2026年は、金子文子の縊死から100年となる。いわゆる「金子文子没後100年」である。
そこで、金子文子について、彼女の生の軌跡と、思想について紹介する。本稿は、『沓谷から』第4号に掲載したものである。
【アナキスト・金子文子】
『時代をきりひらいた日本の女たち』(落合恵子・小杉みのり、岩崎書店、2021年)という本がある。ここには31人の女性が紹介されている。そのなかに金子文子(1903~1926)がいる。金子は、「人間の平等をうったえたアナキスト」とあり、金子の「自分の意志で動いたとき、それがよし肉体を破滅に導こうとも。それは生の否定ではない。肯定である。」という文を引き、「死にかえてでも自分の意志をつらぬくこと。それが文子の「生きること」だった」と記す。そして末尾では、「社会で「いないこと」にされ、たよれる人もなく生きてきた文子が、ただひとつのよりどころとしたのは自分自身だった。文子は自分の命にかえて、自分の思想を守りぬいた。」と書く。
まさに文子は、短い人生を、みずからの意志を原動力として生きた。
【金子文子の生涯】
金子文子は、広島県出身の佐伯文一と山梨県出身の金子キクノを両親として、1903年横浜に生まれたが、婚姻届を出していなかった両親は、文子の出生届を出さなかった。 その後、父は叔母(母の妹)と関係ができて家を出てゆき、母は、怠け者の中村、次いで小林と同棲生活を送り、文子を邪魔者のように扱い、ある時は文子を女郎に売ろうとしたこともあった。そして小林の郷里・に移ったあと、文子は、小林と別れた母と母の実家に移った。その間、文子は無戸籍のために、学齢期になっても学校には行けなかった。
1912年、母方の祖父の子として入籍し、父方の祖母、叔母(父の妹)が住む朝鮮半島忠清北道の岩下家に送られた。しかしそこで、祖母と叔母による激しい虐待を受け、奴隷のようにこき使われた。学校には行くことはできた(高等小学校までは卒業できた)が、近所の子どもたちと遊ぶことは禁じられ、ひたすら女中として扱われた。
誰にも愛されず迫害された文子は自殺を企てる。1916年のことである。しかし文子は、死ねば、「祖母や叔母の無情や冷酷からは脱(のが)れられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い。」、「そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらなければならぬ。そうだ、死んではならない。」(『獄中手記 何が私をこうさせたか』岩波文庫版、172頁、以下『獄中手記』と表記する)と、生きていくことを決意する。
1919年4月、岩下家ではもう文子は必要なくなったのだろう、文子は山梨県の母の実家に帰されることになった。しかしそこも「安住するに足る落ち着き場所を持たぬ自分を発見しなければならな」(『獄中手記』209頁)かった。
そのうち朝鮮から帰ったことを知った父が、やってきた。「小さい時、母と私とを捨て去った父」(『獄中手記』217頁)である。そして父は、金のために叔父(母の弟である破戒僧・金子元栄)と文子を結婚させることを画策した。
文子は、父が住んでいた浜松に移った。浜松の下垂町(現在の尾張町)の借家であった。父は、「恐喝新聞の記者」(『獄中手記』229頁)であった。浜松で文子は、「実科女学校の裁縫専科に入れられた」(『獄中手記』233頁)。叔父・元栄が寺の「おだいこく」には、「裁縫ができること」が必要だと言ったからである。7月の半ば、学校が休みになったので、文子は山梨に帰った。しかし「父の家が私の家でなかったように、ここもまた私の真の家ではなかった。私は三界に家なき哀れな居候にすぎなかった」(『獄中手記』240頁)。八月下旬、文子は祖母らとともに「活動」(映画)を観にいった。そこで青年・瀬川と出会う。
暑中休暇が終わり、文子は浜松へ戻った。しかし裁縫学校に通う意思もなく、結局学校をやめ、山梨へ帰った。しかしそこでも裁縫塾に通わされた。文子は瀬川と会うようになった。
突然、文子は元栄、祖母とともに、浜松へ行かされた。元栄が文子との結婚をやめることを父に報告するためであった。父は、破談となったことを暴力的に責めた。父は、元栄の寺の財産目当てで文子と結婚させようとしていたのだ。
