2025年7月29日火曜日

猛暑と日照り

  雨が降らない。昨年の7月も雨が降らなかった。時々、畑に農業用水の水を汲んで撒いたりしていたけれども、まったく日照りには刃が立たなかった。いつもはたくさんできていたサツマイモであるが、まったくの不作であった。その他の作物も、暑さと水不足でできがよくなかった。

 畑の傍らにながれている農業用水は大量に流れているから、天龍川の上流部の長野県では、おそらく雨が降っているのだろう。農業用水から田んぼには水が入っているから、米は一昨年、昨年ほどの不作にはならないだろうが、畑作はお手上げである。

 猛暑というか、酷暑というか、17時頃に畑に行っても、気温は32度くらい。少し動くだけで汗が全身を覆う。一時間弱で切り上げるが、ここ3年の暑さは半端ではない。

 雨が降らないから野菜の生長は遅いが、雑草は雨に関係なく大きく生長し、畑にいる間のほとんどは除草である。

 いったいいつ頃までこの暑さは続くのだろうか。

 

2025年7月27日日曜日

緑がなくなる?

  実家の近所に何軒か新しい家ができた。新しい家の「庭」には樹木や草花がまったくなく、石が敷かれている。また近くの新築の家の「庭」は、同じように石が敷かれているどころか、窓がなく、外壁は黒である。

 最近の新しい家は、エアコンが各部屋に備え付けられることを前提に建設されているように思われる。

 わが家はさざんかの生け垣に取り囲まれ、銀木犀の樹もある。実家は槇垣根、その他にたくさんの樹が植えられている。緑に囲まれている。

 しかし最近は、新築の家に緑はない。樹木の緑は、人間が生きていく上で大切なものであるにもかかわらず、である。

 さて、日本は「再開発ブーム」である。とくに大都会では大胆に推進されている。日比谷公園、神宮外苑などたくさんの緑があるところから、樹木がなくなっている。

 「今だけ、カネだけ、自分だけ」という新自由主義的経済政策が強行され、市民の財産である公園や道路から樹木が消されつつある。わたしは田舎に住んでいるので直接的な影響を受けるわけではないが、学生時代東京に住んでいたから、日比谷公園や神宮外苑などには何度か行っている。東京都は世界的に見ても、圧倒的に緑が少ないのに、さらに緑を削減しようとしているのである。公共性ある土地を「再開発」させることによって、巨大企業にカネ儲けをさせようとしているのである。それも自治体がそれに協力しているという情けない実態がある。

 東京都民は、いったい何を考えているのだろうかと思う。

 気候変動、地球温暖化が露骨に人びとに襲いかかっているのに、巨大企業やそれとつながる政治家たちが緑を破壊し、さらに温暖化を進めようとしているのだ。

 アホか、というしかない。 

  

『逍遥通信』第十号

  北海道札幌の沢田展人さんが発行している『逍遥通信』第十号が一昨日届いた。

 『逍遥通信』という雑誌の初見は第七号、その特集は「追悼 外岡秀俊」追悼号であった。その刊行を知ったことから、沢田さんに連絡して送ってもらった。朝日新聞記者であった外岡秀俊に強い関心を持っていたわたしは、外岡の著書もたくさん読んでいたから、彼が郷里の北海道で突然亡くなったことを知り、外岡についてもっと知りたかったからであった。

 その七号について、「浜名史学」に書いた文をそのまま掲載する(2022年10月30日)。 

 

『逍遥通信』第七号をほぼ読み終える。日曜日に届いてから、他の本を読むのをやめて読み進めた。

 外岡秀俊への追悼文が網羅されているのだが、それぞれ内容があり、私の前頭葉が大きく刺激を受けた。

 外岡が書いたものは、多くの追悼文に書かれているように、その文の背後に膨大な知の集積が顔を覗かせている。深みのある文は、そうでなくては生まれてこない。文は、何ごとかを書こうとする意思を、文字というもので表現するものであるが、しかし意思と文字は常にイコールではない。主張したいといういまだ混沌としている意思(集積され、もつれ合った知の束)を、あたまのなかで整理して明確な意思に昇華させる。と同時に、どういう文字を使用するかを考える。そのためには豊かな語彙をもつことが必要だ。それなしに意思を表現することは不可能である。それでもみずからの意思を100%忠実に表現することはできない。

 外岡の文は、豊かな語彙と集積された知が弁証法的に止揚された名文である。しかしだからといって、彼の文がすべてよいというわけではない。外岡が若い頃に書いた「現場から」のように、文学的な装飾を加えたものは、あまり好きではない。小説は小説、その他の文には装飾はいらない。その点では「傍観者からの手紙」のほうがずっといい。

 私の文章の書き方は、紆余曲折を経て、本多勝一の『日本語の作文技術』から学びとったものだ。文学作品ならいざ知らず、そうでない文に文学的な装飾を加えることは好ましくないと思う。みずからが主張したいことを簡潔に、わかりやすく書くことこそが大切だと思う。2010年代の「傍観者からの手紙」は、それぞれに膨大な集積された知がちりばめられているが、すっきりしていて読みやすい。

 さて本書には、多数の追悼文が載せられているのだが、それぞれの書き手が素晴らしい。だから読んでいて教えられる。外岡の多方面にわたる豊かな交友関係がこの本に示され、それぞれ書かれていることを総合すれば、外岡の高校時代から現在までの時空が表現されていると言ってよいだろう。

 だから本書はすばらしいのだ。ひとりの巨星のような人間がいるということは、そのまわりに巨星を巨星たらしめた人びとが存在しているということだ。巨星はひとりで巨星となることはできない。彼らがいてこそ、巨星は輝くことができるのだと、つくづくと思う。そういう場が新聞社や札幌などの地域にあった、あるということだ。うらやましい限りである。

 ひとりの知の輝きは、周辺の人びとがもつ知とのスパークによって生ずる。

 年一回発行される『逍遥通信』であるが、毎号「知のスパーク」を感じる内容となっている。

 前号と今号には、『外岡秀俊という新聞記者がいた』という本を書いている及川智洋というもと朝日新聞記者が書いている。その本はわたしも購入して読んだが、可もなく不可もなく、というものであった。及川が『逍遥通信』に寄せた文は、『逍遥通信』に関わっている人びとに対してなか挑戦的なテーマを書いている。

 前号の内容について、今号で沢田さんが批評を加えている。

 「高みに立ってこの世界についてあれこれ論評し、いかにも知者であるかのように振る舞う生き方は、その論評内容がいかに知的レベルの高いものであっても、とうてい受け入れられない。地に足をつけ困難な現実と戦い、よりよき社会を目ざす実践のなかから思想を紡ぎ出す者のことばを信じたい。」 

 まさに及川の文は、「高みに立って」あたりを睥睨するような文である。そこには、外岡にあった謙虚な姿勢が感じられない。そして、エビデンスのない思い込みが先に立って論を展開している。及川には現状に対する批判的精神が欠如しているようだ。

 沢田も、そして外岡も、「高校紛争」の時代を生きた。わたしも、である。そのなかで、獲得したのは、社会を見る際の視点、どの立場から見るか、ということだ。わたしの場合は、底辺からの視点、底辺から社会を見上げると社会全体が見える、という視点がたいせつであるということを高校時代に持ったということである。沢田の先に引用した文には、わたしと同じような視点があることを感じる。

 それ以外の文をよみ続けているが、「地に足をつけ」た文が並び、読み応えがある。 

2025年7月26日土曜日

【演劇】劇団東演「歌え!悲しみの深き淵より」

  劇団が配布したうすいパンフレットの、鵜山仁が書いた文の最初に「息子にとって、父親を語ることがなぜこんなに難しいのか」というものがあった。父親と息子の葛藤がテーマかと思ったが、見ていたら、それだけではなく、父親と娘、父と母、母と息子という家族の問題があり、また必然的に老人問題もあった。

 まず鵜山の文、わたしには父がいない(2歳の時に病死)ため、わたし自身が父親と葛藤した体験がまったくない。だから、わたしには父親を語ることはできない。

 この劇から知ることは、父親とは、みずからの来し方をもとに、家族を支配しようとする存在のようだ。そういう存在をわたしは知らない。

 わたしの母は、この劇の母親(マーガレット)と同じように、わたしを支配する、わたしに生き方を指南するといったことは一度もなかった。わたしがすることに対して、わたしに意見したことは一度もない。わたしは、だから自由に生きた。だからといって、まったく自由であったのかというとそうではない。何も言われなかったからか、東京の大学を卒業したあと、わたしは帰って来た。なぜか帰らなければならないという気持ちが、いつのまにか生じていたのである。

 母が自由に生きさせてくれたから、母と同じように、わたしは子どもたちの生き方に対して何も意見しない、それぞれが自由に生きていくことをそのまま認めていった。わたしが子どもに言ったことは、父より先に死ぬな、困ったことがあったら何とかするから言ってこい、このふたつだけであった。母の姿勢を、わたしも踏襲したのである。 

 この劇を見ていて、父と息子の葛藤ではなく、年老いた親に対して、子どもたちはどのように対応するのかということのほうに関心をもった。母親が亡くなり、父・トムが残った。ひとりになった父、病気がちな父をどうするか。息子は、結婚するために遠くへ去って行く。父に一緒に行こうと言うが、父は家族とともに住んでいた家に残るという。そうだろうと思う。

 息子であるハリーは、父と対決したことはなかった。娘のアリスは、ユダヤ人との結婚に反対され、家から出て行った。対決があった。対決がなかったから、ハリーは自分から遠くへ去っていく決断ができなかった。父が、わたしはひとりで生きていく、どこへでも行け、といわれてハリーは出て行くとこができたようだ。

 浜松演劇鑑賞会、わたしはいつも後方からみる。観劇している人びとの後ろ姿は、白髪が多い。この劇、観劇しているひとにとっては、きわめて身近なものであっただろう。年老いた親と子どもたち、家族それぞれの生き方が様々に交わって変化していく。そのなかで葛藤が生まれる。葛藤のなかで、人間は葛藤を抱えたまま生きて行くしかない。

 

2025年7月25日金曜日

ウソと居直りの政治文化

  「良識をもつ人なら・・・」という前提で、いろいろなことは判断される。そしてその判断は、大方の人が認めるところとなり、あえて問題とされることはなかった。

 なかった、と過去形で書いたが、その理由は、今やその良識が、政治の世界から消えていると思うからだ。

 兵庫県知事の問題にしても、公益通報者保護法に基づけば、是非は明らかであるのに、良識がそこでは働かない。

 また伊東市長の学歴詐称問題についても同様である。大学を卒業したかどうかは本人がいちばんよく知っている事柄であるのに、詐称したことが明らかになったら、卒業したと思っていると平気で言明する。伊東市長にも良識のカケラもない。

 政治に関わる者たちの、良識をもたない姿があちらこちらでみられるようになった。安芸高田市長時代の石丸某についても、良識は感じられない。

 良識が通じない政治家の姿が報じられるそれだけで、良識を持つ人びとにはストレスとなる。 しかし残念ながら良識を持たない人びとがSNSを利用して、良識のない政治家を支持したり擁護するからたまらない。それがニュースとなって新聞、ネットで話題になる。話題になると、良識を持たない政治家やその支持者は、注目されていると思ってさらに増長する。

