以下に紹介する文は、2009年1月に、社会民主党静岡県連合の「旗びらき」における講演で話したことである。題は、「社会民主党に期待すること」であった。このなかで、わたしはかなり厳しい指摘をし、同党が過去の歴史をきちんと総括することを願ったのだが、それはなされなかった。政党要件の危機にある社会民主党、それは同党がみずから招いたものであるとわたしは思っている。
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“1996年1月、日本社会党はその党名を「社会民主党」に改称した。しかしこの党名変更は、党の心機一転、さらなる躍進のシグナルではなく、半世紀に及ぶ党史への晩鐘となった。事実、日本社会党はこのときすでに昔日の面影を遠くに残し、党名変更に合わせるかのようにその歴史的役割を終えようとしていた。人の改名が過去の自分に決別したいという思いを潜ませているのと同じく、日本社会党もまた、その名の消滅とともにみずからその実体をも亡きものにしてしまったといえるのかもしれない。” (原彬久『戦後史のなかの日本社会党』中公新書、2000年、p.2)
1 社民党への期待を言う前に
(1)権力への加担と日本社会党の凋落
現在の社会民主党は、国会において少数政党の一つとなっている。かつては大きな勢力を国会に持って自民党と激しく闘っていた姿を振り返ると、失礼ですが今では見る影もありません。どうしてこうなってしまったのでしょうか。詳しく見ていく時間はありませんので、その劃期となったことだけ申し上げます。
まず社会党が与党であった細川護煕政権(1993・8~1994・4)において成立した「小選挙区比例代表並立制導入の政治改革関連法」に賛成票を投じたことでした。この法は1994年12月に施行されました。
施行される前の衆議院の議席は、自民223、社会70、新生55、公明51、日本新35、共産15、民社15、さきがけ13、社民連4、無所属40(1993年7月第40回総選挙)でした。社会党は、70の議席を有していたのです。しかし小選挙区制の下では、この議席はおそらくとれない、しかしそれが予想されても、社会党は賛成したのです。
そのあと自民党などとの連立政権に、加わりました。村山富市政権(1994・6~1996・1)です。村山政権は、様々なことを行いました。その一覧を掲げると、以下のようになります。
94・7自衛隊合憲の所信表明、日の丸・君が代の学校での指導を容認、7韓国 訪問、8東南アジア諸国訪問(シンガポール「血債の塔」訪問)、94・9社会党大会、政策転換を承認、臨時閣議1997年4月からの消費税5%の引き上げ決定、12 被爆者援護法の制定、95・5中国訪問(蘆溝橋訪問)、7第17回参議院選挙(社会16で戦後最低)、7「女性のためのアジア平和基金」発足、95・6~12水俣病未確認患者の救済、8「戦後50年に当たっての首相談話」、9大田沖縄県知事の米軍用地更新の代理署名拒否→12職務執行の行政訴訟を福岡高裁に提訴、11 新防衛計画大綱の決定、12破壊活動防止法の適用、12住専への公的資金投入決定、12ゴラン高原へのPKO派遣決定、96・1伊勢神宮参拝
下線部分は、評価できるものです。しかし下線を引かない政策は、従来の社会党の政策と真っ向から対立するものでした。消費税を5㌫に決定したのは、村山政権なのですよ(実施は橋本内閣)。かくも簡単に今まで墨守してきた政策を放棄するとは、思っても見ませんでした。これ以外にも、長良川河口堰に賛成し、AWACSの導入を認めるなど、それぞれの地域で地道に運動をしている人々に冷や水を浴びせかけました。これにより、日本社会党に失望し、あるいは支持しなくなる人たちも多くでたのではないでしょうか。私もこの段階で、社会党に大きく失望した一人です。
明治大学の政治学者・岡野加穂留氏は、「現実政治の権力のかじ取りになった途端に、うれしさのあまり社会党は、党本来の原点を忘れてしまった。やはり革新勢力は、永久に革新勢力でなければならない。政治における現実化と保守化の意味を取り違えて、精神の保守化にまで突き進んでいく危険性こそ指摘をしておかねばなるまい。そのためには、絶えず厳しい自律の心がけ忘れずに、不断に自己変革の哲学をもって改革・革新を連続させる“永久革命”を心がけることであろう。」(「村山富市考ー社会党首相論の落とし穴」、岡野、藤本一美編著『村山政権とデモクラシーの危機』ー臨床政治学的分析』東信堂、2000年、16頁)と指摘します。
確かにこの頃、社会党議員には「大臣病」にかかる者がいて、嬉々として大臣の席に座っていたという記憶を、私は持っています。「大臣」たちは、日本社会党らしい政策をほとんどしなかったのではないでしょうか。