1920年4月、文子は単身上京した。「生れ落ちた時から私は不幸であった。横浜で、山梨で、朝鮮で、浜松で、私は始終苛められどおしであった。私は自分というものを持つことができなかった。・・・運命が私に恵んでくれなかったおかげで、私は私自身を見出した。そして私は今やもう十七である。」(『獄中手記』279頁)。
文子は東京では母方の大叔父窪田亀太郎宅に入ったが、その後新聞店に住みこみ、新聞売りをし、同時に正則英語学校と研数学館に通った。しかし生活が成りたたず、湯島新花町小松方に寄宿し、粉石鹸の夜店を出す。それも生活ができず、浅草の鈴木錠太郞家の女中となる。
この間、文子は社会主義者と出会い、またキリスト者とも交流した。
1921年に入り、文子は社会主義者の印刷屋などをへて、再び大叔父の家に転がり込んだ。
しかし社会主義者と交流しても、「社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えたくれただけのことであった。私は貧乏であった。今も貧乏である。そのために私は、金のある人々に酷(こ)き使われ、苛(いじ)められ、責(さい)なまれ抑えつけられ、自由を奪われ、搾取され、支配されてきた。そうした私は、そうした力をもっている人への反感を常に心の底に蔵していた。と同時に、私と同じような境遇にある者に心から同情を寄せていた。(中略)私の心の中に燃えていたこの反抗や同情に、ぱっと火をつけたのが社会主義思想であった。ああ私は・・・・・・・してやりたい。私達哀れな階級のために、私の全生命を犠牲にしても闘いたい。」(『獄中手記』354~5頁)
この年の夏、文子は浜松、山梨に行くも、どこにも自分の居場所はない、いたたまれないと、8月末東京に帰る。そして山梨から東京に出ていた瀬川の宿へ。しかし子どもができたらどうするの、と、文子は瀬川に問うが、「僕はそんなこと知らないよ」が答えであった。また朝鮮人留学生の社会主義者・玄とも知り合ったが、玄も瀬川と同じような人間であった。その他、久野という社会主義者の裏切りにあい、文子は、「今まで「主義者」というものを何か一種特別の、偉い人間のように思っていたことのいかに馬鹿らしい空想であったか」(『獄中手記』377頁)と思う。この頃、文子は朝鮮人の共産主義者、無政府主義者を知る。
大叔父の家にいられなくなった文子は、家を出て、通称「社会主義おでん」のおでんやに勤めた。1921年11月のことである。
1922年に入り、文子は朴烈と知り合う。
朴は、1902年3月、慶尚北道の両班の家に生まれたが、朴家は没落への道を歩んでいた。朴は成育過程で、数多くの民族差別を見聞きし、民族独立の思想を抱くようになった。1916年、官立京城高等普通学校師範科に入学した。ここは官費で学ぶことが出来た。彼は、1919年の三・一独立運動に参加した。そして10月、日本へ。朝鮮では取締りが過酷で、永続的な独立運動を行うことが難しいと判断したからであった。
その頃の朴の思想は、社会主義から無政府主義へ、そして虚無主義へと変遷した。しかし民族独立の意志は変わらなかった。日本で、朴は血拳団、苦学生同友会、黒涛会を組織したりした。
文子との出会いはこの頃であった。文子にとって、朴との出会いは彼の詩であった。『青年朝鮮』に掲載されていた「犬コロ」という詩。「私はその詩を読んだ。何と力強い詩であろう。一くさり一くさりに、私の心は強く引きつけられた。そしてそれを読み終わったとき、私はまるで恍惚としているほどだった。私の胸の血は躍っている。ある力強い感動が私の全生命を高くあげていた。」(『獄中手記』385頁)。そして文子は、朴に会った。文子が思いえがいていた通りの人物であった。そして何度か会ううちに、文子も、朴も、お互いを必要とする関係となる。『獄中手記』は、文子が、電車に飛び乗った朴に心の中でこのように言うところで終わっている。「待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。私達は共に生きて共に死にましょう」(407頁)
【朴烈とともに生きる】
