2026年2月26日木曜日

変動期? 

  日本を含めた世界の動向をみると、現在は大きな変動期に入っていると思わざるを得ない。

 国際連合の創設など、第二次世界大戦のあとにできた戦後国際秩序が崩壊しつつあり、1648年のウエストファリア条約以前の弱肉強食の混乱した時代へと「回帰」しようとしているのではないか。

 「回帰」ということばをつかったが、もちろんそれ以前とまったくおなじようになるというのではなく、現象的に同じような状況がみられる、ということである。

 マルクスのことばに「下部構造が上部構造を規定する」というものがあった。『経済学批判』の序言である。いまそれを、「日本大百科全書」で引く。

 史的唯物論(マルクス主義社会科学)において、上部構造とあわせて社会全体を把握する基礎的概念とされる。きわめて抽象度が高い概念であり、哲学的カテゴリーともいわれる。歴史的には、マルクスの『経済学批判』序説(1859年ノート作成)における土台概念の定式化に端を発する。土台とは、特定の社会の基礎をなすとともに、特定の物質的生産力に照応する生産関係の総体、社会の経済的構造であるが、この土台概念が、その後のマルクス主義の歴史において、下部構造ということばで定着してきた。史的唯物論では、社会的・政治的・精神的生活過程として具現する上部構造と、経済的構造としての土台との間に、前者の後者に対する能動的反作用や両者の弁証法的相互作用も主張されるが、土台の規定的役割、つまり、経済的構造こそが特定の社会全体のあり方を最終的に決定するという点が強調される。したがって、生産手段の所有関係といった生産関係に関して階級対立が存続する限り、政治における支配と被支配をめぐる階級闘争も存続するとされ、社会変革の根本的課題も土台に即して提起されることになる。また、上部構造がイデオロギー的性格をもち、主観的要素が強いのに対して、土台にかかわる物質的変革は自然科学的・客観的確定性をもつとも主張される。

  現在における「土台」とは、新自由主義を基調とする経済的構造ということになる。それにもとづいて、上部構造が改変されようとしている、そういう時期に当たるのではないかと考えるようになった。

 新自由主義は、国家の政策、地方自治体の施策、学校教育、そして経済界の動き・・・ありとあらゆるところに入り込み、それをもとにしていろいろなものが構築されてきている。

 新自由主義は、1980年代、レーガン、サッチャーから始まった。有産階級の期待と支援により権力を掌握した両者は、大改革を始めた。これは、戦後秩序に対する攻撃開始のゴングとなり、それ以後、新自由主義に向かう国家が増えていった。

 新自由主義が世界を席捲し、今、それにもとづく新たな秩序(秩序がないという秩序)がつくられようとしているのではないか。

 Looking at global trends, including Japan, one cannot help but conclude that we have now entered a period of significant upheaval.

The postwar international order established after World War II—including the founding of the United Nations—is crumbling. Are we not witnessing a “regression” toward the chaotic era of survival of the fittest that existed before the 1648 Treaty of Westphalia?

 I use the term “regression,” but this does not mean we are returning to an exact replica of the past; rather, it describes a situation where similar phenomena are emerging.

Marx famously stated that “the base determines the superstructure.” This is from the preface to his Critique of Political Economy. I now quote it from the Nihon Daihyakkazensho (Japan Encyclopedia).

Historical materialism (Marxist social science) regards the base as a fundamental concept for understanding society as a whole, alongside the superstructure. It is an extremely abstract concept, often referred to as a philosophical category. Historically, it originates from the formulation of the foundation concept in the Preface to Marx's Critique of Political Economy (notes compiled in 1859). The foundation constitutes the basis of a specific society and is the totality of production relations corresponding to specific material productive forces—the economic structure of society. This foundation concept became established in subsequent Marxist history under the term superstructure. Historical materialism asserts that while the superstructure—manifesting as the social, political, and spiritual life processes—exercises an active reaction upon the base and engages in dialectical interaction with it, the base's determining role is emphasized: the economic structure ultimately determines the overall character of a specific society. Therefore, as long as class antagonism persists in relation to the relations of production—such as ownership of the means of production—class struggle over domination and subordination in politics is also deemed to persist. The fundamental task of social transformation is thus raised in relation to the base. Furthermore, while the superstructure possesses an ideological character with strong subjective elements, it is also argued that material transformation concerning the base possesses natural-scientific and objective determinacy.

