

 「なんで私には何もしてくれないのか」という記事が『中日新聞』に掲載された。「政治と民意」をめぐる連載記事のひとつである。

 記事には、非正規で働く51歳の男性の話がでている。非正規で働き、年収は210万円、物価高が生活不安を高める。彼は、 「政府は外国人に税金を費やすのに日本人の俺に何もしない。これは差別だ」と訴える。もうひとり、 47歳の会社員は、ひとりで働きながら長女を育ててきた。生活費を切り詰めて生きてきた。最近、SNSの使い方を知り、政治に関心を持つようになった。そしてSNSで外国人が優遇されているとい情報を得た。彼女は、外国人には税金を使っているのに、「なんで私には何もしてくれないの?」と問う。

 

 正確な回答としては、こういうしかない。

 数十年間、自由民主党を中心とする政権は、税制面で大企業などを優遇し、利権による政治を推し進めてきた。非正規の労働者を増やすというのは、大企業の要望であった。安い賃金で働かせたいという大企業の要求を、自由民主党政権が吸い上げてきたのである。そうすることによって、自由民主党議員には、多額の政治献金がなされてきた。ふつうの国民が貧しく、苦しい生活を送ってきたのは、そうした自由民主党の政策がつくりだしてきたのである。

 そうなると、ふつうの国民は貧しいままで、結婚して子どもをつくり、安定した生活を送ることができなくなった。少子化が進んだ。それが30年以上続く。当然、労働力が不足する。大企業は、その労働力不足を外国人労働力で補足しようとした。まず南米などから日系人を呼び寄せた。もちろん彼らも低賃金で働かせたいから非正規労働者である。それでも足りないので、外国人技能実習制度をつくり、主に東南アジアなどから若い労働力を導入した。もちろん低賃金で働いてもらいたいから、非正規労働者である。日本の労働現場では、すでに外国人労働者に依存しなければ何もできない、という状況にある。

 「なんで私にはなにもしてくれないの?」という問い対して、「あなたがそうした自由民主党の政策に反対してこなかったからであるし、みずからこうして欲しいと要求してこなかったからです」と答えるしかない。別に、外国人のせいではないのである。

 右派的な政治勢力は、国民が貧しいのは、増えてきた外国人のせいだとして、排外主義的な間違った情報をSNSで大量に流す。ふつうの国民は、周辺に外国人が増え、さらに外国人観光客も大量に来ていることに気づく。外国人観光客は、日本が「安い」といって大挙してきているのだが、その原因も、自由民主党政権が推進してきた低賃金政策と、輸出企業を儲けさせるための円安政策があいまって、外国人を呼び寄せているのである。

 原因を究明し、自由民主党の政策を厳しく批判して解決の方向を見出さなければならないのだが、抗議の矛先が外国人にいているというのが現状である。

 冷静に、なぜこうなっているのかを考えることが大切なのである。それなしに、民主主義は機能しないのである。

 

 An article titled “Why Won't They Do Anything for Me?” appeared in the Chunichi Shimbun. It is part of a series exploring “Politics and Public Opinion.”

The article features a 51-year-old man working non-regular jobs. Earning just ¥2.1 million annually, rising prices heighten his financial anxiety. He complains, “The government spends taxes on foreigners but does nothing for Japanese like me. This is discrimination.” Another person, a 47-year-old office worker, has raised her eldest daughter alone while working. She has lived by cutting back on living expenses. Recently, she learned how to use social media and became interested in politics. She then saw information on social media suggesting foreigners receive preferential treatment. She asks, “Why don't they do anything for me?”
 

 The accurate answer is this:

For decades, governments led by the Liberal Democratic Party (LDP) have favored large corporations through tax policies and advanced politics driven by vested interests. Increasing non-regular workers was a demand from big business. The LDP government absorbed the corporate desire to employ workers at low wages. In return, LDP lawmakers received substantial political donations. The impoverished, difficult lives ordinary citizens have endured were created by these LDP policies.

Consequently, ordinary citizens remained poor, unable to marry, have children, and lead stable lives. The birthrate declined. This has persisted for over 30 years. Naturally, labor shortages emerged. Large corporations sought to fill this labor gap with foreign workers. First, they brought in Japanese descendants from places like South America. Naturally, they wanted them to work for low wages, so they were non-regular workers. Even that wasn't enough, so they created the Technical Intern Training Program, bringing in young laborers mainly from Southeast Asia. Again, they wanted them to work for low wages, so they were non-regular workers. Japanese workplaces have reached a point where they can't function without relying on foreign laborers.

 When asked, “Why aren't you doing anything for me?”, the only answer is: “Because you never opposed the Liberal Democratic Party's policies, and you never demanded change yourself.” It's not the foreigners' fault.

Right-wing political forces blame the growing number of foreigners for the public's poverty, flooding social media with xenophobic misinformation. Ordinary citizens notice more foreigners in their neighborhoods and the influx of foreign tourists. These tourists come in droves because Japan is “cheap,” but the root cause lies in the LDP government's low-wage policies combined with its weak yen policy designed to benefit export companies – policies that attract foreigners.

 We must identify the root causes, rigorously criticize the LDP's policies, and find solutions. Yet the current reality is that the target of protest is foreigners.

It is crucial to calmly consider why this situation has arisen. Without this, democracy cannot function.

Translated with DeepL.com (free version)


2025年11月19日水曜日

行政のトップにはバカを据えるな

  日中関係が厳しいことになっている。

 日本では、賃金を上げないなど、日本国民を貧困化させる政策を30年間続けていることから、国内需要が伸びない。最近の円安で、輸入に依存している食料の値上がりが日本国民をより貧困化させている。農水省の失政により、主食である米も高騰し、それでも、日本の国民はあまり怒らない。

 このような状況の原因は、日本の大企業の司令塔・経団連と利権まみれの自由民主党が結託して、自動車産業など輸出企業だけを大切にするという政策であった。労働者の賃金を抑制して、日本の工業製品をより安くつくり、海外で買ってもらおうという政策である。

 労働者の低賃金を維持するために、正社員を減らし、非正規の労働者を働かせるという政策。低賃金のため結婚もできず、将来設計すらもたてられないことから、日本の少子化は進むばかりである。その結果、日本人の労働力不足が日本の経済にマイナスに働くようになった。

 そのため、経団連や自由民主党は、「技能実習生」という制度をつくり、これまた低賃金で働かせる若者たちをアジアから招くようにした。しかし彼らは低賃金と言うだけではなく、奴隷にも近い境遇であった。 外国人の労働者に働いてもらいたいなら、かれらの地位を法的に整備するべきなのに、そんなことはしない。現在、日本にはたくさんの外国人労働者が働いていて、どこにでも外国人をみかける。