また朝日新聞で長年政治担当記者であった石川真澄氏も、「社会党は80年代半ば頃から徐々に路線の「現実化」をはかってきており、小沢らの新生党とともに細川内閣の与党に参加したこと自体、保守党と政策の違いがほとんどなくなっていたことを表していた。村山の政策転換は、首相になった以上やむを得ないという形で、最後のハードルを強引に乗り越えたものであった。そのことはまた、冷戦の終焉、ソ連・東欧社会主義国の崩壊などの「時代の転換」を反映していた。しかし、そうではあっても社会党のかつてから見れば明らかに180度の路線転換は、共産党を除く「政策ののっぺらぼう化」をはっきりともたらした。その結果、戦後政治を主導してきた「保守」は、日本政治全体を覆う広い合意の体系となり、より強い継続に向かいつつあるように見えた。というより、保守政治に対峙してきた「革新」が、従来もっていた意味をほぼ消し去ったために、対立概念を失った「保守」は、保守と限定する必要さえなくなりつつあったといえそうである」(『戦後政治史 新版』、岩波新書、2004年、185頁)と記しています。
まさに日本社会党は「原則」すら捨ててしまった、日本社会党の「大転換」でした。しかしこれにより、社会党への失望を大量につくったことは確実です。先ほども指摘しましたが、社会党の姿勢が、浜松のAWACS反対闘争にも悪影響を与えました。「AWACS反対」から「AWACSを浜松基地に着陸させるな」という一致点での目標の変更は、社会党のある意味での「変節」によるものでした。
また私はこの政治学者をあまり信用していませんが、山口二郎氏(北海道大学)は、「村山政権は、戦後の繁栄の陰で置き去りにされてきた問題を、落穂拾いするように、解決することが課題であった。その意味で誠実に取り組んできたと評価できる。しかし、この政権は未来に向けた政策の面では何ら展望を示せなかった。」(『朝日新聞』)と指摘しています。
過去の選挙結果、消費税に大胆に反対していた頃の議席は、以下の通りです。1989年第15回参議院選挙では、社会46、自民36・・・、1990年第39回総選挙では、自民275、社会136、公明45・・も議席を獲得したのです。自らの政策を大胆に主張するなかで議席を増やしたこと、これがなぜか教訓化されなかったようです。
(2)「政治改革」
ここで小選挙区制導入の問題について、特に指摘しておきたいと思います。当時「政治改革」という言葉が、テレビや新聞で叫ばれました。「政治改革」が行われないと日本はだめになるというような、ほとんど根拠のない無茶な報道でした。この「政治改革」の眼目は、小選挙区制の導入でした。
ではなぜ小選挙区制を導入するのか。現在は民主党にいる小沢一郎は、明確な戦略をもっていました。その戦略とは、社会党を壊滅させ、それにより政界を再編し、結果的に保守二大政党をつくりあげるというものでした。小沢は、こう発言しています。「現実的にいえば、野党第一党だからいうんだが、社会党をまずぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃいかんと」(朝日新聞政治部『小沢一郎探検』1991年、200頁)。この本は1991年に出されています。日本社会党の人々はこれを読まなかったのでしょうか。しかし、社会党は「政治改革」に賛成したのです。政治改革4法案は、1994年3月4日、参議院本会議で可決され、3月11日に公布されました。そしてその選挙制度で行われた1996年10月20日の選挙(第41回総選挙)では、自民239、新進156、民主52、共産26、社民15、さきがけ2、という結果でした。まさに少数政党への転落です。
まさに“時流”に押し流され、日本社会党は、自滅への途を選びとったのです。
2 「成果と課題」
しかしだからといって、日本社会党をまったく消し去ることはできません。現実に社会民主党として一定の役割を果たしているわけですから、今後の展望も含めて考えてみたいと思います。日本社会党の「成果と課題」です。
私はこの地域の歴史を研究していますが、個別の研究について、まず今までの成果を確認し(研究史)、次に自分自身の研究により何を明らかにするのか(課題)を明確にすることが求められます。そしてその課題についての研究を行い、どれだけ研究を深化・発展させることができたか(実践)によって他者に評価されるのです。
社会党についても、それを考えてみたいと思います。
(1) 「成果」=日本社会党が果たしてきた役割
日本社会党の歴史を振り返って、歴史のなかから浮かび上がってくることは、以下のようなものです。箇条書きで紹介します。
①1951年の「平和4原則」(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)に見られるように、平和希求の活動を行ってきたこと。
②護憲の旗を掲げてきたこと。
③総評と連携して、労働者の生活と権利を守ってきたこと。
