2025年6月30日月曜日

国家(政府)を信じるな!

  今日の『中日新聞』の第一面に、「細る予算 共助頼みに」という記事があった。浜松市が周辺の11市町村を併合して現在の浜松市ができたのが20年前。いわゆる「平成の大合併」で誕生した、全国二位の面積を持つ浜松市。

 静岡県の中部以西は、この「平成の大合併」で多くの市町村がなくなった。天竜川以西では、現在浜松市と湖西市しかない。ほかの市町村は消されたのである。県西部の市町村は、自治省の政策にまんまと乗せられたのである。静岡県でも、東部、伊豆地方では自治体の数は多い。

 あの頃、政府は小さな自治体住民に大きな不安をもつように仕向けた。大きな自治体と合併しないと、町の財政は苦しくなり、とりわけ福祉に大きなしわ寄せがくる・・・・・不安になったのは町の老人たちだ。大きな自治体と合併しなければ・・・などと動き始めた。

 川根本町は、中川根町と本川根町とが合併した町である。この地域でも、近在の島田市との合併を模索していた。しかし町長や当局者と話す機会があったわたしたちは、それはやめるべきだ、大きな市と合併すれば、人口は減り、さらに町は衰退していくということをしきりに説明した。それには事例があった。静岡市にずっと前、1969年に合併された井川村、あっという間に人口は減っていき、インフラ整備もままならなくなった。

 結局、両川根町は島田市との合併はしなかった。

 過疎地域においては、自治体が独立していることはきわめて大事である。町村役場はそれだけで地域住民の就職先であり、企業も当該自治体の仕事を受けるためには、支店や営業所を当該自治体内にもっていなければならない。自治体がなくなるそのこと自体が、人口減につながるのである。

 また地域住民が当該自治体を盛り返そうとしたとき、大きな自治体ではそれがなかなか難しい。大きな自治体では、住民自治が動かなくなるのだ。

 この記事には、

 「旧水窪町役場には林道担当者が複数いたというが、現在は区役所庁舎内にある天竜森林事務所が管轄し、水窪には兼務の担当者一人がいるのみだ」、元自治会長が何かを頼んでも「予算がないと言われるし職員が足りていない」といわれてしまう、ということが書かれている。

 そうだろうと思う。「平成の大合併」は、弱小自治体、過疎地の切りすてでもあったからだ。

 こうした事態は、予想の範囲内なのである。

 あの頃、合併熱が急に高まり、市町村がなくなっていった。国家がそうした熱をつくりだし、煽ったからだ。しかし、その結果、合併された旧市町村の住民たちは、今、後悔しきりである。

 わたしはそのころ、そうした地域をまわっていろいろ話した。だからこう云いたい、「言ったとおりでしょ」と。

 だから国家(政府)を信じるな、なのである。

 

自由民主党「消費税守り抜く!」

  共同通信によると、自由民主党の幹事長である森山裕が、奈良県の講演会で「何としても消費税を守り抜く。代替財源を示さずに、消費税を下げる議論だけをするのはポピュリズムの政治だ」と語ったという。

 まず第一に、通常「防衛費」と読んでいる「軍事費」を、岸田内閣時に43兆円という整備費をぶちあげたが、「軍事費」の財源については、いっさい「財源」への言及がなされなかった。それはそうだろう、アメリカの軍需産業も、日本の三菱重工などの軍需産業も、いずれも自由民主党を支える政治・経済の支持勢力、彼らのためには、無条件で従う。それが自由民主党なのである。

 そして第二に、「消費税を守りぬく」には、輸出産業にはばく大な消費税の戻し税がばらまかれ、これも自由民主党を支える大企業群が儲かる仕組み、「内部留保」として貯められる。

 消費税が「社会保障財源」だなどと自民党・公明党政権はいうが、しかし消費税による税収が増えれば増えるほど、社会保障財源は「痩せ細っている」。おかしいではないか!

