2025年8月14日木曜日

ニュース

  ネットでニュースを見ると、伊東市長関連が多い。この人の学歴詐称問題、まったくくだらない事件で、選挙時に選挙民がしっかりと考えて投票しないとたいへんなことになるということを表している。

 わたしは市長の顔なんか見たくはない。しかし、ニュースをみるとその人の顔が必ずついている。良識を持たない、傲慢なこういう人物が、各地の首長、議員にたくさん選ばれているという現実に、わたしは絶望している。

 伊東市長は全国区になり、伊東市は注目され、また東洋大学の名は全国に知らしめられた。この人、国政選挙に出たら当選するかもしれない。最近当選する議員などに、悪名高い人物がいるからである。

 だが、そんなニュースが報じられる価値あるニュースとは思えない。

 この問題の解決は、伊東市民にしかできない。伊東市民が選んだのであるから、伊東市民が解決するのだ。

 このニュースは、ローカルニュースとして扱ってもらいたい。 

  

2025年8月11日月曜日

「破壊者」たち

  昨日の『東京新聞』の「時代を読む」に、内田樹さんの文があった。

 匿名に隠れた群衆が「破壊者」として現れている。その「破壊者」はについて、内田さんはこう書いている。

  自分を大きく見せようとする人間は必ず「悪」の衣裳を身にまとう。自分の力を100倍誇大に表示できるからだ。だから、承認欲求が満たされない人たちは必ず「破壊者」として登場し、「創造者」として登場することは絶対にない。

 「破壊者」は、「規範を意に介さず、人々が大切にしているものを嘲笑し、恐れを知らぬ攻撃性によって「システム」を破壊する」。 

 創造することはとてもたいへんなことで、たくさんのエネルギーを費消する。これは他者を創造的に批判する場合でも同じである。根拠をきちんと提示しながら批判していくわけだから、その背後に厖大な知の集積をもつ。

 ところが、巷にはびこっているXなどで発信されている批判は、創造的なものが皆無である。そこには「知」はみられず、感情的・情動的な短いことば、いわば「悪罵」といってもよいことばが並ぶ。「悪罵」を平気で投げつけることが出来る人の目的は「自分を大きく見せる」こと、だからより強く相手を攻撃できる荒々しいことばをつかう。そこには知性や理性はない。社会的な規範や良識を顧慮することすらしない。批判しようとする相手への敬意さえまったくない。

 そういう人々が、SNSを通じて個々バラバラに「悪罵」を投下する。そうした行動が伝播していく。

 内田さんは、「今世界で起きているのは、既存のシステムが機能不全に陥った時」だとして、そういう時代に人びとは「動物的な生気がみなぎった強そうなリーダー」を選考する、という。

 そうしたリーダーは「破壊者」たちである。そしてその周辺に人びとは集まっていく。 

  

「日本ファースト」を言うなら・・・

  「日本ファースト」を叫ぶ人たちがいる。日本人が「日本ファースト」を主張するのは当然のことだと思う。もちろん、その語のなかに、外国人排撃の主張を入れるべきではない。

 なぜ「日本ファースト」 を当然だというかといえば、日本は未だに米軍に占領されているからである。日本は法治主義、立憲主義国家だという。しかし実態をみれば、それは間違った認識である。

 日本の国家方針は、米軍幹部と日本の中央官僚による「日米合同委員会」が決める。そこには、国民主権さえ入り込むことができない。内閣さえ、どのようなことが議論され、何が決められたのかを知らない。

 このような異常な状態の根源は、日米安保条約にある。この条約がある限り、日本はアメリカの「属国」 でありつづけるのだ。

 国家というのものを構成するのは、国民と主権、そして領土、領空、領海である。しかし、日本の領土には米軍基地があり、日本の空は米軍が支配し、民間機は自由に飛ぶことさえ出来ない。日本に国家主権があるのかと問われたなら、ないと答えざるをえない。

 そういう対米「属国」の下で、大きな利益を得ている日本の巨大企業が、そうした隷属状態の日本国家から、米軍と結びつくことによって蜜を吸い続けている。たとえば、沖縄の辺野古新基地建設である。おそらくこの基地は完成することなく、国民の税金を長年にわたって吸い続け、そのカネは本土の巨大企業(ゼネコン)にわたるはずだ。

 「日本ファースト」というのなら、まず日米安保体制をなくすことから始めなければならない。

 There are those who cry “Japan First.” I think it is natural for Japanese people to insist on "Japan First. Of course, this should not include the exclusion of foreigners.

 The reason why “Japan First” is natural is because Japan is still occupied by the US military. Japan claims to be a constitutionalist nation with the rule of law. However, this is a mistaken perception when one looks at the reality.

 Japan's national policy is decided by the “Japan-U.S. Joint Commission” consisting of U.S. military leaders and the Japanese central bureaucracy. Not even national sovereignty can enter into it. Even the cabinet does not know what was discussed and what was decided.

 The root of this abnormal situation lies in the Japan-U.S. Security Treaty. As long as this treaty exists, Japan will remain a “vassal state” of the US.

 A nation consists of its people, sovereignty, territory, airspace, and territorial waters. However, there are U.S. military bases on Japanese territory, the Japanese airspace is controlled by the U.S. military, and civilian aircraft are not even allowed to fly freely. If one were to ask whether Japan has national sovereignty, one would have to answer that it does not.

 Under such a “vassal state” to the U.S., Japanese giant corporations, which are reaping huge profits, continue to siphon honey from the Japanese nation in such a state of servitude through their ties to the U.S. military. One example is the construction of the new Henoko base in Okinawa. This base will probably never be completed and will continue to suck the taxpayers' money for many years, while the money goes to giant corporations (general contractors) on the mainland.

 If Japan First is to be realized, it must begin with the elimination of the Japan-U.S. Security Treaty.

Translated with DeepL.com (free version)

2025年8月8日金曜日

農水省幹部はだれに謝るべきか

 

「コメ足りているは誤りだった」農水省幹部らが自民党の会合で謝罪

 自民党には謝るけれども、国民には謝らないのか?農水官僚の農業政策で、米不足がおき、また米の増産すら難しいとされているのだ。農家を食えなくしてきたのは、農水官僚とそれを支えてきた自由民主党である。

 

いらない!!リニア新幹線

  岐阜県瑞浪市に、リニア新幹線工事による水涸れや地盤沈下が起きている。こうした生活を破壊する弊害があっても、JR東海は工事を続けようとしている。

 大都市間の移動のために、地域社会を潰していくという構図は、自民党政権がずっと続けてきたことだ。地方を犠牲にして大都市が潤い、それと同時に政治家も潤うという構図。

 もうそんなことはなくしていこう!

  

町の水が枯れた~リニア沿線で何が起きているのか

米の不足

  2022年まで、夏であっても、わたしは午後4時頃畑に行って2時間くらい作業をしていた。収穫したり、雑草を取ったり、暑さが作業を邪魔したことはない。

 ところが、2023年夏は、20分程度農作業をするだけで退散した。あまりに暑くて、くらくらするほどだった。近くではあっても、わたしは自転車で畑に通っているが、帰りはめまいを感じた。稲作をしている農家も、あまりに暑いために、ふつうは水をとめて田んぼを干す時期であったが、ずっと水を流し続けていた。その年の米は粒が小さく、収量は落ちた。

 2024年も同じくらいの暑さであった。わたしは農作業をやめた日も多かった。雑草をとることができないほどの暑さであったために、つくっていた野菜のところに足を運ぶことすらできなかった。また7月をはさんで40日間、雨が降らなかった。そのためか、さつまいもはすごい不作だった。毎年子どもたちに送っていたが、断念した。またこの夏も田んぼの水は流し続けていたし、2023年よりも収量は落ちた(粒が小さい)。また田んぼの水に手を入れると熱湯だった。 

 そして今年、 猛暑というか酷暑というか、それが続き、さらに昨年同様雨が降らない。天竜川の上流、長野県では雨が降っているようで、農業用水の水量は変わらない。しかし遠州地方は降らない。昨日は雨が・・・と思ったら、すぐに止んでしまった。だから毎日、用水から水を汲み出し、サツマイモその他に水遣りをしているが、しかしその水は土の表面を濡らすだけ。雨が降らないと、土の中にまで沁みていかない。昨年と同じように、さといもの葉が枯れている。

 このような気候変動に対応することを、日本の農業はしていない。昨年、オクラですら不作であったので、今年は発芽温度28度という品種を買ったところ、この日照りと猛暑の中でも、順調に収穫できている。もうすでに日本の気候帯は、亜熱帯である。それに適した農業にしていかなければならないと思う。

 さて、昨日だったか、生産する米が足りなかったことを、農水大臣が、はじめて認めた。珍しいことではある。

  官僚は、失政を重ねても失敗を認めることはしない。戦前の天皇制の時代の「国家無答責」(国家は間違ったことや失敗をしないので、いかに国民に損害が出ようとも、国家は責任を負わないという法理)論が今も国家権力の担い手たちに引き継がれているようだ。よほどのことがないと、責任を認めないというこの考え方、地方自治体にも残っている。

 政府は、米の増産に舵を切るようだが、しかし果たしてそれは可能か。わたしが住んでいる地域の田んぼは次々と埋め立てられている。米を作っても生活が成りたたないという状況が続いてきた。米を作っているのは高齢者。年金などその他の収入があるから米生産ができた。そんなカネにならない農業に見切りをつけ、高齢者が農地を売っているのである。

 欧米では、農業者に所得補償をしている。そういうことを組みこんだ政策でないと、日本農業は先細るばかりだ。

 自動車等の輸出を最優先するなかで、そのかわりの輸入品として外国農産物が位置づけられ、諸外国からの農産物輸入を日本政府は推進してきた。その政策で、日本農業は衰退させられ、農業は儲からない産業となった。それが長年続いてきた。