 外国人といえば、観光客も増加している。彼らは、有名でない観光地にもいて驚くことがある。外国人観光客に来てもらうのは、日本国民の国内需要が伸びないために、海外からの観光客にカネをつかってもらうという姑息な目的で行われた政策である。外国人観光客にとっても、日本は何でも「安い」国として位置づけられている。日本だけ賃金があがってこなかったから、日本の物価は安いのである。最近の物価上昇で日本国民は困っているが、外国人観光客にとっては、それでも「安い」のである。

 さて外国人観光客の半分近くは、中国からの観光客である。ところが、日本の首相が、「台湾危機」が起こったら、日本は中国と戦火を交えるということを話したのである。「台湾危機」とは、中国が台湾に武力侵攻するという事態である。覇権を失ってきているアメリカ合州国が、中国を牽制するために、「台湾危機」を煽って日本に軍備強化させている。その結果、日米の軍需産業を儲けさせている。

 中国にしてみれば、台湾は中国の一部という認識であり、アメリカも日本も、その認識に理解を示し、尊重すると言ってきた。台湾の住民は中国と戦争なんかしたくはない、現状維持を求めている。だが、日米が騒いでいて、中国が台湾を武力侵攻すれば、日本の自衛隊を差し向けて中国と戦わせるのだと、日本の首相は言明した。

 現在の首相は、以前から様々に挑発的な主張をしてきている。極右勢力の主張に近い。そんな人物であるから、中国へも挑発的なことを語ったのだ。

 中国にとってみれば、台湾問題は中国の「国内問題」という認識であるから、日本の首相の発言に抗議するのは当然のことだ。しかし、それに対して、安倍晋三以降、極右の政党と化した自由民主党が噛みついている。日中関係は険悪となり、中国は日本への観光旅行を自粛せよと言ってきている。実際、ホテルなどのキャンセルが増えているという。

 日本は、近代化に遅れをとった中国を侵略し、1937年からは全面戦争に打って出た。しかし、日本は中国に負けた。その歴史的事実を、日本の極右は認識できていない。近代化された日本軍に対して、中国は主にゲリラ戦で戦い勝利した。しかし現在、中国軍は強大な軍事大国である。

 冷静に考えれば、中国との戦争を避けるために、必死に外交努力をすべきなのだ。何より、日本経済にとって中国は欠くべからざる貿易相手国である。日本にとって、輸出入とも中国はトップである。中国と敵対関係になれば、日本経済は大きな打撃を受ける。中国からの観光客が来なければ、経済的にも困るのである。

 そうした冷静な思考ができない者が、行政のトップにいる。もちろん、日本国民がそういう政党や人物を選挙で選んでいるのだから仕方がない。日本国民も冷静な判断ができないほどに頑迷になってきている。

 根拠不明の威勢のいい言動に支持が集まる怖い時代となっている。賢明さが、求められているのだ。 

Japan-China relations have become strained.

In Japan, domestic demand remains stagnant due to 30 years of policies impoverishing the Japanese people, such as refusing to raise wages. The recent weak yen has driven up prices for imported food, further impoverishing the Japanese people. Due to the Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries' mismanagement, even rice, a staple food, has become prohibitively expensive. Yet, the Japanese people remain largely unperturbed.

 The root cause of this situation lies in the collusion between Keidanren, the command center of Japan's major corporations, and the Liberal Democratic Party, steeped in vested interests. Their policy prioritizes only export-oriented industries like the automotive sector. This strategy suppresses workers' wages to make Japanese industrial products cheaper, aiming to sell them overseas.

 To maintain low wages for workers, policies have been implemented to reduce the number of regular employees and increase the use of non-regular workers. Due to these low wages, people cannot afford to marry and cannot even plan for the future, causing Japan's declining birthrate to accelerate. As a result, the shortage of Japanese labor has begun to negatively impact Japan's economy.

Therefore, Keidanren and the Liberal Democratic Party created the “technical intern training” program to bring in young people from Asia to work for low wages. However, they weren't just paid low wages; they were in conditions bordering on slavery. If they want foreign workers to labor, they should legally establish their status, but they don't do that. Currently, many foreign workers labor in Japan, and you see foreigners everywhere.

 Speaking of foreigners, tourist numbers are also increasing. It's surprising to see them even in lesser-known tourist spots. Attracting foreign tourists is a policy driven by the expedient goal of getting money from overseas visitors because domestic demand among Japanese citizens isn't growing. For foreign tourists, Japan is positioned as a country where everything is “cheap.” Japan's prices are low precisely because wages haven't risen. While recent price hikes are causing hardship for Japanese citizens, for foreign tourists, it's still “cheap.”

Now, nearly half of foreign tourists come from China. Yet, Japan's prime minister stated that if a “Taiwan crisis” occurs, Japan would engage in armed conflict with China. The “Taiwan crisis” refers to a scenario where China invades Taiwan by force. The United States, losing its hegemony, is stoking the “Taiwan crisis” to contain China and push Japan to strengthen its military. The result is that the Japanese and American military-industrial complexes are profiting.
From China's perspective, Taiwan is part of China, and both the United States and Japan have stated they understand and respect that position. The people of Taiwan do not want war with China; they seek the status quo. However, Japan and the U.S. are stirring things up, and Japan's prime minister has explicitly stated that if China invades Taiwan by force, Japan will send its Self-Defense Forces to fight China.

 The current prime minister has long made various provocative assertions. His views align closely with those of far-right factions. It is precisely because he is such a figure that he made these provocative remarks toward China.

From China's perspective, the Taiwan issue is viewed as an internal Chinese matter. Therefore, protesting the Japanese prime minister's remarks is only natural. However, in response, the Liberal Democratic Party (LDP), which has become a far-right party since Shinzo Abe, has latched onto the issue. Japan-China relations have soured, and China has urged its citizens to refrain from tourist travel to Japan. Indeed, cancellations at hotels and other establishments are reportedly increasing.

Japan invaded China, which was lagging in modernization, and launched a full-scale war starting in 1937. However, Japan lost to China. Japan's far-right fails to acknowledge this historical fact. Against the modernized Japanese military, China primarily fought and won through guerrilla warfare. Today, however, the Chinese military is a formidable military power.

Reasoning calmly, Japan should be desperately pursuing diplomatic efforts to avoid war with China. Above all, China is an indispensable trading partner for the Japanese economy. China ranks first for Japan in both exports and imports. Hostility with China would deal a severe blow to the Japanese economy. Without Chinese tourists, Japan would also face significant economic hardship.

 Those incapable of such sober thinking occupy the highest positions in government. Of course, since the Japanese people elect such parties and individuals, there is little to be done. The Japanese people themselves have become so stubbornly inflexible that they cannot make rational judgments.

We live in a frightening era where support rallies around bold rhetoric lacking any basis. What is needed now is wisdom. 