 日本の経済を破壊して不況にし、国民に大きな格差を生みだし富裕者や大企業だけが肥え太る社会を、消費税はつくりだした。

 森山裕は、そうした経済構造を維持し、国民の生活を破壊する政策を続けるつもりである。

 一部の巨大企業や富裕者だけが喜ぶという消費税、自由民主党や公明党は、続けていきたいのである。それは立憲民主党も同じである。

 

2025年6月29日日曜日

ゆりかもめ

  今日、ゆりかもめに初めて乗った。品川で新幹線を降り新橋へ。そこでゆりかもめに。たくさんの人が乗っていた。当然降りる駅、東京ビッグサイトまで立ち続けた。はじめて知った大学、武蔵野大学での研究会に参加するためであった。武蔵野大学は100年の歴史があると言うが、まったく知らなかった。校舎はとてもきれいで、設備も整っていた。

 ゆりかもめが人びとを運ぶところ、わたしが学生時代、なにもなかった。学生時代、伊豆七島の神津島でキャンプをするために竹芝桟橋から乗船、しかし体育の授業があったので仲間と離れてわたしだけが1日早く帰った。帰りの日は台風が来ていて、船が揺れに揺れた。でもわたしはまったく酔わなかった。船の揺れに身を任せて、そのリズムにのってしまえば酔わないということがわかった。船から海を見ていると、波が船より高く、その波の中を航行したのだが、東京湾に入るとまったく静かになってしまい、な~んだと思ったことがある。桟橋まで、東京湾には何もなかったと思う。 

 だが今、ゆりかもめの窓から見える風景は、高層ビルの林立であった。わたしは、これは自然に対する人間の悪しき挑戦ではないかと思った。それも、おのれの力を過信してつくったものだと思った。自然の破壊、本来あってはならないものをつくってしまった、という感慨である。

 そういうところに、子ども連れや若い人たちが大挙して押し寄せる。

 東京には、絶対に住みたくないと思った。

 

2023年から

  今日の『中日新聞』には、「令和の米騒動、予兆は2年前から 農林水産省の作況指数に卸売会社社長は「そんなわけがない」と声を荒らげた」という記事が載せられている。

  わたしも農業をしているからわかるが、2023年からの夏は異常に暑かった。それは2024年もであり、今年もそうなるだろう。

 夏、毎年わたしは3時頃から畑に出ていた。そして生育の早い夏の雑草をとっていた。2022年まではそれができていた。

 ところが2023年夏は、異常に暑く、20分炎天下で労働するだけで、「これは倒れるな」という気がして、早々と退散したものだ。わたしは畑だけだが、稲作農家も今までとは異なる状況に、いつもは止めている用水の流水を止めないで流しっぱなしにしていた。あまりにも暑かったからで、それは2024年も同じだった。2023年に出来た米の粒は小さかった。

 2023年から、酷暑のため、米の出来は悪かった。しかし農水省はそれを無視した。様々な情報があったはずなのに、ボーッとしていたのだ。長年続く減反政策・生産調整で、米の需給がピッタリするように供給を抑え続けてきた結果、2023年米から不足し始めた。それでも、自民党・公明党政権下の農水省はボーッとし続けた。

 そうした無策の結果、供給不足が続いたために、米の価格は2倍以上に高騰したのだ。まさに自民党・公明党政権の無策、農水省官僚のサボタージュが、米の高騰を招いた。

 今年も酷暑が予想されている。おそらく米の価格はあまり下がらないだろう。

 主食である米を供給できない自民党・公明党政権、農水省官僚は、いったいどうするつもりなのか。

 そういう輩を、いつまで選挙民は政権の座につけておくのか。自民党は自分の栄華のために政治をし、公明党は創価学会のために政治をしているのだ。そんな輩を選挙で当選させてはならない。

 

  

生活保護費の削減は安倍自民党の所業

  2013年からの生活保護費削減は、安倍晋三が自民党の総裁時の選挙公約に掲げられた政策だった。厚労省は、2012年の総選挙で勝った安倍・自民党に忖度し、安倍自民党の命令の下に、とにかく削減しなければと、根拠なき削減を行ったのだ。

 今回の最高裁判決は、安倍自民党への断罪であった。

 日本の生活保護施策においては、本来保護費が支給されなければならない人びとができるだけ少なくなるように設計されている。したがって、生活保護費を受給できる人びとの生活よりもさらに下回るような貧困世帯がたくさんある。