 政府が米の増産を図ると言っても、はたしてどうなるか。農業者も農地も減らされてきた。いったい政府はどのような施策により農業生産を増大させようとするのだろう(日本の農業予算の多くは、圃場整備事業などの農業土木に投下されてきた。その金は土建業者が持っていく。農業者にはわたらない)。

 「失われた30年」という自民党・公明党政権の利権政治は、農業生産を破壊してきたのである。

2025年8月6日水曜日

【本】沢田猛『最後の証言者たち 戦場体験者・戦争体験者からのメッセージ』(高文研 2025年)

  「戦後80年」にふさわしい本である。

 著者が戦場体験者/戦争体験者に聞き取りを行ったのは、2000年代である。体験者がみずからの体験を語ることが出来たギリギリの時期であった。彼ら語り手の多くは、本書が刊行された時点でほとんどが物故している。まさに「最後の証言者たち」からの聞き取りであった。

 本書は、戦争を生きたひとりひとりの体験を詳しく聞き取り、また現地取材、調査をすることによって、アジア太平洋戦争とは何であったのかを浮き彫りにするものとなっている。まさにミクロともいうべき個々の体験が、戦争というマクロの本質を明らかにしていく。

 本書には25の話が記されている。そこには日本人のみならず、朝鮮人、中国人、アメリカ人の戦場/戦争体験が語られている。そしてその体験の場は、アジア太平洋戦争が戦われた、中国、ニューギニア、台湾、マーシャル諸島、フィリピンなど広範囲にわたっている。著者は、実際に現地に足を運び、人びとの語りを聞き、それぞれの体験がどのようなものであったか、それが現在とどうつながっているかを明らかにしていく。

 本書には25の話が記されている。震洋特攻隊、BC級戦犯、重慶爆撃、ニューギニア遺骨収集、朝鮮人軍属、学童疎開、戦争孤児、マレー半島ピースサイクル、フィリピン戦、元人民解放軍女性兵士、731部隊、空襲、ゼロ戦搭乗員、フィリピン残留二世、大森捕虜収容所、B29搭乗員、元海軍整備兵・・・・・戦争の現場は、このようにいろいろであるが、共通してあるのは人を殺すという場であったことだ。その場に、体験者がひとりでいたわけではない。味方がいる、敵がいる、そしてそれぞれに家族がいる。だから、著者が聞き取りを行ったのは、それぞれの項目につきひとりというものではない。その体験者とつながっている人びとからも、聞く。すると、個別の体験が点から面へと広がり、アジア太平洋戦争のなかに位置づけられ、その体験を「戦後」まで引きずってきたことにより、時空をも超えていく。

 もちろん戦争/戦場体験者は、戦争に否定的である。もう戦争はすべきではないという、体験から導き出された結論は、しっかりとした信念になっている。 

 本書に挙げられた25の話のなかには、731部隊など今までも注目されてきたものもあるが、戦場/戦争体験が個別的であるが故に新鮮で、その声は多声的なのだが、しかし導き出される結論は同じである。

 今までにない戦場体験者・戦争体験者からの聞き取りを集めた本書が、多くの人に読まれることを期待したい。

 

バカにされている日本 Japan, a country of slaves

  日本政府は、1945年以後、ひたすらアメリカに屈従してきた。たとえば、日本の領空を自由にアメリカ軍に使わせ、アメリカ軍人の犯罪にたいしても腫れ物にでも触るように遇してきた。わたしはだから、日本はアメリカの隷属国だと言ってきた。日本は決して独立した国家ではない。そのようにみせても、アメリカ政府の意向にひたすら従ってきた。従順な羊である。

 そして今度は、トランプ政権にも、隷属的である。 

 今日の『日本経済新聞』には、 「相互関税の特別措置、米官報でも対象はEUのみ、「日米合意」と食い違い」という記事が載せられている。その内容は、TBSが詳しく報じている。

 トランプ大統領は、日米の関税交渉で合意した日本からアメリカへの5500億ドルの投資について「我々の資金で、我々の好きなように投資できる」と語った。トランプは 「私は5500億ドルの契約ボーナスを日本から得た」、「日米が合意した日本からアメリカへの5500億ドル=81兆円あまりの投資について「野球選手が受け取る契約ボーナスのようなものだ」、「それは我々の資金で、我々の好きなように投資できる」と言っている。

 日本政府は、これについて、「5500億ドル」は民間企業などによる投資を政府系金融機関が出資や融資、融資保証を通じて支援する枠を示した金額だとしている。

 今までも日本政府がアメリカ政府と交渉する際、本当のことは公表せずに、日本国内向けには「成果」を語るが、しかし実際はそうではなかったことがたくさんあった。そして時間が経過してから、アメリカ政府が公表する、しかし日本政府はそれを否定する。だが、現実はアメリカ政府が言ったとおりになっている。こういうことが何度もあった。

  おそらく日本政府は、5500億ドルをアメリカに提供したのだろう。トランプの説明が正しい。日本の自動車産業のために。国民生活は、30年にわたる自由民主党の悪政によって疲弊しているのに、アメリカには大盤振る舞いをするのだ。

Since 1945, the Japanese government has been beholden to the US. For example, it has allowed the U.S. military to freely use Japanese airspace and has treated U.S. military personnel for their crimes as if they were a tumor. I have therefore said that Japan is a slave state of the US. Japan is not an independent nation. It has been obediently following the will of the U.S. government, even though it pretends to be so. It is an obedient sheep.

 And now, it is subservient to the Trump administration as well.

 Today's newspaper" Nihon Keizai Shimbun" carried an article titled "Special Mutual Tariff Measures, U.S. Official Gazette Says, Target EU Only, Discrepancy with 'Japan-U.S. Agreement. TBS reported the story in detail.

 President Trump said of the $550 billion investment from Japan to the U.S. agreed to in the U.S.-Japan tariff negotiations, “With our money, we can invest it any way we want.” Trump said, “I got a $550 billion signing bonus from Japan,” and that the $550 billion = 81 trillion yen or so investment from Japan to the U.S. that the U.S. and Japan agreed to is “like a signing bonus that a baseball player gets,” and that "it's our money and we can invest it any way we want.

 The Japanese government says that the “$550 billion” represents a quota for government financial institutions to support investments by private companies and others through equity investments, loans, and loan guarantees.

 There have been many instances in the past when the Japanese government has negotiated with the U.S. government, talking about “results” for the Japanese domestic market without disclosing the truth, but in reality, this was not the case. Then, after some time has passed, the U.S. government makes it public, but the Japanese government denies it. The reality, however, is that the U.S. government is telling the truth. This has happened many times.

  Perhaps the Japanese government provided $550 billion to the US. Trump's explanation is correct. For the Japanese auto industry. The Japanese people's lives have been drained by 30 years of Liberal Democrat misrule, and yet they give the US a big handout.

Translated with DeepL.com (free version) Corrections have been made by me to make the text accurate. 

 

2025年8月4日月曜日

公共のものが蝕まれる

  昨日の『東京新聞』トップは、築地市場跡地の再開発問題である。ここは都有地である。都有地であるから、当然「公共」のものがつくられるだろうと思うと、さすがに小池都知事、ここでも三井不動産などに大儲けをさせようという計画をつくっているようだ。

 計画では、タワーマンションが3棟、VIPを接遇する高級ホテルが2棟建設され、さらに屋根付きのスタジアムが建設されるという。 

 これらの事業は、三井不動産のほか、読売新聞、トヨタ不動産、鹿島、大成建設、清水建設、竹中工務店が加わる。

 都有地が、巨大企業のカネ儲けの手段となる。

 この光景は、何度もみている。神宮外苑、日比谷公園・・・・・・東京都政は、三井不動産ら巨大企業群のカネ儲けのために奔走しているようだ。 

2025年8月3日日曜日

【本】駄場裕司『天皇と右翼・左翼』(ちくま新書)

  この書評は、2020年に書いたものである。gooの「浜名史学」に掲載したものだが、読みたいという方がいたので、ここにアップする。

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  駄場さん、と呼ぼう。彼は経歴にもあるが朝日新聞記者であった。朝日新聞記者として、浜松支局にいた。私はその頃の彼とつきあいがあった。記事原稿を書き終えた真夜中、しばしばわが家を訪ねてきた。彼は記事一つ書くときでも、厖大な資料をもとに書いていた。私の友人で、他社の記者がいたが、その記者は早々に記事を書き終えると夜の街へと出て行った。その際私も同行することがあったが、駄場さんは、それはそれは丁寧に資料を集めて書いていたので、記事なんてそんなに資料を集めなくてもかけるのではないか、そこまで集めるなら研究者にでもなったらどうかと言ったことがある。
 

 彼と話をして、彼の頭の中には、たくさんの知識がきわめて整理されてしまいこまれていることが分かった。私の問いに、整理された知識がさらっと示されるという経験を何度もした。そのときに、この人の頭の中は、私とは構造が異なるとつくづくと思ったものだ。頭の良い人というのは、記憶したものをきれいに整頓して脳のどこかに格納できる人だと思った。

 彼が朝日をやめて、東大の社会学の大学院に入った頃まではつきあいがあったが、その後途絶えた。そしてしばらくして、ネットで彼の名が、歴史研究者として出てくるようになった。そして南窓社から後藤新平の研究書を出版していた。彼の最初の本、『大新聞社ーその人脈・金脈の研究』(1996年刊行)はいただいた。その大新聞社というのは、朝日新聞社である。

 彼の名をちくま新書の本に発見したのですぐに購入した。他に緊急の仕事があったので一度は中断したが、今日読み終えた。

 読み終えて、多彩な内容について厖大な資料を博捜し、それらを見事につなげてみずからの思考・推測につなげていくという記述は、あの頃の駄場さんの能力の高さがまったく変わらないでいることを認識した。