文子は、1922年春から朴烈と同棲する。「同志として同棲する事、運動の方面に於ては私が女性であると云う観念を除去すべき事、一方が思想的に堕落して権力者と握手する事が出来た場合には直ちに共同生活を解く事を宣言し、相互は主義のためにする運動に協力する事を約して」(「第四回被告人訊問調書」)の同棲であった。二人は黒濤会を組織して機関紙『黒濤』を創刊した。しかし共産主義派と無政府主義派とが分裂し、前者は「北星会」、後者は「黒友会」を組織した。二人が関係したのは「黒友会」で、「民衆運動」を発行した。11月には『太い鮮人』を創刊した。ほんとうは『不逞鮮人』としたかったのだが、警視庁が許可しなかった。翌1923年4月には、無政府主義者らと不逞社を立ち上げる。不逞社は「秘密結社」とよばれることが多いが、そうした強固な組織ではなかった。
こうした活動の中で、朴は爆弾を入手してのテロ計画を立てた。しかしその計画は実現性を大きく欠いたものであった。
【獄中へ】
1923年9月1日、関東大震災が起きる。そのなかで、多くの朝鮮人・中国人らが虐殺された。二人は、大震災の被害を受けることはなかった。3日、第一師団輜重兵鈴木亀男軍曹により、二人は検束され警視庁に引き渡された。行政執行法による保護検束であった。24時間経過後は警察犯処罰令により拘留を延長されたが、「一定の住居」を持つ者には適用できないため、警察は家主に「二人は帰らない」として、二人の住居を奪った。山田昭次は、「警察は「不逞鮮人の煽動者を作り出すのに懸命だったのであろう」(『金子文子』影書房、1996年、153頁)と推測している。
また不逞社のメンバーも次々と検束され、予審訊問などの取り調べの中で、爆弾入手計画が発覚し、メンバーのひとり新山初代が爆弾は皇太子の結婚時に投擲される計画であったと陳述した。10月20日には、不逞社のメンバー16人が治安警察法違反容疑で起訴された。
1924年にはいり、朴、文子も爆弾入手計画について証言し、その結果、同年2月、朴、文子、そして金重漢(朴から依頼され、爆弾入手のために連絡をとろうとした)が爆発物取締罰則違反容疑で追起訴され、他の不逞社のメンバーは不起訴となった。
予審訊問のなかで、朴、文子の罪名が刑法73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」、いわゆる大逆罪に該当し、裁判は大審院の一審のみとなることから、予審判事は、文子の転向を求めた。
しかし、文子はそれを拒否する。
「「君等と妥協する」「改心して社会に順応して生きる」今と為って君等と妥協が出来るなら私はね、社会に居た時既に妥協して居た筈です。君等の御説教は聞かなくとも其の位の智慧はありました。此の位の事は覚悟の上です。何卒御遠慮なく御自由に。私もね実は一度出度いのです。で左様する為めには「改心しました」と頭を下げて一礼入れさへすれば甘く行く事は知って居ます。だがね。将来の自分を生かす為めに現在の自分を殺す事は私は断じて出来ないのです。御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しませう。「私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽く迄自分の裡に終始します。夫れが御気に召さなかったなら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです。」之れが昔も今も変らぬ私の心持であります。」(「第三回被告人訊問調書」1924年1月22日)
1925年7月17日、検事総長は、爆発物取締罰則違反の罪に加え、刑法第73条違反の容疑で、朴烈と文子を起訴した。その起訴事実は以下の通りである(金子文子のみ)。