Translated with DeepL.com (free version) 

2025年11月17日月曜日

台湾・日本・中国

  近代日本は、中国への侵略、さらに戦争へと突き進んだ。近代化に遅れをとった中国にたいして、近代日本は傍若無人の振る舞いを行った。柳条湖事件は、日本の関東軍の謀略であったし、上海事変も同様、戦争を拡大するために、近代日本は無数の悪事を働いた。日中全面戦争が開始されると、宣戦布告もないままに、日本軍は中国大陸に上陸し、中国はすぐに降参すると思い、南京を陥落させれば勝つという思い込みで南京を占領した。南京では、南京大虐殺と呼ばれる残虐非道を働いた。現在、少数の日本人が、この事件を否定しようとしているが、無数の証拠によって、それがまったく成りたたないことは、世界の常識となっている。

 中国に旅し、周辺にいる人々に声をかけ、戦時中のことについて尋ねてみれば、ほとんどの家族に戦争の傷跡が残っていることに気づく。そうした記憶を、中国人は持っている。若い人にも、その記憶は伝えられている。

 さて、台湾と中国との対立が喧伝されているが、中国、台湾とも、現状維持こそが経済的にも、政治的にもBetterであることを認識している。日清戦争以降、中国大陸と別の歴史を歩んできた台湾は、そう簡単に中国の一部とはならないだろうし、中国もそうした台湾を自国内に取り込んだら、経済的にも政治的にもマイナスになるであろうことはわかっている。

 台湾問題は、中国の国内問題である。それについては、アメリカも日本も、中国との国交回復時に確認している。

 にもかかわらず、アメリカや日本は、「台湾有事」と騒いでいる。その背景には、軍需産業にカネを儲けさせようとする政策がある。日本が軍備強化すれば、アメリカの軍需産業や日本の三菱重工業などの日本の軍需産業が儲かる。

 そして高市政権は、「台湾有事」が起これば日本の自衛隊が参戦するというような、まったく日本国憲法を蔑ろにする姿勢を明確にした。台湾と中国との武力衝突が起きないように、周辺各国と力を尽くすということこそが求められているにもかかわらず。

 そのような高市政権が言明した政策に、参政党、維新、自民党、国民民主党の支持者らのなかに賛成者が多いという世論調査の結果が報じられている。また50代以下の人々もそれに賛成する者が多いという。

 日本と中国との戦争が、もし起これば、日本は潰滅するだろう。日中全面戦争で甚大な被害をこうむった中国人には、戦争の記憶が伝承されている。その記憶をもった中国人と戦争すればどうなるか、想像力を働かせてみようではないか。

 高市の言明により、中国は態度を硬化させている。当たり前のことだ。日本政府は、アメリカの対中政策に従って反中国的な姿勢を明確にしている。それでいて、中国人の旅行者をたくさん日本に招き入れてカネを稼ごうとしている。中国との貿易は、輸出入とも、日本経済にとってきわめて重要であるにもかかわらず、中国敵視を明確にする。反中国的なことをしておいて、カネ儲けだけさせてくれ、というのは筋が通らない。

 わたしは、日本近代史を勉強していて、これからの日中間では、日中不再戦こそが重要であるという認識をもっている。

 日本国民には、現在に至る日中間の歴史に関する認識と、現在の日本経済にとって中国がいかに重要であるかを考えて欲しいと思う。

 

 Modern Japan plunged headlong into aggression against China and ultimately into war. Facing a China lagging behind in modernization, modern Japan behaved with utter arrogance. The Manchurian Incident was a plot by Japan's  Army(Kantougun), and the Shanghai Incident was similarly orchestrated; to expand the war, modern Japan committed countless atrocities. When the full-scale Sino-Japanese War began, Japanese forces landed on the Chinese mainland without a declaration of war. Believing China would surrender immediately and convinced that capturing Nanjing would secure victory, they occupied the city. There, they committed atrocities known as the Nanjing Massacre. Today, a small number of Japanese attempt to deny this event, but the overwhelming evidence makes such denial untenable—a fact recognized as common knowledge worldwide.

 Travel to China, speak with people in the surrounding areas, and ask about wartime experiences. You will find that scars from the war remain in most families. The Chinese people carry these memories. They are passed down even to the younger generation.

Now, while the conflict between Taiwan and China is often sensationalized, both China and Taiwan recognize that maintaining the status quo is economically and politically better. Having followed a separate historical path from mainland China since the First Sino-Japanese War, Taiwan is unlikely to simply become part of China. China also understands that incorporating such a Taiwan would be economically and politically detrimental.

The Taiwan issue is China's internal affair. Both the United States and Japan confirmed this when establishing diplomatic relations with China.

 Despite this, the United States and Japan are making a fuss about a “Taiwan contingency.” Behind this lies a policy aimed at enriching the military-industrial complex. If Japan strengthens its military, it benefits the American military-industrial complex and Japanese defense contractors like Mitsubishi Heavy Industries.

Moreover, the Takaichi administration has clearly stated a stance that completely disregards the Japanese Constitution, suggesting that Japan's Self-Defense Forces would intervene if a “Taiwan contingency” occurred. This is despite the fact that what is truly required is for surrounding nations to exert every effort to prevent armed conflict between Taiwan and China.

Public opinion polls report that many supporters of the Support Party, the Japan Innovation Party, the Liberal Democratic Party, and the Democratic Party for the People agree with the policies declared by this Takaichi administration. Furthermore, many people under the age of 50 also agree with them.

 Should war break out between Japan and China, Japan would likely be annihilated. The memory of immense suffering endured during the full-scale Sino-Japanese War is passed down among the Chinese people. Let us exercise our imagination: what would happen if we went to war with the Chinese who carry that memory?

 China has hardened its stance in response to Takaichi's statement. This is only natural. The Japanese government is clearly adopting an anti-China posture in line with U.S. policy toward China. Yet, it simultaneously seeks to attract large numbers of Chinese tourists to Japan to make money. Despite the fact that trade with China, both exports and imports, is extremely important for the Japanese economy, Japan is making its hostility toward China explicit. It makes no sense to engage in anti-China actions while only wanting to profit financially.

 Having studied modern Japanese history, I recognize that the principle of “no more war between Japan and China” is paramount for the future of Sino-Japanese relations.

I urge the Japanese people to reflect on their understanding of the history between Japan and China up to the present day, and to consider how vital China is to Japan's economy today.

 

Translated with DeepL.com (free version)

 

2025年11月16日日曜日

「普通の人びと」のなかで生きていくこと “the nail that sticks out gets hammered down.”

