2026年9月16日水曜日

9月16日

  毎年この日、わたしは静岡市の沓谷霊園に足を運びます。1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人が陸軍憲兵隊員によって虐殺されました。この3人の遺骨が、静岡市の沓谷霊園に分骨・埋葬されているのです。

 断続的に(最後は2013年から2023年まで)、沓谷霊園では墓前祭が執り行われてきました。2024年からは、有志による墓参りが継続しています。

 大杉らの墓、墓前祭などについては、墓前祭実行委員会が発行していた「沓谷だより」が詳しく記しています。「沓谷だより」ほかについては、静岡県立中央図書館に寄贈されています。 

資本主義が地球を滅ぼす

  AIが暴走したというニュースが少し前に流されていました。AIが勝手に動いて「悪事」を働いたそうです。Matrixで描かれた世界が、実際に出現し、アメリカのAI技術者が、AIが地球を滅ぼす可能性が10%あると指摘しています。

 わたしはほとんどAIを使いませんが(一度、絵を描いて「この絵はどうですか」とAIに尋ねたところ、批判的な指摘は全くなく、全面的に褒めるばかりであったので、AIに失望しました)、周辺では使用している人が増えているように思います。

 AIもカネ儲けできるから、AIの開発はとまらないでしょう。世界の殆どは資本主義、世界中カネ儲けのために動いています。そうした世界では、カネ儲けは「正義」ですから、カネ儲けができることには制御装置がありません。

 昨日書いた気候変動の問題についても、国際社会になんとかしようという気運が芽生えたことがありましたが、しかしアメリカやロシア、中国など、そうした大国がこの問題をまったく無視しています。カネ儲けの論理は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」ということに表れますから、その「自分だけ」は「自社」、「自国」・・・というように、「自分」が属する集団のカネ儲けも包含しています。

 しかし、資本主義社会では、カネ儲けは「正義」ですから、カネ儲けにつながることは正当化され、カネになるならなんでもやってよいという倫理なき倫理がまかりとおっています。

 こうなると、資本主義は地球を滅亡に導いていく可能性が高いというわけですから、もう資本主義は人類にとって捨てなければならないシステムになっています。資本主義にかわるシステムを設計しなければならない時が来ているのです。

 

2026年9月15日火曜日

地球が狂った?

  ずっと雨が降り続いています。今日の夕方、雨が止んだので畑に行きました。雑草が繁茂しているので、雨の合間をみて刈り取らなければなりません。草刈り機でひたすら刈りました。雑草は太陽の光がなくても、雨さえ降ればどんどん成長していきます。

 8月、この地方は猛暑が続き、雨が全く降りませんでした。猛暑は、今年で3年目です。4年前までは、8月でも16時頃からは農作業が出来ましたが、3年前からは16時では暑すぎて、せいぜい20分間くらいしか作業はできなくなりました。今年は、18時前に行き、さっと作業をして帰るというようにしていました。だから草取りができなくなり、雑草は伸び放題です。

 子どもの頃、気温が30度を越すのはまれでした。しかし今は、35度以上が当たり前、30度なら涼しく感じられることもあります。

 どうしてこんなおかしな気候になったのでしょうか。今日、隣の農家の方が、「地球は狂った」と言っていました。

 今年も気候に関するニュースが、世界各地から飛び込んできています。ヨーロッパでは40度を超えたという話、ネパールでは氷河が溶け、土石流で多くの人が亡くなりました。

 やはり地球温暖化が大きく影響していると思います。数年前から、この地域には今まで見たこともないような雑草が増えています。もう日本は、温帯地帯ではありません。

 地球温暖化に伴う気候変動が、世界の人びとを苦しめるようになっています。このまま灼熱の地球になるのを防がなければなりません。そのためには、国際社会が知恵を出して、何とか温暖化を防ぎ、もとに戻していかなければなりません。 

 ところが、ロシア、アメリカ、イスラエルなどが、戦争を引き起こし、温暖化の原因となる二酸化炭素を大量に生みだしています。気候変動なんか、ないかのようです。

 プーチン、トランプ、ネタニヤフが、国際法の秩序を破壊し、同時に自然の秩序まで壊そうとしています。彼らの蛮行を抑えることができないことにもどかしさを感じます。

 狂った地球を元に戻したい、そのためには、戦争をやめさせ、平和を取り戻さなければならないと思います。

 ※今日は、「ですます調」で書いてみました。『朝日新聞』の書評に、長谷川まゆ帆『歴史学の手引き』(東京大学出版会)が紹介されていて、それを今日、図書館から借りてきました。医院で待っている間、「あとがき」を読んでいたら、「ですます調」で書くと、「言葉が「声」として紡がれていることにより自覚的になれます」という文に出会いました。この本はすべて「ですます調」で書かれています。わたしも挑戦してみようと思いました。

