『現代思想』2025年10月号の特集は、「学問の危機」です。この特集が組まれた理由は、菅義偉首相が、6人の学者が日本学術会議会員に推薦されていたのに、彼らの任命を拒否したこと、それに関して訴訟が起こされているということからだと思われます。巻頭に、隠岐さや香「異論を封じる政治に抗して」、次の青井未帆「日本学術会議法と〈非・軍事〉のゆくえ」の二本が掲載されていることからもそう考えてよいでしょう。
しかし「学問の危機」は、日本だけのことではないことが、この特集では取り上げられています。とりわけ、アメリカ大統領のトランプが、「政府方針に従っていない」ということ、また学生たちがイスラエルによるガザへの蛮行に抗議活動を行っていることを理由に、ハーバード大学などに圧力をかけました。
また両角亜希子の「学問の危機と大学経営の課題」では、「2006年をピークとして10年ほどで多くの国で学問の自由が低下し、一部ではかなり深刻な事態に至っている」と書かれています。
学問に対する攻撃は、世界的に起こっているようです。
この特集では、「学問の危機」を多面的な視点から論じられていますが、わたしも歴史を研究してきたひとりとして、学問それ自体が社会のなかで軽視され、蔑視されている、という思いをかなり前から持っています。
それはまず歴史修正主義の台頭、こつこつと積みあげられてきた研究の蓄積を、何の学問的根拠も示さずに、非難攻撃し、最後には否定するという暴挙をみてきたからです。他者から借りてきた怪しい言説をそのまま大声で叫ぶ。あるいはそうした言説を書籍にして売り出す。それを読んだ者たちが、オウム返しで叫ぶ。そういう事態が引き起こされてからもうかなりの時間が経過しています。そういう人びとのなかに、理系の学問研究をされていた人も含まれていて、わたしは驚いたこともあります。
学問研究への敬意が失われた、といってもよいでしょう。人びとがいろいろな場で発することば、一番はネットですが、会話の中でも、学問的裏付けのない言説を、人びとが平気で語るようになってきたと思います。学問研究の成果が、社会のなかに伝わっていない、ということに、ある時気づきました。
「学問の危機」の背後に、そうした社会的な風潮があるように思います。とりわけ、その危機は、人文科学、社会科学の学問に表れています。政府も、文科省も、これからはカネ儲けに直結する理系を充実させようと、人文・社会科学に予算をまわさない、人文・社会科学の学部を減らしていくようなことも言っています。
社会的な風潮は、自然に生まれるものではなく、権力の側が作為的につくりあげる、あるいはその方向に動かすなかでつくられていきます。
わたしたちは、そうした作為を見抜かなければならないような時代にいます。警戒を怠ってはならないのです。
では、「学問の危機」に抗するためにはどうしたらよいのか。これからはそれを考えなければなりません。