  学校でも、職場でも、地域でも、「普通の人びと」に囲まれている。

 反抗的人間であっても、「普通の人びと」のなかで生きていかざるをえない。「普通の人びと」は、安定した秩序が好きである。反抗的人間の存在は、彼らにとって煙たい人間である。

 反抗的人間は、かれらのなかで、どう生きていくことが出来るか。そのときに、編み出した生き方は、「出過ぎた杭は打たれない」である。少しだけ出ている杭は、調和を求める人びとから打たれてしまう。しかし、あまりにも出過ぎた杭は、打たれない。

 つまり、反抗的人間が生きていくためには、みずからを鮮明にして生きていかざるを得ない。わたしはこれがおかしいと思う、これには反対だ・・・などと、常にみずからの意思を鮮明に主張していくのである。そうでないと、秩序と調和が好きな「普通の人びと」は、抑えにかかる。そうした攻撃に対し、その都度闘うのはなかなかしんどい、だから彼らが闘いを挑んでこないほどに(彼らの闘いを益田肇は、「社会戦争」という)、反抗的人間は自分自身を「普通の人びと」とは違うのだ、闘いを挑んできてもムダだという気持ちにさせなければならない。 

 しかし、こうした生き方は、名誉とかカネとか、そういうものとは縁がない。そうであっても、生きていけることは確かである。 

 

 At school, at work, in the community—we are surrounded by “ordinary people.”

Even rebellious individuals must live among “ordinary people.” “Ordinary people” cherish stable order. The presence of rebellious individuals is a thorn in their side.

How can rebellious individuals survive among them? The way of life they devised then is “the nail that sticks out gets hammered down.” A nail sticking out just a little gets hammered by those seeking harmony. But a nail sticking out too far doesn't get hammered.

In other words, for rebellious people to survive, they must live by making themselves distinct. They must constantly assert their own will clearly: “I think this is wrong,” “I oppose this”... Otherwise, the “ordinary people” who love order and harmony will try to suppress them. Fighting back against such attacks each time is exhausting. Therefore, the rebellious individual must make themselves so distinct from the “ordinary people” that they don't even think to challenge them—making them feel that any fight they pick is futile (Masuda Hajime called this “social warfare”). 

 However, this way of life has no connection to things like honor or money. Even so, it is certain that one can survive. 

Translated with DeepL.com (free version)

「普通の人びと」

  益田肇の「人びとが織りなす社会戦争」という文を読んだ(『世界』12月号)。

 どうもしっくりこないので、ネットでこの人を調べたら、彼は「普通の人びと」をキー概念として、彼らの社会での「戦争」に焦点をあてて歴史的事象をみつめようとしているようだ。

 「普通の人びと」とは、「往々にして社会の多数派であり、社会秩序の形成や維持のために国家権力とも協力し、ときには少数派の疑問や異議、要求を抑圧し沈黙させることで「被害者」というよりは「加害者」となることも多かった」人びとということらしい。

 このような「普通の人びと」は、いつの時代でもいる。ほとんどの人は、「普通の人びと」であり、体制に刃向かうこともなく、体制の動きに身を委ねて、ある時は抵抗する者たちを「邪魔者」「変人」だとみなして批判し、あるいは権力と組んで弾圧に手を貸す。

 益田は、そうした人びとのオーラルヒストリーを聞いて、冷戦とか戦争とかを新たな視点でみつめようとしているようだ。

 「普通の人びと」は、国家権力の思惑をこえて行動することもある。より戦争に熱中し、戦線の拡大を望み、密告などにより異端者を積極的に排除していく。「普通の人びと」が、国家権力の意図を体現して行動する。ある時には、過剰反応する。

 わたしがみるところ、「普通の人びと」は国家権力に刃向かうことはしない。国家権力に対して従順である。だから国家権力が失政を行っても、国家権力を否定することなく、国家権力と足並みを揃える勢力を支持する。

 たとえば、自民党から、維新、参政党、国民民主党、立憲民主党には支持が向かうが、共産党やれいわなどにはいかない。

 「普通の人びと」は、支配層の思想の枠内に留まる。そうしないと、支配的な秩序を上昇することはできない。「普通の人びと」は、カネや名誉を求める。反体制では、カネや名誉を手に入れることは難しい。

 ふと思うのだが、「普通の人びと」に着目し、かれらを中心に歴史を見つめる場合、歴史の「画期」はあるのだろうか。

 「普通の人びと」に着目することで、彼らの歴史責任を問うことは出来るかも知れないと思うが、体制の中枢にいる支配者たちの、より重い責任を問うことはできるのだろうか。

 この人の文をはじめて読んだので、色々疑問が湧いた。

 

 

2025年11月15日土曜日

知ることと考えること

  『世界』12月号は、読み応えがあり、読みながら考え、ひとつの文を読み終えて考え・・・というように、なかなか時間がかかる。

 「ふたつのジェノサイド」(駒林歩美)という文を読んだ。ナチスドイツのホロコースト、ソ連などスラブ民族への侵略、その「先駆け」として、ハンブルク大学のユルゲン・ツィンメラー教授は、ナミビアでのヘレロ族、ナマ族に対する大量虐殺・ジェノサイドがあると指摘しているという。

 そしてドイツでは、「ホロコーストとは独特」で、「反ユダヤ主義は他の人種差別とは違う」として、「ユダヤ人とホロコーストについては責任を認めても、それ以外には適用できない」とする。それだけではなく、「ドイツによる植民地支配は現地に良い結果ももたらした」という言説もあるという。この言説は、日本にもある。植民地支配という「悪」を、少しでも消そうという腹黒い発想だと、わたしは思う。

 この文を読みながら、ドイツだけではなく、戦争ばかりやっていて武器だけを発達させたヨーロッパが、その発達した武器を持ってアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど非西欧地域に「帝国主義国家」として侵出し、それぞれの地域で、ジェノサイドを展開した、そういう歴史を持っている。ドイツだけではない、西欧諸国は、そしてそれを真似した日本も、そうした歴史を大いに反省すべきなのだ。

 人種差別、植民地主義、帝国主義・・・、これらは過去のものではなく、まさにいま目の前に繰り広げられている現実であり、一度は批判され、否定されたこれらが、いままた復活しようとしている。

 悪いことは悪い、植民地主義は悪いことであった、人種差別はしてはならない、これは正しいことだ。正しいことを主張し、悪いことは悪いのだと言い続けることが大切だと思う。そして過去それぞれの国家が行った悪事を忘れてはならない。悪事は悪事なのだ。悪事は繰り返してはならない。きちんとした判断は維持されなければならない。 

  

  

2025年11月14日金曜日

「平和、兄弟愛、そして愛」

  「平和、兄弟愛、そして愛」を願っている、こう話したのは、指揮者のリッカルド・ムーティ、今年一月のウィーンフィルのニューイヤーコンサートでのことである。

 イタリア人のムーティは、2021年のニューイヤーコンサートでも、以下のように話した。

 「私たちはここにいて、音楽が運んでくれるメッセージを信じて演奏しています。音楽家には武器があります。これは人を殺さない、音楽という武器です。音楽は喜びや希望、平和、きょうだい愛、そして何よりも愛をみなさんに届けることができます。私たち音楽家にとって、音楽は仕事ではなく、使命なのです。その使命を伝えるために音楽家は働いているのです。では何の使命か? それは、この社会をより良いものにするという使命です」

 おそらく、「人を殺さない」、「この社会をより良いものにする」こと、これは万人が願っていることでもある。

 しかし、現実に、世界各地で人は殺され、また武器が売買され、人殺しの準備が、主に国家という公的な機関によって行われている。

 ムーティは、それに対して、「平和、兄弟愛、そして愛」で、それらを克服しようという。

 毎年1月1日、ウィーンで行われるニューイヤーコンサートで、世界の人々が癒やされ、また「平和、兄弟愛、そして愛」を願う動きが高まることを願いたい。 

 

  “Peace, brotherhood, and love”—these were the words spoken by conductor Riccardo Muti at the Vienna Philharmonic's New Year's Concert this past January.