④1958年の警職法闘争など、民主主義擁護の闘いを展開してきたこと。
以上です。これらについては、誰も非難することはないでしょう。
(2) 「課題」
さて次は課題です。それを考えるに当たって、今以て見えていないことがあります。
いったい社民党は、「保守」と同化した日本社会党なのか?それとも新しい社民党なのか?社民党は、社会党の何を継承しているのか?あるいは断絶したところから出発しているのか?・・・こういう問いに対して、明確に答えがでないのです。村山政権時に変更した政策は、今どうなっているのか。そのままなのか、やっぱりもとに戻したのか・・・これがなかなか伝わってこないのです。
自滅を招く小選挙区制に賛成したこと、そして村山政権の功罪について、社民党はきちんと総括したのだろうか、そしてまたそれを国民に知らせることをしたのだろうか、という疑問が常につきまとうのです。
それがわからないので、現在の社民党にとっての課題を、社会党の成果に即した課題を設定することができないのです。従って私は、課題ではなく、期待として以下のようなことを考えています。
「現代」を見据え、歴史から何を学び、何を課題とするか、それは①護憲の旗を高々とあげること、②平和軍縮、他民族との共生、③貧困のない世界を創る、④労働者の権利と生活をまもること、⑤原則を崩さずに、戦術面では「共闘」を、⑥期待を「裏切らない」という保障の5点です。
日本社会党が行ってきたこと、そしてグローバルな世界のなかで日本が何をなしうるかということ、そして1990年代前半の「混乱」に鑑みて、こういうことをしていただきたいという期待です。
3 実践
これらの「課題」、この場合では「期待」に対して、どういう実践を行わなければならないかというと、以下のことを申し上げたいと思います。
まず、理念・原則を曲げないこと(ダメなものはダメ!!)ということです。最近「社会民主党宣言」を読みました。良いことがたくさん書かれていました。これを実践することだと思います。しかしこれはあまり多くの国民に知られていないと思います。もっと幅広く宣伝する必要があると思います。
次に、憲法の平和主義をまもりきる決意→護憲勢力の大同団結運動を提起することです。日本国憲法が危機的な状況を迎える可能性が増しています。改憲を阻止するためには社民党の力だけではとても無理だと思います。憲法を守るという一致点での大共闘組織をつくりあげることが必要だろうと思います。
そしてもちろん、
労働者など資本主義社会における社会的弱者のために闘うことです。新自由主義経済学が日本社会を席巻し、労働者をはじめとした弱い立場の人々が苦しんでいます。労働者の生活が安定する社会こそが、よい社会だと思います。
そして最後に、地方でも見える政党になること、です。党首である福島瑞穂氏らはよくテレビに出ています。しかし地方では社民党の姿をあまり目にすることはありません。中央で活動する政党のイメージを払拭し、地方でも目に見える政党になっていただきたいと思います。そのためには、情報発信力を強化することです。マスコミに報道されること、あまり好きではありませんが、宣伝力は残念ながらこれに勝るものはありません。
たとえば、具体的な活動として、静岡の社民党から、こういう行動提起をしたらどうでしょうか。
2010年には改憲のための国民投票法が発動します。それを阻止するために、「知憲」の運動を展開すること、また反貧困・権利擁護の運動として、「使い捨てにするな!」という運動です。
地方から、創造的なことを発信する力をつくりあげることが社民党を大きくすることにつながるのだと思います。
4 おわりに
最後に、最近読んだ本の一節を紹介して、私の話を閉じさせていただきたいと思います。
フランシス・ウェストリーら『誰が世界を変えるのか』(英治出版)から
「歴史から何かを学べるとすれば、それは、どんなに頑強な世界でも、ほんとうに変わるということだ。変化-驚きに満ちた、ときには革命的な変化-はほんとうに起こる。時として世界はほんとうにひっくり返る。そして夢のまた夢だった未来が過去になる。
私たちは、切実に変化が求められ、望まれる時代に生きている。このまま同じ道を進み続けることはできない。今日の世界を苦しめている深刻な環境問題や社会問題を、無視することはできない。それは人類を破滅させるかもしれないからだ。私たちの社会のほころびや、快適な生活に恵まれている人々と貧困に押し潰されて生きている世界各地の大勢の人々との間の裂け目を、無視することはできない。今が重要なときだ。私たちはチェンジメーカーにならなければならない-有能なチェンジメーカーに」
もう一つ、ハンナ・アーレントのことばです。
「思考する能力は・・・あらゆる能力と同様、ただ実践によって、練習によってのみ、獲得できるのだ」
以上で終わります。