2026年9月13日日曜日

「能ある鷹」

  仕事を一緒にやったりした歴史学者から学んだことがいくつかある。研究内容だけではなく、他者との関わりのなかで常に謙虚であるという姿勢である。交流のあった歴史学者は、すでに研究業績もあり、研究者としての地位も確立していた。でも、その人たちは、知識も研究実績もほとんどないわたしに対しても、面倒くさがらずに教えてくれ、また分け隔てない会話をしていただいた。

 もうこの人たちは皆亡くなられたが、そこで学んだこと、まさに「能ある鷹は爪を隠す」であり、「爪」を隠さない人は、一定の業績があっても「能」力は高くない、ということである。

 これは普遍的な真理であるとわたしは思っている。

 自慢したり、ハッタリを嚙ましたり、知ったかぶりをする人は、能力は高くない、ということである。

  最近、しかし、そういう人物が、政界を始め、増えているように思う。そういう能力の低い人は、人間関係に於いて、タテ関係を重視する。上に弱く、自分よりなんらかの点で「低い」と思われる人には、強くあたる。

 だが、能力ある人のなかに、タテ関係を見ることはない。どのような人間に対しても、平等に、同じように接する。もちろん、最低の礼儀は尽くすから、ことばは変えたりするが、基本的には対等につきあう。 

 年齢を重ねたわたしは、対等につきあえない人とは、もうすでに関係を切っている。疲れる人とはつきあわない。

 「能ある鷹」は、常に勉強をしている。だから、そういう人からは、学ぶことが多い。人生死ぬまで勉強であるから、この歳になったら「能ある鷹」とつきあうしかない。もう時間がないからでもある。

 能力もないのに「爪 」をかざし続ける者が力を持つと大変なことになる。今の時代がそうだ。

2026年9月12日土曜日

裁判傍聴

  昨日、東京地方裁判所に行った。裁判傍聴である。6年前、2020年10月、内閣総理大臣菅義偉は、日本学術会議が会員候補者として推薦した学者105名のうち6名の任命を拒否した。今までは、学術会議側が推薦すれば、自動的に任命されていた。前代未聞のことであった。任命されなかった6人は「なぜ?」と問う。

 「拒否」はあってはならないことである。「拒否」は不当な権力行為であった。

 任命されなかった6人は、どうして「拒否」されたのか、その理由を知りたいと思う。当たり前のことだ。だからそれに関する情報公開を求めて訴訟を起こした

 しかし、政府は、それに関する文書はない!と言い続ける。恥ずかしい国だ。

 民主的な国家というのは、あらゆる行政行為がどのようになされたのか、国民が検証できるように資料を作成し、保存し、公開しなければならない。だが日本国家は、できるだけ隠そうとする。見せたくない。見せたくないから、ないという。それが主張できなくなると、小出しにしたり、改竄したりする。

 日本は民主的な国家ではない。

 Tansaという報道機関が、アベもと首相の葬儀が「国葬」(政府は税金をつかって個人の葬儀を執行した)として執行されたが、これも従来からの慣例からは導き出されないことから、何故に「国葬」とされたのか、それに関する文書を公開せよと訴訟を起こしている。 

 ない、捨てた・・・などと、政府は強弁する。

  日本国家は、民主主義とはとうに縁を切っている国家である。

 そうした状況をそのままにしておいてよいのか。日本の民主主義が試されている。

 

  

2026年9月11日金曜日

【演劇】劇団青年座「同盟通信」

  2時間10分、休憩なしに劇は展開する。その時間中、緊張感が持続する劇であった。

 同盟通信社、その歴史は短い。1936年から45年まで。まさに戦時体制期のみ存在した。現在は日本では、共同通信社、時事通信社が、新聞社などに情報、記事を提供している。

 戦時体制は、戦争遂行のためにすべてが国家に統制される時代である。とりわけ情報は厳しく統制される。

 この劇のテーマは、そうした戦時体制下の同盟通信社の社員(海外情報分析室)に、軍隊(陸軍)の暴力的な力により、国家の宣伝機関としての役割を果たさせようとする状況下、記者(ジャーナリスト)としての葛藤、客観的な事実を報じるのか、国家にとって好ましい情報(「真実」)を流すのか、を描いたものである。