The Italian-born Muti also spoke at the 2021 New Year's Concert, saying:

 “We are here, believing in the message that music brings, and we play. Musicians have a weapon. It is a weapon that does not kill people—the weapon of music. Music can bring you joy, hope, peace, brotherhood, and above all, love. For us musicians, music is not a job, it is a mission. Musicians work to convey that mission. So what is that mission? It is the mission to make this society better.”

 Perhaps “not killing people” and “making this society better” are things everyone wishes for.

Yet in reality, people are killed all over the world, weapons are bought and sold, and preparations for killing are made, primarily by public institutions like nations.

 Muti seeks to overcome this with “peace, brotherhood, and love.”

I hope that each January 1st, at the New Year's Concert in Vienna, people around the world find healing, and that the movement wishing for “peace, brotherhood, and love” grows stronger. 

Translated with DeepL.com (free version)

 

『世界』1000号

  『世界』との邂逅は、高等学校の図書館だと思う。図書館に入り、入り口の近くに雑誌コーナーがあった。昼休み、しばしばそこに足を運んだ。『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』などいわゆる綜合雑誌などが並んでいた。もちろん『週刊朝日』などの週刊誌もあった。

 早くから『朝日ジャーナル』は購読していたが、そこで読む『世界』も自分で購入する必要があると判断し、買うようになった。こういう雑誌を購入するということは、同時にそのなかで紹介される本も読むようになるということだ。高校時代、社会科学や人文科学の本を購入した。結果、近所の書店で、よく本を買うわたしは、すべての本を一割引で購入できていた。

 『世界』12月号の『世界』創刊1000号の特集には、いろいろな人が書いているが、樋口陽一氏の文がよかった。樋口氏はフランス語のgaucheという語を紹介している。「異議申し立ての精神(contestation)と、それをくり返しながらも普遍的な価値を追い求める誠実さ(fidélité)」だという。なるほど、確かに、『世界』はそうした精神を持ち続けていたし、今もそれが続いている。わたしもそうした精神に焦がれて、『世界』を買い続けてきたのだろう。

 わたしの若い頃の『世界』の編集長は、吉野源三郎氏であった。わたしがもっとも傾倒する知識人と言えば、吉野氏である。『世界』に掲載された「一粒の麦もし死なずば」は、ヴェトナムのホーチミンについて書いたものだが、すばらしい文であった(岩波新書の『同時代のこと』に掲載)。吉野氏は、『世界』編集長をしながら、統一戦線の中核となって(とはいえ表には出てこないが)、戦後民主主義の擁護発展に尽力されていた。知識人として、あるべき生き方を生きた人である。また吉野氏と言えば、『君たちはどう生きるか』という子ども向けの本も書いている。

 わたしにとって、『世界』と吉野氏はひとつのものとなっている。吉野氏の精神を『世界』がずっと持ち続けていくことを願うばかりである。 

  

2025年11月13日木曜日

SNSのこと

  イギリスのフィナンシャル・タイムズが、「ソーシャルメディアの全盛期は終わった」という記事を書いている。10代から20代の若者のSNSに接する時間が2022年頃から減り始めているというのだ(2024年末時点、16歳以上の人がソーシャルメディア利用に費やす時間は、先進国全体の平均で1日2時間20分だった。これは2022年と比べるとほぼ10%の減少だという)。

 とてもよいことだと思う。わたしもSNSで、見るのはユーチューブだけだし、XやTikTokなどまったくやらないし、見ることもしない。

 その世界は、魑魅魍魎が跋扈する世界で、接すると火傷するようなところだと思っている。最近逮捕された立花某のデマ発信も、SNSである。 

 「 こうしたものを見て暇をつぶすよりは、より健全な時間の使い方をしたほうがいい──そう思い立ち、実行する人が増えているのではないかというわけだ。」と、記事にはある。

 そう、健全な時間を過ごすようにしないと、限られた人生がもったいない。

 本を読もうではないか、と言いたい。 

大阪という土地

  大阪市には何だか行ったことがある。遊びではなく、歴史に関する調査が目的であった。そのとき、道路にたくさんの車が一車線をふさいで駐車されてる光景を見て驚いた。今はどうなっているかわからないが、大阪に行っていろいろ、浜松や東京とは異なる地域であることがわかった。

 さて、私の友人は、40年ほど大阪市に住んでいたが、大阪弁をいっさい話さない。大阪にいても話すことはなく、浜松のことばを貫いたという。大阪が嫌いで、ついに浜松に帰ってきた。

 わたしの伯母は長年大阪に住んでいたが、晩年は浜松に帰ってきたが、亡くなるまで関西弁を手放さなかった。

 関西にいたことを誇らしく思う人と、そうでない人がいる。

 わたしはというと、関西はあまり行ったことがないせいか、好きではない。大阪のオバサンの特徴がメディアで取り上げられたことがあるが、わたしはああいうオバサンは好きではない。

 わたしには、関西出身の友人がひとりもいない。だから関西弁を聞くことはない。

 最近、大阪で万博が開かれた。カジノ建設を目的とし、そのための万博開催であるから、わたしは多くの人は参加しないだろうと思っていたら、そんなことを気にもせずに、多くの人が会場を訪れた。それも関西の人々が押し寄せたのだという。浜松では、万博についての話はまったくいっていいほど聞かれなかったし、行ったという話も聞かなかった。

 関西と言えば、自民党の一部がつくった大阪維新の会が政治を牛耳っている。維新という政治勢力は、犯罪を犯したりなど悪事を働く政治家が多いという印象をもつが、関西の人はあまり気にかけないようで、今でも選挙があれば維新の議員が当選する。

 わたしには、維新の政治家に投票することが、まったく驚きである。大阪の「公共」をつぶし、資本にカネ儲けの機会を与えるという政策を平然と行っている。関西の資本にとって、維新の政治家はたよりになるのだろう。しかし庶民にとっては、みずからの生活を苦しめるような政策であるのに、支持を与える。

 大阪にわたしは住んでいないから、「自業自得」ということで、ご勝手にというしかない。

 いずれにしても、わたしは関西、とりわけ大阪を好まない。

 

