この書評は、2020年に書いたものである。gooの「浜名史学」に掲載したものだが、読みたいという方がいたので、ここにアップする。
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駄場さん、と呼ぼう。彼は経歴にもあるが朝日新聞記者であった。朝日新聞記者として、浜松支局にいた。私はその頃の彼とつきあいがあった。記事原稿を書き終えた真夜中、しばしばわが家を訪ねてきた。彼は記事一つ書くときでも、厖大な資料をもとに書いていた。私の友人で、他社の記者がいたが、その記者は早々に記事を書き終えると夜の街へと出て行った。その際私も同行することがあったが、駄場さんは、それはそれは丁寧に資料を集めて書いていたので、記事なんてそんなに資料を集めなくてもかけるのではないか、そこまで集めるなら研究者にでもなったらどうかと言ったことがある。
彼と話をして、彼の頭の中には、たくさんの知識がきわめて整理されてしまいこまれていることが分かった。私の問いに、整理された知識がさらっと示されるという経験を何度もした。そのときに、この人の頭の中は、私とは構造が異なるとつくづくと思ったものだ。頭の良い人というのは、記憶したものをきれいに整頓して脳のどこかに格納できる人だと思った。
彼が朝日をやめて、東大の社会学の大学院に入った頃まではつきあいがあったが、その後途絶えた。そしてしばらくして、ネットで彼の名が、歴史研究者として出てくるようになった。そして南窓社から後藤新平の研究書を出版していた。彼の最初の本、『大新聞社ーその人脈・金脈の研究』(1996年刊行)はいただいた。その大新聞社というのは、朝日新聞社である。
彼の名をちくま新書の本に発見したのですぐに購入した。他に緊急の仕事があったので一度は中断したが、今日読み終えた。
読み終えて、多彩な内容について厖大な資料を博捜し、それらを見事につなげてみずからの思考・推測につなげていくという記述は、あの頃の駄場さんの能力の高さがまったく変わらないでいることを認識した。
それにしても、巻末に掲げられた文献・資料は尋常ではない。それらを読みとおす気力と、そこで得られたものを生かし切るという能力は、他の人にはない。もちろん私なんかは足元にも及ばない。すごい!という感慨をもちつつ、内容的にはどうしても看過できないものがある。
まず私は、なぜ駄場さんが、「左翼」とか「右翼」ということばにここまで拘泥しているかがわからない。
「はじめに」は、「日本では一般に朝日新聞社は「左」よりとされ、産経新聞社や自衛隊は「右」寄りとされる」で始まる。
「左」とか「右」というのは相対的な概念であり、駄場さんは「一般」は上記のようにみているのではないかと推測しているようだが、しかし現代では「左翼」ということばは、「右翼」ということばはまだしもであるが(「右翼」が自らをそう呼んでいる)、もう「死語」に近い。いわゆる「左翼」勢力は、現在みずからを「リベラル」などと呼んでいるほどだ。
私に言わせてもらえば、朝日新聞を「左」だなんて思ったこともない。また自衛隊を「右」寄りという認識もない。もしあるとするなら、もと航空幕僚長だった田母神という人は、「右」だと思う。組織としての「自衛隊」を「右より」だとは思わない。
この「右翼」、「左翼」という相対的な概念を、本書のひとつの分析軸にしているようだが、それ自体アナクロニズムではないかと思う。それが先ず第一点である。
第一部
第1章はその分析軸が、揺らいでいることを証明するというのだが、つまり「左翼」だと思っていた人が、実は「右翼」ともつながっていたとか、そういう例を並べていくのだが、「左翼」「右翼」という分析軸の有効性を是としないものにとっては、これはムダな内容だと思う。
第2章では、「一般に体制側の人物だったと見られがちな後藤新平の「左翼」人脈を検証し、後藤に由来する反米「左翼」勢力が・・・・「左翼=反皇室」では決してないことを示す」というのだが、まず後藤新平は、私の認識としては当然「体制側の人物」であると認識している、たとえ彼が「左翼」との交際があったとしても、である。そして「左翼=反皇室」ではないということも、別にあたらしいことではない。あえてそれを証明する必要もないのではないか。