The “foundation” in the present day is the economic structure based on neoliberalism. I have come to believe we are now in a period where the superstructure is being altered based upon this foundation.

Neoliberalism has permeated every sphere—national policy, local government measures, school education, and the movements of the business world—and various things have been constructed upon this basis.

 Neoliberalism began in the 1980s with Reagan and Thatcher. Both seized power with the expectations and support of the property-owning class and launched major reforms. This sounded the gong for the attack on the postwar order, and since then, more and more nations have turned toward neoliberalism.

Neoliberalism has swept the world, and now, based on it, a new order (an order that is no order) is being created.

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2026年2月25日水曜日

素晴らしい本を読んだ 『越境のアーティスト 富山妙子』(皓星社)『The Transcending Artist: Taeko Tomiyama』

  富山妙子という画家がいた。残念ながら亡くなってしまった。しかし、彼女の作品は残り、今も尚「火種」となってくすぶり続けている。死してなお、彼女が灯した火は、いつか燃え上がる未来に向けて光を放ち続けている。

 わたしが最初に彼女の作品を知ったのは、「光州のピエタ」である。簡潔な表現ではあるが、そこには人間の悲しみと嘆きが描かれていた。しかしその嘆きは、ひろげた両手によって広く世界へと伝えられる力を持っている。素晴らしい作品で、もしわたしに画才があったなら、こんな作品を制作してみたいと思った。

 彼女は、「民衆の心に火をつける「火種」としての芸術」を描きつづけた。もちろんその「火種」は彼女が点火したのだが、その火は世界へと点火され続けた。

 彼女の「火種」のその火は、「植民地主義の「野蛮」と「暴力」、「不義」に対する「憎しみ」だったが、それは靴底で踏みにじられた弱い立場の者たちへの深い「敬意」に裏打ちされてい」(318頁)るものであった。

 その「野蛮」と「暴力」は、欧米諸国のものであり、また大日本帝国のものでもあった。大日本帝国は、「野蛮」と「暴力」を、周辺の地域・国々の民衆に対してふるい、もちろん自国のまつろわぬ人びとにも容赦なくふるった。その歴史は、消そうと思っても、決して消されるものではない。

 歴史は、改竄されようとも、歴史の真実は消されない。「野蛮」と「暴力」をふるわれた人びとの身体に、心に、そしてその子孫たちに伝えられている。

 だが、日本人には、その「野蛮」と「暴力」がみえていないようだ。あるいは「野蛮」と「暴力」の現場を見ても、そのことについて何も感じないのかもしれない。

 彼女は、そうした「日本人に根深く内面化された集団的憑依の加害性」(231頁)を「きつね」で表現しようとした。

 「集団的憑依」。まさに現在の日本がそういう状態である。それを導いたのはキツネ顔の女であった。「集団的憑依」が明らかになるまさにそのさなか、この本をわたしは読んでいた。

 いま、わたしは日本人の「集団的憑依」について研究を始めようと思う。それに対抗するのは、彼女が言う、「あらゆる境界を越えて、理性ある人びととともに、語り合いましょう」(319頁)の「理性ある人びと」と手をつなぎ、「民衆の心に火をつける「火種」」の火を強くしようと思う。

 「集団的憑依」に負けてなるものかと思う。 

 There was an artist named Tomiyama Taeko. Sadly, she has passed away. Yet her works remain, still smoldering as embers. Even in death, the fire she lit continues to shine, guiding us toward a future where it will one day blaze anew.

 The first work of hers I encountered was “Gwangju Pietà.” Though expressed simply, it depicted human sorrow and lament. Yet that lament possessed the power to be conveyed widely to the world through her outstretched arms. It was a magnificent work, and if I had any artistic talent, I would have wanted to create something like it.

She continued to paint “art as an ember that ignites the hearts of the people.” Of course, she ignited that spark herself, but the fire she kindled continued to spread across the world.

The fire of her spark was fueled by “hatred” for “barbarism,” “violence,” and ‘injustice’ of colonialism, yet it was underpinned by a deep “respect” for those in vulnerable positions, trampled underfoot like shoe soles.

That “barbarism” and “violence” belonged to Western nations, and also to the Empire of Japan. The Empire of Japan unleashed ‘barbarism’ and “violence” upon the peoples of surrounding regions and nations, and of course, it unleashed them without mercy upon its own disobedient citizens. That history cannot be erased, no matter how much one might wish to erase it.