  

沖縄県知事選挙を思う

  沖縄県知事選挙では、自民党、公明党、国民民主党などの推薦を受けた古謝某が当選した。玉城デニーを大きく引き離しての当選であった。

 このような結果になることを、わたしは予想していた。先の衆議院選挙でも小選挙区はすべて自民党議員が当選し、自治体首長選に於いても自民党系などが多く当選している。

 この現象は、沖縄が本土化したことを示すと、わたしは考えている。本土における選挙では、多くの選挙民は選挙に行かないか、行っても選挙の度ごとに自民党など保守系の議員に投票している。それが日本の選挙風土である。沖縄も、日本の選挙風土に同化したのである。

 沖縄で、こうした選挙がある度に、わたしのところにカンパの要請がある。もちろん、今回の県知事選では、玉城デニー側へのカンパ要請である。わたしはその都度、少額のカンパを送ってきたが、今回はやめた。玉城デニーの落選を予想できたからでもあるし、沖縄の選挙の度ごとに、沖縄の基地問題などに関心を持つ人びとにカンパ要請することはどうなのか、という思いもあったからだ。

 沖縄に於いて大きな問題となっていたのは、辺野古基地の新設である。わたしは、この基地建設は、日本政府から沖縄の建設業界への税金撒布、つまり利権政治の象徴ではないかと考えてきた。おそらく完成もしない基地、長期間土砂を投入し続ける工事、そこには国税がたんまりと投入される。米軍の思惑とは異なる辺野古基地建設は、利権政治という国内問題と直結しているのだ。

 自民党への投票行動は、国や自治体から、利権という蜜を吸いたい業者や人びとが、積極的に群がり、担うのである。利権につながらない人びとは、選挙には行かないのだ。

 そうした利権政治が、沖縄で一般化したのではないか。南西諸島で進む自衛隊の基地建設なども、利権を生んでいることだろう。

 日本のこの国際的地位の下落、経済が好転しない、そうした原因は、日本国の経済をどうするかという視点ではなく、いつも目の前のカネ、利益を拡大することを最優先し、企業などは税金に群がり、補助金其の他を自らの懐に持ってくることに血道を上げ、政界、官界は、財界へと撒布された税金を自分の懐にまわして貰うことだけを考える。「我田引水」ということばがあるが、日本の政治は「我懐引金」で貫かれている。

 そうした風土が、沖縄を支配するようになったということではないか。

 ついでに記しておけば、朝日新聞社がこの県知事選挙結果の速報で、「県政奪還」ということばをつかい、それを引っ込めたという情報を得ている。自民党と同じ立場であることを表明したのであるが、さすがにこれはいけないと思ったらしく引っ込めたのであろう。でも、もちろん朝日新聞社はじめ新聞業界も利権に食らいつく集団である。何故に、新聞だけが消費税8%なのか、どのようにして8%を獲得したのか。書籍などは10%の悪税を取られているのに。 

2026年9月13日日曜日

「能ある鷹」

  仕事を一緒にやったりした歴史学者から学んだことがいくつかある。研究内容だけではなく、他者との関わりのなかで常に謙虚であるという姿勢である。交流のあった歴史学者は、すでに研究業績もあり、研究者としての地位も確立していた。でも、その人たちは、知識も研究実績もほとんどないわたしに対しても、面倒くさがらずに教えてくれ、また分け隔てない会話をしていただいた。

 もうこの人たちは皆亡くなられたが、そこで学んだこと、まさに「能ある鷹は爪を隠す」であり、「爪」を隠さない人は、一定の業績があっても「能」力は高くない、ということである。

 これは普遍的な真理であるとわたしは思っている。

 自慢したり、ハッタリを嚙ましたり、知ったかぶりをする人は、能力は高くない、ということである。

  最近、しかし、そういう人物が、政界を始め、増えているように思う。そういう能力の低い人は、人間関係に於いて、タテ関係を重視する。上に弱く、自分よりなんらかの点で「低い」と思われる人には、強くあたる。

 だが、能力ある人のなかに、タテ関係を見ることはない。どのような人間に対しても、平等に、同じように接する。もちろん、最低の礼儀は尽くすから、ことばは変えたりするが、基本的には対等につきあう。 

 年齢を重ねたわたしは、対等につきあえない人とは、もうすでに関係を切っている。疲れる人とはつきあわない。

 「能ある鷹」は、常に勉強をしている。だから、そういう人からは、学ぶことが多い。人生死ぬまで勉強であるから、この歳になったら「能ある鷹」とつきあうしかない。もう時間がないからでもある。