 良識を持たないそうした人びとについては、批判すべきは批判し、あえて大きくとりあげずにうまい具合に黙殺すればよいと思う。良識を持たない政治家の所業が報じられると、そのもとに良識を持たない人びとが集い、一定の勢力となっていく。SNSがそうした人びとをつないでいく。

 良識をもたない政治家が権力を握って、自分自身と自分自身の取り巻きだけを優遇する。その嚆矢は、安倍晋三であると思う。「モリカケサクラ」という言葉に見られるように、国費を使って特定の人びとに利益を得させる政治とも言えない政治を行った安倍晋三、「モリカケサクラ」が明らかになっても居直り、その居直りの延長線上に公文書の改竄まで行わせる。そしてその渦中に巻き込まれた公務員が、自死するという悲劇的な事件もおきた。

 良識のない者が政治家となり、その者が本来持っていた悪性がみごとに表出する。そしてSNSを通じて、良識を持たない人びとが集まる。その数は、無視できない。

 参政党も、そうした者の集団であろう。根拠なき放言をまき散らかし、みずから発した言葉の責任をまったくとらずに平気でいる。平気でウソをつく。自分たちがウソつきなのに、新聞などを「ウソつき」だと吠える。

 まさにあの安倍晋三と同じである。安倍晋三も、平気でウソをついていた。そうしてもよいのだということを、首相がみずからやってのけたのである。

 日本の政治文化を壊した安倍晋三、その後に出現したのは 「ウソと居直りの政治文化」である。それが兵庫で、伊東市で、そして参議院議員選挙で明らかになっている。今後もそうした文化がはびこっていくのだろう。なぜなら、それが日本の政治文化の本流となっていくからである。

2025年7月21日月曜日

未来は開かれているか

  今日も暑い。暑い日が6月から続いている。しばらく雨も降らないそうだ。今年の米をはじめ、農作物は大丈夫だろうか。

 気候変動、米の不作、物価高、生活費の不足などなど、わたしたちの生きる環境は、わたしたちに優しくはない。これらの環境は、現在からつながる未来に不安をかき立てている。

 30年以上にわたり、わたしたちは経済が上向くことを経験しないできた。しかし諸外国は、経済状況がかんばしくなくても、人びとの経済生活は少しずつ上昇していった。それが積もり積もって、日本ははるか後方に置いてきぼりにされた。

 その現実が、わたしたちの目につくようになっている。外国人観光客が、日本人が高価すぎて満足に食べられないものを、「安い、安い」といって食べている。また高額の商品を、買いあさっている。日々の生活に余裕のないわたしたちは、そういう姿を見て、日本のじり貧を感じる。「先進国」日本、といわれていたのに、日本の現実が日本人のプライドを抑え込む。

 物価の上昇に追いつかなければということから、賃金は上がってきた。しかし、物価の上昇速度にはまったく追いつけない。

 日本の庶民には、不満、不安が渦巻いている。しかし、その解決策は見当たらない。解決策を訴える人びとはいる。だがその声は、たとえ正論であっても、正論であるが故に、庶民のなかには入っていかない。

 現在と、現在につながる未来は、開かれていない。未来なんかあるもんか、今を生きるだけで精一杯だ、そんな声が聞こえてくる。

 自民党・公明党政権による悪政は、庶民の未来を閉ざしてきた。利権につながる政策だけを展開してきた自民党・公明党政権は、庶民にもわずかばかりの利権を与えて、支持を得てきた。だがその手は、もはや効果はなくなった。

 中には、庶民に対して未来を開くような政策を提示する政党もある。だが開かれた未来は、そう簡単には来ない。現実をより良い方向に動かすには、手順があるからだ。

 しかし、そうした状況の中、策謀家が動き始める。「日本人ファースト」、「手取り収入を増やす」・・・・耳触りのよいことばが振りまかれる。

 庶民は、通常、政治には関心がない。それよりも芸能ニュースや下世話な話題が好きなのだ。でも、庶民を取り巻く環境には不安がいっぱいだ。一時的でも、不安を解消してくれそうな人に期待してしまう。こうすれば不安は解消されていくという手順を説明されても、そんなことは面倒くさく、手っ取り早く何とかしてくれそうな勢力に期待する。

 昨日とほとんど同じ日常を生きる庶民は、元来、保守的である。保守的な意識をもった人びとが、保守的ではない政治勢力を信用することはない。

 未来が閉ざされている、石川啄木のいう「時代閉塞」という社会状況のなかに、わたしたちはある。啄木は、こう記している。

 我々青年は誰しも其或時期に於て徴兵検査の為に非常な危惧(きぐ)を感じてゐる。又総ての青年の権利たる教育が其一部分ー富有なる父兄を有(も)つた一部分だけの特権となり、更にそれが無法なる試験制度の為に更に又約三分の一だけに限られてゐる事実や、国民の最大多数の食事を制限してゐる高率の租税の費途なども目撃してゐる。凡(およ)そ此等の極(ご)く普通な現象も、我々をして彼の強権に対する自由討究を始めしむる動機たる性質は有(も)つてゐるに違ひない。然り、寧ろ本来に於ては我々は已(すで)に業(すで)に其自由討究を始めてゐるべき筈なのである。にも拘(かかは)らず実際に於ては、幸か不幸か我々の理解はまだ其処まで進んでゐない。さうして其処には日本人特有の或論理が常に働いている。
 しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点が其処に存するのである。蓋し其論理は我々の父兄の手に在る間は其国家を保護し、発達さする最重要の武器なるに拘らず、一度我々青年の手に移されるに及んで、全く何人も予期しなかつた結論に到達してゐるのである。「国家は強大でなければならぬ。我々は夫(それ)を阻害すべき何等の理由も有(も)つていない。但し我々だけはそれにお手伝いするのは御免(ごめん)だ!」これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇に於て有ち得る愛国心の全体ではないか。さうして此結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、更に一層明晰になつてゐる。曰く、「国家は帝国主義で以て日に増し強大になつて行く。誠に結構な事だ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのといふ事にはお構ひなしに一生懸命儲けなければならぬ。国の為なんて考へる暇があるものか!
 彼の早くから我々の間に竄入(ざんにふ)してゐる哲学的虚無主義の如きも、亦此愛国心の一歩だけ進歩したものである事は言ふまでもない。それは一見彼の強権を敵としてゐるやうであるけれども、そうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らは実に一切の人間の活動を白眼を以て見るが如く、強権の存在に対しても亦全く没交渉なのであるーそれだけ絶望的なのである。(中略)
 斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである。それは我々の希望や乃至其他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起つて先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。・・全精神を明日の考察ー我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。】  (「時代閉塞の現状」、1910年8月)

 結論は、わかっている。「遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである」。

 だが、 そんなことは面倒くさい。耳触りの良い短い言葉、それが好きなのだ。こーだ、あーだという長い説明には付き合えないのである。

 かくて、人びとは、策謀家の手の内にはいる。時代閉塞下の人びとは、いつの時代でも、そうなるのだ。歴史がそれを証明している。

 

  

2025年7月20日日曜日

出ていけ!さもないと殺すぞ

  ユダヤ人国家・イスラエルがガザの住民を、リビア、インドネシア、エチオピアに移住させようとしているという、そのために、アメリカと話し合っているのだそうだ。

 ヒドイ国だ、イスラエルもアメリカも、である。

 イスラエルがガザだけでなく、西岸地区、周辺の国々(レバノン、シリア、イランなど)に軍事的な攻勢をかけている。イスラエルの武器は、アメリカが提供したものが多い。つまり、イスラエルはアメリカと共に、パレスチナ人はじめムスリムの人たちに、言うことを聞け、さもないと殺すぞ、という姿勢を一貫してとっている。 

 イスラエルの蛮行を、だれも止めようとしない。西欧諸国は、イスラエルがどのような悪事を働いても、何もしようとしない。日本政府もである。

 『週刊金曜日』で、早尾貴紀が厳しい論評を行っている。高名なユダヤ人政治学者ハンナ・アーレントに対して、「ユダヤ人がヨーロッパからパレスチナに集団で入植することを支持していた」ことを指摘し、アーレントも「疑いもなくシオニスト」であったことを指摘する。彼女が、イスラエルに移住したユダヤ人とパレスチナ人が「対等な共存」を語っているそうだが、「組織的入植者と先住民族の居住権を対等なものとして並べるという誤謬に気づいていないのか」、シオニストやイスラエルへの移住者は「ヨーロッパの入植者植民地主義の振る舞い」であることを強調している。

 イスラエルの蛮行を批判しない西欧諸国が「人権」を語るとき、それはヨーロッパやアメリカのキリスト教徒のそれであって、それ以外の者は「異質」な存在であり、殺されてもよい者なのだ。

 戦争ばかりしていて武器を発達させたヨーロッパは、大航海時代から、それらの武器をつかって非西欧の人たちを殺しまくった。またヨーロッパから移住していったアメリカ人も、インディアンを殺しまくり、労働力が不足するとアフリカから黒人を奴隷としてこきつかった。

 欧米の彼らは、基本的に独善的な集団なのだ。

 近代日本は「脱亜入欧」を唱えたが、わたしは、常に、日本人はアジア人としての自覚を持つべきだと言ってきた。独善的で野蛮な西欧の 猿まねをすべきではない。

 日本は、独自の外交を展開すべきであり、その際、連帯すべきは欧米ではなく、A・A・LA諸国でなければならない。 

2025年7月19日土曜日

他者としての国家(state)

  日本人が自国を語るとき、「わが国は・・・・」で始まる。この場合の日本人の意識は、countryとしての国である。countryとしての国は、 文化・歴史的な共同体を意味する場合が多く、地理的な領域や民族的な結びつきを重視し、国家というより国民的アイデンティティに焦点を当てた言葉。」であり、そこに権力的なニュアンスはない。countryとしての国は、国民から税を取り立て、ある時には国民を逮捕監禁することなどはない。

 しかし日本人は、stateとしての「国」(この場合の国を国家とする)を、countryとしての国と混同し、「国家」とみずからを一体的に捉えようとする。

 しかし「国家」とは、「政治的・法的に認められた主権国家」を意味し、以下の4要素で定義される。領土(地理的境界)、国民(一定の人口)、政府(統治機構)、主権(内政・外交における独立性)がそれである。「国家」とは自然に生まれるものではなく、つくられるものである。「国家」は政府(統治機構)が代表し、国民から税を取り立て、時には人身の自由を剥奪することもある。

 つまり、countryとしての国と国民との関係は自然的なものであり、国民が国と一体感をもつことはおかしくはない。

 しかし「国家」はそうではない。「国家」は、国民にとっては「他者」である。

 「国家」は統治機構であるから、その機構を構成する集団(国家公務員)がその仕事をしている状況では、「他者」であり、決して国民とは一体ではない。

 昨日、 福井中3殺害事件で逮捕・服役し、再審無罪判決を受けた前川彰司さんを冤罪事件に巻き込んだのは、統治機構の担い手である警察官、検察官、裁判官であり、彼らは「国家」の一員として無実の人間を犯人に仕立て上げたのである。彼らは、国民にとっては「他者」である。彼らは、「国家」の一員として権力を行使する存在なのである。