 History may be falsified, but the truth of history cannot be erased. It is carried in the bodies and hearts of those subjected to “barbarism” and “violence,” and passed down to their descendants.

Yet, it seems the Japanese people do not see this “barbarism” and “violence.” Or perhaps, even when witnessing the scenes of ‘barbarism’ and “violence,” they feel nothing about it.

 She sought to express this “deeply internalized collective possession of perpetrator mentality” (p. 231) among the Japanese people through the image of the “fox.”

 “Collective possession.” That is precisely the state Japan finds itself in today. It was a fox-faced woman who led us there. I was reading this book at the very moment this “collective possession” became apparent.

 Now, I intend to begin researching the “collective possession” of the Japanese people. To counter it, I intend to join hands with the “rational people” she speaks of—those who “cross all boundaries and converse with rational people” (p. 319)—and strengthen the flame of the “spark that ignites the hearts of the people.”

I refuse to lose to “collective possession.” 

Translated with DeepL.com (free version)



  

本を読むこと

  全国大学生活協同組合連合会が学生の読書時間、書籍費の調査を行い、その結果が報じられている。

 一ヶ月の書籍費は1000円以下、読書時間も0分が半分以上で、平均読書時間は約1時間弱という結果である。そうだろうなと思う。電車に乗っていても、若者たちはスマホの画面を見つめているだけ、本や新聞を読んでいる人にはほとんど会わない。

 わたしは、学生時代、書籍費を捻出するために、できうるかぎり食費を抑えていた。今も、時間があれば本ばかり読んでいる。社会のことを理解するうえで、書籍はもっとも重要な手段である。SNSは言うまでもなく、テレビや新聞だけでは絶対に理解できない。とりわけ1990年代以降の、暴力的で、私たちの生活を根柢から崩壊させようとする資本主義(新自由主義)の実態や狙いを理解する上では、書物は必須である。

 なぜ学生が本を読まないかというと、その大きな原因はスポーツ系の部活動にあると思う。朝から夜遅くまで、体力の限界まで練習に明け暮れている。授業時間は休憩のためにあり、実際高校の教員に尋ねれば、スポーツ系の部活動に専心している生徒たちの知識レベルは恐ろしく低い。たとえ授業を受けても、そこで学んだことは、ボールを追う中で消えていく。もちろん予習復習なんかできるわけがない。何も学ばないまま大学に進学する。有難いことに、大学入学もスポーツ推薦で可能である。また就職も、スポーツをやっていたと言うだけで入社できる会社もあるし、また金融機関でも同じである。

 部活動が、日本人の知性を大きく劣化させている。読書させないシステムが、中学校から出来上がっている。 

 若者の読書を推進するためには、中学生に「ゆとり」を保障することだ。今のような、スポーツ礼賛の時代においては、過度なスポーツが当たり前になっているが、将来的に見て、それが日本人の資質の劣化につながっていることを自覚すべきである。

 本を読むということは、考えるということでもある。考えない人びとを大量生産する日本の教育システムはおかしい。

 

2026年2月23日月曜日

罪障感

  今はなき戦後歴史学の担い手であったひろたまさきさん。ひろたさんが亡くなられてから、わたしの研究意欲も大いに減退した。わたしが書いたものを確実に読んでくれて、批評をしていただいていたからである。書いても、ひろたさんがいないと思うと、ほんとうに寂しい。

 ひろたさんからいただいた手紙の中に、『三十七人の著者 自著を語る』(知泉書館、2018年)のコピーがあった。いただいたときに読んでいたとは思うし、必ず読んだ後の感想を送っているはずだ。手紙には、「面白いかどうかだけでもお知らせ下さい」と書かれていたから。

 ひろたさんは、福沢諭吉の研究から研究を始めた研究者である。この本に寄せた文は、ひろたさんの福沢研究を振り返ったものだ。

 啓蒙思想家から「帝国主義イデオローグ」として福沢を規定するも、ひろたさんは、その福沢には「罪障感」があったという。

 『百余話』の「立国」から以下の文章を引いている。

 辛子粒に等しき此地球の表面に、区々たる人類が各所に群れを成して、国を分かち政府を立て、相互に利害を異にして相互に些末を争ひ、之が為には往々詐欺脅迫の事を行ふて外交政略と称し、乱暴殺人の方を工夫して武備国防と名づけ、心を労し財を費して実際に人間の安寧幸福を害し事物の進歩改良を妨げながら、却って自ら誇て忠君愛国など称するこそ可笑しけれ。(中略)開闢以来今日に至るまで、世界中の人民は唯相互の衝突に煩悶して死生又死生するのみ。誠に憐む可き次第。