被告人金子文子は内縁の夫婦たる佐伯文一、金子きくの長女なる処幼にして父に別れ、母もまた幾許ならずして被告人を棄て他家に嫁したるより、被告人は孤独幼苦の身を以て朝鮮其他各所に輾転流浪して具さに辛酸を嘗め、漸くにして人生を悲観し社会を呪詛するに至りしが、大正九年四月頃十七歳にして東京に出で夕刊売其の他下級労務に従事する中思想に関する出版物を耽読し、各種の主義者と交遊するに及び遂に虚無的思想を懐抱するに至り、自己は固より、一切人類の絶滅を期すると同時に皇室其の他の権力階級に対して反逆的復讐を為さんが為之を倒壊するの要ありと信念し居りたる折柄、偶々被告人朴準植と相識り、 同人の主義思想に共鳴して遂に前記の如く之と同棲するに及び、其目的遂行に付画策したる末、大正十二年秋頃皇太子殿下の御結婚式挙行せらるるを聞知し、右挙式の際行幸啓の鹵簿に爆弾を投じて畏くも天皇陛下又は皇太子殿下に危害を加へ奉らんことを共謀し、之が凶行の用に供さする為め被告人朴準植は大正十一年十一月頃京城に赴き、当時上海より爆弾を朝鮮に輸入せんと計画せる朝鮮民族主義者金翰と会見して其の分与方を申入れて其承諾を得、 更に大正十二年五月頃、東京市本郷区湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他に於て当時上京せる無政府主義者朝鮮人金重漢に対し、上海に赴き朝鮮の独立を目的とする義烈団と連絡して爆弾を輸入せんことを依嘱し其の承諾を得たるも、朝鮮に於ける金相玉事件検挙により未だ之を入手するに至らざる中事発覚して大逆を実行するに至らざりしものなり。(「予審終結書」1925年7月17日)
1926年2月26日、大審院で第一回公判が開かれた。被告席に着いた朴は朝鮮の礼服を、文子はチマ・チョゴリを着た。これらの服は、在日朝鮮人がカンパを集めて差し入れした物であった。
そして3月25日、二人に死刑判決が」下された。その時、朴は朝鮮語で大声を張り上げ、文子は「万歳」を叫んだ。
4月5日、若槻礼次郎首相は二人の「恩赦」を上奏、裁可をへて二人を死刑から無期懲役へと減刑した。
山田昭次は、前掲『金子文子』で、「支配者も判決の根拠が薄弱であることを自認せざるをえないほど政治的なものであった。朴烈、金子文子を大逆罪犯人にすることで関東大震災時の朝鮮人虐殺の弁解材料とすることができても、他面では見えすいた政治裁判がもたらす朝鮮人の批判、反発を憂慮せざるを得ず、「恩赦」減刑による皇室の一視同仁の演出が行われたのであろう」(235頁)と書いている。
朴は減刑状の受け取りを拒否したが、「君のために、その恩赦状を預かってやろう」と言って受けとったという(布施辰治)。しかし、文子は、減刑状を渡されるといきなり破り捨てたという。
その後、朴は千葉刑務所に、文子は宇都宮刑務所栃木支所に移された。
文子は、1926年7月23日、自分で編んでいた麻糸で縊死した(とされている)。23歳であった。
しかしいまだに文子の死亡状況については刑務所側によって隠されつづけている。また文を書くことを厭わなかった文子の遺書その他も残されていない。なぜ文子は自殺したのか。その答えは空中に浮かんだままである。山田昭次は、「刑務所当局は文子が書いたものを抹殺し、死亡状況も曖昧にすることで、文子を自殺に追い込んだ転向強要の痕跡を掻き消そうとしたのであろう」(『金子文子』248頁)と書いている。
文子の遺体は刑務所の共同墓地に埋葬されていたが、7月31日布施辰治らが死体を発掘し、同日栃木火葬場で荼毘に付し、布施宅で通夜が行われた。
8月16日、朝鮮から朴烈の兄・朴庭植らが遺骨を引取にきた(しかし警察は文子の遺骨を朴庭植には運ばせることなく、池袋警察署から朝鮮尚州警察署に送った)。そして1926年11月5日、文子の遺骨は、朴烈の郷里・慶尚北道聞慶郡八霊里(現聞慶邑八霊一里)の山の中腹に埋葬された。文子は、3月23日、朴との婚姻届を出していた。死刑執行後の遺体引き取りを朴の兄弟に頼むためであった。
【近代日本国家に殺された文子】
文子は、「近代日本国家に殺された」のだと、山田昭次は書く。
不逞社の目的を問われた文子は、こう答えた。「不逞の徒が寄り集まって気焰を挙げ其「とばっちり」を持って行くのです。同志の中の気の合った者が自由に直接行動に出るのです。まあ貴方方御役人を騒がせる事です」(「調書」1923年10月25日)と。囚われた文子は、強大な権力に対して、決してひるまない。
そして自らの来し方をふり返り、法制度の虚偽性を鋭く突く。