 権力を行使する「国家」は、国民にとっては「他者」であること、その認識を前提として現代国家は成りたっている。

 ところが、最近支持を集めている参政党が掲げている「憲法」は、近代国家・現代国家が備えているそうした認識を前提としていない。「国家」と国民は一体とされ、したがって、国家権力を制約する視点がなく、「国家」と相容れない認識を持つ国民は、排除されるものとなる。

 最初に記したように、日本人の多くは、「国」をcountryとしての国とstateとしての「国家」とを混同している。 「国家」が行うことを、安易に信じこんでしまう。「国家」を「他者」として認識していれば、「国家」が、冤罪事件に現れているように、間違った権力行使を行うこともあれば、無謀な戦争に国民を駆り立てることもあるという警戒感を持つことができる。

 「国家」は、国民との利益共同体ではないのである。「国家」は監視されなければならないし、警戒感を持って見つめられなければならない。近代以降の憲法は、そうした認識があるからこそ、「国家」の行動、権力行使を制限する条項をもつのである。

 しかし参政党のそれは、そうした条項をもたない。

 だが、本来持つべき認識を持たない日本人は、参政党の「憲法」に異和感を持つことはないのだろう。

 国家権力の暴走を止める認識を持たない参政党は、危険な政治集団であると思う。

 

  

2025年7月17日木曜日

傲慢

  アメリカ大統領トランプが、「アメリカファースト」だと彼が思う施策を打ちだしている。その施策が吉と出るか凶と出るか。おそらくいろいろな問題が起きて、アメリカは全体的に後退するどころか、世界からの信頼を失っていくことだろう。

 アメリカの落日はかなり前から指摘されてきたが、落日を早めることは確かであろう。

 さてトランプは、日本から輸入される自動車に25%の追加関税をかけるとした。しかしアメリカの自動車は、日本に無関税で輸入される。これでは対等平等ではない、

 トランプは、日本にはアメリカの自動車が走っていないという。多くはないが、しかし走ってはいる。JEEPであるが、その他は知らない。ただまれに、幅広い大きな車、あきらかにアメリカ車であることがわかる車を見ることもある。

 しかし日本の道路は、アメリカ車には合わない。狭いからだ。アメリカは、自国の車を売りたいなら、日本人にあうような、日本人が好むような車をつくるべきである。それをしないで、アメリカ車が日本で売れないと叫ぶのはお門違いと言うべきだ。

 まさに独善的。他国を自国に合わせようとする傲慢さ。

 しかし、そうした傲慢は、トランプだけではない。アメリカは建国当時から傲慢で独善的な国づくりをしてきた。インディアンを追い払い、虐殺し、労働力が足りないとして黒人を奴隷として酷使し、奴隷労働がなくなっても黒人を差別し続け、国土を広げるためにメキシコと戦争し、またスペインとも戦争してフィリピンやグアムなどを植民地とし、またハワイも併呑し・・・・・・他国や他民族をいっさい尊重しない姿勢でアメリカという国をつくってきた。

 また通商政策でも、トランプがやったように、高い輸入関税を一方的に課したりしてきた。

 だから、トランプが突出してアメリカファーストの施策をしているのではなく、多かれ少なかれ、アメリカが傲慢で独善的な施策を展開してきたことは、アメリカの歴史を少し調べるだけでわかるはずだ。 

 アメリカは、とにかく傲慢で独善的な国家である。

 

2025年7月15日火曜日

反知性の時代

  わたしはTwitter(X)は見ないし、やっていない。ユーチューブは見る。テレビを見ないので、それでテレビ局のニュースを見ているのだが、そのなかで、SNSをつかってデマや虚偽情報をながしまくっている政党や候補者がいるという。

 さすがに明らかなデマや虚偽情報に対しては、メディアやユーチューブの番組が、ファクトチェックを行ったり、批判的に取り扱ったりしている。

 かなり前から、知的なものに権威がなくなっている、という思いが強い。なんらかの発信をする場合、きちんと根拠を示して、正確に説明すること、それが以前は求められていた。

 しかしSNSが普及する中で、誰もが発信できるということから、裏付けのない、完全に間違った言説が、ネット空間に飛び交うようになった。そしてそうした言説をめぐって問題が起こるとアクセス数が増し、また他のところでも取り上げるようになり、よけいにその言説が飛びまわるようになる。

 そしてそうした言説が、一定の人びとの認識に採り入れられることが、様々な面で証明されるやいなや、それを有効に活用しようという輩がでてくる。

 価値ある情報、有益な情報とデマや虚偽情報は、今では「等価」になってしまっているようだ。そうなると、目立とうとする人は、一般の人びとが注目するようなインパクトあるデマや虚偽情報を流して目立とうとする。

 あらゆる分野で、学問的な知見を背景にした情報が存在しているが、あえてそうした情報に異を唱えて、何らかの衝撃を与える、そして人びとの耳目を集めていく。ずっと昔から、人びとはそうした情報が好きだ。アメリカ史に関する本を読んでいて、アメリカン人も虚偽ではあるがインパクトのある情報に躍らされた、という個所をみつけ、どこでもそうした傾向があることがわかった。

 今、それが大きな問題となっているのは、SNSの普及が、そのような傾向を促進しているからだ。

 職場を離れて人びとと会話する中で、学問的知見が多くの人の認識に届いていないことを実感している。そうしや状況に、デマや虚偽情報が飛び交い、人びとの心に何らかの影響を与えていく。

 それもひとつの時代の流れなのだろう。はたしてそうした傾向を是正できるか、わたしは否定的である。時代の流れに抗することは、極めて難しいことだからだ。

 

部活動という問題

  高校で、部活動を指導するために教員になったという人びとが一定数存在する。

 わたしは、教員の第一の仕事はきちんと授業をすることだと思っていたが、そうではない人びとが多かった。

 部活動の指導をしたいという人びとの担当教科は、体育と社会科(地歴科、公民科)であった。その人びとは、自分自身も高校で野球部の部活動に参加していて、推薦などで経済学部などに入り、社会科の教員免許を取得し、教員への途を歩む。

 高校では、毎年教育実習の大学生が来るのだが、社会科の場合、半数が部活動指導をしたいからという理由で教職課程をとっていた。

 長い間、高校教員をやってきて、そういう人たちが学校教育を破壊していると思ってきた。彼らは授業のための教材研究なんかしない。教科書会社が発行している穴埋め式の教材やプリントを印刷して、その穴埋めに答えを書かせるような安易な授業をしていた。

 今日の静岡県のローカルニュースを見ていたら、中学校でもそういう教員がいるという。中学校の部活動が地域に移管するということから、教員をやめてそうした子どもを指導する会社に転職したそうだ。

 それほど部活動をやりたい人は、この人のように、最初からそういうところに就職すべきだと思う。

 

2025年7月13日日曜日

外国人を排撃する傾向について On the tendency to exclude foreigners

  「日本人ファースト」ということばが、選挙で叫ばれている。そのことばが、人びとの気持ちをつかんでいるという報道もある。

 日本人の人口減少、それにともなう労働力不足を補うために、経団連など経営者団体は自民党・公明党政権にはたらきかけて、最初はずっと前に日本から移民としてでていった日系ブラジル人などを、労働力として導入した。それでも足りないので、実習生制度をつくり、アジア各地から青年たちを実習生として受け入れるようにした。その実習生たちは、アメリカの報告書では「奴隷労働」だと指摘されているように、ずっと続いている日本人の低賃金をさらに下回る超低賃金で働かせている。

 今では、日本の経済は、そうした外国人労働者の力を借りないと成りたたないまでになっている。 

 30年以上、日本の経営者は労働者の賃金をあげないようにしてきた。正規労働者の賃金をおさえながら、大量の非正規労働者を雇用する。全労働者に占める非正規労働者の比率は、40%弱、2000万人以上である。

 そして最近の物価高、まさに上昇の一途である。主食である米も従来の二倍以上の価格となっている。その理由は、夏の酷暑で、生産量が減っていることであるが、しかしこれは日本人の家庭に大打撃となっている。生活困難の家庭が増えている。

 長年、政治資金を大量に献上してくれる財界の意向を受けた自民党・公明党政権により、人びとはまさに虐げられてきたのである。

 そういう状況の中、海外からの観光客が大量に入ってきて、日本は「安い、安い」といって、ふつうの日本人が買うことのできないものを大量に買い、また高額なホテルに宿泊し、高額のものを食べる、そうした光景がテレビで放映される。その背景には、日本だけが賃金を抑えられる一方、外国では継続的に賃金が上昇し、また円安もあいまって、外国人にとって日本観光は、とてもリーズナブルなものになっているのである。

 日本の人びとは、そういう光景をみて、しばらく前は「先進国」の国民として誇りを持って生きていたのに、その誇りがすでに虚構となっていることに気づくようになった。

 だとするならば、そういう状態を改善するためには、財界と手をつないで悪政を展開してきた自民党・公明党政権に対して怒りをもたなければならないのに、そうではなく、外国人に敵意を示すようになってきているのである。

 「日本人ファースト」を叫ぶ参政党など排外主義的な主張をする政党が増えているが、排外主義を叫んでも、日本人の生活はよくならないことを知らなければならない。別に、日本政府は、外国人優遇策をとっているわけではない。他方、日本政府は、アメリカ(軍)関係者に対しては、世界的にも稀な優遇策をとっているが、排外主義を叫ぶ者たちは、それについてまったく指摘していない。

 今の日本人の生活の苦境をもたらしたのは誰なのかを、冷静な目で見つめることが必要なのだ。「日本人ファースト」を叫んでも、日本人の生活が良くなるわけではない。叫ばれている排外主義は、真の原因を隠す目くらましなのである。

 The phrase “Japanese First” is being shouted in elections. Some reports indicate that these words are winning the hearts and minds of the people.

 In order to compensate for the decline in the Japanese population and the resulting labor shortage, the Keidanren and other business groups approached the LDP and New Komeito administrations and initially introduced Japanese-Brazilians and other immigrants who had left Japan long ago to join the labor force. However, this was not enough, so an apprenticeship system was created, and young people from all over Asia were accepted as trainees. These trainees are forced to work for extremely low wages that are even lower than the low wages of the Japanese, which have continued for a long time, as the U.S. report points out as "slave labor.

 Today, Japan's economy has reached the point where it cannot survive without the help of such foreign workers. 

 For more than 30 years, Japanese management has been trying to keep workers' wages down. They employ large numbers of non-regular workers while suppressing the wages of regular workers. The ratio of non-regular workers to all workers is just under 40%, or more than 20 million people.

 And recently, prices of commodities are on the rise. The price of rice, a staple food, has more than doubled. The reason for this is that the summer's extreme heat has reduced production, but this has had a major impact on Japanese households. More and more families are finding it difficult to make ends meet.