 「帝国主義イデオローグ」として、日清戦争勝利を祝福し、軍備増強を、福沢は説いていた。しかし、確かにこの文を読むと、「大日本帝国」の随伴者として、福沢は両手をあげて賛成しそこにのめり込むのではなく、ある種醒めた眼で「大日本帝国」をみていたということがわかる。「大日本帝国」の行状を「悪いこと」であると認識しながら、「イデオローグ」として叫んでいたといえるだろう。

 果たして二一世紀の女性宰相は、そうした「罪障感」を持っているのだろうかと、ふと思う。おそらく彼女は、持ち合わせていない。

 だから怖い。

 ひろたさんは、日本国憲法九条を念頭に、もし福沢が生きていたら、「世界平和」の道を選ぶという可能性を示唆している。そうなら、福沢は「罪障感」を持つ必要はなくなる。その道を選んだのではないかと。  

 

2026年2月20日金曜日

自由?

  昨日届いた『週刊金曜日』。白井聡の文が興味深かった。

 白井は、「日本の多くの投票者にとって「選挙に行く」とは、「自民党に信任票を入れる」ことにほかならない。有権者は、自民党の統治に不満を感じて他党派に票を投ずる場合もないわけではないが、2~3年後には「やはり自民党」という投票行動を現にとってきた。」という。

 そうだね、日本の選挙ってそういうもんだね、と同感する。だってまわりには、保守的な思考を持った人ばかりだから。そしてまた、反体制的なことをいっていた人の中にも、一定の年齢になると、「出世」したいのか、そういうことを言わなくなり、いつのまにか「出世」の階段を登っている。ほとんど悩みもせずに、である。

 だから、いつも、おかしいことをおかしいと言い、怒るべきことを怒る人は、マイノリティでありつづける。

 さて、また白井は、「自民党の驚異的な柔軟性」を指摘する。「自民党をまとめあげる唯一の共通アイデンティティは「反共主義」のみであった 」、自民党の柔軟性(変転)は、「無思想と無節操」による、という。いや自民党には「思想」はあると思う。それは「拝金主義」であり、「名誉欲」である。自民党を支持する有権者も自民党と同じ思想の持ち主で、「無節操」も共通している。

 白井は、「体制の崩壊過程がカンマンである限り、標準日本人は自民党を支持し続けるし、民主主義が肯定的な意味で機能する可能性もない。ゆえに、民主主義擁護の言辞は完全に無意味である。そうしたなかで、残る価値は自由である。」「自由擁護のためには自由を尊重するあらゆる社会的勢力が連帯しなければならない」で結んでいるが、しかし「標準日本人」は、自由を価値として認識することはないと思う。自由を使いこなせないから、日本はこんな社会になったのだ。「標準日本人」は、自由から逃走し、権威にすがりつく。そういう姿が、あちらこちらで見られるではないか。 

 特集は、「「高市一強」を問う」であるが、白井の文以外たいしたことは書かれていない。

 「標準日本人」には、政治的リテラシーはない。そういう人びとが日本をつくっているのである。だから自民党が権力を持ち続ける。

 

2026年2月16日月曜日

“「推し活」を恐れるな”という記事

  昨日の『東京新聞』に、政治学者の宇野重規氏の「「推し活」を恐れるな」という文が載っていた。その最後の文は、

 「推し活」を恐れすぎてはならない。民主主義がそれを使いこなすための工夫が、いま求められている。

 しかし、である。その「推し活」は、カネによって大きく左右される。高市某を「推し活」の対象となるようにしたのは、多額の広告費である。それは篠田博之さんがコラム「週刊誌を読む」で、『週刊プレイボーイ』、『週刊新潮』の記事をもとに書いているのだが、「自民党広報本部の広報戦略局には、大手広告代理店の社員が常駐し」、「公示の一週間前から」協議が始まり、「会議には、広報本部や選対本部、組織運動本部の職員に加え、代理店の社員も参加します」、そしてばく大な再生数を稼いだ動画には、「2億~3億」つかっていたそうだ。

