2026年3月7日土曜日

教員不足

  教員の不足が深刻化している。

 教員のなり手が減っているということも一つの原因だろう。教育現場は、ブラックな職場となっているからだ。

 実を言うと、わたしも定年前に退職した。わたしが教員となった頃、若手は忙しかったが、それなりに高齢化していた先生はゆとりをもって仕事をしていた。

 しかし、文科省が、教員統制を強化してくるなかで、教育とは無関係の仕事が増えていった。PDCAというアメリカ生まれの、企業のセルフマネジメントメソッドが学校にも導入され、それに関する仕事が増え、それ以外にもまったく役に立たない研修とかが増え、教育活動に関わらない分野の仕事が、文科省・教育委員会から次々と持ち込まれてきた。

 増えた仕事はなくならず、今まで通常行っていた仕事も継続であるから、仕事は増えるばかりであった。学校というのは、授業だけをしているのではなく、さまざまな校務を教員が分担しているから、それに関する仕事は決して減らない。何か事件があれば、会議は増え、家庭訪問などもしなければならず、また問題を起こした子どもがいれば「もらい下げ」にも行かなければならない。また行事があれば、それに関する準備その他もなかなかの仕事量であった。

 わたしが若い頃は、部活動指導や生徒会指導などで、帰宅は夜八時、土日もなく、長期の休みでも、8月中旬、年末年始しか休みは取れなかった。

 振り返ってみれば、長時間労働で、余分に働いてもその報酬はないという、まったくブラックな職場ではあった。当時は、それが当たり前という世界であった。

 しかし、こうした過酷な労働現場に対して、それを問題とする声が出されるのは必然であった。

 とりわけ、教員にとってもっとも問題なのは部活動指導であった。体育系の部活動の顧問になれば、土日も長期休暇もなく、また夜八時頃まで部活動指導に従事する。となると、教材研究や分担された校務は、家庭に帰ってからやらざるを得ない。

 こんな職場であるから、敬遠されるにきまっているではないか。

 しかし中には、それでも教員になりたいという人がいる。その原動力は、部活動である。部活動の顧問になりたいがために教員を志望する。その数は、多い。そういう教員を見ていると、教材研究をせず、授業を軽視し、ひたすら部活動に専念する。また教科に関する知識もあまりない。それはそうだろう、彼らは学生時代から一貫してスポーツに専念し、スポーツ推薦その他で大学を卒業してきたからだ。神戸大学法学部を出たという人、「公序良俗」ということばも知らなかった。学生時代も、ひたすらボールを追い続けていたのだ。 

 現場の教員が危機感をもって、働き方についていろいろ提案しているが、文科省は聞くみ身をもたない。だから、教員不足が毎年ひどくなるのだ。

 なぜ文科省、政府は、この危機的状況を何とかしようとしないのか。

 それは、新自由主義下においては、政府にとって学校教育などの公共的なものは切りすてる対象であって、できうるかぎりそうした公共的なものに財政を振り向けることをしなからだ。

 政府や地方自治体の財政を見れば、企業に対する補助金や優遇措置などが最優先なのだ。公共的な業務はできるだけ減らして、あるいは民間企業に委託して、「小さな政府」にしていく、スリムにしていくことが進んでいる。

 私立学校の授業料無料化などは、公立学校を潰して教育を私学に任せ、なくなった公立学校用地を私企業に売り渡し、私企業がもうけの手段とする。そして自治体は公共的な業務を減らしていくのである。

 1990年代から、新自由主義という狂暴な資本主義が席捲するなか、公共は捨て去られていくのである。学校教育は、公共的なもっとも大切な業務ではあるが、現在は、それすら廃棄しようとしているのである。教員不足は、そうした政策の結果である。 

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