 For many years, people have indeed been oppressed by the LDP and Komeito governments, which have been at the behest of the business world, which donates large amounts of political funds to the LDP and Komeito.

 Under such circumstances, foreign tourists come to Japan in large numbers, saying that Japan is “cheap, cheap, cheap,” and buy a lot of things that ordinary Japanese cannot afford, stay in expensive hotels, and eat expensive food. The reason for this is that while wages in Japan alone are kept low, wages in other countries continue to rise, and combined with the weak yen, tourism in Japan has become very affordable for foreigners.

 Japanese people have come to realize that the pride they used to take in their lives as citizens of a “developed” country some time ago has become a fiction.

 If this is the case, then in order to improve such a state of affairs, they must be outraged at the LDP and Komeito administrations that have been working hand in hand with the business world to develop a maladministration, but instead, they are showing hostility toward foreigners.

 Although more and more political parties are making xenophobic claims, such as the political party Sansei-tou, which cries “Japanese First,” we must know that cries of xenophobia will not improve the lives of the Japanese people. The Japanese government does not have any preferential treatment for foreigners. On the other hand, the Japanese government provides preferential treatment to US (military) personnel, which is rare in the world, but those who cry xenophobia do not point this out at all.

 We need to take a sober look at who brought about the current predicament in the lives of the Japanese people.Cries of “Japanese First” do not make Japanese people's lives better. The chauvinism that is being shouted is a distraction to hide the true cause.

Translated with DeepL.com (free version) I corrected the inaccuracies.

2025年7月12日土曜日

知ることの喜び

  8月号の『地平』と『世界』を読みくらべると、今号は『世界』のほうが刺激的な文が並んでいた。

 ひとつは、国際法学者の最上敏樹による「もはや時間はない アウシュビッツ解放80周年に」である。きわめて説得力あるもので、イスラエルによるガザやイラン襲撃に関する新たな視点を提供してくれ、たいへん参考になった。

 もうひとつは、横山百合子の「吉原と日本人 性の尊厳にたどり着くまで」である。東京藝大美術館が「大吉原展」という展覧会が行われたが、わたしはそれは如何なものかと訝しい気持ちを持っていた。

 学生時代東京にいたが、吉原がどこにあるのか知ろうともしなかったが、そこは性の売買が行われていた場所であることは知っていたし、そこを舞台とした書物はいくつかは読んできた。

 わたしは性の売買に関わったことは一度もなく、そうしたところに足を運んだこともない。やはりそういう世界に入っていく女性がいるということは、その背後に貧困という社会構造があり、決して肯定すべきものではないという考えを持っていた。

 ところが、「大吉原展」が開催され、はたしてそれをどう捉えたら良いのかわからなかった。吉原という「悪場所」にも「文化」があったことを肯定的に捉えるから、そうした展覧会が行われたのだろう。

 だが横山の文は、近世の18世紀、吉原の「遊女屋」の経営者が危機を迎えたことから、 彼らは「由緒」を語りだし、また幕府の覚えをよくしようと「文化」を生み出し、ほかのそうした場所との違いを際立たせるようになり、みずからの経営を安定させようと図った、ということを、歴史学的に証明しているのである。

 横山は、「吉原の「文化」化と呼ぶとすれば、それは、確実に、性売買の場のおぞましい現実を不可視化し、性の尊厳を軽んじる精神を増幅してきた」と指摘する。また「・・豪華な衣裳や浮世絵などを含む「文化」は、どのように美しく芸術的であったとしても、郭での苛酷な現実のなかで。遊女支配の装置としても機能していく」「身代金、仕置、そして遊女たちの「文化」によるこころの支配は、遊女たちをより苛酷な環境に追い込み、それが吉原自身を動揺させていた」とも。

 国立歴史民俗博物館の展示図録、『性差の日本史』が足元にあるが、しっかりと読まなければならないと思った。

 また胡桃澤伸の、映画『黒川の女たち』に関する「わたしたちの新しい根拠」の指摘も、重要だと受けとめた。

 活字からいろいろなことを学ぶことをしてきたわたしは、『世界』8月号で、また多くを知ることができた。それは喜びでもある。

 

2025年7月10日木曜日

「政界地獄耳」

  日刊スポーツのコラム「政界地獄耳」の切れ味は鋭い。

 今日は、8日のコラム「 「○○ファースト」は施政者の分断のキーワード これが参院選の重大な争点なのか」を是非読んで欲しいと思う。

  もうひとつ、「公約で「啓発」? 国民をミスリードする各党選挙公約」も鋭い指摘である。 参政党の公約は、恐ろしいの一語である。

2025年7月9日水曜日

悪政は、悪感情をつくりだす Bad government creates bad feelings.

今日の『東京新聞』社説は、「’25 参院選 外国人政策 排外主義台頭を危ぶむ」である。 
「参院選では外国人に関する規制強化を公約に掲げる政党が多い。しかし、規制の根拠は曖昧だ。生活苦や閉塞(へいそく)感を外国人たたきで解消しようとする排外主義の台頭に危うさを感じる。扇動にのみ込まれず、冷静に選択したい。」として、巷に流布されているデマに対する事実を提示し、「トランプ米政権や欧州での極右台頭など排外主義は世界的な病弊でもある。人に順位をつける発想自体が危うい。多様性に基づく共生社会構築にこそ力を注ぎたい。」ということばで結んでいる。

正しい指摘である。「人口減が進む日本社会には、外国人との共生が不可避の課題であり、日本語教育の機会拡大など基盤づくりこそ必要ではないか。」ということも正しい。まさに日本では、外国人労働力に頼らなければ動かないという状態が、かなり前から存在している。

日本人は長い間、みずからが住む地域で外国人を見ることはほとんどなかった。もちろん、在日コリアンはいた。外国籍ではあるが、まさに日本人と同様の生活をしているが故に、そこに違和感を抱くことはなかった。

さて、労働力不足はもうかなり前からである。日本の支配層は、まずかつて中南米などに移民としてでていった日本人の子孫らを労働力として受け入れはじめ、日系ブラジル人などが低賃金労働力として入ってきた。当初、会社の寮などに住んでいた彼らは、ふつうのアパートに住み始め、さらに日本人が住んでいる住宅地に家を建てて住むようになった。

そういう変化があっても、日本人は、外国人が住むようになった、というだけの感覚だった。

その後、技能実習生として中国などアジア各地からたくさんの若者が入ってきた。技能実習生を受け入れる企業は大企業ばかりではなく、中小企業も多いので、中小企業はふつうのアパートを借りて、そこを彼らの住まいとして提供した。日本人は、外国人が増えてきたというだけで、特別の感情を持つことはなかった。

すでに多くの外国人労働者が日本で働き、彼らの存在は日常的になったいたのに、最近になって参政党などの「排外主義的な」訴えに、なぜ日本人は耳を傾けるようになったのだろうか。

かつてJAPAN as No.1 といわれ、また「先進国」だといわれていた日本。しかし今、「先進国」の人びとだけではなく、「中進国」「後進国」だといわれていた国々からも観光客として日本に入ってきて、日本の物価は安いといって、いろいろなものを買いあさる。しかし30年以上賃金の上昇がなかった日本人にとっては、外国人観光客が買うものを「安い」とはとても思えない。また東京など大都市のホテルの宿泊料も値上がりして、ふつうの日本人は泊まれなくなっているのに、外国人観光客は「高くありません」などといって泊まっている。

ニュースからは、東京都心のマンションを購入するのは外国人が多い、中国人が北海道の土地を買って、不法建築を建てている・・・そういう情報がながれてくる。

そういう状況の中で、日本人は外国人を見る。

良くなる気配のない自分たちの生活。それに引き換え、たくさんの外国人観光客が、日本は「安い、安い」といってやってくる。

そうした対照的な現状のなかに、ふつうの日本人はいる。「何かおかしい」という気分。「これでよいのか」という気持ち。「何かイヤな感じ」という感情。

そうした気分や気持ち、感情をもつ日本人に、特定の政治勢力が排外主義的な主張をぶつけてくる。

排外主義は否定されるべきものである。それは当然のことである。しかし、モヤモヤとして気分をもった人びとに、排外主義はいけないという主張はすんなり入っていくだろうか。

モヤモヤとして気分の原因(もちろんそれは、自民党・公明党政権による悪政である)を示し、こうしたらモヤモヤがなくなる、という道筋をつけなければ、排外主義が力を得てしまうのではないだろうか。

長く続いた悪政は、否定されなければならない感情や気分をつくりだすのである。 

 Today's editorial in the newspaper Tokyo Shimbun is titled, "'25 House of Councillors Election: Foreigner Policy, Danger of Rise of Exclusionism. In the Upper House election, many political parties have pledged to tighten restrictions on foreigners. However, the grounds for such restrictions are vague. I am concerned about the rise of xenophobia, which is an attempt to eliminate the hardships of life and a sense of entrapment by beating up on foreigners. I want to make my choice calmly and not be taken in by the agitation. He then stated, "Exclusivism, such as the Trump administration and the rise of the far-right in Europe, is a global malady. The very idea of ranking people is dangerous. We must focus our efforts on building a symbiotic society based on diversity. The article concludes with the words, "We must focus our efforts on building a symbiotic society based on diversity.

This is a correct point. In a Japanese society with a declining population, coexistence with foreigners is an inevitable issue, and it is necessary to build a foundation, such as expanding opportunities for Japanese-language education. This is also correct. Japan has long been in a state where it cannot operate without relying on foreign labor.

For a long time, Japanese people rarely saw foreigners in their own neighborhoods. Of course, there were Korean residents in Japan. Although they are foreign nationals, they live in the same way as Japanese people, so there is no sense of discomfort in this situation.


The labor shortage began long ago. The Japanese ruling class first began to accept the descendants of Japanese immigrants to Latin America and other countries as labor force, and Brazilians of Japanese descent and others entered the country as low-wage workers. At first, they lived in company dormitories, but then they began to live in ordinary apartments and even built houses in residential areas where Japanese people lived.

Even with these changes, Japanese people felt that foreigners had come to live there.

Later, many young people from China and other parts of Asia came into the country as technical intern trainees. Not only large companies but also many small and medium-sized companies accepted technical intern trainees, so the small and medium-sized companies rented ordinary apartments and offered them as their residences. The Japanese did not have any special feelings toward the increasing number of foreigners.

Japan used to be called “Japan as No.1” and a “developed country”. Now, however, not only people from “developed” countries but also tourists from “middle or backward” countries come to Japan and buy all kinds of things, claiming that prices in Japan are cheap. 

However, Japanese people, whose wages have not increased for more than 30 years, do not consider what foreign tourists buy to be cheap. Also, hotel rates in Tokyo and other major cities have risen so much that ordinary Japanese people cannot afford to stay there, but foreign tourists are staying there, claiming that it is not expensive.

The news reports that many foreigners are buying condominiums in central Tokyo, that Chinese are buying land in Hokkaido and constructing illegal buildings, and so on.

Under such circumstances, Japanese people look at foreigners.

Their own lives show no sign of getting better. On the other hand, many foreign tourists come to Japan, saying that Japan is "cheap, cheap."