 そして『週刊新潮』の記事は、「若年層、無党派層を動かした風は“人為的に”作られたのである」で結ばれているという。

 要するに、カネを持つ政党が「推し活」を推進するのである。このカネの問題を考えると、自民党はばく大な政党交付金を手にするどころか、パーティー券収入、経団連など経済団体からの政治献金、また業界団体からの献金など、ばく大なカネを集めている。これらは、本質的には“賄賂”の類であるが、その多額なカネが「推し活」に投入される。

 「推し活」を恐れるな、といわれても、その背後に大きなカネが動いているのだから、どのようにしたら「恐れる」必要がなくなるかを示してもらいたい。 

 自由民主党の議席が三分の二をこえたというが、それをつくりだしたのは小選挙区制である。小選挙区制が導入されるとき、わたしは大いに反対した。しかし、山口二郎など政治学者、マスメディア、また最近亡くなった久米宏らが、導入することは「正義」であるかのように煽っていた。小選挙区制導入は、それが導入されると当選できなくなる日本社会党も賛成した。現在、日本社会党=社会民主党が最期のあがきをみせているが、社民党は消えていくことだろう。社民党は、みずからの政治基盤をみずから捨て去ったのであるから、消えていくのはやむを得ない。小選挙区制に賛成したことを反省することもなく、支援を呼びかける姿に、わたしはいつもシラケるのである。

 年表を繰ると、現在の軍拡路線、憲法改悪への動きは、小選挙区制導入の頃から始まっている。

 戦後、鳩山内閣が憲法改悪を目的に小選挙区制導入を画策したとき、「ハトマンダー」といわれて大いに反対運動が高まったという歴史がある。小選挙区制と改憲とは、密接につながっているのである。

 護憲を志向する日本社会党が小選挙区制導入に賛成した動きをみて、これで日本社会党は終わると思ったが、その通りになっている。

 改憲に反対する政治勢力が、国会で少数となった。その結果、どういう動きが起きてくるか。自民党のカネによって人為的につくられた「風」に吹かれて投票した人びとがその結果に驚くことはあるのだろうか。おそらくない。彼らは「風」にのって投票しただけだから、また「推し活」それ自体に責任は生じない。

 これで、日本の富はアメリカに吸われていく。日本国民は、耐乏生活に耐えていかなければならない。

  

2026年2月12日木曜日

顔と選挙 Face and Election

  選挙について、『東洋経済on-line』が興味深い記事をあげた。

 「高市首相の"見た目戦略"が成功」「中道はビジュアルも失敗した」 自民党圧勝《有権者の決め手は"見た目"》だった? その驚く中身と根拠 

 これがなかなか的中していると思う。わたしは高市某の顔は醜悪だと思うし、嫌いな顔である。最近示し始めたあの笑顔も嫌いである。今迄は笑顔なんか見せずに、高慢ちきな顔を示していた。それは高市某がどんな政治家であるかを知っているからである。

 ところが、昨年の総裁選挙頃から、メイクや服装を変え始めた。虎があの縞模様を消して、大人しい牛のような 様相を、表向きはし始めた。

 政治に関心のない人たちは、その変貌にすっかりとだまされたというか、熱狂した。もちろん、自由民主党が多額のカネをだし、SNSやテレビ、新聞、チラシで、変貌した姿を大量に流したからである。政治に関心のない多くの人びとにとって、選挙は一大イベントである。そのイベントに参加する彼らは、日常的な「推し活」的な行動をとった。

 彼らは、自由民主党のビラに書かれている内容なんか見ない。

 わたしはみた。

「日本列島を強く豊かに」という文字がある。しかし日本の経済を弱体化し、貧しくしてきたのは、自民党である。そして裏を見ると、「強い経済で、笑顔あふれる暮らしを」とある。経済を弱くし、国民から笑顔を奪ったのも自由民主党である。次、「地方が日本経済のエンジンに。都市集中の壁を超える」というのも笑止千万である。「都市機能の移転」が叫ばれていたときでも、自由民主党は東京一極集中政策を推進していたことが近年明らかにされている。そして「国際社会の分断の壁を超える」?トランプの分断政策を全面的に支持しているのも、高市自民党である。トランプのペット、トランペット・高市と称される所以である。

