2026年3月20日金曜日

展覧会の図録

  静岡県立美術館で開催されていた「中村宏 アナクロニズムのその先へ」を観にいったのは、2月27日であった。かなり長時間滞在して、沢山の作品をみてまわった。

 中村宏は、この1月初めに亡くなっているので、図録を買おうとミュージアムショップに寄った。図録が見当たらないので、聞いてみたら予約販売だとのこと、すぐに予約した。

 しかしその図録が届かない。3月17日に問い合わせの電話を美術館に入れたが、まだ出来ていないとのこと。そして今日も届かなかった。

 思うに、この展覧会は静岡県立美術館だけで開催される。2024年10月~12月、「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」という展覧会もあった。この展覧会も、静岡県立美術館だけの開催であった。そして図録はなかった。

 わたしは、「画家と戦争」という表題で3回の歴史講座をやっていた関係で、無言館にも行ったし、無言館にある静岡県出身の画家の卵たちについても調べていた。だから、図録を買うつもりはなかったので、あまり気にもしていなかった。

 しかし、中村宏は、最初から買うつもりであった。歴史講座「画家と戦争」の導入で、中村宏について言及したし、戦後日本美術史において不可欠の画家であったからだ。そして中村は浜松市出身。

 おそらく、静岡県立美術館は、中村宏展の図録を最初から制作するつもりはなかったのではないか。何といっても、この展覧会は、「無言館と、かつてありし信濃デッサン館」展と同様に、静岡県立美術館のみの開催なので、図録は、あまりたくさん売れないことが予想されるからだ。

 だがしかし、である。「中村宏 アナクロニズムのその先へ 」は、静岡県だけの開催ではもったいないとおもう。わたしは、よくこれだけ集めたと感心した。

 ただし、展示されたものをみていたなかで、これだけは観たくなかったというものがあった。「早稲田祭」のポスターである。早稲田大学時代、早稲田祭は、あの暴力集団・革マル派の資金源となっていて、早大生であってもパンフレットを買わないと大学構内に入れず、多くの学生はこの時期、帰省したりバイトに励む時期となっていた。その後、早稲田大学文学部を暴力的に支配していた革マル派は、恒常的に数々のテロ事件を起こしていたが、ついに川口くん事件を起こして、早大生の大いなる怒りをかったことは、当事者であったもと朝日新聞記者樋田毅くんが『彼は早稲田で死んだ』で描いた通りである。

 今でも早大OBは、いろいろ党派はあるけれども、革マル派だけは許せないという。わたしも同様である。革マル派の活動家の目は、統一教会=原理研究会のメンバーの目とよく似ていた。組織が同じ本質をもっていたからだと思う。

 だから、中村宏が、早稲田祭のポスターを描いていたことは、とても残念である。 

2026年3月19日木曜日

【演劇】劇団NLT「Musical O.GⅡ」を観てきた。

  O.G.というのは、OldーGirls、この劇に即していえば、「老女」となるか。このミュージカル劇、全編「老女」への盛大なる声援であった。観客の拍手は、そのまま「老女」への讃歌となり、激励となる。「老男」のわたしとしては、戸惑うところさえあった。

 シチュエーションはあんがい単純であるが、しかしそこにはふたりの「老女」の人生が詰まっている。そうした「老女」の人生を背景に話は展開していく。1時間45分、語りと歌によって動いていくのだが、ふたりの「老女」がお互いを助けあう、励まし合うという「シスターフッド」もあり、「老女」が今後より良く生きていくための処方も示されていた。

 最近「老い」に対して非難めいたことを言ったり、「老人」への社会保障などを減らすべきだという政党も出てきている。彼らも、必ず「老い」、「老人」になっていくのだという冷厳な事実を予想することができない人びとだ。

 このミュージカル劇は、そんな風潮に対して、「フン、何よ、歳をとって悪いのか!」、「歳をとってシミが出来たり、シワが増えたりしているけれど、それが何だ!」という、堂々とした抗議であるともとれた。それも笑顔を見せながら。

 「老女」だって自由に楽しく生きていきたい、のである。それを妨げる權利など何もない。だけど、「老女」、いや「老男」だって、「孤独」に生きていくのはつらい。人間は、いくつになっても、支え合う存在なのだ。

 だから、「老女」よ、「老男」よ、団結せよ!そしてみずからの尊厳を守り抜こう!というテーマが、底に流れているように感じた。

 1時間45分は、とても短く感じた。 

国家意思 the state’s will

  『週刊金曜日』の月一回の、崔善愛さんのインタビュー記事、いつもフームと考えさせられる。今週は、渡辺一枝さん。はじめて知った女性である。椎名誠の奥さんとのこと。ずっと前、『週刊金曜日』立ち上げの頃、彼の講演会を浜松で開催したことがあったことを思い出す。