文子は、無籍であった。文子の両親は文子の出生届を出さなかったことから、日本で生まれ生きているのに文子は、「日本の人間で無」く、義務教育といいながら学校にも行けなかった。やっと9歳の時母親の兄弟として籍が入れられたのだが、「無籍である事の責は毫も子の与り知らない事」である。「法律は自然の現実の存在を否認し親の兄弟として入籍せしめて初めて其の存在を認める程虚偽であり、社会は責無き幼き者を鞭打つ程惨酷であります」と(「第二回被告人訊問調書」1924年1月22日)。文子は、自らの体験を客観的に見つめ、苦しみの要因が国家制度にあることを的確に認識する。
次に、文子の近代日本国家についての見解を紹介しよう。
「第一階級は皇族であり、第二階級は大臣其の他政治の実権者であり、第三階級は一般民衆であります。私は第一階級たる皇族を丁度摂政宮殿下は何時何分に御出門と云ふ様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思ひます。第三階級たる民衆は先程申した様に救ふべからざる無智であり、第二階級たる政治の実権者は私初め弱者を虐る力の保持者でありますから、私は此の階級の者に対して恐ろしく憎悪の考えを持って居ります。而し実質的に第二階級が実権者であり乍ら形式的に第一階級が実権者であり この両者は表裏の関係に立って居ります故、私は主として第二階級に従として第一階級に私の叛逆心を満足する事を考えて居りました。夫れ故私は此の両者の階級に対して爆弾を投げ様かと考へた事もあ」(「第三回被告人訊問調書」)る。
朴と文子が爆弾を入手しようとしたことについての思想的背景が語られていると言えよう。
そして「第十二回訊問調書」(1924年5月14日)には、天皇制の虚偽性を的確に指摘するのである。
「元々国家とか社会とか民族とか又は君主とか云ふものは一つの概念に過ぎない。処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを付与せんが為めにねぢ上げた処の代表的なるものは、此の日本に現在行はれて居る処の神授君権説であります。・・・(中略)天皇を以て神の子孫であるとか、或は君権は神の命令に依って授けられたるものであるとか、若くは天皇は神の意志を実現せんが為めに国権を握る者であるとか、従て国法は即ち神の意志であるとかと云ふ観念を愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云ふ物を神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に一般民衆を欺瞞して居る。・・(中略)若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が此の神様の保護の下歴代の神様たる天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに何万と云ふ忠良なる臣民が死なない筈であります」と、天皇制にまとわりついている虚言を剥ぐ。
さらに文子は、「嘗て私は海に沈んで魚の餌食と為ったと云ふ安徳天皇とやらは僅か二歳で日本の統治者としての位を負ふて居たと聞いて居ります。斯うした無能な人間を統治者として祭り上げて置くと云ふ事が、果して被統治者の誇でありませうか。寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与へて来たと云ふ事は、日本の土地に生れた人間の最大恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。」というように、天皇制を根柢から批判するのである。
そしてこうも言う。
「天皇に神格を附与して居る諸々の因襲的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮設した内容の空虚な機関に過ぎない事、故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云ふ日本の国是と迄見做され讃美され鼓舞されて居る彼の忠者(君)愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる欲望に過ぎない事、従て夫れを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである」