 そして「人口減少の壁を超える」だって。結婚し、子どもをつくりという、今迄の暮らしを破壊してきたのも自由民主党である。 

  政治的リテラシーのない人たちが、高市の自由民主党に「熱狂」し、「推し活」をしたのである。

 だが、高市の顔にウルトラナショナリストが隠されているのを、政治に少しでも関心を持っていた人びとは知っていた。選挙が終わったとき、わたしのラインに、自由民主党圧勝の報に驚いた友人たちから、日頃政治の話をしたことがない人たちであったが、今後の政治や生活を心配する声が多数届いた。

 記事に、「笑顔」が得票率を上げるという記述があった。なるほど、自由民主党の悪政に抗する政治家たちは、統一教会べったりの裏金利権政治家らの集まる自民党を厳しく批判していたが、その際、笑顔は見せられなかった。笑顔で批判する人は、そんなにいない。いかに自由民主党の政治が、人びとを苦しめ、偏狭な宗教団体とくっついているかを、厳しく問うていた。厳しく批判していた候補者には、票は集まらなかった。政治的リテラシーを持たない人びとから注目されなかった。これはきわめて悲劇的なことだ。

世界の人びとは、高市率いる自由民主党政権が、平和な国際秩序の破壊に、トランプと一緒になって駆け回る姿を見ることになるだろう。 

 

 Regarding the election, Toyo Keizai Online posted an interesting article.

“Prime Minister Takaichi's ‘Visual Strategy’ Succeeds” “The Centrists Failed Visually Too” Was the LDP Landslide Victory Driven by “Visual Appeal”? The Surprising Details and Evidence

I think this is quite accurate. I find Takaichi's face ugly and dislike it. I also dislike that smile she's started showing recently. Until now, she never showed a smile, displaying only a haughty expression. That's because I know what kind of politician Ms. Takaichi is.

However, around last year's presidential election, she started changing her makeup and clothing. She began outwardly adopting a docile, cow-like appearance, as if the tiger had erased its stripes.
 

People uninterested in politics were either completely fooled by this transformation or became utterly enthusiastic about it. Of course, this was because the Liberal Democratic Party poured in huge sums of money, flooding social media, television, newspapers, and flyers with images of this transformed image. For many people uninterested in politics, elections are a major event. Participating in this event, they engaged in everyday “fandom-like” activities.

 They didn't bother reading what was written on the LDP's leaflets.

I did.

It said, “Strengthen and enrich the Japanese archipelago.” Yet it was the LDP that weakened Japan's economy and impoverished the nation. And on the back, it stated, “A strong economy for lives filled with smiles.” It was also the LDP that weakened the economy and robbed the people of their smiles. Next, “Making regional areas the engine of Japan's economy. Overcoming the barrier of urban concentration” is utterly laughable. Even when “relocating urban functions” was being advocated, it has recently become clear that the LDP was pushing policies for Tokyo's one-pole concentration. And “Overcoming the barrier of division in the international community”? It's the LDP's Takaichi who fully supports Trump's divisive policies. That's why she's called Trump's pet, Trumpet-Takaichi.

 And then there's “Overcoming the barrier of population decline.” It was the Liberal Democratic Party that destroyed the traditional way of life—marriage and child-rearing—in the first place. 
 

People lacking political literacy became “frenzied” over Takaichi's Liberal Democratic Party and engaged in “fan activities.”

But those with even a passing interest in politics knew the face of an ultra-nationalist lurked behind Takaichi's. When the election ended, my LINE feed was flooded with messages from friends—people I never discussed politics with—expressing shock at the LDP's landslide victory and deep concern about the future of politics and their lives.

 The article mentioned that “smiling” boosts vote share. Indeed, politicians resisting the LDP's misrule had harshly criticized the party—a gathering of backroom power brokers cozy with the Unification Church—but they couldn't muster smiles while doing so. Few people criticize with a smile. They were rigorously questioning how LDP politics oppressed people and aligned with a narrow-minded religious group. Votes did not go to the candidates who offered such harsh criticism. They failed to capture the attention of people lacking political literacy. This is profoundly tragic. 

The world will see the Liberal Democratic Party government led by Takaichi running alongside Trump to destroy the peaceful international order. 

Translated with DeepL.com (free version)