第3章は、「現在では「左翼」系メディアの代表となっている朝日新聞」について、「その「左翼」性の本質はまったく一貫していないことを明らかにする」というのだが、私のように朝日新聞を「「左翼」系メディアの代表」と認識していない者にとっては(そういう人が多いだろう。駄場さんと同じ認識を持っているのは安倍晋三とその仲間たちではないか)、この章も不要であり、別に「一貫していな」くても、まったく気にならないのである。
以上のように、以上の立論は、言ってしまえば、駄場さんの思い込み、それも主観的なそれにもとづいて行われているように思えてならない。
以上の問題意識にもとづいて、駄場さんは資料を博捜して、それを丁寧に、持ち前の頭のよさを駆使して整合的な説明を行っているが、あまり意味のないことだと言わざるをえない。前提としての問題意識が、他者の理解を得られるものではないのだ。
読んでいて、そうではないと指摘しておかなければならないことがある。それは次の叙述である(40頁)。
「日本が日清戦争・日露戦争によって植民地にした台湾と朝鮮の統治については、朝鮮では失敗して反日感情を極度に強めたが、台湾では一定の成果を収めて親日感情を醸成した」として、「児玉・後藤」神話への言及があるが、しかしその内実に関する記述は皆無である。
私が調べたことを示すと、1945年、台湾から日本軍や日本人が日本に帰還したことを、台湾の人びとは喜んだのだが、しかしその後に入りこんできた中華民国関係者があまりにひどく、官公署の日本人が就いていたポストに中国本土からの人間が就き、それはそれは台湾の人びとを下品にいじめたのである。そしてその後1949年、中華人民共和国成立とともにたくさんの外省人が入りこみ、それに対する反感が、日本統治時代を懐かしむというところにつながったのである。結果的に「親日感情」が出現したのである。別に植民地統治が「成果を収め」たわけではないのである。
ついでに記しておけば、ここの項目で、「日本共産党は日ソ国交樹立に積極的な後藤新平、内田良平ら玄洋社系勢力の対ソ交渉窓口として設立されたとしか考えられない」(85頁)とあるが、これはまた突飛な主張である。駄場さんの立論の大きな特徴は、人脈でつなげていきそれによって判断する傾向が強い。たとえ人脈がつながっていたとしても、一つの歴史的事件はさまざまな要因が重なって出現するのであって(たくさんの人びとの行動の結果)、駄場さんのような主張は妥当ではない。
駄場さんのこの著書は、多岐にわたって様々な論点を提示しているが、それらの一つ一つには、長い研究史があるのであって、それらを踏まえて、いったいどういう主張が、どういう資史料をもとに可能になるのかを、厳密に示さなければならないのだ。本書には、えっと思うような記述が各所に見られる。
駄場さんには申し訳ないけれども、本書にはいろいろ指摘したいことがある。90頁に、「吉田茂から池田勇人の宏池会に始まる戦後の「保守本流」と最も近い関係にある新聞社は朝日であ」る、という指摘がある。となると、冒頭の朝日を「左翼」に比定するのはいかがなものかと思うのだが、どうだろうか。
さて、また92頁には「重要なことは「語られること」より「何を語らないか」にある」とあるが、私にとっては、語らないことは語る価値がないから語らないのであって他意はない。