見事な解説である。天皇制国家の時代にこのような認識を持つことができた文子には脱帽せざるを得ない。
このような文子の天皇制批判とともに、文子の平等観も徹底している。「私は予て人間の平等と云ふ事を深く考へて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い、強者も無ければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云へば総べての人間は完全に平等であり、従って総べての人間は人間であると云ふ一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります」(第十二回訊問調書)
さらにもうひとつ、朝鮮観である。徹底した平等観を持つ文子は、朝鮮人差別とは無縁であった。
文子は、「私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を想ふ時、他人の事とは思ひ得ぬ程の感激が胸に湧きます」(「第四回被告人訊問調書」1924年1月23日)というように。朝鮮における文子は、父方の祖母と伯母により、迫害され、女中として酷使された。そのような状況にあった文子と、植民地支配の下、在朝日本人に抑圧されていた朝鮮人とのあいだに、深い共感が醸成されたのであろう。
また山田昭次は、「天皇制国家は家を通じて国民を支配し、戸主に対する家族、とくに妻や娘の従順が天皇制国家への従順を培養するものとしてこれを重視した」、文子は、「天皇制国家と直接対決する以前に」「家のなかにまで浸透している天皇制とまず闘わざるを得なかった」(『金子文子』282頁)と書いている。
ここまで文子の思想を紹介してきたが、家制度を含めた天皇制への徹底した根底的批判、朝鮮人差別とは無縁の朝鮮人との連帯意識をみると、文子の思想は近代天皇制国家の時代における(さらに現代に於いても、である)克服すべき思想を、他のほとんどの日本人(著名な思想家なども含めて)を差し置いて、克服していたということに心から感動する。それも、過酷な人生を主体的に生きるなかで、みずからが築き上げてきた思想であるということだ。
だとすると、やはり、金子文子は、天皇制国家権力に殺されたというしかない。1923年9月16日、大杉栄、橘宗一とともに虐殺された伊藤野枝と同じように、天皇制国家権力にとって、文子も抹殺すべき人間であった。たとえ文子が自殺であったとしても、それは天皇制国家権力が強いた「自殺」であった。
【文子と浜松】
文子が一時浜松にいたことが、文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』に書かれている。
朝鮮から帰った文子が山梨にいた頃、「浜松から父が来た。小さい時、母と私とを捨て去った父である。」(『獄中手記』217頁)。その父のもとへ、文子は行く。1919年のことであった。
父・佐伯文一の証人尋問調書(1925年8月10日の訊問第一回)によれば、当時文一は51歳、職業は酒類商、住所は浜松市元目町66番地となっている。浜松へは、「明治44、5年頃」(1911、2年)に横浜から移り住み、「染織新報」、「遠州毎夕」の雑報記者をしながら1923年からは酒類商を営んでいた。ということは、文子が浜松に来たときは酒類商を営んでいなかった。文子は、『獄中手記』で、「父は浜松の下垂町に住んでいた」(229頁)とある。下垂町(現在尾張町)は浜松城の東、元目町は尾張町の北に位置し、尾張町と隣接している。そして父は、「相も変らぬ与太仕事で、何でも質の悪い恐喝新聞の記者であった」(229頁)。
文子は、「土地の実科女学校の裁縫専科に入れられた」(『獄中手記』233頁)。その学校は、おそらく現在の浜松学芸中学校・高校であろう。同校は、中村萬吉・みつ夫妻により始められた私塾で、1902年には「浜松裁縫女学校」となり、文子がいた当時、同校は常盤町にあった。常盤町は、尾張町の東に隣接している。しかし、文子は、裁縫が好きではなく、またできなかったので、学校に行っても「おしゃべりをしてその日その日を過ご」(『獄中手記』233頁)していた。
