岩波書店の『世界』が「創刊1000号」を迎えた。わたしは、『世界』をずっと購読し続けている。
高校生の頃、ベトナム戦争があった。戦場の状況が、本多勝一らによって報じられ、わたしの正義感に火がついた。『朝日ジャーナル』や『世界』、『展望』(筑摩書房)、『現代の眼』などを購読し、世界、社会への眼を開かされた。
そのうち、現在残っているのは、『世界』だけである。現在書店に積まれている綜合雑誌の多くは、平和と民主主義を否定する内容のものだ。それが現在の日本の思想状況を示している(最近、『世界』と似ている『地平』が創刊された。平和と民主主義の陣営の雑誌が増えた)。
しかしわたしは、平和と民主主義は、なによりも貴重なものであり、護りつづける価値があると認識している。
そのための羅針盤として、『世界』はある。高校時代からずっと購読し続け、あまりにも書庫にたまりすぎたために、二度ほど処分したことがある。
だが世相の変化と共に、『世界』の購読者は減り続けているという。
戦争することでカネ儲けをしようという勢力は、いつも、庶民をだまし、平和と民主主義を破壊しようとする。そうした勢力の意図を見抜くためには、わたしたちは学び続けなければならない。その学びの対象として、『世界』や『地平』はある。
こうした雑誌に掲載されている文を読み込むことによって、世界を知り、社会のありかたを考え、彼らの薄汚れた企みを知る。
ここにひとつの文を紹介する。こうならないように、という思いから掲載する。呆気にとられないように、『世界』、『地平』、『週刊金曜日』を読みたい。
萩原朔太郎 「虚妄の正義」より
復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのように民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。
一方で、戦争の主動者たる者ども――官僚や、政府や、軍閥や、資本家や――の観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとえば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしくは内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか? 復讐とか? もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を煽動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。
それ故にまた敵国は、彼等戦争の指導者にまで、何ら人格的のものでなく、賭博商法における相手の張り方にすぎないのだ。我々の張り手が、いま互に争うものは、ゲーム台のかけひきであって、相手の人間そのものに関係しない。もとより彼等は、互に決闘すべき理由を知らない。況んや憎悪の念もなく憐憫の意志もない。所詮互の敵国は、戦争の主謀者にまで、一の運だめしのカードにすぎないだろう。そのやり方で、ペテンと奸策を弄することでは、両方共に抜目がなく、もちろんの話であるが。
されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮――敵愾心を指すのである――の残火が燃えているのに、一方では、それの煽動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のように、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまう。
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