 能力もないのに「爪 」をかざし続ける者が力を持つと大変なことになる。今の時代がそうだ。

2026年9月12日土曜日

裁判傍聴

  昨日、東京地方裁判所に行った。裁判傍聴である。6年前、2020年10月、内閣総理大臣菅義偉は、日本学術会議が会員候補者として推薦した学者105名のうち6名の任命を拒否した。今までは、学術会議側が推薦すれば、自動的に任命されていた。前代未聞のことであった。任命されなかった6人は「なぜ?」と問う。

 「拒否」はあってはならないことである。「拒否」は不当な権力行為であった。

 任命されなかった6人は、どうして「拒否」されたのか、その理由を知りたいと思う。当たり前のことだ。だからそれに関する情報公開を求めて訴訟を起こした

 しかし、政府は、それに関する文書はない!と言い続ける。恥ずかしい国だ。

 民主的な国家というのは、あらゆる行政行為がどのようになされたのか、国民が検証できるように資料を作成し、保存し、公開しなければならない。だが日本国家は、できるだけ隠そうとする。見せたくない。見せたくないから、ないという。それが主張できなくなると、小出しにしたり、改竄したりする。

 日本は民主的な国家ではない。

 Tansaという報道機関が、アベもと首相の葬儀が「国葬」(政府は税金をつかって個人の葬儀を執行した)として執行されたが、これも従来からの慣例からは導き出されないことから、何故に「国葬」とされたのか、それに関する文書を公開せよと訴訟を起こしている。 

 ない、捨てた・・・などと、政府は強弁する。

  日本国家は、民主主義とはとうに縁を切っている国家である。

 そうした状況をそのままにしておいてよいのか。日本の民主主義が試されている。

 

  

2026年9月11日金曜日

【演劇】劇団青年座「同盟通信」

  2時間10分、休憩なしに劇は展開する。その時間中、緊張感が持続する劇であった。

 同盟通信社、その歴史は短い。1936年から45年まで。まさに戦時体制期のみ存在した。現在は日本では、共同通信社、時事通信社が、新聞社などに情報、記事を提供している。

 戦時体制は、戦争遂行のためにすべてが国家に統制される時代である。とりわけ情報は厳しく統制される。

 この劇のテーマは、そうした戦時体制下の同盟通信社の社員(海外情報分析室)に、軍隊(陸軍)の暴力的な力により、国家の宣伝機関としての役割を果たさせようとする状況下、記者(ジャーナリスト)としての葛藤、客観的な事実を報じるのか、国家にとって好ましい情報(「真実」)を流すのか、を描いたものである。

 舞台の上では、陸軍や国家が期待する役割を果たすのが戦時下の記者だと割りきる者、そうではなく、やはり国家にとって都合の悪い情報であっても伝えなくてはならないことは勇気を持って伝えていこうと考える者、あるいはその間を行き来している者が描かれる。

 見ていて、これは戦時下にのみ現れる葛藤ではなく、日々私たち一人一人に問われる問題であると思った。

 ある一定の流れ(わたしはそれを「時流」としている)のなかで、みずからの信念や理想をもとに「時流」に抵抗するべきかどうか、いつも私たちは試されている。 もちろん、多くの人は「時流」に流されていることを気にしないで生きているが、少数の人びとにとって、その試練は生き方を左右する重大問題として立ち現れる。この劇でも、まさに大岡がそうした存在であった。

 わたしが若い頃、わたしの周りには、そうした人びと(もちろん少数派ではあったであろう)がいた。だが近年、「時流」に流されまいと抵抗する姿は、今はあまり見られなくなっている。その結果が、現在の政治状況に如実に表現されていると思う。

 この劇をみながら、大岡のような人物は、マスメディアのなかにはほとんどいなくなっているように思える。とりわけテレビは、もう報道機関ではなく、国家の宣伝機関と化している(だからわたしはみない!)。

 大岡らは、軍部の圧力のもとで、「報道か、宣伝か」で悩まされた。しかし現在のテレビなど、そうした圧力がなくても、喜んで宣伝機関としての役割を果たそうとしている。

 この劇、この時期の歴史について一定の知識が必要ではなかったか、と思った。また日本の終戦における昭和天皇の「御聖断」に、大きな意味をもたせているように思えた。戦争に於ける昭和天皇の役割(山田朗『昭和天皇の戦争』岩波書店を参照)、「御聖断」へと到った厳しい客観的な状況など、きちんとふまえなければならない事実がある。

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  さて、このブログ、最近書いていないが、久しぶりに会った方から、「最近、書いてないね」といわれた。先の衆議院選挙結果に、そして最近の社会の風潮(好ましくない「時流」が起きている現実)に、ある種絶望を感じてしまい、キーボードを打つ意欲がなくなっていた。

 しかしやはり、書きつづけなければならないと思う。