 まず知って驚いたこと。

 アメリカのハンフォードと言えば、核開発で有名なところだ。その近くにリッチモンドという町があるが、その町は放射性物質に汚染された作業員のためにつくられ、大きなスーパーや映画館があり、たいへん活気づいているとのこと。浪江の町は、そのリッチモンドをモデルにしているそうだ。

 核兵器開発→放射性物質による汚染→そのための町。そこには、核兵器開発という国家意思に全てが従属され、その国家意思が人びとの生命や生を蹴散らしていくという姿があり、まさにそれは時間と空間を超えて拡大されていく。

 国家意思は戦争をも引き起こす。渡辺は「戦争開始にかかわった人たちが断罪されずにそのまま政局に残った」と語る。戦争遂行という国家意思の前には戦争遂行というものだけがあり、それ以外のものは、そのための手段と化す。人であろうと物であろうと、である。戦争遂行の結果、勝とうと負けようとそれは関係ない。それにかかわった、責任ある者たちがその責任を追及されることはない。だから、反省もないし、戦争で犠牲になった者がいようと、それはあくまで戦争という国家意思の遂行の結果であるにすぎない。

 国家には、意思はあるが、感情はない。感情にはびくともしない。国家は冷厳にそびえ立ち、人びとを見下ろしている。

 渡辺は、「チベットの人は24時間祈っています。祈るために生活しているのです。」という。へーそうなのかと思う。祈るという行為は、みずからの上になにかしらの存在を認めることでもある。 

 だが、国家は祈らない。国家の上位に何者をも認めないからだ。みずからが絶対的な最高の存在であることを、国家は自認している。 

 The monthly interview column by Choi Sun-ae in magazine Kinyo-bi *Weekly Friday* always makes me pause and reflect. This week’s subject is Kazue Watanabe. I’d never heard of her before. Apparently, she is the wife of Makoto Shiina. It reminds me of a time long ago, back when *Kinyobi Weekly Friday* was first launched, when we organized a lecture by him in Hamamatsu city.

 The first thing that surprised me was this:

When you think of Hanford in the U.S., it’s famous for nuclear development. Nearby is a town called Richmond, which was built for workers contaminated by radioactive materials. It reportedly has large supermarkets and movie theaters and is quite lively. Apparently, the town of Namie in Fukushima is modeled after that Richmond.

 Nuclear weapons development → contamination by radioactive materials → a town built for that purpose. There, everything is subordinated to the state’s will to develop nuclear weapons, and that state will tramples upon people’s lives and livelihoods—a reality that expands far beyond the confines of time and space.

 The will of the state also triggers war. Watanabe states, “Those involved in starting the war were not held accountable and remained in political power.” In the face of the state’s will to wage war, only the act of waging war exists; everything else becomes a means to that end. Whether it be people or objects. As for the outcome of waging war—whether victory or defeat—it matters not. Those responsible for it are never held accountable. Therefore, there is no reflection, and even if people are sacrificed in the war, it is merely the result of carrying out the state’s will to wage war.

The state has a will, but no emotions. It remains unmoved by emotion. The state stands cold and stern, looking down upon the people.

 Watanabe says, “The people of Tibet pray 24 hours a day. They live to pray.” I think, “Huh, is that so?” The act of praying is also an acknowledgment that there is some kind of existence above oneself.

But the state does not pray. This is because it acknowledges no one above itself. The state recognizes itself as the absolute, supreme being. 

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2026年3月18日水曜日

呆気にとられて・・・in stunned

先週半ばから、喉を痛め、ひたすら病臥。

 この間もいろいろあった。世界は、何をするかわからない全く予想が立たない暴漢が行う破壊的行為を茫然とみているか、あるいは暴漢の行為に静かに賞賛のことばをささやいているか、あるいは暴漢と示し合わせて破壊的行為を共同で行うか、いくつかのグループにわかれているように見えた。いずれにしても、暴漢が暴れ回っている。国際社会は、暴漢の破壊的行為をやめさせることなんかできないと諦めているかのようにも見えた。

 いま、このような暴漢の姿は、あちこちでみることができる。ふつうのひとは、ふつうの生活をしているから、予測の付かないことをする暴漢の出現には慣れていない。何をして良いかわからないので、人びとは暴漢の行為をとめることはせずに遠巻きにみているだけで、事態が沈静化するのを待っている。