 舞台の上では、陸軍や国家が期待する役割を果たすのが戦時下の記者だと割りきる者、そうではなく、やはり国家にとって都合の悪い情報であっても伝えなくてはならないことは勇気を持って伝えていこうと考える者、あるいはその間を行き来している者が描かれる。

 見ていて、これは戦時下にのみ現れる葛藤ではなく、日々私たち一人一人に問われる問題であると思った。

 ある一定の流れ(わたしはそれを「時流」としている)のなかで、みずからの信念や理想をもとに「時流」に抵抗するべきかどうか、いつも私たちは試されている。 もちろん、多くの人は「時流」に流されていることを気にしないで生きているが、少数の人びとにとって、その試練は生き方を左右する重大問題として立ち現れる。この劇でも、まさに大岡がそうした存在であった。

 わたしが若い頃、わたしの周りには、そうした人びと(もちろん少数派ではあったであろう)がいた。だが近年、「時流」に流されまいと抵抗する姿は、今はあまり見られなくなっている。その結果が、現在の政治状況に如実に表現されていると思う。

 この劇をみながら、大岡のような人物は、マスメディアのなかにはほとんどいなくなっているように思える。とりわけテレビは、もう報道機関ではなく、国家の宣伝機関と化している(だからわたしはみない!)。

 大岡らは、軍部の圧力のもとで、「報道か、宣伝か」で悩まされた。しかし現在のテレビなど、そうした圧力がなくても、喜んで宣伝機関としての役割を果たそうとしている。

 この劇、この時期の歴史について一定の知識が必要ではなかったか、と思った。また日本の終戦における昭和天皇の「御聖断」に、大きな意味をもたせているように思えた。戦争に於ける昭和天皇の役割(山田朗『昭和天皇の戦争』岩波書店を参照)、「御聖断」へと到った厳しい客観的な状況など、きちんとふまえなければならない事実がある。

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  さて、このブログ、最近書いていないが、久しぶりに会った方から、「最近、書いてないね」といわれた。先の衆議院選挙結果に、そして最近の社会の風潮(好ましくない「時流」が起きている現実)に、ある種絶望を感じてしまい、キーボードを打つ意欲がなくなっていた。

 しかしやはり、書きつづけなければならないと思う。 

2026年8月9日日曜日

【演劇】俳優座劇場プロデュース「聖なる炎」

  演劇をみることとは、こういう作品をみるということだ。2時間を越える作品、じっと見つめる観劇者。いろいろな思考や推理を喚起する。

 前回の演劇鑑賞会は、加藤健一事務所の「ジン・ゲーム」 であった。しかしわたしは見なかった。加藤健一事務所の上演するものは、「軽い」し、観劇者になんらかの思考をうながすようなものはないので、わたしの貴重な人生の時間をこうした劇のために費消することはもったいない、ということで、加藤健一事務所のそれはほとんど見ないことにしている。最近は、地方の演劇鑑賞団体の構成員が減り、経済的に劇団を招聘することが大変になっていて、加藤健一事務所の作品は、キャストが少ない、したがって経費があまりかからない、だから、2年に一度は加藤健一事務所の作品が上演されるということになる。

 さて「聖なる炎」の「炎」とは、「性欲」のことであるか。

 モーリスとステラは夫婦である。しかしモーリスは事故で下半身が動かない。その世話を、看護師ウェイランドが献身的に世話をしている。モーリスは、若いステラに自分の世話をさせたくないので、自由な行動を促している。モーリスの弟・コリンとオペラ鑑賞に行かせたりしている。そしてモーリスは、ステラの前では、元気にジョークを飛ばしたりして、みずからの境遇を悲観していないことを示す。だが、ウェイランドの前では、みずからの絶望を隠していなかった。 

 ある夜、モーリスは、突然亡くなった。医師のハーベスターは病死とする死亡鑑定書を書こうとするが、ウェイランドは、モーリスの死は他殺であることを主張する。

 では誰が殺したのか。ステラか、コリンか・・・・実はステラとコリンは男女関係にあり、ステラはコリンの子を宿していた。

 殺したのは、母親のタブレット夫人であった。タブレット夫人は、全員の動きを俯瞰していて、若いステラの自由な行動を支持し、モーリスの絶望をも知っていた。

 看護師のウェイランドは、ステラの妊娠を確信し、ステラの行動は倫理的に許せない、また世話をしてきたモーリスに愛情を持っていたがゆえに、ステラに対する怒りの炎はいや増していた。

