はじめに
昨年、歴史講座で、「画家と戦争」というテーマで三つの話をした。一つは上田市にある無言館に所蔵されている静岡県出身の画家の卵たちのこと、もう一つは戦争画を積極的に描いた高名な画家たちのこと、そして最後は、戦争に動員されシベリアに抑留された香月泰男、中国戦線を体験した浜田知明、ふたりの軌跡を作品を示しながら振り返るというものであった。2回目の高名な画家のなかでは、藤田嗣治を主にとりあげた。藤田については、こう語った。
"ライトがあたるなら、何でも描いた。藤田にとって、現実も、戦争も、パリの女たちも、ただ目に映る風景でしかなかった。その風景を、藤田は描いた。その風景が、どのようなものであろうと、そこになにがあろうとなかろうと、喜びがあろうと、悲しみがあろうと、藤田にとってはそれはどうでもよいことだった。ライトがあたる風景を、藤田は描きつづけた。そしてそのライトを藤田は浴びたかった。才能豊かな空虚な画家であった。〝
そして、戦争画を描いた画家たちについては、こう語った。
○総力戦体制下の戦争は、すべてを統制し、動員する。一般国民は言うまでもなく、画家、彫刻家、作家や音楽家なども統制・動員された。統制と動員に抵抗することは、身体的・経済的・社会的な抑圧をもたらす。
○戦争画は、戦意高揚の図像のひとつとしての役割を果たした。※図像は、ほかに新聞、雑誌、写真、紙芝居、教科書などがあり、それらとともに、戦争画は大日本帝国の戦争を支え、推進した。
○ほとんどの画家は、みずから描いたものが戦意高揚・戦争協力につながることを自覚していた。
○ほとんどの画家たちは、「大日本帝国」という国家に「盲従」していた。「大日本帝国」は無謬性のなかにあった。
○当時の一般の人びと、国家に盲従し、無謬の「大日本帝国」を信じていた。だから、画家たちが戦意昂揚のために戦争画を描いたという行為は、人びとに「寄り添う」ことでもあった。
○展覧会などを通して、彼らの「戦争画」は多くの人びとの目に触れることとなり、一般国民に一定の影響を与えた。
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その後、菊畑茂久馬『新版 フジタよ眠れ 絵描きと戦争』(花乱社)を読んだ。そして、藤田嗣治がみずからの技巧と才能を最大限に振り向けた、彼の戦争画について、もう一度深く考えなければならないと思った。藤田はなぜ国家に全身でのめり込んだのか、それとの関係から、人びとは国家をどのように捉えていたのかという問いが生じたからであった。
その問いについて、歴史講座で話したことを一部掲載しながら、考えていこうと思う。
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(1) 昨年、静岡県立美術館で、「無言館と、かつてありし信濃デッサン館―窪島誠一郎の眼」という展覧会が開催されていた(10月12日~12月15日)。
無言館とは、言うまでもなく、戦没した画学生の作品が展示されている美術館で、長野県上田市にある。この美術館建設を推進したのは、画家の野見山暁冶と窪島誠一郎である。建設の経緯は省略するが、そこには5人の静岡県出身の画学生の作品が展示されている。
まず中村萬平(1916~1943)である。浜松出身の中村は東京美術学校油画科に入学し、1941年卒業。卒業後浜松へ帰った。そのとき妊娠している妻・霜子を伴っていた。萬平は42年2月に入隊し中国・華北へ。霜子は42年2月に男子を産んだが、3月に亡くなった。中村は、霜子の死を中国で知った。そして中村も、43年8月戦地で亡くなり、子どもは祖父母に育てられた。中村は首席で卒業したことから、彼の絵「画室」は、東京藝術大学にある。無言館には「霜子」が展示されている。