 21世紀になって、アメリカだけではなく、こうした暴漢が出現するようになった。常識の世界で常識的なことをしていれば、この世は常識的に動いていくのだが、暴漢の出現によって、そうでない時代が生まれたのである。その背景には、暴力的な資本主義=新自由主義が猛威をふるっているからだ。「今だけ、カネだけ、自分だけ」の思考が、エリートの精神にこびりついている。

 今、とりわけ暴力的な暴漢であるトランプとイスラエルのネタニヤフが、やりたい放題のことをしている。それが出来てしまう世界へと変わってしまった。

 一定の良識を持っているだろうという予測は、見事にくつがえされた。彼らは一片の良識すら持たない野蛮人である。他者が殺されようと、どんなに困窮しようと、彼らの眼中にはない。目先の利益と、みずからの地位を確保することだけが彼らの原動力となっている。

 その原動力の背後に、新自由主義者たちがいる。彼らが、この二人を支えているのだ。

 世界の普通の人びとは、呆気にとられて、見つめることしかできないでいる。 

 Since the middle of last week, I’ve been suffering from a sore throat and have been confined to bed.

A lot has happened during this time. It seemed as though the world had split into several groups: some were staring blankly at the destructive acts of a thug whose next move was completely unpredictable; others were quietly whispering words of praise for the thug’s actions; and still others appeared to be colluding with the thug to carry out destructive acts together. In any case, these thugs are running rampant. It also seemed as though the international community had given up, resigned to the fact that it could not stop their destructive acts.

Nowadays, such thugs can be seen everywhere. Ordinary people, living ordinary lives, are not accustomed to the appearance of thugs who do unpredictable things. Not knowing what to do, people do not stop the thugs’ actions but simply watch from a distance, waiting for the situation to calm down.

Since the 21st century, such thugs have begun to appear not only in the United States but elsewhere as well. If people acted sensibly within the realm of common sense, the world would function sensibly; however, the emergence of these thugs has ushered in an era where that is no longer the case. Behind this lies the rampant spread of violent capitalism—neoliberalism. The mindset of “only the present, only money, only myself” is deeply ingrained in the minds of the elite.

Now, particularly violent thugs like Trump and Israel’s Netanyahu are doing whatever they please. The world has changed into one where they can get away with it.

Any expectation that they might possess a modicum of common sense has been spectacularly overturned. They are barbarians who lack even a shred of common sense. Whether others are killed or suffer in poverty, it is of no concern to them. Their sole driving force is securing immediate profits and their own positions.

Behind that driving force stand the neoliberals. They are the ones supporting these two.

Ordinary people around the world can only stare in stunned disbelief. 

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2026年3月9日月曜日

人が死ぬことを何とも思わない人びと People who don't care about others dying

  1930年代から40年代初め、地球上で沢山の人びとが殺された。戦場で、収容所で、日常の場に空襲があって、そして病気や飢餓で。その時代は、あまりにも多くの人が亡くなったため、死者数は概数で示される。ほんとうの死者数を明らかにすることはできないからだ。

 その時代は、世界的に激しい戦争が起こされ、人びとは憎悪を煽られ、人を殺すことを何とも思わずに銃で、剣で殺し、そして砲弾で人間をバラバラにしてこの世から葬った。

 当然、それは人倫に反することだと、人びとは反省し、平和の大切さを知り、戦争が起こらないようなシステムをつくろうと努力してきた。

 しかし今、再び戦争の時代へと、世界は動きだしているようだ。

 昨日の『東京新聞』の「本音のコラム」で、前川喜平氏が、アメリカやイスラエル、そしてロシアを「世界の暴力団」だと指弾した。その通りである。暴力団が、第二次世界大戦後につくられた国際秩序を破壊している。

 その首謀者である、アメリカのトランプ、イスラエルのネタニヤフ、ロシアのプーチンなどは、人が死ぬことを何とも思わない人びとである。ネタニヤフはユダヤ教、トランプやプーチンはキリスト教であろう。世界歴史を振り返ると、キリスト教徒がもっとも多くの人を殺している。キリスト教の源流はユダヤ教であろうから、彼等の共通した信仰は、人が死ぬことを何とも思わないという反人道的な宗教ということになるだろう。

 もちろん、このような人物を国家のリーダーとした、それぞれの国の大衆も、おそらく同じように、人が死ぬことを何とも思わない人びとなのであろう。ひとりの人間が死ぬことだけでも、とても悲しくつらいことなのに、それを想像すら出来ない者たちが、彼等をリーダーとしたのである。