 それにしても、巻末に掲げられた文献・資料は尋常ではない。それらを読みとおす気力と、そこで得られたものを生かし切るという能力は、他の人にはない。もちろん私なんかは足元にも及ばない。すごい!という感慨をもちつつ、内容的にはどうしても看過できないものがある。

  まず私は、なぜ駄場さんが、「左翼」とか「右翼」ということばにここまで拘泥しているかがわからない。
 
 「はじめに」は、「日本では一般に朝日新聞社は「左」よりとされ、産経新聞社や自衛隊は「右」寄りとされる」で始まる。

 「左」とか「右」というのは相対的な概念であり、駄場さんは「一般」は上記のようにみているのではないかと推測しているようだが、しかし現代では「左翼」ということばは、「右翼」ということばはまだしもであるが(「右翼」が自らをそう呼んでいる)、もう「死語」に近い。いわゆる「左翼」勢力は、現在みずからを「リベラル」などと呼んでいるほどだ。
 

 私に言わせてもらえば、朝日新聞を「左」だなんて思ったこともない。また自衛隊を「右」寄りという認識もない。もしあるとするなら、もと航空幕僚長だった田母神という人は、「右」だと思う。組織としての「自衛隊」を「右より」だとは思わない。

 この「右翼」、「左翼」という相対的な概念を、本書のひとつの分析軸にしているようだが、それ自体アナクロニズムではないかと思う。それが先ず第一点である。

第一部
 第1章はその分析軸が、揺らいでいることを証明するというのだが、つまり「左翼」だと思っていた人が、実は「右翼」ともつながっていたとか、そういう例を並べていくのだが、「左翼」「右翼」という分析軸の有効性を是としないものにとっては、これはムダな内容だと思う。

 第2章では、「一般に体制側の人物だったと見られがちな後藤新平の「左翼」人脈を検証し、後藤に由来する反米「左翼」勢力が・・・・「左翼=反皇室」では決してないことを示す」というのだが、まず後藤新平は、私の認識としては当然「体制側の人物」であると認識している、たとえ彼が「左翼」との交際があったとしても、である。そして「左翼=反皇室」ではないということも、別にあたらしいことではない。あえてそれを証明する必要もないのではないか。

 第3章は、「現在では「左翼」系メディアの代表となっている朝日新聞」について、「その「左翼」性の本質はまったく一貫していないことを明らかにする」というのだが、私のように朝日新聞を「「左翼」系メディアの代表」と認識していない者にとっては(そういう人が多いだろう。駄場さんと同じ認識を持っているのは安倍晋三とその仲間たちではないか)、この章も不要であり、別に「一貫していな」くても、まったく気にならないのである。

 以上のように、以上の立論は、言ってしまえば、駄場さんの思い込み、それも主観的なそれにもとづいて行われているように思えてならない。

 以上の問題意識にもとづいて、駄場さんは資料を博捜して、それを丁寧に、持ち前の頭のよさを駆使して整合的な説明を行っているが、あまり意味のないことだと言わざるをえない。前提としての問題意識が、他者の理解を得られるものではないのだ。

 読んでいて、そうではないと指摘しておかなければならないことがある。それは次の叙述である(40頁)。

 「日本が日清戦争・日露戦争によって植民地にした台湾と朝鮮の統治については、朝鮮では失敗して反日感情を極度に強めたが、台湾では一定の成果を収めて親日感情を醸成した」として、「児玉・後藤」神話への言及があるが、しかしその内実に関する記述は皆無である。
 

 私が調べたことを示すと、1945年、台湾から日本軍や日本人が日本に帰還したことを、台湾の人びとは喜んだのだが、しかしその後に入りこんできた中華民国関係者があまりにひどく、官公署の日本人が就いていたポストに中国本土からの人間が就き、それはそれは台湾の人びとを下品にいじめたのである。そしてその後1949年、中華人民共和国成立とともにたくさんの外省人が入りこみ、それに対する反感が、日本統治時代を懐かしむというところにつながったのである。結果的に「親日感情」が出現したのである。別に植民地統治が「成果を収め」たわけではないのである。

 ついでに記しておけば、ここの項目で、「日本共産党は日ソ国交樹立に積極的な後藤新平、内田良平ら玄洋社系勢力の対ソ交渉窓口として設立されたとしか考えられない」(85頁)とあるが、これはまた突飛な主張である。駄場さんの立論の大きな特徴は、人脈でつなげていきそれによって判断する傾向が強い。たとえ人脈がつながっていたとしても、一つの歴史的事件はさまざまな要因が重なって出現するのであって(たくさんの人びとの行動の結果)、駄場さんのような主張は妥当ではない。
 

 駄場さんのこの著書は、多岐にわたって様々な論点を提示しているが、それらの一つ一つには、長い研究史があるのであって、それらを踏まえて、いったいどういう主張が、どういう資史料をもとに可能になるのかを、厳密に示さなければならないのだ。本書には、えっと思うような記述が各所に見られる。

 駄場さんには申し訳ないけれども、本書にはいろいろ指摘したいことがある。90頁に、「吉田茂から池田勇人の宏池会に始まる戦後の「保守本流」と最も近い関係にある新聞社は朝日であ」る、という指摘がある。となると、冒頭の朝日を「左翼」に比定するのはいかがなものかと思うのだが、どうだろうか。

 さて、また92頁には「重要なことは「語られること」より「何を語らないか」にある」とあるが、私にとっては、語らないことは語る価値がないから語らないのであって他意はない。

 96頁から日本ジャーナリスト会議(JCJ)への言及がある。同会議は、「KGBエージェントたちのコントロール下にあった国際ジャーナリスト機構(プラハ)から招待された1956年6月の「世界ジャーナリスト集会」に日本から代表を派遣するため、1955年2月に岩波書店常務取締役兼『世界』編集長吉野源三郎を初代議長として結成された」とある。そうなのか。そういう設立の歴史を、私は知らなかった。その後、駄場さんは、「KGBの系統の日本ジャーナリスト会議」(107頁)という断定を行う。なぜ日本ジャーナリスト会議が、「KGBの系統」になってしまうのか、私には理解できない。KGBー国際ジャーナリスト機構ー世界ジャーナリスト集会ー日本ジャーナリスト会議という関連からそう断定するのだろうが、世界ジャーナリスト集会に参加したから「KGBの系統」とどうしていえるのだろうか。こういう断定は、日本ジャーナリスト会議がKGBと直接何らかの関係があるなら別段、ただ前述の関係だけで断定するのは冒険ではないか。「世界ジャーナリスト集会」に派遣したら「KGBの系統」となるのか。本書ではそういう関係しか示されていないからそう指摘せざるをえない。ついでに言っておけば、吉野源三郎氏は、私がもっとも尊敬する知識人であり、きわめて独立性のある人間である。

 思想aをもつAという人物とつながりをもつBは、思想aをもつ人と推定されてしまうのである。人間はそう簡単ではない。親子であっても、同じ場合もあるが、異なる場合もあるのだ。人それぞれなのである。もしBがAのもつ思想aをもつのなら、AとBの思想の中身を比較して提示しなければ、説得性はない。

 すべてを検討することは出来ないので、部分的に考察するしかない。

 202頁に、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』について、「笠原十九司や本多勝一、梶村太一郎といった共産党陣営の歴史学者・言論人たちもチャンの本に否定的だった」とある。まず私もチャンのその本はあまり評価しない。だとすると、私も駄場さんから「共産党陣営」だと断定されてしまうのだろうか。南京事件について私も研究したことがあり、それを証明する一次史料を発見しているが、こういう事件の研究についてはとりわけ史料批判を徹底的に行い、厳密に史実を確定していかなければならないのだが、しかしチャンのそれは厳密ではない。笠原氏らは、私と同様に厳密な手法で南京事件に迫っているので、チャンの本はあまり評価できないのだ。
 ついでに言っておけば、笠原氏、本多氏、梶村氏、いずれもお会いしたことはあるが、「共産党陣営」であるかどうかまったく知らない。駄場さんはどのようにしてそれを確かめたのだろう。

 さて笠原氏らが何故にチャンの本に「否定的」なのか、駄場さんはひとりで答えを出している。朝香宮鳩彦の命令書(「捕虜はすべて殺せ」)にチャンは着目しているが、笠原氏の南京事件の本にそれについて言及していない(その本は書庫にあり今手元にないが、おそらくその命令書は信用できないものであった?)、笠原氏ら「共産党陣営」は朝香宮のそれを意図的に隠そうとしているのではないかと、駄場さんは疑っているのだ。「共産党陣営がチャンの邦訳を嫌った理由は自明だろう」と。
 嫌った理由は、簡単である。チャンの本が実証的ではないからなのだ。

 204頁には、「共産党系歴史学者の家永三郎」とある。なぜ家永氏が「共産党系」なのか。家永氏は戦闘的民主主義者ではあるが、マルクス主義者ではない。いわゆる史的唯物論を歴史の方法論として採用もしていない。昭和天皇に、進講したこともある。駄場さんは何を根拠にこう断定するのか。
 こういうレッテル貼りが、本書で目につくのだ。

 そろそろこの本について言及するのはやめたいが、最後にただ一つ。それは本書は立体的ではなく、いろいろな事項が並列的(平面的)に並べられていて、体系的に話がまとめられているものではないということだ。

 最近、社会学を学んだ人が歴史に参入することが増えているが、彼らは、歴史学の方法論をきちんと学んでいないので、史料操作や文献の扱い方について、史料や文献には信用度に応じて序列があることを前提にしていない、それらを同列に扱う、つまりすべてを同等の資料として扱ってしまうのである。

 なぜそうなるか。文学部史学科は減らされ、社会学がなぜか幅をきかせる時代になっているのだ。つまりヨーロッパ型の学問は疎んじられ、アメリカ型の学問が尊重されるようになってきているのだ。個別的な研究も、そういう流れの中にある。