Ordinary Japanese people are in such contrasting situations. They feel that something is wrong. A feeling of "Is this right? Something is not right.

To Japanese people who have such feelings, emotions, and sentiments, certain political forces will attack them with xenophobic arguments.

Exclusivism is something to be denied. It is natural. However, will the argument that xenophobia is wrong be easily accepted by those who are in a confused mood?

Unless we can show the cause of the misty mood (which is, of course, the maladministration of the LDP and Kōmeitō) and provide a roadmap for how the misty mood can be eliminated, we may find that exclusionism will gain strength.

A long-lasting maladministration creates feelings and moods that must be denied.
 

Translated with DeepL.com (free version)

 

  

議員の資質

  国政選挙など、最近の選挙の特徴は、「どうしてこんな人物が議員になるのか」という人が増えている。

 自由民主党は、政治の世界についてほとんど知らず、関与したこともない、たとえばもとタレントなどを、票をたくさんとるからということで、立候補させ当選させている。もうずっと前から、自由民主党はやっている。

 わたしは芸能界に対してはなんらの関心をもっていないのだが、yahooニュースにアクセスすると、「トップ」の「主要」という頁が表示される。「主要」だからといって、文字通りのニュースが掲載されているかと思えば、芸能関係のニュースが並ぶ。だからわたしは、すぐに「国内」、「国際」をクリックするのだが、芸能関係のニュースが「主要」とされているということは、多くの人は芸能関係のニュースに関心をもっているということが予想される。だから自由民主党は、タレントを候補させるのだろう。 

 しかし、こんな人が、とおもうのは、タレント出身の議員だけではない。自由民主党の参議院議員に鶴保庸介という人物がいる。東京大学を卒業し、すぐに小沢一郎の議員秘書となり、その後政治家になった。要するに、社会に出たことがない人物だ。

 彼のことを調べると様々な不祥事が出てくる。公職選挙法違反、道路交通法違反、政治献金問題、政治資金でのキャバクラ、ゴルフ代支出、女性妊娠問題・・・・・・・・

 そしてつい最近では、今年7月 「運のいいことに能登で地震があった」と講演会で発言。能登半島は大きな地震に見舞われ、さらに豪雨にあい、たいへんな状況にあり、また大地震からの復興も遅れている。

 自由民主党議員の典型だという気がする。

 

 One of the characteristics of recent elections, including national elections, is that more and more people are asking "How can such a person become a member of the Diet?

 The LDP has been running and electing people who know little about the world of politics and have never been involved in it, such as former TV personalities, because they will get a lot of votes. The LDP has been doing this for a long time.

 I have no interest in the entertainment industry, but when I access yahoo news, I see the “Major” page in the “Top” section. When I access yahoo news, I see the “Main” page in the “Top” section, which I assume contains literal news, but instead I see a list of news related to the entertainment industry. I immediately clicked on “Domestic” and “International,” but the fact that entertainment-related news is listed as “Main” suggests that many people are interested in entertainment-related news. That is probably why the Liberal Democratic Party is nominating a celebrity as a candidate. 

 However, it is not only the members of the House of Councilors who are celebrities. One of the Liberal Democratic Party's House of Councilors members is Yosuke Tsuruho. After graduating from Tokyo University, he immediately became a parliamentary secretary for Ichiro Ozawa and later became a politician. In short, he has never been a member of society.

 When we look into him, we find a variety of scandals. Violation of the Public Offices Election Law, violation of the Road Traffic Law, political donation issues, cabaret clubs with political funds, golfing expenses, and female pregnancy issues. ・・・・・・・・

 And just recently, in July of this year, he said at a lecture, "As luck would have it, there was an earthquake in Noto. The Noto Peninsula has been hit hard by a major earthquake and torrential rains, and the recovery from the earthquake has been slow.

 I feel that this is typical of Liberal Democratic Party members.

Translated with DeepL.com (free version)

 

2025年7月8日火曜日

猛暑と日照り

  昨夏の7月、当地方は40日間ほど雨が降らなかった。雨が降らないということは、野菜にとっては致命的である。如露での水遣りでは、まったく足らない。土の表面を湿らせるだけである。雨が降らないと、水分は大地にしみ込んでいかない。さらに強い太陽光、それが野菜に当たり続ける。だから、昨夏の野菜作りはまったくうまくいかなかった。

 昨夏はいろいろな野菜、オクラもよく出来なかったので、今年、オクラは発芽温度が28度という品種に変えた。さすがに毎日たくさんできている。これからは、品種を亜熱帯のものにしていく必要があると思うようになった。 

 わたしはほとんど毎日夕方、畑に出ている。多くの時間を除草に割いている。気温は30度以上のときもあるが、風が吹いていれば何とか作業はできる。如露での水遣りでは「焼け石に水」ではあるが、それでもキュウリなどに水遣りをする。

 昨年同様、今年も猛暑で、さらに雨が降らないように思える。ということは、不作であるということだ。また米づくりにも影響がでるだろう。

 高温状態が続いているが、多くの人たちはエアコンが効いている部屋で涼んでいるのだろうが、農作業をしていると、気候変動を肌で感じる。

 2023年から猛暑が続いている。2023年は、夕方であっても、30分は畑にいられなかった、めまいがしはじめて、すぐに帰ったことが何度もあった。2022年までの農作業は牧歌的だったと思えるくらいだ。昨年、2024年は高温だけではなく少雨、そして今年もまた高温と少雨が続くことだろう。

 農業従事者の減少の理由には、農業所得だけでは生活できないという貧困な農業政策、そして高齢化が挙げられているが、この酷暑も入るだろう。気温が40度近い炎天下での農作業は、厳しいと言わざるをえない。

 気候変動に対して何らかの対応策をとっていかないと、たいへんなことになると思う。 

不安

  わたしたちの周辺に、外国人の姿が増えている。近所にも、中国系の労働者、フィリピン人家族、ベトナム人労働者、ブラジル人と結婚した日本人一家、家屋の解体に従事していた外国人・・・・・その数は増えるばかりである。あるいは、京都などに行くと、たくさんの外国人観光客の姿を見る。観光地では、外国人観光客を見ることはずっと前からあった。しかし今ほど多くはなかった。

 長年生活してくるなかで、これほど多くの外国人を見ることはなかった。ただ見るだけではなく、外国人が家族で生活する姿は、今までなかったことだ。わたしが住んでいる所でも、アパートの所有者や管理会社が何もしないので、ごみ出しのルールを、新しい外国人が来る度に説明しなければならない事態となっている。

 外国人との接点が、日常生活で増えてくる中で、当然摩擦も起こる。

 今日の『中日新聞』記事には、排外主義的な政策を掲げる参政党の支持者が増えていることを指摘するものがあった。「日本人ファースト」で急伸する参政党、熱の源は 排外主義懸念の声「外国人優遇の事実はない」がそれである。

 なぜ日本に外国人が増えているか。

 その理由は、自民党・公明党政権やそれを支える日本の経済界が、こぞって日本人の賃金上昇をストップしたことにある。その過程で、彼らは日本の労働運動を骨抜きにし、経済界による低賃金に抵抗する力を奪ってきた。経済界の最大の関心事は、低賃金を維持し続けること、それによって低価格の物品を海外に輸出して儲けることであった。彼らは先の見通しをもたず、日本人の生活については関心を持たなかった。

 そのためにふつうの日本人が、平均的な生活(結婚して、子どもをつくり、自宅を建設し・・・)を送ることができなくなった。これが30年以上続いていて、結果として、日本における劇的な人口減少となり(低賃金のため、結婚できない!)、また世界的に見て「安い」日本が生みだされたのである。その人口減少を埋めるために、つまり足りない労働者を補うために、低賃金でも働いてくれる外国人を導入したのである。それはもちろん、経済界の要望でもあった。

 残念ながら、政権を握ってきた自由民主党、宗教政党である公明党は、議員自体が「今、自分がどれだけカネを集め、良い生活ができるか」だけを追い求め、どういう日本にするのかなどという政策については、ほとんど関心を持たなかった。彼ら議員は、自分の政治家としての地位を維持するために、国民から集めた税金を支持者たちにばらまき、他方、経済界から提供される政治献金をひたすら集めて支持者に配ってきた。

 したがって、現在、外国人が増えてきた原因をつくりだしたのは、自由民主党、公明党、そして経済界なのだ。国民生活に関心を持たない彼ら政治家は、行き当たりばったりの国内政策と、宗主国アメリカの言うがままの外交政策だけで権力を維持し続けた。彼らには考えることはない。アメリカや経済界の言うがままの政策を行い、カネをばらまいていればみずからの地位を維持できてきた。

 経済界や自由民主党、公明党の政治家たちによる低賃金政策が、外国人労働者や外国人観光客を増やし、日本のふつうの住民のなかに不安感を生みだしているのである。新聞が、「外国人優遇」はしていないと報じても、増え続ける外国人と接点を持つ人びとが、「これでよいのだろうか」という疑問をもつのはあたりまえのことだろう。 

 政治家は、そうした日本のふつうの人びとの気持ちを汲みとらなければならない。「外国人差別はするな」というあるべき理念を協調するのは正しい、しかしそれだけでは、不安は増すばかりである。

 

 The number of foreigners in our neighborhood is increasing. In our neighborhood, there are Chinese workers, Filipino families, Vietnamese workers, a Japanese family married to a Brazilian, and foreigners engaged in house demolition (・・・・・), and the number is only increasing. Or, if you go to Kyoto, for example, you will see many foreign tourists. It has been a long time since I have seen foreign tourists in tourist areas. However, there were not as many as there are now.

 In all the years I have lived in Japan, I have never seen so many foreigners. Not only have I seen them, but I have never seen foreigners living with their families. Even where I live, I have to explain the garbage disposal rules every time a new foreigner comes to my apartment because the owner or management company does nothing.

 As contact with foreigners increases in our daily lives, friction naturally arises.

 An article in today's “Chunichi Shimbun(newspaper)” pointed out the increasing number of supporters of the  political party Sanseitou with exclusionist policies. The source of the enthusiasm for the “Nihonjin(Japanese) First” suffrage party, which is growing rapidly, is the concern about exclusionism.

 Why is the number of foreigners in Japan increasing?

 The reason is that the LDP and Komeito administrations and the Japanese business community that supports them have all but stopped wage increases for Japanese nationals. In the process, they have undermined the Japanese labor movement and deprived it of the ability to resist low wages by the business community. The main concern of the business community has been to maintain low wages so that they can make money by exporting low-priced goods overseas. They had no vision for the future and did not care about the lives of Japanese people.

 This made it impossible for the average Japanese person to lead an average life (get married, have children, build a home, etc.). This has been going on for more than 30 years, resulting in a dramatic population decline in Japan (low wages, no marriage!). ) and the creation of a Japan that is “cheap” by global standards. To make up for the population decline, and thus the shortage of workers, foreigners were introduced who were willing to work for low wages. This was, of course, also the desire of the business community.