 そしてその仲間に、日本も入ろうとしている。3月7日の『東京新聞』の第一面に、自由民主党、日本維新の会が「殺傷武器の輸出を提言」という記事があった。日本製の殺傷兵器を売って、カネを儲けようと考えているのだ。彼等も、もちろん、人が死ぬことを何とも思わない人びとなのだ。そしてそういう人物を国会に送り込んだ、日本の大衆も、人が死ぬことを何とも思わない人びとへと成り下がったということである。

 日本に住む人間として、自由民主党、日本維新の会のこうした行動を悲しみ、また憤りを覚える。こうした動きは、いずれ日本人に対して殺傷武器が使われることにつながっていくことだろう。

 話は変わるが、わたしはほとんど毎日畑に立つ。近年、今までにない雑草が生えるようになった。気候変動を、わたしは肌で感じている。

 戦争は、殺傷兵器の使用は、地球の環境を破壊する。アメリカ、ロシア、イスラエル、そして日本、そこの国々の人たちは、地球を人間の住めないところへと変えようとしているように見える。人が死ぬことを何とも思わない人びとは、地球が「死ぬ」 ことを何とも思わない人びとでもある。

 From the 1930s to the early 1940s, countless people were killed on Earth. On battlefields, in concentration camps, in everyday places under air raids, and from disease and starvation. So many perished during that era that death tolls are given only as estimates. The true number of victims cannot be ascertained.

 It was an era of intense global warfare, where people were incited to hatred, killing others without hesitation with guns and swords, and obliterating human beings with shells, banishing them from this world.

Naturally, people reflected on this as contrary to humanity, came to understand the importance of peace, and endeavored to create systems to prevent war.

 Yet now, the world seems to be moving back toward an era of war.

In yesterday's the newspaperTokyo Shimbun “Honest Column,” former Education Minister Kihei Maekawa denounced the United States, Israel, and Russia as “the world's gangsters.” He is correct. These gangsters are destroying the international order established after World War II.

 Their ringleaders—Trump of the United States, Netanyahu of Israel, Putin of Russia—are people who feel nothing about human death. Netanyahu is Jewish; Trump and Putin are Christian. Looking back at world history, Christians have killed the most people. Since Christianity traces its roots to Judaism, their shared faith likely amounts to an anti-humanitarian religion that cares nothing for human life.

Of course, the masses in each country who elected such individuals as national leaders are probably similarly indifferent to human death. Even the death of a single person is profoundly sad and painful, yet those who cannot even imagine this chose them as leaders.

 And now Japan is about to join their ranks. On the front page of the March 7th newspaperTokyo Shimbun, there was an article stating that the Liberal Democratic Party and the Japan Restoration Party “proposed the export of lethal weapons.” They are thinking of selling Japanese-made lethal weapons to make money. They, too, are people who clearly feel nothing about human death. And the Japanese public who sent such individuals to the Diet have themselves become people who feel nothing about human death.

As someone living in Japan, I feel both sorrow and anger at these actions by the Liberal Democratic Party and the Japan Restoration Party Nippon Ishin no Kai. Such movements will inevitably lead to lethal weapons being used against the Japanese people themselves.

Changing the subject, I work in the fields almost every day. In recent years, weeds I've never seen before have started growing. I feel climate change in my bones.

 War, the use of lethal weapons, destroys the Earth's environment. America, Russia, Israel, and Japan—the people of those countries seem intent on turning the Earth into a place uninhabitable for humans. People who feel nothing about others dying are also people who feel nothing about the Earth “dying.”


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2026年3月8日日曜日

人間の平等

  金子文子の思想については、長い文章をすでにアップしている。昨日「金子文子 何が私をこうさせたか」をみ、映画のパンフレットを入手して、あらためて文子の思想の先見性を思った。

 文子は、

 私は予て人間の平等と云ふ事を深く考へて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い、強者も無ければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云へば総べての人間は完全に平等であり、従って総べての人間は人間であると云ふ一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります」(第十二回訊問調書)

 と語っている。 この平等感は徹底している。この思想を、みずからの過酷な人生を生きる中で自分自身で会得したことに、わたしは感動する。わたしも同じ思想をもつが、その思想をみずからのものにした契機は、学生時代、映画「夜明けまえの子どもたち」をみたからだった。びわこ学園の重度心身しょうがい児のすがたのなかに、輝くばかりの「人間の尊厳」をみたからだ。ひとりひとりの人間は人間であるが故に尊厳を有し、その人間の尊厳を持つということで人間は平等なのだという思想を体得し、また障がい児教育の本を多数読むところからさらに確信を持ったことを思い出す。

