劇団が配布したうすいパンフレットの、鵜山仁が書いた文の最初に「息子にとって、父親を語ることがなぜこんなに難しいのか」というものがあった。父親と息子の葛藤がテーマかと思ったが、見ていたら、それだけではなく、父親と娘、父と母、母と息子という家族の問題があり、また必然的に老人問題もあった。
まず鵜山の文、わたしには父がいない(2歳の時に病死)ため、わたし自身が父親と葛藤した体験がまったくない。だから、わたしには父親を語ることはできない。
この劇から知ることは、父親とは、みずからの来し方をもとに、家族を支配しようとする存在のようだ。そういう存在をわたしは知らない。
わたしの母は、この劇の母親(マーガレット)と同じように、わたしを支配する、わたしに生き方を指南するといったことは一度もなかった。わたしがすることに対して、わたしに意見したことは一度もない。わたしは、だから自由に生きた。だからといって、まったく自由であったのかというとそうではない。何も言われなかったからか、東京の大学を卒業したあと、わたしは帰って来た。なぜか帰らなければならないという気持ちが、いつのまにか生じていたのである。
母が自由に生きさせてくれたから、母と同じように、わたしは子どもたちの生き方に対して何も意見しない、それぞれが自由に生きていくことをそのまま認めていった。わたしが子どもに言ったことは、父より先に死ぬな、困ったことがあったら何とかするから言ってこい、このふたつだけであった。母の姿勢を、わたしも踏襲したのである。
この劇を見ていて、父と息子の葛藤ではなく、年老いた親に対して、子どもたちはどのように対応するのかということのほうに関心をもった。母親が亡くなり、父・トムが残った。ひとりになった父、病気がちな父をどうするか。息子は、結婚するために遠くへ去って行く。父に一緒に行こうと言うが、父は家族とともに住んでいた家に残るという。そうだろうと思う。
息子であるハリーは、父と対決したことはなかった。娘のアリスは、ユダヤ人との結婚に反対され、家から出て行った。対決があった。対決がなかったから、ハリーは自分から遠くへ去っていく決断ができなかった。父が、わたしはひとりで生きていく、どこへでも行け、といわれてハリーは出て行くとこができたようだ。
浜松演劇鑑賞会、わたしはいつも後方からみる。観劇している人びとの後ろ姿は、白髪が多い。この劇、観劇しているひとにとっては、きわめて身近なものであっただろう。年老いた親と子どもたち、家族それぞれの生き方が様々に交わって変化していく。そのなかで葛藤が生まれる。葛藤のなかで、人間は葛藤を抱えたまま生きて行くしかない。
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