 まあ何ともいえない関西の風土である。 

2025年11月12日水曜日

『世界』とともに

  岩波書店の『世界』が「創刊1000号」を迎えた。わたしは、『世界』をずっと購読し続けている。

 高校生の頃、ベトナム戦争があった。戦場の状況が、本多勝一らによって報じられ、わたしの正義感に火がついた。『朝日ジャーナル』や『世界』、『展望』(筑摩書房)、『現代の眼』などを購読し、世界、社会への眼を開かされた。

 そのうち、現在残っているのは、『世界』だけである。現在書店に積まれている綜合雑誌の多くは、平和と民主主義を否定する内容のものだ。それが現在の日本の思想状況を示している(最近、『世界』と似ている『地平』が創刊された。平和と民主主義の陣営の雑誌が増えた)。

 しかしわたしは、平和と民主主義は、なによりも貴重なものであり、護りつづける価値があると認識している。

 そのための羅針盤として、『世界』はある。高校時代からずっと購読し続け、あまりにも書庫にたまりすぎたために、二度ほど処分したことがある。

 だが世相の変化と共に、『世界』の購読者は減り続けているという。

 戦争することでカネ儲けをしようという勢力は、いつも、庶民をだまし、平和と民主主義を破壊しようとする。そうした勢力の意図を見抜くためには、わたしたちは学び続けなければならない。その学びの対象として、『世界』や『地平』はある。

 こうした雑誌に掲載されている文を読み込むことによって、世界を知り、社会のありかたを考え、彼らの薄汚れた企みを知る。

 ここにひとつの文を紹介する。こうならないように、という思いから掲載する。呆気にとられないように、『世界』、『地平』、『週刊金曜日』を読みたい。

 

萩原朔太郎 「虚妄の正義」より

 復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのように民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。

 一方で、戦争の主動者たる者ども――官僚や、政府や、軍閥や、資本家や――の観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとえば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしくは内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか? 復讐とか? もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を煽動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。

 それ故にまた敵国は、彼等戦争の指導者にまで、何ら人格的のものでなく、賭博商法における相手の張り方にすぎないのだ。我々の張り手が、いま互に争うものは、ゲーム台のかけひきであって、相手の人間そのものに関係しない。もとより彼等は、互に決闘すべき理由を知らない。況んや憎悪の念もなく憐憫の意志もない。所詮互の敵国は、戦争の主謀者にまで、一の運だめしのカードにすぎないだろう。そのやり方で、ペテンと奸策を弄することでは、両方共に抜目がなく、もちろんの話であるが。

 されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮――敵愾心を指すのである――の残火が燃えているのに、一方では、それの煽動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のように、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまう。

2025年11月10日月曜日

弾圧

  治安維持法体制下の社会運動に関していろいろな本を読んできた。特高による弾圧、具体的には拷問などについて記されたものを読むと、はたして自分は耐えられるだろうかという問いを持つ。

 国家権力の存在を背景にして、特高たちは暴虐の限りを尽くした。特高の暴力は、まさに国家権力の暴力であった。

 国家権力を掌握した者は、いかに憲法や法律があろうとも、それを無視して、やったもん勝ちだというように非法を働く。

 米大統領トランプが今やっているのは、憲法や法を無視しして、やりたい放題のことをしている。

 『週刊金曜日』(11月7日号)の矢部武による「恭謙振りかざすトランプ政権 「赤狩り」よりも酷い言論弾圧」、『地平』(12月号)の大矢英代による「抵抗は続く」には、その具体的な動きが記されている。

 いま、アメリカは自由にものを言えない。自由は確実に遠のいている。またアメリカの学問の自由も奪われている。トランプが忌避する研究には「資金」を提供しない。「性の多様性、移民の権利、気候変動など、トランプ政権の方針にそぐわない研究の封じ込め」が行われている。

 矢部は、報道へのトランプ政権の迫害について書いている。言論統制は、国内全体に行われている。それに対し、87歳の女優、ジェーン・フォンダが抵抗し、「怖いと感じると、私は歴史に目を向けます。これまで何度も効果を発揮してきたのは団結です。団結し、無視できないほどの大勢の中に勇気を見出し、互いに立ち上がることです」と鼓舞する。

 大矢も、「米国の民主主義の歴史は、常に上り坂だったわけじゃない。時にはトランプのような権力者が当選して、底まで落ちる。だけど、またみんなで登り始めるんだ。民主主義というのは、ゴールではなくて、高みを目指しつづけること。登りつづける行為自体を民主主義と呼ぶんだと思う」という一有権者のことばを紹介する。

 弾圧に耐えられるか、と問うとき、一人では無理だ、しかし人間がいる、同じ抵抗する者がいる、それが力になる。言うことは同じだ。

 厳しい時には、他人と手を結ぶ。それなしに、権力の暴虐には耐えられない。手を差し伸べよう、日本でも。

 

「極右化する政治」

  『地平』12月号には、高橋哲哉のインタビュー記事がある。「戦後80年、極右化する政治、劣化する歴史認識」である。

 わたしが属している近代史の研究会でも、「戦後80年」に関する内容は、例会でも会報記事でも取り上げられていない。あまりにひどいので、みずから二本書いて送った。研究会でもこのような状況だから、歴史認識の劣化は進んでいると思わざるを得ない。

 歴史研究に従事してきたわたしは、過去の歴史を研究する際にも、つねに現代の課題を見据えてテーマを選んできた。しかし最近の研究には、それがみられなくなった。歴史認識は、自分自身が生きている時代の認識があってはじめて研ぎ澄まされる。庶民はそうした認識をもつことはあまりないだろうが、歴史研究者にもそれがなくなっている。

 だから、極右の女性が首相になり、その支持率が80%などというばかな数字が生まれるのである。

 現代社会は、体制に従順であったり、さらに体制が望むことを先走って主張すればするほどカネがはいってくる。わたしのように、いつも批判的精神を発揮している者は、社会に於いて冷遇される。したがって、カネははいってこない。 

 高市という人物は、そうした時代風潮を知り、体制が右へ、右へと進んでいる状況を先取りし、それに沿った主張をしてきた。このインタビュー記事でも、彼女の言動が紹介されている。

 彼女は一年生議員の時、国会質問で、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかそておりませんし、反省を求められるいわれもない」と、1945年に終わった戦争について述べている。わたしの思考とは正反対である。わたしも戦後世代ではあるが、大日本帝国がおこなった植民地支配や侵略にたいして、先祖がしたこととはいえ申し訳ないことをした、と頭を垂れる。

 また彼女は、靖国神社崇敬奉賛会主催のシンポジウムで、「途中で参拝をやめるなど、中途半端なことをするから相手がつけあがるのだ」と言ったそうだ。彼女は、首相として、「相手がつけあがる」ことがないように、参拝を続けるのだろう。この「つけあがる」ということばにみられる傲慢さ。傲慢さを出せば出すほど喜ぶ人がいる、というのが、今の日本の姿である。

