2025年7月19日土曜日

他者としての国家(state)

  日本人が自国を語るとき、「わが国は・・・・」で始まる。この場合の日本人の意識は、countryとしての国である。countryとしての国は、 文化・歴史的な共同体を意味する場合が多く、地理的な領域や民族的な結びつきを重視し、国家というより国民的アイデンティティに焦点を当てた言葉。」であり、そこに権力的なニュアンスはない。countryとしての国は、国民から税を取り立て、ある時には国民を逮捕監禁することなどはない。

 しかし日本人は、stateとしての「国」(この場合の国を国家とする)を、countryとしての国と混同し、「国家」とみずからを一体的に捉えようとする。

 しかし「国家」とは、「政治的・法的に認められた主権国家」を意味し、以下の4要素で定義される。領土(地理的境界)、国民(一定の人口)、政府(統治機構)、主権(内政・外交における独立性)がそれである。「国家」とは自然に生まれるものではなく、つくられるものである。「国家」は政府(統治機構)が代表し、国民から税を取り立て、時には人身の自由を剥奪することもある。

 つまり、countryとしての国と国民との関係は自然的なものであり、国民が国と一体感をもつことはおかしくはない。

 しかし「国家」はそうではない。「国家」は、国民にとっては「他者」である。

 「国家」は統治機構であるから、その機構を構成する集団(国家公務員)がその仕事をしている状況では、「他者」であり、決して国民とは一体ではない。

 昨日、 福井中3殺害事件で逮捕・服役し、再審無罪判決を受けた前川彰司さんを冤罪事件に巻き込んだのは、統治機構の担い手である警察官、検察官、裁判官であり、彼らは「国家」の一員として無実の人間を犯人に仕立て上げたのである。彼らは、国民にとっては「他者」である。彼らは、「国家」の一員として権力を行使する存在なのである。

 権力を行使する「国家」は、国民にとっては「他者」であること、その認識を前提として現代国家は成りたっている。

 ところが、最近支持を集めている参政党が掲げている「憲法」は、近代国家・現代国家が備えているそうした認識を前提としていない。「国家」と国民は一体とされ、したがって、国家権力を制約する視点がなく、「国家」と相容れない認識を持つ国民は、排除されるものとなる。

 最初に記したように、日本人の多くは、「国」をcountryとしての国とstateとしての「国家」とを混同している。 「国家」が行うことを、安易に信じこんでしまう。「国家」を「他者」として認識していれば、「国家」が、冤罪事件に現れているように、間違った権力行使を行うこともあれば、無謀な戦争に国民を駆り立てることもあるという警戒感を持つことができる。

 「国家」は、国民との利益共同体ではないのである。「国家」は監視されなければならないし、警戒感を持って見つめられなければならない。近代以降の憲法は、そうした認識があるからこそ、「国家」の行動、権力行使を制限する条項をもつのである。

 しかし参政党のそれは、そうした条項をもたない。

 だが、本来持つべき認識を持たない日本人は、参政党の「憲法」に異和感を持つことはないのだろう。

 国家権力の暴走を止める認識を持たない参政党は、危険な政治集団であると思う。

 

  

0 件のコメント:

コメントを投稿