 駄場さんも、社会学である。(終わり)

資本主義の行く末

  昨日、『地平』9月号が届いた。そのなかで、すぐ読んだのが、関西生コンの事件である。生コンミキサー車の運転手で組織されている「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」に対して、経営者のみならず警察・検察が大々的に弾圧してきたことである。この組合を潰したいというどす黒い野望を持った支配権力が、襲いかかってきたのである。

 もちろん日本には労働基本権が憲法で保障されていて、さらに労働組合法が制定されている。しかし、残念ながら日本の労働組合のほとんどは「御用組合」であり、組合の人事は会社の総務課が担当し、組合の幹部になると「出世」するという構造が続いている。他方、労働組合として、使用者と対等に交渉し、労働者の権利を守ろうとしている労働組合は、組織率が下がり、いずれも少数による組合となっている。

 関西生コン支部は、労働者の生活と権利を守る組合である。労働者の生活を守るということは雇用者の経営も維持しなければならない。そこで支部は、組合主導の中小の経営者(企業)の協同組合をつくり。不当な廉売をしないで適正な価格で販売し、生コンの品質を維持しようとしてきた。

 巨大ゼネコンなど大企業にとって、それは何とかしなければならないことであったようだ。巨大企業は、みずからの収益を上げるために、下請には適正な料金を払わずに「中抜き」することを平気で行う。そのためには、関西生コン支部は、破壊しなければならない組合となったのである。

 この「関西生コン弾圧事件の本質」(永島靖久)には、「労働運動を抑え込み、労働者を保護する制度を解体し、労働者をバラバラにして際限のない底辺への競争に追いやろうとする」と書かれている。そのために、巨大資本は、警察、検察の力をつかって、関西生コン支部を解体させようとしてのである。

 現在の日本の状況を見ていると、政治権力が巨大資本と手を組み、より多くの利益を得ようと、それを阻害する制度、社会組織、勢力を根こそぎなくそうとしている。日本学術会議、大学などもそのターゲットになっている。そのやり方は、きわめて強権的である。

 そして気候変動。この夏の暑さは、半端ではない。『地平』には、「気候危機の時代に、いま何をなすべきか」(深草亜悠美)が掲載されている。気候変動の進行を抑えるために、何度も国際会議が開かれ、いくつかの取り決めがなされてきた。しかしその実効性は高くはない。「1700年代から現在までの累積排出量の四分の一は米国たった一国から排出されたものである。世界一の経済大国であるアメリカの行動が、気候危機解決の鍵を握っている」のであるが、そのアメリカが京都議定書を批准せず、パリ協定から離脱している。さらに、これは日本も含めてであるが、国際会議には「化石燃料ロビイスト」たちを大勢参加させ、共通の目標などをつくらせないよう、あるいは引き下げさせるといった行動をとっている。

 ここ数年の猛暑というか酷暑は何を示しているか。地球温暖化の進み具合はもう何らかの対応をしていかないと、地球全体が生物が住めない惑星になってしまう、ということではないか。

 気候変動への対策を邪魔しているのが、巨大企業であり、その最大の擁護者である国家である。

 新自由主義にまみれた資本主義は、一部のカネ儲けのために、働く人びとをどん底に落とし込み、地球を破壊しようとしている。資本主義の行く末は、地獄である。資本主義は、今や地獄への道案内となっている。

 

2025年8月2日土曜日

“暁”を求めてー現代の「織姫」たちー(1982年に書いたもの)

 

消えた「女工哀史」

 野麦峠を訪れる観光客の胸中にあるのは、あの『あゝ野麦峠』に描かれた幼い少女たちが日本近代に残した重い足跡なのだろうか。冬になると野麦峠に雪が降り、少女たちの足跡を消していったように、時の流れは「女工哀史」を歴史的な事象として、おびただしい書物のなかに埋めこんでいってしまう。だが、書物のなかだけに「女工哀史」はあるのだろうか。

 日本の多国籍企業が低賃金労働力を求めて韓国、台湾、東南アジアなどに侵出していっているのは周知のことであろう。繊維産業ももちろんその例外ではない。「女工哀史」の悲劇はそのままのかたちで、まず海外で演じられている。貧困という民衆のありようが、日本企業に甘い汁を吸わせている哀しむべき、いや怒るべき事実がある。

 時間という経験と、空間という緯線が私たちの前に交わっているのである。
 だが、その交点の真下、つまり私たちの足もとにも「貧困」があり、その「貧困」を貪っている者たちがいることは、あまり知られていない。

 

働く女子高校生

 女子高校生が働いている。もちろんアルバイトではない。生きるために、高校生活を維持するために働いているのである。彼女たちは繊維産業(紡績・織物工場)の労働者であると同時に、昼間二交替定時制に通う高校生である。
 彼女たちの一日は次のようにして始まる。
  
 私たちの毎日の生活は、けたたましいめざましの音で目 がさめる。時刻は4時20分。まだ眠りたいという意思とは裏腹に、体だけが自動的に働きはじめる。凍りつくような水で顔を洗うのはとてもつらい。かじかむ指で作業服に着替え、まだ星の散りばめる暗い道を工場へと向かう。その足取りは重い。午前五時、作業開始のサイレンが私たちの頭に響く。まるで『仕事を始めるんだ』と命令するかのように・・・

 このようにして始まった彼女たちの生活は、午後1時30分に仕事を終え、高校へ行く。

 ふつう定時制高校というと、そこに通う生徒たちは、昼間働いて、夜、学校に行く。しかし彼女たちは昼間学校に行くのである。
 このような昼間二交替制定時制高校は、生徒集団を二つに分ける。一方が働いている時、一方は学校に行っている。したがって午前に学校に行く生徒集団もある。彼女たちの労働は午後1時30分から夜の10時まで、あるいは10時30分までである。一週間毎に二つの生徒集団は、それぞれ仕事と学校を交互に繰り返す。このような変則的な生活時間帯は、繊維産業の二交替労働に照応してつくられたものであることは言うまでもない。
 4年の間、こうした生活は続けられる。その間、彼女たちは、思い悩み、様々なことを経験する。

 

「私たちは機械ではない!」

 昼間二交替定時制高校(「昼定」と言われる)の女子高校生たちの生活は、まさに「時間に追われる生活」である。だから彼女たちは歩かない。移動は常に「かけ足」である。

 昼定の一女子高校生はこう語る。

  だって時間がないもの。自分の自由な時間をつくるにはかけ足するしかないんです。

 彼女たちの働き、学ぶ生活の中で、自由になる時間は2時間足らずである。それ以上とるためには、基本的な生活(たとえば睡眠、食事など)を犠牲にしなければならない。列車の過密ダイヤのように、分刻みの時間に追われる。いや、時間に切り刻まれる生活が続くのだ。

 そんな時間のなかで、最もまとまった時間、それは働いている時間である。約8時間の労働の中身はどうなっているのであろうか。幾人かの女子高生たちに「私の仕事」と題したレポートを見せてもらった。そのいくつかを紹介しよう。

 まず織布工場では・・
 ○織布の戸を開いてびっくりすることは、鼻をつく悪臭とガシャガシャという大きな音。落ちついて仕事ができるかと疑問すら出てくる。新入生の時など、機場から出てもキーンという耳鳴りが三週間ほど続き、とても痛く他の音がとても小さく耳に入ってくる 

 ○人数関係にしろ人が足りないために名だけの有給休暇といった感じで、一人もらえば二人でやらなければならないので、後々のことを考えればとてももらう気になれません。病気などをしてもどうしても欠勤する場合にはじめて有給休暇で休むくらいなのです。この職場は体に絶対に害になっていると思う。毛羽が一日に段ボール一箱でるのです。

  ○人数が少ないから、やたらに休むことができない。たまらないのは生理の時です。腰を曲げたりするので苦痛だ。生理休暇がないからお互いいたわり合いながらやっている。

  ○どの職場でも、やっぱり織布は神経を使います。傷なんかはいれば、やっぱり織布の責任だから。4年間働いてつくづくイヤになりました。それから、出勤する時間はみんなより早いのです。同じ時間に始まるのですが、朝織機に油を差さなければならないので、4時35分か40分頃部屋を出なければならないのです。

  次に紡績工場では・・・
  ○粗紡の仕事ですが共通して言えることは、目、口、鼻に綿ぼこりや風綿がはいって痛いし、腰を曲げるので、ある人はヘルニアになった人もいるし、音がうるさいので耳が 痛くなる。

  ○仕事が始まる前に台の清掃。サイレント共に立ちっぱなしの仕事が始まる。

  ○本来なら男の人の仕事だけど、人手不足のため女の子がやっている。精紡でできた管糸を捲糸に運ぶ仕事が管糸運搬である。下に車のついた運搬用の車で一箱10㎏前後の箱を一度に20個ぐらい乗せて運ぶ。

  ○食事は、まわし交替となっていて、先番の時(午前中仕事をする時、午後の場合は後番という-引用者注)は6時45分から45分間ずつ9時まで、後番の時は17 時15分から19時30分までである。それ以外休憩はなく、自分勝手に台を止めることができない。

  ○捲糸には三種類の機械があって、各機械に一日の目標あ げ個数が決められています。そして毎日、黒板に各人のあ げ個数を書き、目標達成ができた人には赤チョークで枠を とったり、丸印をつけたりして、私たちの競争心を駆り立 てているようです。

 女子高生たちが一生懸命に働く、いや働かされている姿が目に浮かぶようである。紡績工場では8時間、ずっと機械の間を走り回っている姿がある。いずれにしても彼女たちの労働は生やさしいものではない。それでもある高校生はいう。

  私たち失敗しないように必死にやっています。失敗したら、他の人に迷惑をかけるし・・・

 彼女たちは与えられた仕事を必死にやろうとする。やらずにはおれないような体制ができているといった方がよいのかもしれない。とにかく働く。しかし彼女たちもふと考えるときがある。

  私たち、台を動かしているというよりも、逆に私たちが動かされているみたい。

  そしてこう叫ぶのである・・

  私たちは機械ではない!