 Unfortunately, the Liberal Democratic Party (LDP) and the  Komeito of  religious party, have been in power, and the Diet members themselves have pursued only “how much money I can raise and how good a life I can lead now,” and have paid little attention to policies such as what kind of Japan they want to make. In order to maintain their political office, these lawmakers have been distributing tax money collected from the public to their supporters, and on the other hand, they have been collecting political donations from the business community and distributing them to their supporters.

 Thus, it is the Liberal Democratic Party, the  Komeito, and the business community that have been responsible for the current increase in the number of foreigners. These politicians, who have no interest in the lives of the people, have maintained their power only through haphazard domestic policies and foreign policies at the behest of their suzerain nation, the United States. They do not think. They have been able to maintain their positions by simply following the policies of the U.S. and the business community and throwing money around.

 The low-wage policies of the business community and politicians of the Liberal Democratic Party and  Komeito have led to an increase in foreign workers and tourists, creating a sense of insecurity among ordinary Japanese residents. Even if the newspapers report that there is no “preferential treatment” for foreigners, it is natural that those who have contact with the ever-increasing number of foreigners would wonder if this is the right thing to do.

Politicians must take into account the feelings of ordinary Japanese people. It is right to support the ideal principle of “no discrimination against foreigners,” but this alone will only increase anxiety.

Translated with DeepL.com (free version) The inconvenient parts of the translation by Deepl have been corrected.

2025年7月7日月曜日

教育を破壊する者たち

  昨日・日曜日の『東京新聞』、いつも一日遅れで届くのだが、ひどい!と思ったのは、「こちら特報部」の記事。テーマは「揺らぐ大学の自治」である。

 学校、教育問題が報じられるとき、いつも思うのは文科省は「悪業」しかしない、ということである。今までも学校改革や教育改革が進められてきたが、その改革はほとんどが「改悪」であったということだ。日本の教育は、強い中央集権的な統制によって運営されている。文科省から、自治体の教育委員会、学校長を通じて、政権の意向が伝達され、学校現場に貫徹される。

 単独の大学や学校が何らかの改革をしようとする場合でも、文科省の許可が必要だということだ。ある大学が新しい学部をつくろうとする場合も、何度も何度も文科省に足を運び、文科省の許容範囲の中でやらないとまったく認められない。

 逆に、文科省の伝達を実行しないと様々な締め付けにあう。

 『東京新聞』の記事は、東京外国語大学が、今1コマ90分である講義を、105分にする、という決定に対して、教員や学生が異を唱えているというものだ。その決定は学長とその周辺でなされ、教員や学生への発表は、最終決定の期限直前であったという。

 わたしが学生の頃、「大学の自治」は、大学の教員や学生を含めた全構成員によってなされるもの、という共通理解があった。しかしいま、その共通理解は消し去られ、なき物にされようとしている。 

 その背景には、「大学を経営体、教職員を従業員、学生を顧客と捉える風潮が」強まり、学問研究機関としての位置・役割に対する認識がなくなっている。学校までも、利益を追究する経営組織、いわば株式会社のように、文科省、支配層は位置づけようとしている。

 そのような考え方は、地方自治の分野でもなされていて、自治体は経営体、自治体職員は従業員、住民は顧客とされ、そこに住民自治が入り込めないようにしている。

 あらゆる分野で、「自治」が足蹴にされてきているのである。

 すなわち、大学などの教育機関での学生、生徒、自治体での住民は、主体性をもたない統治の対象と位置づけられているのだ。

 そうであってはいけない。

 むかし、学生や住民は、自治の担い手として動いていた。単なる「顧客」でよいのか、ということでもある。

 

2025年7月6日日曜日

トランプのこと

  『地平』8月号の田中優子さんの文中に、「トランプは戦争が嫌いなんです」と言った評論家と大手新聞社の記者の話が出ている。

 トランプが当選すると、ウクライナでの戦争は終わるだろうと楽観的な言い方が出回った。田中さんが言うように、本当にトランプが戦争を好まないなら「ではなぜトランプはイスラエルの戦争に肩入れしているのか」。

 最近、アメリカの歴史を調べているが、トランプでなくとも、アメリカの支配者たちは、好きか嫌いかはともかく、世界各地の戦争に何らかのかたちで参加し、また引き起こしてきた。第二次世界大戦前においても、アメリカ・メキシコ戦争、米西戦争、ハワイ併合など、領土拡張目的で、ひどいことをしてきた。トランプが戦争を好きであろうと嫌いであろうと、アメリカは戦争をする国であるということだ。何のためか。何らかの「利益」を見込むことができれば、アメリカは戦争をするのだ。

 田中さんの「アメリカは誰が大統領になろうと、結局、利益追求だけに関心がある」という指摘は正しい。

 アメリカの歴史学者、ジョン・ダワーは『アメリカの暴力の世紀』(岩波書店)で、トランプのことをこう書いている。

 「世界で最も強力な国家を指導するにふさわしい知性も気質も備えていない」

「読書をしない」

「物事の詳細を知ろうとする忍耐力を全くもっていないし、物事の正確さや真実を尊重することもない」

「注意力は薄弱」

「英語の表現はとりわけ粗野である」

「歴史を理解する能力に欠ける」

「歴史に対する興味もない」

「人種主義は露骨で、女性を侮蔑することにも喜びを感じている」

「他人と共感するということができない」

「科学と知的作業をバカにし」

「「社会正義」というのは、彼の政治用語においては軽蔑すべき言葉なのである。「国際主義」も同じように扱われている」

 アメリカ大統領の本質は、アメリカの利益をひたすら追求する者たちであり、トランプも同じ。ただ、ダワーが指摘するように、その中でも劣化した資質をもった人物である。

 

  In the August issue of Horizon(Chihei), Yuko Tanaka mentions a pundit and a reporter from a major newspaper who said, "Trump hates war.

 An optimistic saying circulated that if Trump is elected, the war in Ukraine will end. If Trump really doesn't like war, as Tanaka says, "then why is Trump standing by Israel's war?

 Recently, I have been researching the history of the U.S. and have found that, whether they like it or not, U.S. rulers have participated in or caused wars in various parts of the world in one form or another. Even before World War II, the U.S. did terrible things to expand its territory, including the Mexican-American War, the Spanish-American War, and the annexation of Hawaii. Whether Trump likes war or not, the U.S. is a war-mongering nation. For what purpose? If there is some “benefit” to be expected, the US will go to war.

 Ms. Tanaka is correct in pointing out that the U.S. is ultimately only interested in the pursuit of profit, regardless of who is elected president.

 In “America's Century of Violence,” American historian John Dower writes of Trump: "He will lead the most powerful nation in the world.

 He has neither the intelligence nor the temperament to lead the world's most powerful nation."

He does not read."

He has “no patience for the details of things, no respect for the accuracy or truth of things.”


Translated with DeepL.com (free version)

2025年7月5日土曜日

歳をとるということ

  今日は、香典を持って通夜に行った。90歳の男性だった。ガスの販売や建築関係の仕事をしていた人であった。彼との会話でもっとも印象に残っているのは、家の外壁の塗装についてだった。素人は、業者に塗装を依頼しても、ペンキの質なんか全くわからない。だから塗装屋が、カネを儲けるのは簡単なんだ・・・・

 わたしがそれを聞いたのは20代の頃だっただろうか。わたしが子どもから大人になっていく過程の中で関わりのあった人びとが、ひとり、またひとりと旅立っていく。知っている人がこの世よりあの世のほうが多くなる、それが歳をとるということだ。

 子どもの頃、家に帰ってくるとランドセルを家において、すぐに戸外へ。近くの寺には近所の子どもが集まっている。年の差なんかまったく考えずに遊ぶ。その寺院にはたくさんの松の木があった。子どもたちは木登りをする。わたしはすべての松にのぼったことがある。しかしその松は、今やほとんど残っていない。寺院の周囲には田んぼがひろがっていた。冬、稲刈りの終わった田んぼには藁が捨てられていた。藁のうえで、相撲をしたりして遊んだ。しかし今、田んぼも埋め立てられてしまっている。またわが家の裏には父の実家があった。農家でもあったから、敷地は広かった。しかし、父の兄が継いだその家には、跡継ぎがいなくなった。今や、その敷地には5軒の新しい家が建っている。わが家とその家の境にあった高いホソバ(槇の垣根)は抜き取られ、モダンな塀がつくられた。

 歳をとるということは、生きてくる過程の中で見てきた風景が失われるということだ。

 昨年2月母が亡くなり、遺品などの整理を続けている。そのなかにたくさんの写真があった。残された写真を一枚一枚見ながら、むかしのことを思い出す。むかしのことを、静かに偲ぶこと、それも歳をとったということ、である。

 自分自身が成長するなかで出遭った人びと、自分自身を取り巻いていた環境、それらがなくなっていくこと、それが歳をとるということである。

 

2025年7月4日金曜日

衰退する日本 Japan in Decline

  猛暑の下、大阪の人工島・夢洲で大阪万国博が開催されている。夢洲は、ゴミを埋め立てて出来た島である。当初から、なぜこんなところで、という声があった。

 大阪維新の会所属の大阪府、大阪市の首長たちは、その夢洲にカジノを開設しようとしていた。しかしカジノ建設のために、公金をつかってインフラの整備をするわけにはいかないので、万博を誘致して公金でインフラ整備をおこなわせようとしたのである。姑息な作戦であった。

 万博開催が決まってから、各国のパビリオンの建設が始まった。しかし、日本の大手ゼネコンはパビリオン建設に手を挙げなかった。そのため外国系の企業が建設することとなり、建築を進めるためたくさんの下請け業者を集めてきた。

 そしてパビリオンが完成した。しかし、建築を請け負った元請け業者は、下請けの業者にカネを支払っていない事例があることがわかってきた。実際に建築に携わった人びとは、小さな企業で、カネを支払ってもらわなければ立ちゆかなくなる。それでたいへん困っている。

 万博は国家事業だから、という認識で、下請け業者たちはたいへんな仕事をしてきたのだろう。

 ところが完成してみれば、自分たちが働いた代価が支払われない。そこで困った業者たちは、万博を開催している万博協会に訴えた。ところが、万博協会は、民間企業と民間企業とのあいだに生じた問題だから知らん、という態度をとっている。

 わたしはここに、日本の衰退、劣化を見る。万博は国家事業ではないか。その国家事業に関係した人びとに代金が支払われない事態が生じた。万博開催に責任を持つ万博協会が、そうした人びとの声を無視する、まさにここに日本国家の劣化が映し出されている。

 The Osaka World Expo is being held on Yumeshima, a man-made island in Osaka, Japan, under a sweltering summer heat. Yumeshima is an island created by reclaiming garbage. From the beginning, there were people who wondered why the Expo was being held on such a place.

 The leaders of Osaka Prefecture and Osaka City, who belong to the Osaka Restoration Association, wanted to open a casino on Yumeshima. However, they could not use public funds to build infrastructure for the casino, so they tried to lure the Expo to Yumeshima and use public funds to build the infrastructure. This was a very clever strategy.

 Once the decision was made to host the Expo, construction of pavilions for each country began. However, the major Japanese general contractors did not take part in the construction of the pavilions. Therefore, it was decided that a foreign company would build the pavilion, and they gathered many subcontractors to proceed with the construction.