 しかし、このような徹底した平等観を持つ者は多くはないように見える。すべての人間がこうした平等観をもてば、戦争なんかあり得ないし、新事由主義の席捲などあり得ない。

 なぜか。文子は、こうも語る。

 「「君等と妥協する」「改心して社会に順応して生きる」今と為って君等と妥協が出来るなら私はね、社会に居た時既に妥協して居た筈です。君等の御説教は聞かなくとも其の位の智慧はありました。此の位の事は覚悟の上です。何卒御遠慮なく御自由に。私もね実は一度出度いのです。で左様する為めには「改心しました」と頭を下げて一礼入れさへすれば甘く行く事は知って居ます。だがね。将来の自分を生かす為めに現在の自分を殺す事は私は断じて出来ないのです。御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しませう。「私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽く迄自分の裡に終始します。夫れが御気に召さなかったなら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです。」之れが昔も今も変らぬ私の心持であります。」(「第三回被告人訊問調書」1924年1月22日)

 一切の妥協を拒否するのである。だから文子の転向などあり得ない。だが、この世には、妥協する人、転向する人が多すぎる。

 わたしの経験から、学生時代に格好良く偉そうにしゃべっていた者たちは、ほとんど「君等」の側に今はいる、そして組合活動をしていた者がいつのまにか組合をやめて管理職になっている。あるいは、わたしたちとつきあうときはわたしたちと話を合わせ、そうでないときは真逆の話をする。そういう姿をたくさん見てきた。 

  人間は弱い。人参をぶら下げられたら、頭を下げる輩が多い。そういう弱さに、「彼等」はつけこんでくるのだ。つけこまれた者たちは、平等観を棄てる。人間の尊厳を、みずからのうちにも、他者の中にも認めるところから、平等観は培われる。

 そして、わたしは文子の平等観と共に、小田実の「にんげん皆チョボチョボや」という思想も持っている。

 

2026年3月7日土曜日

「手足まで不自由なりとも 死ぬという只意志あらば死は自由なり」

  映画「金子文子 何が私をこうさせたか」を観た。

 導入部分は、文子が朝鮮で祖母や叔母から激しい虐待を受けていたとき、文子は川で入水自殺を図るが、 「私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらなければならぬ。そうだ、死んではならない。」(『獄中手記 何が私をこうさせたか』岩波文庫版、172頁)と自殺を思いとどまったところであった。死ぬことよりも、生きていこうと決意したところである。

 そして映画は、文子が縊死したところで終わった。生きることよりも、文子は死を選んだ。刑務所で、文子は厳しく管理され、転向を強いられ、読書を制限され、文子が大切にしている自由が奪われていた。自分自身の生を生きることができなくさせられた文子は、今度は、生きることよりも死ぬことを選んだ。これは自死ではあるが、しかし客観的には、国家権力が強いた死であり、その意味では、天皇制国家に殺されたといえるとわたしは思う。

 導入が、死から生へ、そして最後が、生から死である。その間の文子の生が、主に大逆罪で逮捕されてからの「時間」のなかで描かれていく。その生の軌跡を導くのが、文子の短歌である。文子はいろいろ書いていたはずだが、それはおそらく刑務所側によって廃棄されたのか、刑務所に入ってからのものはない。ただ残されているのが短歌である。

 浜野監督や脚本を担当した山崎さんは、短歌をもとにして文子の「晩年」を描いた。23歳で亡くなっているから、「晩年」という表現はどうかとも思うが仕方がない。

 以前、「金子文子と朴烈」という映画をみたが、わたしがもつ文子のイメージとはまったく合致せず、みるのがイヤになったことがある。文子の主体的で、自立した生き方がなく、あたかも朴烈の添え物のような感じで、とても観られたものではなかった。女優さんには、文子のカケラもなかった。 

 しかし、今度文子役を演じた菜葉菜さんは、まさに文子そのものだと思った。文子は依存的な生き方ではなく、自分自身で生きる道をつくっていくような主体性をもった人物である。また自らが厳しい人生を生きる中で培った思想は強靭である。そうした強靭さを、菜葉菜さんは演じていた。

 最初から最後まで、わたしは緊張しながらみた。スクリーンから、文子が迫力を持って迫ってくるような感じだった。

 浜野監督と、昨年9月にお目にかかって、金子文子を調べ、ここにもそれを掲載したことがある。

 現代に生きる人間にとって、金子文子のような生き方から学ぶことは多い。ぜひ多くの方に観てもらいたいと思う。