 

破壊される健康

 全日制高校の生徒の疲労度は、学校の生活の中で高くなっていく。しかし昼定の女子高生の疲労度は、学校生活の中で低くなっていく。疲労しきった体は、学校生活の中で回復するのだ。

 女子高生たちは労働の現場で健康を害していく。

 先ず高温多湿の職場環境は、水虫を蔓延させる。水虫がひどくて通院する者が多い。それから難聴。ひどい騒音の中で仕事をするから当然かもしれない。また重いものを持ったり運んだりするので腰痛・ヘルニアに苦しむ者も多く、入院する者もいる。他に関節炎、生理痛・生理不順なども多い。彼女たちは身体の限界を超えて働かされているといってよいだろう。

 このような昼定と他の全日制高校と同時に行われたアンケート結果がある。

 明らかに昼定の女子高生に身体の故障が多いことが分かる。生理休暇も、有給休暇も十分にとれないというなかで、彼女たちの身体は蝕まれていく。

 ある女子高生は、話す。

 企業側は私たちをなんだと思っているのか。生産を増すだけの機械みたいだ。身体の具合が悪くても『あなた学校に行ったんでしょ。だったら仕事だってできるはずよ』と、働け、働け。私たちは勉強するためにここに来たのだ。学校があったから、ここに来たのだ

 通院する場合、彼女たちは学校を休んでいく。学校に行けば「学校に行ったなら仕事はできるはずだ」といわれる。彼女たちは決してズルで欠勤するのではない。欠勤すれば同僚に対して迷惑になることを知っている。やむを得ず休むのだ。それに対して会社側は、「働け、働け」という対応しかとらない。
 その対応も、ただ単に会社側の人間が積極的に行うのではなく、卑劣にも、女同士の目に見えない対立を利用したりする。労働者同士の足の引っ張り合いである。特に上級生が下級生を「指導」することになっているが、実際は「管理」の論理で下級生らに迫っていく。女子高生たちは上下関係の強さを意識してこう言う。

  先輩後輩の差がありすぎる。
  上の人はえらそうだ。 
  上司から言われることを素直に受け入れねばその職場でいやがられる。

 同じ労働者同士が監視し合い、労働を強化させていくのだ。その中で彼女たちの身体は破壊されていく。
 女子高生たちのできることはただ一つ、それは耐えることである。

 一人の女子高生は次のように記している。

 この先いったいどうなるのか。普通の高校生を見るとうらやましく感じ、何度ここをやめたいと思ったか数知れません。『ふつうの高校生になりたい。家に帰りたい。お母さんに甘えていたい。部屋がうまくいかずつまらない。仕事がつらい。もう疲れた』などと泣き言を思ってみたりもしました。そのたびに浮かんでくるのはお母さん、中学生の時の先生の励ましのことばです。『負けない、頑張るぞ』などと自分を励まし、立ち直り、今日まで頑張ることができました。これから先、つらいこと、悲しいこと、いろいろな困難にぶつかると思いますが、自分に負けずに頑張っていきたいと思います。いいえ負けてはならないのです。ここまで来た以上は、勉強と仕事を両立させていかなければならないのです。自分自身のためにも・・・

 彼女たちは4年間、つまり昼定を卒業するまで頑張りたいという。いくらつらくても、苦しくても「自分で選んだ道だから」と。

 しかし4年間必死に働いてやっと卒業=退社だ、と解放的な気分になれればよいのだが、残念ながらそうではない。彼女たちに最後の関門が待ち構えている。

 

会社、やめさせてくれない!!

 女子高生たちは4年間の「時間に切り刻まれる日々」を耐え抜く。そして昼定を卒業すると同時に、新しい世界へ旅立とうとする。だが、繊維のいくつかの企業は退社させてくれないのだ。

 「退職の自由」は、戦前の大日本帝国憲法下の時代ならいざ知らず、日本国憲法があり、その下には労働基準法などがあって、労働者の様々な権利の一つとして保障されているはずである。
 だが現実はそうではない。

 戦前、企業は「前借金」、「強制貯金」、「強制労働」などで、労働者の「退職の自由」を奪っていた。現在ではもちろんこれらのことは禁止されているが、「前借金」ならぬ「仕度金」(後述)、「強制貯金」ならぬ「社内預金」-これらは法に触れないようにしながら、今も十分機能している。

 「社内預金」は請求すれば、遅滞なく返還されることとなっている。しかし、ある女子高生が「会社を辞めたいから、社内預金を下ろしたい」と言ったところ、「まだ退社を認めていないからダメだ」と拒否されることもあったという。このような状況の中で退社するためには、着の身着のままで逃げるしかないという。

 ではどのようにして退職させないようにしているのだろうか。その例をいくつか記そう。
①看護婦になりたいという女子高生に、社長夫人は言う。
「看護婦なんかになると結婚する相手がなくなるし、こき使われるだけよ。ここで働けばお金も貯まるし、親に面倒をかけずに結婚できる」

②3月5日に退社したいという生徒にはこう言う。
「そんなに早くやめて何をするのだ。そんなにあせってやめなくても、4月10日頃、新入生が入社して落ちついてからやめた方が気持ちよくやめられるじゃないか。3月5日でないと親が死ぬとでも言うのか。第一、今まで会社のお世話になっていて、卒業したらハイサヨウナラでは虫がよすぎるじゃないか。人がいないときにやめたいと言っても、それは無理な話だぞ」  

③結婚したいから退社したいといった女子高生に社長はこういう。
「若いからまだ結婚なんて早い。先輩は(卒業後)1年も2年もいるのに、おまえたちだけだ。会社のことは考えないのか。おまえはふつうの人間じゃない」

 企業にとってみれば、3月下旬に「新工」(新入社員)が来るので、4月いっぱいは働いてもらい、新入社員に技術などを伝授してもらいたいわけである。ちなみに企業内にある通信制の高校の卒業式は、4月に入ってからである。

 このように直接的に退社させないようにする一方で、次のようなこともする。
 まず待遇で。4年生になる時点で、退社しない女子高生には寮の個室を与えたりする。あるいは、4年で退社する場合と4年以上働いて退職する場合とでは、退職金に大幅な差をつけたりする。

 さらに、女子高生の親許に行き、退職させないよう親に働きかける。これが彼女たちにとっていちばんの圧力となる。

 彼女たちの通っている高校では、制度的には全くこのことに無関心のようである。なかには女子高生たちのために努力する教師もいるようだが、その動きは大きくはないようだ。

 だから彼女たちみずからが、訴えを始めた。今から5年前、1977年の3月6日のことである。女子高生たちの通う高校で卒業式があった。答辞は沖縄から来た卒業生によって読まれた。

 その答辞は、今も語り続けている。

  ・・・今、私たちの心も喜びでいっぱいです。この日のために遠くからお祝いにかけつけてくださいましたご父兄の方々をはじめ、私たちのために良きご指導を行ってくださいました諸先生方並びに一日も欠かさず送り迎えのバスを出してくださいました企業の方々に心から感謝したいと思います。
  振り返ってみますと、私たちは希望に胸をふくらませて、住みなれた故郷をあとにしました。そして人一倍根性のいる働きながら学ぶという、二つのことを同時にしなければならない昼間定時制への第一歩を歩み始めました。その当時は、どんなことがあっても4年間はやり通してみせるという固い決意と意地がありました。
  ところが、仕事と勉強の両立は、私たちの想像をはるかにこえた、困難をともなったものでした。唯一のくつろぎの場である学校は、全国各地から集まってきた仲間たちに満ちあふれ、私たちの楽しみはここで語りあうことでした。
  今思うと、1年目は無我夢中でやってきたせいもあって、あっという間に過ぎていったような気がします。仕事場では高温多湿という悪条件の中で、多くの人が騒音や水虫に悩み、さらには腰痛、ヘルニアで入院するなど、健康を害する人が数多く現れました。また2~3年前の石油ショックで繊維産業は大きな打撃を受け、この学校を去らなけれ ばならなくなった友もいました。
  このような状態で2年、3年を過ぎ、仕事にも学校にも慣れた私たちは、仕事の単純さと学校のつまらなさを日々感じたものでした。楽しみも日曜日と給料日だけの、はかなく空しいものに変わっていました。
  それを解決するために努力したかというとそうではなく、ただなんとなくこのような状態に押し流されて現在にたどりついたような気がします。それで充実した日々が送れたと満足していえる人がいるだろうか。この青春のまっ盛りの時期に、何かをし残したような空虚さを感じずにはいられません。その一つとしては、学校や企業に対する不満を爆発させずに今まで来たことです。
  私たち卒業生は今ここで次のことを要望したいと思います。第一に学校へは、「学校に就職の斡旋を委託する」という内容を持つ職業安定法第25条3項を採用し、転職希望者のために就職斡旋を行うことを希望したいと思います。2月中旬に調べた4年生の進路状況は、転職希望者のうちわずか34・45%しか決まっていない状態でした。毎年卒業生を送り出す学校側としては、そういう矛盾をなくし、卒業後の保証をしてほしいと思います。
  次に先生方は、生徒の持つあらゆる可能性を信じること、そしてこの学校は県立高校だということを、先生方はじめ企業側も再認識していただきたいと思います。
  第二に企業側への要望といたしましては、転職の自由を認めてほしいということです。それに会社で働く人たちの個人を尊重する意味で、寮生活の改善や食事の栄養面も考えて「苦情処理」の実現を果たすこと、特にある紡績に関しては、寮内の規則制限を緩め、プライバシーの侵害をしないことの要望も加えたいと思います。
  最後の要望は在校生の皆さんに対してです。在校生の皆さん、現在目覚めつつある生徒会に協力し、さらに発展させること、そして自分たちで決めたきまりを理由なく破らぬこと、不満なところは自分たちの手で改善して勝ちとることを望みます。もう一つ、今出した要望の行く末を見守り実現させてください。
  以上のことは、私たち卒業生の最大の望みであります。
  ・・・・・(中略)・・・
  離ればなれになる私たちは今度いつ会えるかわからない まま、一人ひとりの道を歩いて行きます。着実にしっかりと目的に向かって旅だっていきます。また次の目標をめざして。
  『詞集 たいまつ』より
   始めに終わりがある。
   抵抗するなら最初に抵抗せよ。
   歓喜するなら最後に歓喜せよ。
   途中で泣くな。
   途中で笑うな。


