昨日・日曜日の『東京新聞』、いつも一日遅れで届くのだが、ひどい!と思ったのは、「こちら特報部」の記事。テーマは「揺らぐ大学の自治」である。
学校、教育問題が報じられるとき、いつも思うのは文科省は「悪業」しかしない、ということである。今までも学校改革や教育改革が進められてきたが、その改革はほとんどが「改悪」であったということだ。日本の教育は、強い中央集権的な統制によって運営されている。文科省から、自治体の教育委員会、学校長を通じて、政権の意向が伝達され、学校現場に貫徹される。
単独の大学や学校が何らかの改革をしようとする場合でも、文科省の許可が必要だということだ。ある大学が新しい学部をつくろうとする場合も、何度も何度も文科省に足を運び、文科省の許容範囲の中でやらないとまったく認められない。
逆に、文科省の伝達を実行しないと様々な締め付けにあう。
『東京新聞』の記事は、東京外国語大学が、今1コマ90分である講義を、105分にする、という決定に対して、教員や学生が異を唱えているというものだ。その決定は学長とその周辺でなされ、教員や学生への発表は、最終決定の期限直前であったという。
わたしが学生の頃、「大学の自治」は、大学の教員や学生を含めた全構成員によってなされるもの、という共通理解があった。しかしいま、その共通理解は消し去られ、なき物にされようとしている。
その背景には、「大学を経営体、教職員を従業員、学生を顧客と捉える風潮が」強まり、学問研究機関としての位置・役割に対する認識がなくなっている。学校までも、利益を追究する経営組織、いわば株式会社のように、文科省、支配層は位置づけようとしている。
そのような考え方は、地方自治の分野でもなされていて、自治体は経営体、自治体職員は従業員、住民は顧客とされ、そこに住民自治が入り込めないようにしている。
あらゆる分野で、「自治」が足蹴にされてきているのである。
すなわち、大学などの教育機関での学生、生徒、自治体での住民は、主体性をもたない統治の対象と位置づけられているのだ。
そうであってはいけない。
むかし、学生や住民は、自治の担い手として動いていた。単なる「顧客」でよいのか、ということでもある。
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