次に桑原喜八郎(1920~1945)である。彼は掛川中学校卒業後東京美術学校日本画科に入学した。19433年秋、出陣学徒として三島連隊に入営し、44年7月に出征、最期はビルマで戦死した。無言館には「冬の山」があり、他は掛川市二の丸美術館にある。
野末恒三(1909~1945)は、浜松出身、東京美術学校在学中に結婚し、卒業後は旧制中学校の美術教師となり、各地を転々とした。1944年に召集され、フィリピン・ルソン島で戦死。30代半ばでの、子どもを二人残しての死であった。彼の妻も、戦争直後に病死した。無言館に彼の作品は、3点展示されている。
佐藤孝(1923~1945)。賀茂郡河津町生まれ。「繰り上げ卒業」という暴挙のため、佐藤の美術学校在学はたった半年であった。フィリピン・ルソン島で戦死。21歳、彼は一人っ子であった。彼の手記は『きけわだつみのこえ』に収載されている。無言館には、4点が収蔵されている。
須原忠雄(1916~1946)。須原は田方郡韮山村出身、1937年4月東京美術学校日本画科に入学。在学中紀元二千六百年奉祝美術展に「柑橘實る頃」を、第5回大日本美術院展に「五月」を出品。卒業後三島野砲兵連隊に入隊し、1943年6月出征、満州に駐屯。46年1月シベリアで戦病死。彼の作品「柑橘實る頃」が無言館にある。
静岡県出身の画学生5人を紹介したが、もちろんたくさんの画学生が戦地で命を落としている。窪島は「かれらの「死」のあまりの不条理さが。かれらの絵をいまだに成仏させていない」(『無言館ノオト』集英社新書、2001年)と書いているが、戦没画学生の作品を見るとき、わたしたちはまさに無言になる。彼らが無念の死を強制されたことを知っているからである。
ところで、彼らの絵は、戦争を描いたものではない。戦争とはまったく関係のない習作をもとにこれからどのような絵を描いていくか、無限の可能性をもった画学生。しかし天皇制国家は、彼らの未来を奪い、死を強制したのであった。
(2)戦争画と藤田嗣治
戦争画とは、戦争を題材とする絵画のことである。その制作は日中戦争からアジア太平洋戦争期にかけて本格化した。戦闘場面、兵士、戦艦などを大画面に写実的に描いたものが中心だが、戦争を直接の主題としない作品群も含められることがある。例えば過去の合戦や国史を主題とする歴史画、出征した父が不在の家族像を描いた「銃後」の作品、占領地の情景など。洋画が多い。他方日本画では、横山大観のように、国威を示唆する旭日、富士山など象徴的な意味による戦争画を描いた。
戦時下、多くの画家は、自発的に戦地に赴いて戦争画を描いた。陸海軍から公式な依頼を受けた従軍画家、報道班員としてなどさまざまな立場があった。
従軍画家の戦地遠征が始まったのは1937年の日中戦争の勃発からである。翌38年、中支那派遣軍の報道部が中村研一、向井潤吉、小磯良平といった洋画家たちに戦争記録画の制作を公式に委嘱し、同年には「大日本陸軍従軍画家協会」(翌年、陸軍美術協会)も結成された。海軍も藤島武二、藤田嗣治らに戦争記録の制作を依頼した。1939年には、従軍画家は200名を超えた。この頃から軍の委嘱による戦争画が公式には「作戦記録画」とよばれるようになる。
「作戦記録画」は軍に収められ、第一回聖戦美術展(1939)、「大東亜戰爭美術展覧会」(1942)、陸軍美術展(1943)などの美術展で展示され、多くの人びとが鑑賞した(地方でもこうした展覧会が開かれた)。
その「作戦記録画」の主要作品は戦後GHQによって収集され、1951年のサンフランシスコ平和条約調印後、アメリカに送られ、1970年に無期限貸与という名目で返還され、現在、東京国立近代美術館に153点が保管されている。