 安倍自民党は、本来生活保護の対象としなければならない人びとへの不支給を「調整」するために、生活保護費の減額を図ったのである。これは長年の自民党・公明党政権による、酷薄なる政策の結果である。

 消費税は、そういう貧困世帯からも税金としてむしりとる悪税であり、自民党の各級議員はパーティー収入をウラ金として自分の懐に入れ、さらに税務申告もせずに自由にそのウラ金をつかう。そして税務当局も、それに対して課税すらしない。

 国税庁などの官僚は、ヒラ目ばかり。国民ではなく、自民党だけを見つめ、あわよくば「出世」しようと政権与党に目配せばかりしている。

 そんな日本がずっと続いている。そういう日本にしたのは、自民党・公明党政権である。彼らの罪は重い。

 

2025年6月27日金曜日

二つの世界

  現代は「分断の時代」だと言われる。その「分断」をつくりだしているのは、SNSではないかと思う。

 現実の世界、そこでの人と人との交流は、暗黙の共有される前提の下でなされる。挨拶が交わされ、天候の話がされ・・・・・そしていろいろな会話がなされていく。そこには表立った「分断」はない。とはいえ、そのような表面的な会話がなされていても、それぞれのこころの内部には敵対心や侮蔑、怒りなどの表面には出されない感情が潜在されているかもしれない。しかしそれを表面にだすと人間関係は崩れるかもしれないから、感情の表出は抑制される。

 別にそれは、個人同士の関係だけではなく、テレビなどのメディアでの報道その他に対しても、怒り、侮蔑などの感情は出るのであって、しかしそれは一過性の表に出ない感情の表出として消えていくものであった。

 人は一瞬一瞬を生きていく中で、様々な感情をもつ。しかしそれは一過性であり消えていくものであった。現実の世界では、いちいちみずからの感情の動きをおもてに出していくなんてことはしない。そんな暇はないし、そんなことをしていたら、現実の世界での人間関係はおかしくなっていく。

 ところがSNSが発明され、そのような感情を表出する場が生みだされた。そしてその場は、匿名でも表出できるところでもあった。人のネガティヴな感情を表出するにはうってつけの世界であった。そしてその感情の表出が、手元にある携帯電話を通じて即座にネットの世界に流され、そこでは同じような感情を持つ人びととつながることができるところでもあった。

 その世界は、Twitter(X)、YouTubeなどへと広がっていった。とりわけTwitterは、短いことばで発信するから、感情の表出には最適であり、また匿名でも可能だから、感情のなかでもネガティブなもの、他人のこころを傷つけるようなものも自由に出せるようになった。

 今まで、現実の世界では抑制され、一瞬で消えていったネガティヴな感情が、短い文であるから説明抜きで大量にあふれ出し、それらがつながるようになっていった。

 人が持つ、今までは表出しない方がよいと自己抑制されていた感情がSNSの世界に放たれていった。それらは寄り集まってある種の渦となって、現実の世界に大きな影響を与えるようになり、現実世界を変えていった。

 たとえば、兵庫県の竹内県議会議員が自死されたというが、その原因は、SNSで、大量の根拠なき誹謗中傷が流され、そして実際にそうした誹謗中傷を流した面々が実際に竹内県議の自宅付近をうろつき、また竹内県議宅に注文者がわからない物品が配達されるようになったからだといわれている。自己抑制すべきネガティヴな感情がSNSの仮想空間に渦となって出現し、現実世界に流れ出る、それが人を激しく攻撃する。 

 わたしはTwitterは見ないし、自分ではやらない。何らかの意見を表明する場合には、きちんとした根拠を提示し、みずからの思考過程を示すことが必要だと考え、短い文ではそれは不可能だと認識するからこうしたブログに書いている。 

 本来自己抑制すべきネガティヴな感情、それは現実世界では表出されることもなく消えていくようなものであったが、それがSNSを通してネットの世界、それは公共の空間でもあるが、そこに流れ出る中で渦となり現実世界を動かすまでになっている。その世界は、匿名でも可能なので、そこで使用されることばは、ネガティヴな感情を表すことから、現実世界ではほとんど使用されない悪意にみちたものとなる。

