2025年11月16日日曜日

「普通の人びと」

  益田肇の「人びとが織りなす社会戦争」という文を読んだ(『世界』12月号)。

 どうもしっくりこないので、ネットでこの人を調べたら、彼は「普通の人びと」をキー概念として、彼らの社会での「戦争」に焦点をあてて歴史的事象をみつめようとしているようだ。

 「普通の人びと」とは、「往々にして社会の多数派であり、社会秩序の形成や維持のために国家権力とも協力し、ときには少数派の疑問や異議、要求を抑圧し沈黙させることで「被害者」というよりは「加害者」となることも多かった」人びとということらしい。

 このような「普通の人びと」は、いつの時代でもいる。ほとんどの人は、「普通の人びと」であり、体制に刃向かうこともなく、体制の動きに身を委ねて、ある時は抵抗する者たちを「邪魔者」「変人」だとみなして批判し、あるいは権力と組んで弾圧に手を貸す。

 益田は、そうした人びとのオーラルヒストリーを聞いて、冷戦とか戦争とかを新たな視点でみつめようとしているようだ。

 「普通の人びと」は、国家権力の思惑をこえて行動することもある。より戦争に熱中し、戦線の拡大を望み、密告などにより異端者を積極的に排除していく。「普通の人びと」が、国家権力の意図を体現して行動する。ある時には、過剰反応する。

 わたしがみるところ、「普通の人びと」は国家権力に刃向かうことはしない。国家権力に対して従順である。だから国家権力が失政を行っても、国家権力を否定することなく、国家権力と足並みを揃える勢力を支持する。

 たとえば、自民党から、維新、参政党、国民民主党、立憲民主党には支持が向かうが、共産党やれいわなどにはいかない。

 「普通の人びと」は、支配層の思想の枠内に留まる。そうしないと、支配的な秩序を上昇することはできない。「普通の人びと」は、カネや名誉を求める。反体制では、カネや名誉を手に入れることは難しい。

 ふと思うのだが、「普通の人びと」に着目し、かれらを中心に歴史を見つめる場合、歴史の「画期」はあるのだろうか。

 「普通の人びと」に着目することで、彼らの歴史責任を問うことは出来るかも知れないと思うが、体制の中枢にいる支配者たちの、より重い責任を問うことはできるのだろうか。

 この人の文をはじめて読んだので、色々疑問が湧いた。

 

 

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