北から南から

 この昼間二交替制定時制の高校は東海地方のH市にある。昔から繊維産業の盛んな地域で、特に規模零細な織物工場が多い。そしてここでも、その労働力を寒村僻地の娘に依存していた。言うまでもなく、地元の娘よりも低賃金ですむからである。


 昭和初期に織物工場で働いていたY・Oさん(大正五年生)は宮城県桃生郡からH市に来た。一日一五時間ほどの労働の厳しさに工場から飛び出したこともあるという。昔を振り返ってこう言う。
 「つらかったよー。だけど家に帰っても貧しいし、農作業やらにゃいかんかったし・・・。雪もいやだったなぁ」
 このように東北地方から来た女工さんは「奥州っ子」と呼ばれていた。戦前は、東北地方や東海地方の山奥から来た人が多かったようだ。

 しかし今はちがう。北は北海道の利尻島から、南は沖縄・八重山列島から、続々と集まってくるのだ。いずれも寒村僻地からといってよいだろう。
 三月の下旬になると大きなバッグを持ったまだ童顔の少女たちがH市の駅に降り立つ。彼女たちは迎えの車に乗ってそれぞれの職場に向かう。どんな生活が待っているのかを知らない彼女たちは一様に希望を持った顔をしている。だが、二~三週間経つなかで彼女たちの顔から笑みが消えていく。時間に切り刻まれる生活は笑みを浮かべる余裕すら奪っていくのだ。

 遙か遠方の中学生だった彼女たちはどのようにしてこの昼間二交替定時制の高校の存在を知るのだろうか。またなぜ来るのだろうか。

 彼女たちは、「だまされた」と言うのだ。学校が募集するのではない。学校は『入学案内』を作成してそれを企業に頒布するだけだ。その『入学案内』には、素晴らしい文章が踊っている。
 「理想や情熱がほとばしる学園生活」
 「全国から集まった仲間が、この〇〇高で青春を謳歌しています」
 この美辞麗句が散りばめられた『入学案内』を持って各地にいる募集人(戦前は桂庵といっていた)が活躍するのだ。
 中学校の教師にコネをつけ、来そうな中学生に目をつけて、腕時計や菓子折やらを持って家庭訪問をする。
 「週休二日になる」とか「寮の設備や近代的」とか言って、親・子どもの歓心をかうのだ。そして就職=進学することが決まると“支度金”を渡す。額はまちまちだが五~六万円だと聞いた。

 この“支度金”は近大きな役割を果たす。競合しないようにはしているようであるが、まず他の企業が求人に来ても、渡してしまえばもう大丈夫である。また、就職した後、職場でのさまざまな人間関係、過酷な労働に耐えかねて退職というときには一種の「拘束」ともなるようだ。

 もちろん募集人は募集時だけ活躍するのではない。しばしば就職した女工さんの家庭を訪問する。特に、女子高生が高校を卒業して退職しようとする頃に頻繁に訪問するようである。転職を阻止するためである。このために親が募集人の言うこときいてしまい、やむなく残った者もいるという。

 ところでなぜ来るのであろうか。この高校に来る子どもは、およそ次のような子どもたちである。
「 a 成績は比較的良いが経済的に恵まれない者
  b通える範囲に学校のない者(離島・僻村)
    c 入れてくれる学校のないほどの「低学力」者
  d 家庭の事情で家にいられない者(母親の再婚等)
 彼女たちは概して下層家庭に生い立ち、教育的環境・親の愛情等に恵まれない。
(1979年度全国教研提出レポート『A高校における修学旅行問題」より)

 いく人かの女子高生から話を聞いた
 Yさん。父一人、母はいない。幼い頃に死んでしまったという。父は体が弱く、あまり働けない。Yさんは岩手県から来た。
 Mさん。静岡県の山奥の出身である。もちろん近くに高校はない。高校進学のためには下宿をしなければならないが、その経済的余裕はない。ちなみに、Mさんの母も繊維産業に女工として娘の頃いっていたという。
 聞くところによると、このように祖母・母と数世代にわたり繊維産業の女工として働いているという女子高生が多い。
 Kさんは宮崎県の小さな農家で生まれた。病気がちで働けないでいる父親と、手術の失敗で背中をまっすぐに伸ばせなくなった母親がいる。だからKさんは来た。高校に行けないと思っていたKさんにとって昼間通える高校は大変魅力的なものに見えたのは言うまでもないことである。
 Oさん。複雑な家庭である。異母兄妹がいる。継母がいる。幼い時から「家を出たい」と思っていた。高校進学を機に家を出て、この生活に入り、今は卒業して東京にいる。
 そしてその他にもさまざまな事情を持った女子高生が生きている。

 全日制の高校に入れないから、という事情を持つ者たち。しかし経済的余裕があり、入ろうという意志さえあれば入れる高校あるだろう。また、要するに「成績」が悪いということなのだろうが、実際には「成績」と家庭の富裕度は比例関係にあると言われている。 見るがよい。「貧困」の再生産が繊維産業を支えるという社会のありようを。はたして歴史は何を解決したというのだろう。

一人になりたい

 親元を離れて寮(寄宿舎)に入る。夢にまで見た寮生活が始まる。しかし・・・・
 

『生活の場を見つめて』という女子高生の作ったパンフレットから紹介してみよう。現実はこうだ。
 「バラ色のイメージとかけ離れていて良くなかった」
 「パンフレットや労務の人の話と違っていた」

 そして具体的に次のような声が綴られる。「畳しかない」、「部屋が狭い」、「古いのでびっくりした」等々。しかしこのような設備の面だけでなく、より彼女たちを悩ますものに(職場の人間関係だけでなく)寮での人間関係がある。
 「寮生の心はすさんでいて、ひがみあいやけんかばかりで、他人とのつきあいが難しいことがわかった」「もっと楽しいところかと思ったが、おもしろくない」、「先輩・後輩の関係が強く、先輩はうるさい、こわい」
 一部屋三~四人のなかでも暗闘が続く。一五畳ほどの部屋で繰りひろげられる日常生活は決して楽なものではないようだ。

 そして翌日の労働に支障が起きないように行われる管理。

 消灯時刻になると電気が全く使えなくなってしまう。電源をもとで切ってしまうからだ。だからなお勉強しようとするなら、廊下、あるいはトイレのうす明かりを利用するしかないという。
 また門限の時刻が決まっていてそれに遅れると、以後の外出がしばらくの間(長くて一カ月間)禁止される。
 会社の敷地の中にある寮での様々な「自主的」管理や「自主的」活動(例えば構内の除草など)から、そして難しい人間関係の網の目から逃れるために彼女たちは外へ出る。休日にはほとんどの者が外出するという。

 女子高生たちは外で大いに羽を伸ばす。
 「スカG」とか「Z」、あるいは「シャコタン」とかいうことばも交わされる。今の若者たちが車に精力を注ぎこむように、彼女たちも車に「凝る」。もちろん、乗せてもらうのだ。そのようななかで、男性との間で問題(例えば妊娠など)が起こったり、あるいは水商売などに入っていたりする者もいるという。世間から見れば「道徳的退廃」とでも言われるのかもしれない。
 しかし彼女たちの、あの厳しい生活を見ると、彼女たちにとっては、幻想的ではあるけれども、一種の解放となっているのであろう。

 ある少年に聞いた。
 少年は、ガールハントをしたいときには「オリネエ」(織物工場の女工さん)、「ボーネエ」(紡績工場で働く女工さん)をねらうというのだ。彼は「すぐひっかかる」という。 彼女たちは自分たちが「オリネエ」「」ボーネエ」と呼ばれていることを知っている。この差別的呼称に居直っているようにもみえる。それが、私には「悲劇的」に見えてしかたがない。

 一人の女子高生はこう言った。
「一人になりたい時もあります。でも一人になれる時は、機械の間を走り回っている時なんです」

 今、生きるとき

 A高校だけではない。繊維産業の盛んな地域には必ずこのような昼間二交替定時制の高校がある。愛知、岐阜、三重、静岡、長野、岡山等々。

 だがこのA高校は特別だ。A高校の生徒たちは、生きている、いや生きようとしている。ここ数年間、女子高生たちがみずからの生きざまを訴え、問い直し、そして「暁」を求めようとしているのだ。

 その契機になったのは、高校生文化研究会発行の『風さわぐ野の花』という本であった。  「私たちの前に1冊の本があった。書名を『風さわぐ野の花』という。混沌とした意識の中に沈潜していた私たちのエネルギーに豊かな滋養が注ぎこまれた。私たちは知ったのである。自分たちと同じ高校生がここにもいる、と。ただ違いがある。『・・・野の花』の女子高生たちは動いている、生きている。私達も動かなければならない、生きようとしなければならない」

 六年前、沖縄出身のE子さんの文章である。E子さんたちは、まず自分たちの生活を見つめはじめた。心の奥底に淀んでいたものが一気に、あるいは徐々に形をとりはじめたのだ。その形は、A高校の生徒会が毎年発行している生徒会誌『暁』にしっかりと刻まれている。