96頁から日本ジャーナリスト会議(JCJ)への言及がある。同会議は、「KGBエージェントたちのコントロール下にあった国際ジャーナリスト機構(プラハ)から招待された1956年6月の「世界ジャーナリスト集会」に日本から代表を派遣するため、1955年2月に岩波書店常務取締役兼『世界』編集長吉野源三郎を初代議長として結成された」とある。そうなのか。そういう設立の歴史を、私は知らなかった。その後、駄場さんは、「KGBの系統の日本ジャーナリスト会議」(107頁)という断定を行う。なぜ日本ジャーナリスト会議が、「KGBの系統」になってしまうのか、私には理解できない。KGBー国際ジャーナリスト機構ー世界ジャーナリスト集会ー日本ジャーナリスト会議という関連からそう断定するのだろうが、世界ジャーナリスト集会に参加したから「KGBの系統」とどうしていえるのだろうか。こういう断定は、日本ジャーナリスト会議がKGBと直接何らかの関係があるなら別段、ただ前述の関係だけで断定するのは冒険ではないか。「世界ジャーナリスト集会」に派遣したら「KGBの系統」となるのか。本書ではそういう関係しか示されていないからそう指摘せざるをえない。ついでに言っておけば、吉野源三郎氏は、私がもっとも尊敬する知識人であり、きわめて独立性のある人間である。
思想aをもつAという人物とつながりをもつBは、思想aをもつ人と推定されてしまうのである。人間はそう簡単ではない。親子であっても、同じ場合もあるが、異なる場合もあるのだ。人それぞれなのである。もしBがAのもつ思想aをもつのなら、AとBの思想の中身を比較して提示しなければ、説得性はない。
すべてを検討することは出来ないので、部分的に考察するしかない。
202頁に、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』について、「笠原十九司や本多勝一、梶村太一郎といった共産党陣営の歴史学者・言論人たちもチャンの本に否定的だった」とある。まず私もチャンのその本はあまり評価しない。だとすると、私も駄場さんから「共産党陣営」だと断定されてしまうのだろうか。南京事件について私も研究したことがあり、それを証明する一次史料を発見しているが、こういう事件の研究についてはとりわけ史料批判を徹底的に行い、厳密に史実を確定していかなければならないのだが、しかしチャンのそれは厳密ではない。笠原氏らは、私と同様に厳密な手法で南京事件に迫っているので、チャンの本はあまり評価できないのだ。
ついでに言っておけば、笠原氏、本多氏、梶村氏、いずれもお会いしたことはあるが、「共産党陣営」であるかどうかまったく知らない。駄場さんはどのようにしてそれを確かめたのだろう。
さて笠原氏らが何故にチャンの本に「否定的」なのか、駄場さんはひとりで答えを出している。朝香宮鳩彦の命令書(「捕虜はすべて殺せ」)にチャンは着目しているが、笠原氏の南京事件の本にそれについて言及していない(その本は書庫にあり今手元にないが、おそらくその命令書は信用できないものであった?)、笠原氏ら「共産党陣営」は朝香宮のそれを意図的に隠そうとしているのではないかと、駄場さんは疑っているのだ。「共産党陣営がチャンの邦訳を嫌った理由は自明だろう」と。
嫌った理由は、簡単である。チャンの本が実証的ではないからなのだ。
204頁には、「共産党系歴史学者の家永三郎」とある。なぜ家永氏が「共産党系」なのか。家永氏は戦闘的民主主義者ではあるが、マルクス主義者ではない。いわゆる史的唯物論を歴史の方法論として採用もしていない。昭和天皇に、進講したこともある。駄場さんは何を根拠にこう断定するのか。
こういうレッテル貼りが、本書で目につくのだ。
そろそろこの本について言及するのはやめたいが、最後にただ一つ。それは本書は立体的ではなく、いろいろな事項が並列的(平面的)に並べられていて、体系的に話がまとめられているものではないということだ。
最近、社会学を学んだ人が歴史に参入することが増えているが、彼らは、歴史学の方法論をきちんと学んでいないので、史料操作や文献の扱い方について、史料や文献には信用度に応じて序列があることを前提にしていない、それらを同列に扱う、つまりすべてを同等の資料として扱ってしまうのである。
なぜそうなるか。文学部史学科は減らされ、社会学がなぜか幅をきかせる時代になっているのだ。つまりヨーロッパ型の学問は疎んじられ、アメリカ型の学問が尊重されるようになってきているのだ。個別的な研究も、そういう流れの中にある。
駄場さんも、社会学である。(終わり)
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