 The pavilion was completed. However, it has come to light that in some cases, the main contractor who undertook the construction did not pay money to the subcontractors. The people involved in the actual construction of the pavilion are small companies, and if they do not receive payment, they will not be able to survive. They are in a lot of trouble.

 The subcontractors must have been aware that the Expo was a national project, and they worked very hard.

 However, when the Expo was completed, they were not paid for their work. The contractors, troubled, appealed to the Expo Association, the organizer of the Expo. The Expo Association, however, has taken the attitude that it does not care about the problem because it is a matter between a private company and a private company.

 This is where I see the decline and deterioration of Japan. The Expo was a national project. The people involved in the national project have not been paid. The fact that the Expo Association, which is responsible for hosting the Expo, ignores the voices of these people is a reflection of the deterioration of the Japanese nation.

 

日本の選挙

  参議院議員選挙が始まった。おそらくテレビではその報道が過熱していることだろう。新聞はとっているので、新聞でも選挙報道が多くの紙面をさいている。

 わが家は市の中心部から8キロくらい離れている住宅地にある。市議会議員選挙など当該自治体の選挙に於いては、多くの選挙カーが候補者の名前を連呼して通り過ぎるが、参議院議員選挙では、まれに選挙カーが喧騒をまき散らして通り過ぎるだけで、いつもの静かな日々である。候補者たちは、人の多い都市中心部でのみ、演説や握手を展開しているのだろう。

 日本の選挙のいつもの光景は、そうした候補者名の連呼と、ときにポストに入れられている候補者のチラシだけが選挙中であることを示す。テレビも見ない、新聞も読んでいない人びとにとっては、選挙は遠い存在である。

 外国の選挙では、ある候補者の当選を期待する人たちが家々を訪問して支持を訴えるのだというが、日本では禁止されている。その歴史は長い、日本に普通選挙法が成立した1920年代、当時の国家権力は、無産政党の議会進出を止めるために、戸別訪問を禁止した。無産政党の支持者たちはカネがないから戸別訪問などで有権者と接触するしかなかったから、それを禁止したのである。今もその構造は変わっていない。

 さて、昨日届いた『週刊金曜日』の雨宮処凛さんの「風速計」に、なるほどと思われる内容が書かれていた。

 「普段は美容や整形やコスメの話題のみのアカウント。これまでいっさい政治的発信などしていなかった女性たちが、この頃突然、このままでは日本はヤバい、外国人から日本を守らなければと訴え始めたのだ。そうして突然、「日本人ファースト」を掲げる参政党の姿が現れるようになったのである。」

 雨宮さんは、その背景をこう書いている。 

 「「失われた30年」の中、先進国で唯一賃金が上がらない日本。3年にわたって続く物価高騰の中、昨年からは米まで手に入らなくなった。これほど生活が苦しいのに、外国人観光客は自分たちには手が出ないものを「安い安い」と喜んで消費している。そしてメディアでは、「中国系オーナーが突然東京・板橋のマンションの家賃を2.5倍にし、民泊に転用」などと報道されている。少し前からは、SNSで「川口のクルド人」の話題をよく見るようになり、アメリカでは、移民取り締まりに抗議するデモ隊に州兵が派遣され、大変な騒ぎになっている。このままでは、日本はわじわじわと外国に「侵略」されてしまうのではーー」

 確かに自民党・公明党政権が財界・大企業と手を組んで、「今だけ、自分たちだけ、カネだけ」という利権政治を展開してきた結果、日本の人口は激減し、労働力不足に陥り、日本の庶民は生活苦に遭っている。その一方で、労働力不足を補うために外国人を引き入れ、また生活苦にあえぐ日本の庶民の購買力低下を補うために外国人観光客を招き入れている。そして賃金が上昇し続けてきた外国人が、土地やマンションなどの不動産をも購入するようになった。 

 「不安」が庶民のなかに湧きあがるのも当然である。

 財界と手を組み、自民党・公明党政権が展開してきた庶民にとっての悪政は、日本人のプライドを揺るがしながら、庶民の生活苦をつくりだしてきた。そして外国人がみずからの生活圏内に入り込み、なかには優雅な生活をしている姿を見せ、あるいは、車を違法改造し騒音をまき散らしながら走っている迷惑系の外国人もいる。

 日本人に良い人も悪い人もいるように、外国人にも両方いるのだが、目につくのはそうしたルール違反をする外国人たちである。

 今、日本の庶民は、「不安」を抱えながら生きている。その「不安」にどう対処するのか。自分たちだけの利権に奔走している自由民主党や公明党には解決策はない。参議院議員選挙でどのような結果を生みだすのか。

 無理かもしれないが、「不安」をつくりだした者たちに鉄槌を加え、その「不安」が少しでも軽減されるようなことになればよいと思うのだが、果たしてどうなるか。何しろ、日本社会全体に、長年の自民党・公明党政権によってつくりだされた利権が無数に張りめぐらされ、日本社会を閉塞状態にしているのだから。

 その閉塞状態に少しでも穴が開けられたらと思う。

 

 

2025年7月3日木曜日

【翻訳】Japan pays a high price as it goes down market. (再掲)

 
 参議院選挙が始まった。2022年1月に翻訳したものだ。ここに書かれている内容は、長い間の自民党・公明党政権による悪政によってつくりだされたものである。こういう状態を続けるのか、それともこの参議院選挙を変革する契機にするのか、考えて欲しいと思う。

 The Upper House elections have begun.This translates to January 2022. What is written here is the result of a long period of misgovernment by the LDP and Kōmeitō governments. I hope you will consider whether to continue in this state of affairs or to use this Upper House election as an opportunity for change.

日本は市場縮小で高い代償を払うことになる

日本は安い。そう、その通り。日本の高付加価値ブランド、バブル時代、世界一高いと言われた日本の地価などを知っている人なら、これは驚き、あるいは仰天することだろう。

確かに、これまでの常識に反している。しかし、数十年にわたる賃金の低迷、デフレ、そしてアベノミクスによる打撃は、日本を世界のダイソーに変えてしまった。

例えば?141カ国中、日本は4番目に初任給が低い国だ。ディズニーランドへの入場料が最も安い。そして、日本のビッグマックの価格は、新興国並みである。

世界第3位の経済大国が「安い」ために払っている高い代償は、今年最も話題になったベストセラーの一つ、『チープ・ジャパン 物価が示す停滞』(日本経済新聞出版社、2021年3月8日)である。日本経済新聞社の金融記者、中藤玲による本書は、インフレを誘発するための複数の施策が失敗し、一部の物価が新興国並みに下落している現在の日本の惨状を描いている。

マクロ的には、日本は物価だけでなく、人材面でも「安い」国になりつつある。新卒の初任給が異常に低く、人手不足に拍車がかかり、頭脳流出に直面している。中藤氏は、日本は観光に依存した貧しい国になりつつあり、若くて優秀な人材が、より良い給料と労働条件の仕事を求めて国外に流出してしまうと主張する。

30年前は世界一物価の高い国だっただけに、驚くほどの落ち込みようだ。

物価が上がらない国

日本は物価が高いというイメージがあるが、裕福な国から訪れると、驚くほど低価格のものがたくさんある。

アメリカでは1泊1400ドルするような高級ホテルが、日本では700ドルで泊まれる。おいしい牛丼が300円(2.61ドル)、安いビッグマックが390円(3.39ドル)と、アメリカでは半額(5.74ドル)よりやや高い値段で食べられるのだ。

家族で楽しむなら、ディズニーランドの中で日本が最も入場料が安い。また、ショッピングはどうだろう。近年、日本の小売業で世界的な成功を収めているのが、安い商品がたくさんあることで知られるダイソーだ。ダイソーのコンセプトは「100円ショップ」、つまり100円均一である。もちろん、今では200円、300円、それ以上の商品もたくさんあるが、そのコンセプトは揺るがない。安いものはここで買おう。最近の数字では、ダイソーは海外26カ国・地域に2248店舗を展開している。韓国には1365店舗、タイには120店舗、アラブ首長国連邦には44店舗がある。しかし、100円で買えるのは日本だけである。

日本よりはるかに「貧乏」と思われているタイでは、ほとんどの商品が210円程度(タイの通貨)で売られているのに対し、アメリカではだいたい173円程度である。これは、現地の観光業界にとっては、新たなセールスポイントとなる朗報である。

中藤氏は、「日本の観光ブームを支えているのは、他国より圧倒的に安い商品やサービスである」と書いている。"外国人観光客による消費額は、2018年には2013年の3倍の4兆5200億円(416億ドル)に達した"

もちろん、これには、東京が最近力を入れているサービス経済のアップグレード、中央政府が行っている観光振興キャンペーン、近年のビッグイベントである2019年ラグビーワールドカップや2020年オリンピック・パラリンピックが大きく関係している。

そうすれば、海外からの観光客も笑顔になれるかもしれない。しかし、日本が低賃金・低価格の永久ループに陥っているからこそ、ダイソーは日本で大きなビジネスができている。

ここが問題なのだ。なぜ、これほどまでに低価格なのか。それは、日本が貧しい人々の国になってきているからだ。「安い」と「貧しい」の境界線は曖昧である。

安かろう 悪かろう

なぜ、このようなことが起こってしまったのか。中藤は明確な答えを一つも出していないが、様々な理由を提示している。特に目立つのは、第一生命経済研究所の永濱利廣チーフエコノミストの言葉だ。「一言で言えば、日本の長いデフレが、企業の価格転嫁のメカニズムを破壊してしまったということだ。製品価格を上げられないと企業は儲からない。儲からないと給料が上がらない。給料が上がらないと消費が伸びず、結果的に物価が変わらない。こうして、日本の "購買力 "は弱まっている」と述べた。

人々が、休暇を過ごすために日本に来ている(少なくとも COVID-19に襲われる前はそうだった)のは、日本が安いからだということ、これは驚くべき発見である。

そして日本は、購買力の低下だけでなく、交配する力の低下にも悩まされている。日本は高齢化と人口減少により、長年にわたって労働力不足が続いている。一方、慢性的な労働力不足は、ロボットが働くホテルのフロントデスクや運転手のいない電車など、革新的な解決策をもたらした。

また需要と供給のバランスが崩れているため、賃金はあまり上がっていない。インフレ調整後の実質賃金は過去30年間のほとんどで下落し、実質的には20年前とほぼ同じ水準にとどまっている。

しかも、福利厚生が充実していない「非正規雇用」の労働者が増えている。この低賃金の非正規労働者の急増が、新たな下層階級を生み出している。1980年代に労働力人口の15%であったが、現在では40%近くになっている。

正社員の時給は通常2500円(21ドル)、これに対し派遣社員は1660円(14.42ドル)、パートタイマーは1050円(9.12ドル)に過ぎない。また、非正規労働者は、会社の健康保険や正規労働者のような特典を受けることはほとんどない。

性差も関係している。日本がガラスの天井の低さで有名なことはよく知られている。性差別が国民の貧困を助長しているというのは、そうではない。しかし、だからといって、それが真実でなくなるわけではない。