 文化の花、開け

 A高校は低賃金で働く若年女子労働力を確保する手段として、繊維業界の要望により創設された。言わば「資本の論理」の上に創設されたのである。したがって矛盾も多い。

 例えば、企業の二交替労働に照応させているために、始業式・終業式等は午前・午後の二回行われる。体育祭・文化祭・卒業式などの全体的な行事は、日曜日にもたれる。働く女子高生の休日にである。

 企業の立場からは別に問題とすべきことではないのかもしれない。しかし女子高生たちにとってはそうでもない。

 Kさんはこういうのだ。
 「つくづくこんな生活が嫌に思えるのは、学校優先に考えて動くと、仕事中眠くて能率が悪く、逆に仕事を尊重して睡眠時間を気にすると他のことは何もできないって感じで、いったい自分はどうやりくりすればいいのかと考えだすときがあるからです。せめて早朝(五時~)や深夜(一〇時~)の労働がなくなればいいのに・・・」

 二律背反的状況のなかで苦しむ女子高生たちは、そしてこう主張する。
 「私達は進学を選んだことを忘れてはいけない。もし生活に困っていてお金が欲しかっただけならば、働くだけの道を選んだだろう」

 このように言い切った彼女たちは「文化祭二日化」運動を展開する。

 企業中心に動いている学校のあり方を生徒の力で転換させる、つまり土曜日を文化祭のために休み(操業ストップ)にさせようというのである。もちろん、文化的なものから疎外されている状況を打破していくという目的もある。

 女子高生たちは校長に対して「文化祭二日化に関する要望書」を提出して文書回答を要求した。校長は文書回答を拒否してこういう。
 「校長のコケンにかけても絶対に文書回答はしない。君たちは何をしているんだ。このような不健全な活動が続くようだったら生徒会活動は二、三年凍結する。生徒会というものは校長が認める範囲でしか活動できないのだ。校長が文書回答しないと一回言ったら、君たちはそれですぐわからなくはいけない」

 このような校長の言明にもひるまずに、生徒会を中心とする活動のなかで「二日化」を実現していく。その間、要望書の校内提示をめぐる攻防、生徒たちによる企業への働きかけ等創意的な闘いが展開されたという。
 いずれにしてもこの闘いの結果、「産学協同」ならぬ「産主学従」の学校のあり方を突破する糸口をつくったということになる。
 と同時に、A高校の文化祭は、全日制高校の文化祭が低迷を続けていくなかで、自分たちの生活に根ざしたものつくりあげていった。

 当時生徒会役員だったOさんは、
「全日制の高校生も驚いていました。あとで素晴らしかったという手紙が届いたりして、私たちもたいへん自信がついたような気がしました」と言う。
 ちなみに、二日化を実現した文化祭のテーマは「今、五体を躍動させる時」、翌年(1978年)は「暁を我らの手で-存在の証しを今打ち立てよう」であった。

奪われた修学旅行

 「私達は先生方がまだあたたかい布団の中で夢見ている時刻に仕事を始め、また、先生方が家族と一緒にテレビを囲んでいる時刻に現場で糸をつないでいます。眠い目をこすりながらバス(注)に乗り込み、眠けをこらえて先生の声に耳をかたむける。バスに乗り込むのも、バスを降りるのも、また、現場に行くのにも、いつも何かに追われるかのようにかけ足、かけ足の私たちです。時間に追われる、こうした生活の中で、四年になってからの修学旅行を、私達はあこがれに似た気持ちで望んでいたのです。その旅行が間近になってなくなってしまうなんて・・・。私達は普段釘づけにされている仕事から解放され、クラスメイトみんなで、見知らぬ街を歩いたり、友達と心ゆくまで話し合ったり、という貴重な時を失ってしまったのです。これからの学校生活を何を楽しみにして送ったらよいのでしょうか。一生懸命汗水たらして働いて得た中から積立金四千円を払うのはつらかったけれど、それも『四年生になれば・・』という希望があったからこそ耐えてきたのです。私はまだ修学旅行があきらめきれません」(注 会社の送迎用のバスのこと)
 長々と引用したが、このA高校の生徒たちが修学旅行をどのようにみているのか、をまず念頭においてほしいと思ったからである。

 事情はこうだ。

 校長が何を思ったか、PTAならぬETA(雇用者と教師の会)の総会において「来年度(一九七九年度)の修学旅行は五月のゴールデン・ウィークに行う」と言明したのだ。これはA高校の教職員も誰一人知らなかったことであった。
 驚いたのは女子高生たちである。彼女たちにとって、長期休暇は正月と旧盆、それにゴールデン・ウィークの三回しかない。その三回は親元を離れている女子高生たちにとっては帰省の機会でもある。

 例年四年生は五月の連休に帰省し、五月中旬から三班に分けて行われる修学旅行(一度に行かれると、企業の操業に支障をきたすので分割する。先番・後番の一クラスずつが組んで行く)を満喫していたのだ。五月はしたがって彼女たちにとって二度休暇がくるということになる。ゴールデン・ウィークと修学旅行と。
 しかし、もしゴールデン・ウィークに行われると、帰省もできないし、さらには大混雑のなかで修学旅行に行かなければならない。

 女子高生たちははっきりと「ノン!」を叫び、校長にたたきつけたのだ。
 まず彼女たちは学校からの五月連休実施についてのアンケート拒否し(白紙提出)、即座に生徒集会(授業時間をもらって)を開き、校長に談判にいく。そして学級担任に対して次のような決議文を渡すのだ。
「〈修学旅行についてのおねがい〉
私たちは連休に行われる修学旅行には行きたくありません。連休をはずして実施できるように職員会議で私たちの気持ちを伝えて欲しいと思います。
 三年〇組一同」

 さらに、生徒会では中央委員会を開き、次のような決議をあげ、全クラスの背面黒板に書きつける。ビラとか模造紙で発表しようとすれば、教師にとりあげられるか、はずされてしまうからである。黒板に書けば、消されてもいつでも書ける。
「〈要望〉
私たちは、修学旅行を一回で行うことは理想ですが、連休での修学旅行は望みません。しかし、私たちは学校生活の思い出となる修学旅行は絶対に行きたいと思います。私たちの以上の要望をかなえて下さい。私たちから、修学旅行をとらないで!!」

 女子高生たちは無理な要求を出しているわけではない。今まで通りで実施せよ、と言っているのだ。しかし頑迷な校長は、彼女たちの要求を無視し続け、結局連休実施、もし参加者が少なければ中止する、いう強硬な結論を彼女たちに押しつけてきたのだ。
 彼女たちは自分たちの企業に働きかけて、今まで通りの修学旅行を実施するよう学校に言ってもらったりもした。

 だが九月にアンケートが強行された。その結果、女子高生たちの九割以上が連休実施の修学旅行の不参加の回答し、中止となってしまった。

 この闘いはこうして翌年(一九七九年度)の三年生に受け継がれることとなった。
 五月に開かれた生徒総会では、修学旅行問題を議題とすることを学校側から禁止されてしまった。もちろん女子高生たちはそんなことにひるむわけではない。動議としてそれを提案し、話し合いをもった。生徒たちは次から次へと発言した。拍手があった。掛声があがった。そして決議をあげた。「連休実施反対、全校生徒でこの問題に取り組んでいく」という決議を。
 だがその後、修学旅行に関する生徒会活動は力ずくで禁止されてしまった。生徒会室に教師が常駐するようになり、生徒会役員が話し合うとすぐに教師が来て解散させる。
 校長は言った。
 「校長の方針にしたがえないものは君達でも、先生でも出ていってもらう」と。

 その後、アンケートが実施された。七割の女子高生が「不参加」に〇印をつけた。また中止である。

 女子高生たちはこういう。
 「先生方はすぐ『秩序、秩序』という。辞書には『社会の規則立った関係』とある。すると、社会の秩序父というのは力のあるものが私達のような力のないものをその力によって押さえつけることによって成り立つのでしょうか」
 そしてこう呼びかけるのだ。
 「結果が良くないからといって尻込みしてはいけません。大切なことは、自分達の問題に自分達で取り組み改善してゆこうとする姿勢です。この姿勢を崩さないかぎり、私達はどんな困難も乗り越えていくことができると思います」
 奪われた修学旅行は奪い返さねばならない。そのための闘いは今も続けられているという。 

 “暁を求めて”

 細井和喜蔵はその著『女工哀史』の末尾にこう記したーー
 “いま太陽の光りは濁っている”

それからいったいどれほどの歳月が過ぎていったのだろう。今もなお、太陽の光は濁っているではないか。

 GNP世界第二位と言われ、「福祉国家」と言われるこの日本で、厳しい条件の中で生きていかざるをえない子どもたちが、社会の片隅で「女工哀史」を演じざるを得ない現実がある。「女工哀史」は書物のなかだけにあるのではないのだ。

 このA高校の女生徒たちのことが『毎日新聞』(一九七七年一〇・二三付)で報道されるまで、私も「過去」のことと思い込んでいた。取材を始めて次から次へと浮かび上がってきた事実に私は怒り、あるいは哀しみ、あるいは感動した。
 怒ったこと、それは彼女たちの労働の実態と学校側の姿勢であった。
 まだ何も知らない中学校を卒業したてのあどけない少女たちを、過酷な労働に平然と投げこんでいくこのありよう。そして、そのような少女たちの苦しみを真正面から受け止めずに、姑息な手段を弄する教師の群れ。
 考えてみればこのようなA高校はあってはならない。A高校のなかに渦巻く矛盾の数々は、その存在理由から発しているからである。