 また櫻井よしことの共著で、「戦争はない方がいいに決まっているのですが、その戦争が『自衛戦争』なのか『侵略戦争』なのかは、開戦時の『国家意思』の問題です」と語っているという。ロシアのウクライナへの侵攻は、その論理でいけば「自衛戦争」となるだろうし、戦争を起こす国家は、「侵略戦争を始める」などとは決していわないから、この世から「侵略戦争」はなくなるだろう。こういうことばを平気で口にする彼女は、おそらく思考力が欠如しているのだろう。

 こうした放言を振りまいている者たちに人気が集まるというのが、現在の日本である。

 わたしは、そうした背景に、日本人にものすごい知的劣化が起きていると推測している。知的劣化は、劣情に左右されるから、劣情が社会に蔓延していくのである。その劣情をうまくすいあげた者たちが脚光を浴びるようになる。そしてその劣情は、右へ、右へと進んで行く。右の方が、知を無視するからである。無知であっても許される。

 無知であることが恥ずかしいことであった時代は、もうなくなった。無知であることをあからさまに示せば示すほど、支持が集まる。その頂点に高市早苗がいて、それを支持する者が80%なのである。それが今の日本なのだ。 

2025年11月9日日曜日

渾身の文(『地平』12月号)

  『地平』12月号を読んでいる。文を読むということは、いろいろな思考や感慨を喚起する。

 同号の特集は、「加害と和解ー東アジアの不再戦のために2」である。最近は引退しているが、長い間、日本の加害の歴史を研究したわたしにとっても重要なテーマである。

 調査の中で、戦時中、日本の工場に、ウソや甘言を以て労働に従事させられ、その間の賃金を受けとっていなかった朝鮮人女子勤労挺身隊のオモニたちの訴えに、正義感から訴訟を決意して、日本政府を相手に闘ったが、敗訴で終わった。訴訟では、日本国政府に公式謝罪と慰謝料の請求を行ったのだが、オモニたちとの交流の中でわかったことは、彼女たちが求めていたのはカネではなく、自分たちが若い頃、日本の工場で働いていたことを確認して欲しいということだった。工場では、空襲に遭い、命からがら逃げたということもあった。彼女たちにいろいろ話を聞くこと、そのために何度も韓国・釜山に足を運んだこと、そうしたことが、オモニらの心に何らかの変化を及ぼしていることを、わたしは知った。話を聞くこと、それだけで、彼女たちになんらかの満足感を生みだした、ということを。

 わたしは、韓国へ、中国へ、台湾へ、何度も行き、大日本帝国の犯罪を調査して歩いた。そのたびに、当地の人々から話を聞いた。戦争中に日本に強制的に動員された韓国人男性は、あれ以来日本人には会ったことがなかったといった。何度か話を聞く中で、加害国の一員から被害体験を聞かれることが、日本(人)に対する厳しい見方を緩和させていることを知った。わたしは、ひとりの日本人が、ひとりで民間外交をしているような気がした。

 『地平』の特集に、池田香代子さんの「この悲劇の共演者であれ」という文がある。読んでいて、もしわたしがこのような文を書くとしたら、長時間考え、考え抜いてからでないと書けないものであると思った。やさしい文のなかに、池田さんの強い意志が、埋め込まれていた。この文を読むことができただけでも、今号は価値があると思った。素晴らしい文である。

 最初はアウシュビッツで生き抜いた女性から話を聞いた体験を記す。あまりに辛い話を聞き、「(厳しい体験を)語らされて、おつらいのでは」という問いに、体験者が住まう施設の尼僧は、「いいえ、語ることは治療なのです」と言った。厳しい体験から長時間たっても、被害者は忘れない。「ありうべからざる仕打ちを受けた人の心の傷は一生癒えることがない」。

 そして花岡事件のことを記す。言うまでもなく、戦時中、花岡は中国人が強制連行され、おおくの人が殺されたところだ。あまりにひどい仕打ちに、中国人は大挙して逃亡を企てた。人間の尊厳を護るために、しかし全員がつかまり、「二人一組背中合わせで縛られ、三日間、警察隊や憲兵隊をはじめとする殺気だった人びとの監視に囲まれて、ひざまずいた体勢で炎天下の広場に留め置かれた。地面の小石が容赦なく膝に食い込んだ。一度降った雨が、唯一彼らの胃袋に入ったものだった。」

 「それから数十年の時を経て、老いた生存者たちは百人超の仲間が絶命した広場に倒れ込み、地べたを叩きながら声をあげて泣いた。舞い上がる土埃が涙と鼻汁と唾液に付着して、その顔をまだらに黒くした。」

 生存者のリーダーで一斉蜂起の指揮を執った耿諄さんは、「花岡は第二のふるさと、また来たい」と言ったという。

 「人にあらざる扱いを受けた人の心の傷は決して癒えない。しかし誰かが、あなたの受けた仕打ちはあってはならないことだったと、真情をこめて伝えてくることが度重なると、心のかさぶたが剥がれ落ち、どんな屈辱も苦悩も味わったことのない、まっさらの尊厳を備えた自分を感じとることができるのもまた事実だ。その時、人は新たに生まれたという感覚に満たされる。」

 「結局、被害を受けた側が求めるものは糾弾の先にはない。裁判を通じての和解や賠償は、正義が回復された証として大いなる慰藉をもたらすだろう。しかし糾弾の最中にもその決着のあとにも、彼が魂の回復のために真に求めるのは、悲劇の舞台に共に立って苦しみを受けとめようとする手を、なかんずく加害の側から差し伸べられる手を繰り返し感じることだ。嗚咽する肩にそっと添えられる手、ティッシュを差し出す手、交わすまなざし、微笑み、乾杯そしてハグ。さらには「花岡は第二のふるさと、また来たい」と言って、「ありがとう、また来てください」と返されること。」

 加害国の一員であるわたしが、強制連行などの被害者から話を聞くこと、もちろん聞いているとき、わたしの心には「申し訳ないことをした、ごめんなさい」という気持ちがある。話を聞いているなかで、わたしは、被害者の心の変化を感じることが多々あった。

 日本国家や、心ない日本人は、「日本は悪いことをしなかった」「戦争だから仕方がなかった」などと、反省することがない。 しかし、歴史の事実は消えない。被害者は、子々孫々にまで語り伝えていくことだろう。被害者は、決して忘れないからだ。

 わたしたち加害国の一員は、ただ被害者の「苦しみを受けとめ」続けるしかない。この文の表題の通り、「悲劇の共演者」であり続けることしかない。それこそが、被害者、加害者、双方の人間の尊厳を回復する道筋なのだ。

 

2025年11月7日金曜日

教育勅語

  明治神宮で七五三に行くと、「教育勅語」が配られるようだ。

 大日本帝国の時代、それも1930年代のもっとも厳しい時代に郷愁を抱いている人びとが増えているようだ。

 「教育勅語」の本質は、どのような徳目が書かれていようとも、その本質は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」にあることは、周知の事実である。