7月の半ばから休みとなり、文子は山梨に帰り、暑中休暇終了と共に浜松へ戻った。文子はまた学校に通うことになった。それがいやで、「私はとうとう、学校をやめることに決心した。そして、教師にも父にも誰にも無断で、そのいやでたまらない裁縫学校から退いてしまった」(『獄中手記』251頁)。そして文子は山梨へ帰っていった。
ところで、文子には、賢俊(『獄中手記』には、賢とされているが、賢俊が正しい)という弟がいた。賢俊は父佐伯文一と一緒にいた。叔母にも可愛がられていた。父は、賢俊を中学校に入れようとした。「賢に県立中学の入学試験を受けさせたのだったが、賢はとにかく、どうやらその試験に合格した」(『獄中手記』270頁)とある。当時、浜松市の県立中学校は、現在の浜松北高校(県立濱松中学校)しかない。同校の卒業生名簿を当たってみたが、佐伯賢俊という名はなかった。入学しなかったのではないかと思われる(名簿には、中途退学者の氏名も記されていた)。
【朴烈のこと】
朴烈(1902~1974)についてはほとんど触れてこなかった。
朴は、日本の敗戦後、1945年10月、秋田刑務所から出獄した。1946年1月、結成された新朝鮮建設同盟の委員長に就任、10月には在日本朝鮮人連盟(朝連)に対抗して結成された在日本朝鮮居留民団(民団)の団長となる。1949年4月、団長を辞任し、韓国に帰国した。李承晩政権の国務委員となる。1950年6月朝鮮戦争が勃発し、朴は行方不明となる(北朝鮮に連行された)。のち、在北平和統一促進協議会に就任したといわれる。1974年、北朝鮮で死去。
【金子文子の獄中歌集から】
歌詠みに何時(いつ)なりにけん 誰からも学びし事は別になけれど
我が好きな歌人を若し探しなば
夭(わか)くて逝きし石川啄木
派は知らず流儀は無けれ 我が歌は圧(お)しつけられし胸の焔(ほのお)よ
指に絡み名もなき小草つと抜けば かすかに泣きぬ「我生きたし」と
生きんとて只生きんとて犇(ひし)めき合ふ娑婆の雑音他所事(よそごと)に聞く
光こそ蔭をば暗く造るなれ 蔭の無ければ光又無し
我が心嬉しかりけり 公判で死の宣告を受けしその時
これと云ふ望みも無けれ 無期囚のひねもす寝(い)ねて今日も送りつ
詫び入りつ母は泣きけり 我もまた訳も判らぬ涙に咽(むせ)びき
笑ふこといとまれなりき 又しても思ひ出さるるBの面影(Bは朴烈)
手足まで不自由なりとも 死ぬという只意志あらば死は自由なり
さりながら手足からげて尚死なば そは「俺達の過失ではない」
※本稿は、冒頭に挙げた『時代をきりひらいた日本の女たち』のほか、岩波文庫の『獄中手記 何が私をこうさせたか』、鈴木裕子編『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、2006年)、山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房、1996年)、『続現代史資料3 アナキズム』(みすず書房、1988年)をもとに書き上げたものである。
山田昭次さんは、今年2025年3月15日に亡くなられた。山田さんには、わたしが静岡県史の調査の過程で知り合った釜山のもと朝鮮人女子勤労挺身隊の方々からの、「給与が払われていない」という訴えをうけて起こした「東京麻糸紡績沼津工場もと朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の控訴審で、短期間のうちに厖大な意見書を作成していただき、東京高裁の法廷にも立っていただいた。また関東大震災における朝鮮人虐殺に関する著作・資料なども送っていただいた。
山田さんが書き上げたこの『金子文子』には、長年にわたる朝鮮に関わる研究の問題意識が書き込まれている。山田さんは、金子文子を研究する中で、金子文子に「未来に向けての日本人の可能性」を見出し、文子から「与えられたものを他の日本人たちに返そうと」この本を書かれたという。わたしも、この本から学ばせていただいた。ありがとうございました(合掌)。
詳しいご紹介ありがとうございました。昨年秋には山田昭次先生を偲ぶ会が開催されていると思いますが、その様子も知りたいと思います。
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