 哀しんだこと、それはもちろん怒りのバネともなるものであるが、一つは彼女たちの境遇である。「同情なんかいらないよ」と言われるかもしれないけれども、私は幾度か言葉につまることきを経験した。また、彼女たちの「忍耐」である。必死に耐えている姿を見て私は、単なる忍耐ではいけない、再起を期すための忍耐でなければ、と思わずにはいられなかった。それでなければ、あまりにむごいではないか。それともう一つ。それは、彼女たちの「遊び」である。「遊び」のなかで身を持ち崩す場合もあるという。

 そして感動したこと、それは言うまでもなく彼女たちの闘いである。彼女たちにとっては生きること即たたかいであるにもかかわらず、そのうえに自分たちの生活に根ざした創造的な闘いを繰り広げる。

 一九七八年度の文化祭のテーマは「暁を我らの手でー存在の証しを今うちたてよう」であった。
 彼女たちはさまざまなたたかいのなかで、みずからの生に限りない意味を持たせようとしている・“暁”を求めて、彼女たちは強くたくましく生きようとしているのだ。

〈付記〉文中引用した資料は、直接取材したもの以外は、主に生徒会機関誌『暁』と、高校生文化研究会『考える高校生』からのものである。

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 ここに書いた昼間定時制高校は、今はない。繊維産業が、低賃金労働力を求めて海外へとでていったからである。このような過酷な労働は、今は東南アジアのどこかで繰り広げられているのだろう。資本は、カネ儲けのために、国境をこえ、低賃金で働く「金の卵」をさがしていく。 

酷暑、猛暑・・・・

  この暑さを何と呼べば良いだろう。

 毎日夕方17時過ぎから畑に行って収穫、水遣り、除草をしていたが、一昨日、畑の気温は34度、少し動いただけでクラクラしたのできりあげてきた。昨日は、一昨日よりも気温が高かったので行くのをやめた。今日は、さらに暑い。現在の気温は、35.6度だという。もちろんこの気温は日陰の涼しいところで計測しているだろうから、炎天下は40度くらいだろう。

 わたしは今、エアコンのなか、26.3度の室内にいるが、今日も畑に行けないかも知れない。

 この地方は雨がずっと降っていない。昨夜は雷雨がありそうだということで雨雲レーダーをみていたら、ここらに来る前に雨雲は消え去り、パラパラと降っただけだった。昨年7月頃も、40日間雨が降らなかった。今年も同じような状況で、農作物の出来はよくないだろう。新潟県や東北地方も雨が降っていないようだから、米の供給は今年も満足にはいかないだろう。となると、米の価格は下がらない。

 近年は、春と秋がほとんどなくて、猛暑の夏と厳寒の冬となる。子どもの頃の気候はよかった。夏冬の気温差はせいぜい30度程度だったのではないか。夏の気温30度超えは、8月であってもほとんどなかった。冬はマイナス2度くらいが最低気温だったような記憶がある。

 気候変動は、もうはっきりしてきている。何らかの対策をしていかないと、これからの人々はこの地球で生きることも難しくなるのではないだろうか。

 資本主義というのは、要するにカネ儲けの経済であるが、1990年代以降の新自由主義というのは、資本主義の断末魔ではないかと思っている。富裕層や巨大企業は、さらにさらにとカネ儲けに走る、その際、ムカシはあった倫理や良識をまったく無視して、とにかくカネ儲けが出来ればいい、ということから、東京都が積極的にやっているように、樹木を伐採し、公園を潰し、そこにカネ儲けができるものを建設しようと血眼になっている。後の時代のことなど考えもしない。まさに「今だけ、自分だけ、カネだけ」という断末魔の資本主義のあり方を、どこでも示している。断末魔の資本主義は、おそらく地球の未来をも食い尽くしていくのだろう。

 食い尽くされる現状をみていて、人びとは食い尽くす側の人びとに期待をつなごうとしている。新自由主義に、人びとは心まで支配されていて、良識や倫理といったものに見向きもしない。政治家や官僚がその手本を示す。

 地球の未来が食い尽くされるということは、人類の未来もないということである。その方向に向けて、新自由主義がそこに至る道をきれいにしている。みんなで行こう、というように。

 酷暑、猛暑が、人びとに襲いかかってくる。何とかしよう!という声が大きくなることはないのだろうか。

 

2025年8月1日金曜日

【本】帚木蓬生『ギャンブル依存国家・日本 パチンコからはじまる精神疾患』(光文社新書)

  2014年に刊行された本を今日読んだ。

 わたしは胴元が儲かる賭け事はしない。パチンコはもちろん、麻雀もやらないし、競輪、競馬などもやらない。浜松市にはオートレースがあるが、一度も行ったことはない。

 なぜこの本を買ったのか記憶にはないが、帚木蓬生の小説はいろいろ読んでいるので、その関係で購入したのだろう。

 読んでみて驚いたのは、公認されている博打(賭け事)には、経済産業省(競輪、オートレース)、文科省(スポーツ振興くじ)、警察庁・公安委員会(パチンコ)、農水省(競馬)、国交省(競艇) という省庁がそこからの利権を分け合っていること、政治家議連をつくって賭博業界の応援団を担っていること・・・・など、はじめて知ったことが書かれていた。

 古代から日本の為政者は、賭博を厳しく禁止していたのだが、戦後になって政治家や官僚と繋がることで、賭博が公認されるようになったことも知った。日本にカジノを導入しようとしているカジノ議連には、自民党、立憲民主党、維新、国民民主党、公明党の議員が参加し、参加していないのは共産党、社民党、れいわ新選組だという。

 ギャンブル依存症で多くの国民が苦しんでいる状況があるのに、自民党や立憲民主党など、こうした政党がカジノを推進しようとしていることにたいへん驚いた。立憲民主党なんかは、わたしが見通していたとおり、自民党と基本的に変わらない政党であることを再認識した。 

 ギャンブルと無関係に生きている人こそ、この本を読んで、その弊害を知った方がよい。自分とは関係ない、という意見はわかるが、ギャンブルは日本(人)を蝕んでいく。

 

ギャンブル国家

  書棚にあった帚木蓬生『ギャンブル依存国家・日本』(光文社新書)を手に取った。2014年に出版された本で、書棚に読まれもせずにおかれていた。

 買い物に行く途中にパチンコ店がある。その前にたくさんの車がとまっている。猛暑の8月、涼しい環境でパチンコに多くの人が詰めかけている。パチンコ店は大流行である。人生のたいせつな時間の使い途がはっきりしていない方々が、パチンコ店に吸い込まれていく。わが家の向かいの80代の男性は毎日、最近は夕方から自転車に乗ってパチンコに通う。この人は家では家事その他何もしていない、パチンコだけが彼の「仕事」である。以前は挨拶はしていたが、ある時ごみの出し方について隣家の奥さんに暴言を吐いたので、その時から私はまったく彼を無視している。

 わたしの高校時代の友人がパチンコ店(今は営業していない)の女性と結婚し、その家に入った。今はまったく会っていないが、彼からパチンコ店の経営について聞いたことがある。毎夜、どのくらいタマがでたかを見ながら、クギを調整していくという。どのくらい儲けられるかは、クギ次第だという。ギャンブルは、どんなものでも、いずれにしても主宰者が儲ける。自治体の宝くじも同じで、収益金は自治体に流される。ギャンブルは、胴元が儲かるのである。

 わたしがパチンコをやったのは、人生で一回である。従兄と一緒にパチンコ店に一度だけ入って経験した。それだけだ。

 帚木は、作家であり精神医学者で、ギャンブル依存症治療に力を入れている。ギャンブル依存症は精神疾患であり、日本の患者が多い。なぜなら、パチンコがあるからである。それ以外に、国家が認めたギャンブルがある。競艇、競馬、競輪、オートレースなど。日本国家は、率先してギャンブルを推進する犯罪的な国家なのである。そしてそれらのギャンブルには、巨大な利権がまとわりついている。

 日本国家は、さらにカジノをやろうとしている。大阪の万博会場の隣にカジノをつくらせている。積極的なのは、大阪維新の会である。こういう政党に大阪など関西の選挙民が投票しているのだから、驚きあきれる。

 さてここで本題である。ギャンブル国家・日本が、実は全国を覆っている。というのも、各種の選挙、国会議員、首長、地方議会議員の選挙、いずれも、選挙民はギャンブルに関わるような仕方で投票していると思うからである。

 選挙は、じっくりと考えないと、自分自身に様々に影響を与えてくる。30年以上も政治権力を掌握してきた自由民主党、公明党による政権によって、日本はどうなったか。巨大企業や一部の富裕層にカネが集まり、庶民の所得は減り続け、今では海外から「日本」を買うために大勢の外国人がやってくる。日本は、「安い、安い・・・」と。要するに、自由民主党、公明党政権は、外国に日本を売り渡そうとしてきたのである。とりわけ、アメリカには日本人が蓄積してきた富を、平然と献上してきたのである。

 直近の参議院議員選挙においても、こんな人を当選させるかなと驚くような人物が国会議員になる。首長選挙においても、こんな人物を当選させるのか、と。兵庫県知事、伊東市長、上越市長・・・・・伊東市長の場合は、市立図書館建設反対という一点を主張した人物が当選したようだが、わたしのように図書館をよく利用する者にとっては、充実した図書館は歓迎である。図書館は、その地域の文化のバロメーターでもある、伊東市民は、そうした文化を軽視する人物を首長としたのである。大学に入学したけれども大学にほとんど行かず、つまり勉強もせずにいた人物を当選させ、今や全国から注目される都市となった。

 日本の選挙民は、ギャンブラーなのだ。ギャンブルは、賭けた結果はわからない、損するかもしれないし得するかも知れない。ほんとうは選挙は、十分に調べて投票行動に移るべきなのに、感情というか情動というか、それにもとづいて投票する。

 ギャンブル依存症の人びとは、多額の借金を負い、生活を破壊する。日本の政治も同じ。ギャンブラーとして投票する結果として、経済的に厳しい生活を余儀なくされる。いったいこうした状態がいつまで続くのだろうか。