ひとり親家庭の相対的貧困率では、日本が最も高く、50%近くを占めている。しかし、日本のシングルマザーの就業率は87.7%で、OECD諸国の中でトップクラスである。つまり、他の国のシングルマザーよりもずっと頑張って働いているのに、それでも貧しいというのは、彼らの給料が悲惨な額であることを指し示しているのである。

厚生労働省が11月に発表した年次報告書によると、2020年の日本の自殺者数は912人増の2万1081人となり、2009年以来の増加となったことがわかった。増加の原因はパンデミックとされているが、それがすべてを物語っているわけではない。

男性の自殺者数は11年連続で減少したものの、女性の自殺者数は15%増加し、2年ぶりに増加した。低賃金の「非正規」労働者の7割が女性であることは、偶然ではないだろう。

一方、運良く出世の階段を上った人たちは、幸先の悪いスタートを切っている。

コンサルティング会社のウィリス・タワーズワトソンが、2019年の世界各国の大卒1年目の年間基本給を調べたことが、本書で明らかにされている。アメリカは平均629万円、ドイツは531万円、フランスは369万円、韓国は286万円となっている。しかし、日本の新卒初任給は262万円で、114カ国中4番目の低さだった。これはスイスの初任給902万円の3分の1である。

貧困がよくないことであることを説く日本人は中藤だけではない。

投資など、長年のトレンドが逆転していることもある。日本は "世界の工場 "と呼ばれるほど巨大な投資国だが、中国の国有企業CITICグループは日本の中小企業14社を買収しその技術や労働力を吸収している。

もちろん、それは単なる国境を越えた資本移動に過ぎない。それよりも重要な発見は、労働力の移動である。つまり、頭脳流出が始まっていることを示唆しているのだ。

経済学者の野口悠紀雄・一橋大学名誉教授は、毎日新聞の記事でこう書いている。「20年後、日本人は中国に出稼ぎに行くだろう」。10年前なら、この発言はナンセンスと一蹴されたことだろう。実際、中国にはすでに日本人の出稼ぎ労働者がいる。しかも、日本人にとってショックなのは、その多くが国を代表する産業から生まれていることだ。

アニメは日本を象徴するものだ。日本が誇る文化輸出の代表格であり、アニメの分野では世界的に高い評価を得ている。しかし、そのアニメを制作するアニメーターの賃金は、驚くほど低い。日本アニメーター・演出協会の調査によると、アニメーターの54.7%が年収400万円以下で、中小企業の若手アニメーターは月収9万円も珍しくない。こうした低賃金と重労働に嫌気がさし、仕事の質が向上し、急成長している中国市場に人材が次々と流出しているという。

日本に活路はあるのだろうか。

(以下略)

 

 

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山田昭次さん

  山田昭次さんが亡くなられていたことを、今日知った。今日配達された『週刊金曜日』の記事に、「行動する歴史学者」としての山田さんが、3月15日に亡くなられ、6月14日、立教大学で「しのぶ会」が開かれたことが書かれていた。

 1983年、静岡県近代史研究会の総会記念講演で、「関東大震災時の朝鮮人虐殺をめぐる日本の権力と民衆」というテーマで話されたこともある。当時、事務局長であった田村貞雄さん(田村さんも亡くなられた)の依頼で来られたと思う。田村さんとは、東京教育大学大学院で一緒だったそうで、大学院時代、御茶ノ水の喫茶店、その名は忘れたが、そこで読書会(研究会)をやっていたとのことだった。それ以外にも、田村さんから山田さんのことをいろいろ聞いていたが、記憶力の減退の中で、思い出せない。

 当初、山田さんは自由民権運動などを研究されていたということだった。田村さんによると、山田さんはとても詳しく、たくさんのことを教えられたそうだ。その後朝鮮史というか日朝関係史の研究に移られたが、もし自由民権運動をそのまま続けられていたら、大きな業績を残されただろうと、田村さんは語っていた。

 わたしも、静岡県近代史研究会とは別に山田さんとは、どこかでつながっていて(思い出せない)、東京麻糸紡績沼津工場に動員された朝鮮人女子勤労挺身隊の「公式謝罪等請求訴訟」の控訴審(東京高裁)に、「朝鮮女子勤労挺身隊の歴史的位置」という意見書を作成していただき、また法廷にも立っていただいた。その意見書は、とても詳細で、短時間によくもまとめられたものだと驚いたことがある。

 その後も山田さんとはお電話で何度か話したことがあるが、最近はそういうこともなくなっていた。

 まさに「行動する歴史学者」で、誠意ある方であった。山田さんのように、戦後歴史学の担い手が他界していく。とても寂しい。  

学歴

  伊東市長の学歴詐称の問題が騒がれている。東洋大学を卒業したのか、中退なのか、除籍なのか・・・・学歴問題が騒がれてから、伊東市長はそれについて明言せず、やっと会見を開いて除籍であったことを明らかにした。

 まず、政治家にはどのような学歴が必要なのか、という問いもたてることはできるが、れいわ新選組の代表山本太郎は、「わたしは中卒だ」と明言している。 わたしは山本太郎が街頭などで市民と対話している姿をみて、政治家にとって必要なのは学歴じゃない、ということを実感している。

 したがって、伊東市長の学歴そのものは、問題にはならない。

 しかし、伊東市長は大学を卒業したのかどうかさえ、疑惑が提示されてからすぐに明言しなかった。これはとてもおかしい。みずからが大学を卒業したかどうかは、みずからの記憶に明確に残っているはずだ。

 わたしは、大学の入学式も、卒業式も出ていないけれども、卒業したという記憶を明確に持っている。きちんと所定の単位を取り、学費も払ってきたから、当然のことである。大学に入学したけれども、単位をとらなかった、学費を払わなかったということがあれば、それは除籍になるだろうし、それはいちばん本人の記憶に残っているはずだ。他者からの投書によってはじめてわかるという話でもない。

 大都市の首長にも学歴詐称の問題が生じていたが、某国の場合ならカネで解決できるだろうが、日本の大学はそうしたことはないだろう。

 わたしは、この伊東市長の場合、学歴の問題というより、自分自身が大学とどう関わってきたのか記憶にあるはずなのに、それを、問題が発覚してから正副議長に卒業証書らしきものを見せたり、それに関して弁護士を雇ったりして何とか逃れようとした態度、事実に対する、あるいは自己の人生に対する誠実さがないことが問題だと思う。

 やはり大学を卒業していたかどうかということではなく、その点で、伊東市長には誠意がないと思わざるを得ない。市長としての職は、おそらく全うできないだろう。いさぎよく辞職すべきである。

 

2025年7月1日火曜日

現代国家論(1)

  『中日新聞』が「揺らぐコメ高騰を追う」という連載をしている。これを書く記者は、コメの生産地に足を運び、まさに生産地点で現在のコメ高騰の問題を考えようとしている。記事では、「コメが足りなくなるかもしれないという予兆を現場が感じていたのに、農水省は作況指数などを盾に異変を見逃し、対応しなかった。「昨夏に備蓄米を出していれば、今ほど高値になることはなかった。農水省は生産者の現場、消費者の実態をどこまで把握しているのか」」、「農家の長男として生まれた伊藤さんは、江戸時代に建てられた自宅を囲むように広がる水田1・8ヘクタールでコメを栽培してきた。だが、5年ほど前から温暖化による猛暑の影響で品質は下がり、収穫量が減ったと感じてきた。「粒が小さい。玄米を精米すると、粒が割れて収穫量が減ってしまう」。昨秋は例年より約2割も減った。/それなのに農林水産省は昨年12月、コメの作柄を示す作況指数(平年=100)が、2024年産米で「平年並み」の101だったと発表。「どの農家に聞いても収穫は少なかった」という。伊藤さんの不安は的中し、コメの供給不足が現在の高騰の一因となった。」と書かれている。

 農作業に従事しているわたし自身が感じた2023年からの(記事の伊藤さんは5年前から)、米作のみならず農業生産地点での猛暑の影響、それに伴う不作を、東京にある国家権力の担い手たち(政治家や官僚など。以下、「権力者」)は感じることはなかった。

 なぜ感じないか。東京を中心とした大都市圏に住まいしている「権力者」も含めた人びとは、大都市圏にコメが運ばれてきていれば、そして満足にそれを食べることができてさえいれば、生産地点での変化には気にとめないのである。しかし大都市圏にコメが運ばれてこなくなると、かれらも気がつく。それが今年、2025年である。

 農水省など、地方にはその関連機関を置いているではないかと問うこともあろう。だが地方にいる者たちも同じ「権力者」であって、彼らは生産地点には眼を向けず、常に東京を中心とした大都市圏に住まいする「権力者」を見据えている。「権力者」の最大の関心事は、みずからの「出世」(昇進)であって、みずからが担当する仕事に熱心に取り組むことではない。熱心に取り組んで民間との摩擦を生じるよりも、たとえば違法に気がついても、担当する期間、その仕事が「大過なく」過ごすことができればそれでよいのである。熱海市の違法な盛り土が土石流となって人家を呑み込む事件があったが、違法だと知っていても静岡県の役人(権力者)は見て見ぬふりをした。「大過なく」である。

 さて盛り土は、東京都内にはほとんどないだろう。大都市の開発の中で生みだされる大量の廃土は、地方に運ばれて巨大な盛り土となって地方住民を苦しめる。

 大都市圏に住まいする「権力者」にとっては、それはどうでもよいことだ。 

 大都市は、不要なものは地方に廃棄し、必要なものはせっせと運ばせる。その代表的なものは税金と食料である。税金と食料は、全国から運ばれてくる。金は実際には運ばれないだろうが、しかしそれをつかうことができる「権力者」の大方は、大都市圏に住まいしている。

 高速道路を東京に向けて走らせていると、全国各地からの食料、それもとっておきのものが、東京へと運ばれていくことに気づく。肴はトラックの生けすで運ばれ、生のまま東京の「権力者」の口に入る。 

 東京には、カネが集まり、地方からの税金が「権力者」によってばらまかれるから、東京は景気がいい。それを求めて多くの人が集まるから、東京都はたくさんの住民税、固定資産税などできわめて潤沢である。公共交通機関も次々とつくられ、自家用車を持つ必要はない。

 しかし東京などに人口を吸収させられた地方は、公共交通は衰弱し、自家用車を持たなければ買い物にもいけない。地方の住民は、高騰するガソリンを買って自家用車をつかうしかない。高騰するガソリンに苦しむ地方の住民のことなんか、「権力者」は考えない。だからガソリンに多額の税金がかけられ、本来ならば、レギュラーガソリン1リットルあたりの平均小売価格が3か月連続で160円を超えた場合、1㍑あたり25.1円の特例税率が停止されることになっているのに、自民党・公明党政権はそれをするつもりはまったくない。彼らは大都市圏に住まいする「権力者」だから。

 このように、日本を根本のところで支えている地方を軽視し、大都市圏だけ見つめながら政治を行っている「権力者」中心の国家を、わたしは「大都市利権国家」と命名する。