 登場人物は、もうひとりリコンダ少佐がいるのだが、登場人物の人間関係、感情のもつれ、など様々な葛藤が舞台上で繰り広げられる。葛藤の中で、浮かび上がる炎、それは若者の性欲の炎であった。性欲の炎は、そのまま燃え上がることはない。社会倫理的に、人間関係の中で様々に制約される。 しかしその制約を超えて、人びとは性欲の炎に身を任せてしまう。ある意味の暴走をどう操縦するか、そして周囲はどう理解するか。

 タブレット夫人は、ステラ、コリンの炎を肯定的にみつめる。そして、モーリスの絶望をも理解する。モーリスが絶望に打ちひしがれたとき、タブレット夫人はモーリスとの間に交わされたある約束を実行する。それはモーリスがこの世から去るという選択である。モーリスの死は、タブレット夫人とモーリスとの共同作業であった。

 タブレット夫人の語りを聴き、ウェイランドは、みずからの直情的な判断をふり返り、人間関係の複雑さ、一筋縄ではいかないことを理解する。

 ほぼ2時間半の舞台。ほとんどの観劇者は、じっと舞台を見つめる。舞台を見つめるのは、ほとんど高齢者であった。観劇者は、若かりし頃の自らをふり返りながら、舞台上で繰り広げられるそれぞれの感情のぶつかり合い、リコンダ少佐の常識的な見解、そしてタブレット夫人の包容力のあることばにじっと耳を傾ける。

 人間と人間の関係は、そう簡単に割りきれるものではなく、複雑に絡み合い、対立し、そしてお互いの理解へと進んで行く。

 演劇というのは、そうした深みのあるものでなければならない。深みがあると言うことは、単純ではないということでもあり、重層的であるということでもある。そうした展開を通して、人間への理解を深めていくのである。

 よい演劇を見た。 

  

  

2026年7月30日木曜日

熊本県の大地震

  また熊本県で大きな地震が起きた。日本列島の歴史をひもとくと、大きな地震が頻繁に起きている。いま、テレビ報道などで現地の人びとが、猛暑の中、電気も水道もなく、エアコンもないなかで生活している姿をみる。たいへんな状況であることがわかる。

 日本での避難所は、地域にある小学校や中学校の体育館が指定されている。しかし、そこには冷暖房設備はほとんどない。設備率は20%程度だという。東日本大震災、北陸地震、そして10年前の熊本地震など、何度も何度も大地震が起きているのに、日本政府はそうした対策などいっさいせずに、ひたすら軍拡や大企業への補助金などにカネをつかっている。日本政府は、ずっと前から、国民のことは眼中になく、近視眼的に、大企業のカネ儲けに協力し、その一環として三菱重工業などの軍需産業の育成にカネをつかってきた。だから、何度も何度も大地震が起きても、その対策にはカネをつかわない。だから、人びとは、その都度その都度たいへんな苦労を強いられる。

 こんなにも地震が多いのだから、政府や自治体は地震が起きても人びとが苦しまないような対策をきちんとやっておくべきなのだ。

 人びとは物価高で苦しんでいるのに、こうした災害でさらに苦しむ。一方、政府はインフレによる空前の税収でほくほくしている。物価が上がれば消費税額も増えるからだ。国民から収奪している政府がニコニコし、また原料などの高騰分を物価にきちんとのせている企業もホクホクしている。苦しんでいるのは、国民だけである。経済の主体として、政府、企業、家計があげられるが、家計は苦しい、更にその上に、猛暑と大地震がかぶさる。

 日本の庶民の苦しみを、どうしたら軽減できるかを、人びとは考えなくてはいけない。

 熊本の人びとはとてもたいへんだが、他の地方の人びとにとっても、「明日はわが身」なのである。日本列島、地震が起きないところはないのである。

 

2026年7月29日水曜日

再び、書く。

  最近、新聞の政治の記事を読まなくなった。絶望なんかすべきではないと思うけれども、しかし、みずからが生きる世界がより良くなるという希望が、わたしのなかから湧いてこなくなった。

 一昨日、『逍遥通信』第11号が届いた。早速読みはじめた。読みながら、すべてを読んだわけではないが、書き手の多くは「高齢者」である。おそらく70代?