 大日本帝国の時代、「滅私奉公」が強制され、個人が家庭や軍隊、国防婦人会などの諸組織に縛られ、自由が許されなかった時代。そんな時代になりたいのか。

 たしかに、大日本帝国の時代、神社は支配機構に組みこまれ、神官などはその一員として「おいしい酒」を呑んでいたから、その時代に戻りたいと思うのだろう。だが、神社が国家に呑み込まれたことから、それぞれの神社の歴史が歪められたり、あるいは伝統が壊されたりしたことを誰が知るだろうか。

 教育勅語が、広島市では職員の研修に使われているという。広島は被爆体験もあるが、軍都としてあった。被爆という体験と、軍都であったという記憶のどちらが優勢か。戦前の記憶が、よみがえりつつあるように思う。その象徴が、「教育勅語」である。

 

2025年11月3日月曜日

小さな世界に

  資本主義は、暴力そのものだと思う。『週刊金曜日』10月17日号の廣瀨純の「自由と創造のためのレッスン」を読むと、資本主義というのは、反人間的なシステムだと思う。

 そこに書かれていたのは、米国の移民政策についてであるが、移民を入れたり、移民を追い出したりしているが、それは「国内資本からの要請」なのだと指摘している。正反対の措置ではあるが、共通しているのは、低賃金労働力の確保である。

 「オバマ=トランプ=バイデン時代の大量国外追放も、メキシコ側のコールセンターに米国英語を話す労働者を供給するため」だと。「メキシコ側で就労させ、米国資本のために低賃金で働かせる」のである。

 振り返ってみれば、日本も同様のことをしている。とにかく低賃金で働く人を、資本は求める。日本人労働者の賃金は、この間ずっとあがらないできたが、その賃金よりも安い労働力を求めているのだ。外国人技能実習生という名の奴隷的労働で働く人びと。それ以前は、外国に住む日系の人びとを招いて、低賃金労働力として働かせていた。

 戦前も、日本の植民地とされた朝鮮、朝鮮人も「大日本帝国臣民」であったが、自由に日本本土に入って来たわけではない。労働力が不足しているときだけ、「移入」されていた。

 資本主義社会は「自由」だというが、その「自由」というのは、資本の要請の範囲内のものでしかない、ということである。

 この資本主義、いつまで続くか分からないが、その下でも、相互扶助、共存をめざす小さな世界をつくっていくことが大切かと思う。

 

2025年11月2日日曜日

知ること

  『現代思想』の最新号「「終末論」を考える」を読みながら、無知の知を実感している。

 巻頭の「終わりへの幻想が砕け散ったあとで」を読んでいて、大いに学ぶものがあった。

 「現実にあるたいていの終末論というのは、実は人類の滅亡を宣言するのではなく、むしろひとびとの多くが死んでしまうなかで、それでも生き残る者がいるという話です。大きなカタストロフが来たときに、滅びていくのは誰で、誰がそこをサバイブして新しい世界を作っていくのかということにかかわっている。その意味で終末論は非常に差別的、さらに言えば優生学的な議論と言えます。生き残るべき命と滅びるべき命との間にどう線を引くかという発想に、ともすれば接近していく危険が終末論の議論そのものにある。」 

 終末がきても、生き残る者がいる、という終末論。なるほど。 

 「終末を、というよりそこで救われるべき者と滅びるべき者の選別がなされることを望む集団が、カタストロフが思うように来なかった場合に「我々がそれをおこすのだ」といって本気で準備し実行してしまうことがありうるということです。」

 オウム真理教のテロ事件が、まさにそれだった。しかし、このような思考は、おそらくオウムだけではなく、その他の集団や個人にもあるのだろう。

 このような考え方は、キリスト教の「携挙」(はじめて知ったことばだ)の「世俗版」だという。「終末の時に主イエス・キリストがやってきて、真のクリスチャンを空中に引き上げ、彼らに不死の体を与える、というキリスト教の(特にプロテスタントの中で強い)アイデアである。」と大澤真幸が書いている。 

 また「反出生主義」という語も知った。

反出生主義とは、「生まれてくる子どもが苦しむことを考えると決して生むべきではない」という思想と、「自分が生み落とされたことに対する否定感覚」をもち、「苦しみを感じる存在がゼロになることが将来の世界のあるべき姿であって、それを目指さなくてはいけない」という考えだという。

この「反出生主義」は、『現代思想』で、かつて特集していた。

現在思想の基礎的な知識を得るためには、『現代思想』を読まないといけないと思った次第である。

  

2025年11月1日土曜日

終末論

  今日、『現代思想』11月号が届いた。特集は、「「終末論」を考える」である。

 かなり前、わたしは新自由主義が波及する中で、世界の支配層は自分たちだけが生き残りたい、という意図をもって経済活動その他をしているのではないかと思ったことがある。持続的に自分と、自分の子孫を生かしていくためには、地球環境も大切だし、今を生きる多くの人びとも大切だし、食料やものをつくってくれる農業者や労働者も大切だ・・・つまり自分や自分の子孫を大切にしたいなら、この世界にある諸々のものを大切にしなければいけない、しかし、新自由主義の時代、「今だけ、金だけ、自分だけ」というきわめて利己的な生き方をする人間が増え、他者を切りすてるという風潮がたかまっている。そんなことをすれば、未来は閉ざされてしまう、だれが食料をつくってくれるのか、誰がものをつくってくれるのか・・・いやひょっとしたら支配層は、この世の終わりを見つめてるのではないか、そのためにせっせと蓄財に励んでいるのではないか、と。

 最近は、『現代思想』を毎月購読しなくなっているが、特集に応じて時に購入する。

 さて、大澤真幸の「破局に魅了されて・・」を読みはじめたら、大澤は、『世界』7月号のナオミ・クラインらの「終末ファシズムの勃興」をもとに論じようとしていた。確か読んだはずだと思い、『世界』7月号を手に取ると、目次に×印がついている。もちろんわたしがつけたものだ。わたしは、『世界』などに掲載された文について、読んだら◎、○、×などを目次に記す。もちろん、参考になったものは、◎、○である。読む必要がないと思ったのは×である。「終末ファシズムの勃興」をもう一度読みはじめたが、なぜわたしが×をつけたのかわかった。翻訳がよくない。こなれていないし、たとえば、サバイバリズムを「生存主義」と訳している。しかしわたしは、それを「生き残り主義」とする。語の意味を正しく伝えるなら、わたしの訳の方がよいと思う。災害や社会的混乱その他の最悪の事態を想定して、生き残るために危険に備える、というものだからだ。翻訳も、読む人が理解しやすいようにすべきなのだ。

 『現代思想』、読みはじめたばかりである。感想はまた書くつもりである。