作戦記録画は、横山大観ら日本画家も描いているが、そのなかでも藤田嗣治(1886~1968)がもっとも積極的に描いていたと言えよう。藤田の経歴を簡単に記すと、藤田は東京に生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業後渡仏、モンパルナスにアトリエを構えた。パリでは、乳白色の地と繊細な線描による作品が高く評価され、名声を得た。1929年に帰国、翌年パリに戻った後、北米南米を旅し、1933年に再度帰国。海軍省嘱託となり、従軍画家として中国大陸に赴く。1939年に再渡仏するも、翌年帰国。以後、帝国芸術院会員となり、陸軍省の依頼により各地の戦線に派遣され、大画面の戦争記録画を多数描いた。戦後、藤田は戦争中の画業を指弾され、再び渡仏。1955年に日本国籍を抹消してフランス国籍を取得、1959年にはランスの大聖堂で洗礼を受け、レオナール・フジタと改名した。1968年、スイスのチューリッヒ州立病院で死去した。
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さて最初の問題に戻って、菊畑茂久馬『新版 フジタよ眠れ 絵描きと戦争』には、どのようなことが書かれていたか。菊畑は、戦争画を描いた画家はたくさんいるのに、「藤田が全批判を浴び、ほかのほとんどの画家が批判をすりぬけていったのは何故だろうか」と問い、それは、「多くの画家たちが単に「戦争」の絵を描いたのに反し、藤田の画面だけは終始して嗜虐的に対象に食らいつき、ここぞとばかり狂ったように地獄をはいずりまわ」ったからだという。藤田は、「大日本帝国」の要請を受け、渾身の力をもってそれに答えたのである。彼の絵はそれを語っている。
山口洋三は、同書の解説で、「・・「個人」の成立が未成熟であった上に、近代美術は常に制度として明治国家制度の整備と軌を一にして発展してきた。つまり、いくら「個人の自立」を叫んだとはいえ、それは常に国家の懐深いところから一歩もでることはない。」だから、「戦争、万博・・・繰り返される国家プロジェクト、祭典に、反骨の前衛作家たちですら容易に巻き込まれ、やすやすと賛同し、嬉々として作品制作に邁進する」のだと書く。
しかしそれは画家だけではなく、ほとんどの日本人に対して言えることではないだろうか。
多くの日本人は、国家から要請されると、嬉々として協力的な姿勢をとる。「日本国民」も、近代美術と同様に、「近代国家制度の整備と軌を一にして」創られてきたのである。
果たして、「個人の自立」は獲得されたのだろうか。あるいは、個人は果たして「自立」できているのだろうか。
ここでいう「自立」というのは、とりわけ国家からの自立であり、さらにいえば国家(政府)への批判的精神をもつことができるのか、という問題である。こうした疑問をもつ契機になったのは、都議会議員選挙、参議院議員選挙の結果であった。
自民党・公明党政権による悪政の結果、生活困難を抱えた人びとが大きな不安を抱くようになった。人びとは、その不安の原因をさぐり、その原因を除去すべく政府の政策を変えさせるような行動をとるのがあるべき解決策であるにもかかわらず、そうではなく、「日本人ファースト」という具体的に何をどうするのか不明な怪しげなスローガンに乗り、参政党に多くの票を投じた。雨宮処凛が、人びとは、「外国人のせいにして鬱憤を晴らす方向にシフトしたようである。どうせオオモトは改善なんてされないから、それなら誰かをぶっ叩いてスッキリしようということなのだろう。」(「マガジン9」9月10日付)と指摘している。人びとは「オオモト」である国家(政府)への批判はしないのである。
あるいはまた、マイナ保険証にすると2万ポイントが与えられるというと、こぞって役所に駆けつけるという姿も見えた。
国家(政府)への本質的な批判をしなくなった人びと、そういう批判をする人たちを毛嫌いする人びと、あるいは批判的な政党や人間には投票しないという現象。
もちろん、批判勢力は存在はするが、それらは少数であり、さらに減ってきている。こうした現実をどう考えたらよいのだろうか。
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