 70代は、そろそろこの世とおさらばしなければならないという気持ちをどこかに隠し持っている。だからこそ、自らが生きてきた軌跡をふり返る。

 まず読みはじめたのは、そういうことが書かれた文である。

 生きてきた軌跡をふり返りながら、現今の社会の変化をみつめ、未来を想像する。すると、その先には、明るいものがないことに気づく。不安、絶望、憤怒・・・・・ 

 『逍遥通信』は、札幌に住まいする澤田展人さんが中心となって発行している。

 わたしがこの『逍遥通信』を読みはじめたのは、すでに亡くなっているもと朝日新聞記者、外岡秀俊の特集号があることを知り、澤田さんに連絡して送ってただいたことが契機となっている。

 外岡の記事、あるいは書物を、わたしは読んでいた。そして外岡が、札幌南高校で高校紛争の当事者であったと聞き、同じように静岡で高校紛争の渦中にいたわたしは、大いに関心をもったのである。

 高校紛争に関わった人びとの多くは、その後「体制」のなかに入り込んでいった。わたしにはそれができなかった。いつも、「体制」には違和感というか、敵愾心を抱きながら生きてきた。外岡の文に、同じような感覚があることをわたしは感じとっていた。

 『逍遥通信』の刊行に中心的に関わっているのは、高校時代、外岡と同じような問題意識をもった人びとである。 

 原稿を寄せている人びとが皆そういう人というわけではない。しかし、生きてくる中で、同時代的な空気を吸っていた人びとではある。

 11号の「編集後記」に、澤田さんは、「きわめて困難で、未来が不安な世界に私たちは生きている。その不安は私たちの足もとを音もなく掘り崩している。このようなときこそ、書き、記録することをたいせつにしなければいけないと思う。」と書いている。

 わたしは、澤田さんのこの文に大いに感じ入ったのである。

 やはり、書きつづけなければならない。

 実は、ここ10年くらい慎重にやらなければならない仕事を抱えていて、それに注力する時間が多くなっているので、なかなか「書く」という行為に入れないできた、特に今年は。

 11号のいくつかの文を読み、みずからの来し方を愛惜しながら書き綴ることの大切さを間接的に教えてもらったような気がする。

 「高齢者」となった私たちの経験は、記録されなければならないのである。

 

2026年6月13日土曜日

もうじき現実になるかも It might become a reality soon

  『東京新聞』に、「土曜訪問」という欄がある。今日、そこにポール・リンチの『預言者の歌』が紹介されていた。

 その書き出しはこうなっているという。

 その国では、移民を排斥し、デモを敵視する極右政党が政権を握った。まもなく国家警察が設けられ、治安維持の権限を強化する法律が施行される。それでも国民の多くは、以前と変わらない日常が続くと信じていた。「この国ではそんなことは起こらない」「憲法で保障された権利があるんだから」と。

 ある夜、「国家」が彼らの自宅のドアをたたくまではー。 

  「その国」とは、日本であるかもしれない。日本でも極右政党である自由民主党が政権を担い、今そのトップは、ファシストがなっているからだ。そしてトップが推進する施策は、まさにここに描かれたような政策を打ちだしているからだ。

 

  The *Tokyo Shimbun* has a column called “Saturday Visits.” Today, it featured a review of Paul Lynch’s *The Song of the Prophet*.

The opening paragraph reads as follows:

 In that country, a far-right party that rejects immigrants and views demonstrations with hostility had seized power. Soon, a national police force was established, and laws strengthening its authority to maintain public order were enacted. Even so, most citizens believed that daily life would continue as before. “That kind of thing won’t happen in this country,” they said. “We have rights guaranteed by the Constitution.”

Until one night, when “the State” knocked on their doors— 

“That country” might well be Japan. This is because Japan is currently governed by the far-right Liberal Democratic Party, and its current leader is a fascist. Furthermore, the policies being promoted by that leader are precisely the kind depicted here.

Translated with DeepL.com (free version)