 わたしがはじめてブログをはじめたのは、biglobeであった。すでにそこでもブログサービスを停止しているが、わたしの意見、それは政治権力への批判であったが、それに対して凄まじい悪罵が投げつけられたことがあった。その悪罵に、わたしは当初はつきあい、丁寧に反論を加えたりした。が、途中で討論が成りたたないことがわかり無視することにしたが、その人がつかうことばがあまりに汚い、現実世界では決して使われないことばの束であったことを覚えている。

 SNSは、匿名の世界でもあり、ネガティヴな感情を表出できる場として利用され、一定の力を持つに至っている。

 昨日届けられた『週刊金曜日』の巻頭で、想田和宏さんが「SNSから離れる」ことを宣言している。「利己的な目的で虚偽の情報を意図的に流す人たちがいて、それを善意の人たちが拡散する」「デマゴーグはいとも簡単にタダで情報を汚染できる」「誰もが川に毒を流せる以上、情報汚染は次から次へと起きる」「SNSがなかったら」、「SNSから離れようと思う」と 書いている。

 まさにSNSには、「毒」が仕込まれた世界なのである。「毒」を仕込むことができる世界なのである。それが現実世界に生きる人びとを「分断」するのである。「二つの世界」を生みだしたのは、SNSなのである。

 

2025年6月26日木曜日

学歴

  静岡県の伊東市で、つい最近市長に当選した田久保真紀氏に学歴詐称問題が起きている。選挙時に、東洋大学を卒業していると経歴に書いてあったが、実際は卒業していないではないのかと言われているのだ。

 卒業しているかどうかを証明するのは簡単なことだ。

 最近実家の片付けをしていたら、わたしの大学の卒業証書が出て来た。卒業以来一度も見たことがなかった。卒業証書がなくても、大学に問い合わせればすぐわかることだ。

 しかし田久保市長はそういうことをせずに言葉を濁している。おそらく卒業していないのだろう。ならば、最初から事実を述べていればよかったのだ。

 れいわ新選組の代表山本太郎さんは、自らを中卒だといっている。現在の自分に自信を持っていれば、学歴何ぞはどうでもよいのだ。中卒だからといって、山本太郎さんを侮蔑するなんてことはあり得ない。

 学歴に伴う資格が必要な場合は学歴は必要だが、そうでなければほとんど生きていく上で関係ない。人生を生きていくということは、そういう付属物は意に介さないことだ。学歴がなくとも、立派な人物はたくさんいる。 

並んで待つということ

  夢洲での大阪万国博、その開催が夢洲にカジノを建設するためのインフラ整備に税金を投入するための手段であることは、以前から指摘されていたことだ。そういう腹黒い策謀には一切手を貸さないというのが、わたしの生き方である。したがって、絶対に行かない。

 しかし、もしそういう策謀がなくても、わたしは行かない。というのも、万博で報じられているのが、「長蛇の列」が頻繁に起きているからだ。

 わたしは「並んで待つ」ことがイヤでしようがない。唯一、交通機関を利用するために「並んで待つ」ことはするが、それ以外はしない。飲食店に行こうとして、その店に「並んで待つ」姿を認めると、わたしはやめてしまう。その飲食店に、あえて「並んで待つ」ほどの価値を見出さないからだ。時間がもったいない。

 「待つ」というと、やむなく「待つ」のは、医者に行くときだ。診察はすぐに終わるのに、自分の番が来るまでは「待つ」ことをしなければならない。これは我慢する。「待つ」長い時間、わたしは必ず書物を持参して読む。無為に過ごす時間が、とてももったいないからだ。

 日々、この猛暑の中、万博会場には10万人以上が参加し、炎天下のもと、日傘を差しながら長時間「並んで待つ」姿を、ユーチューブで見るが、よく我慢しているなあと感心する。

 戦時中、日本の歩兵はほんとうに歩く兵であった。いかなる気候でも、昼でも夜でも、いかなるところであろうとも、背中に約40㎏の荷を背負って、ひたすら命令のままに歩く、歩く。他国は、歩兵といってもトラックに乗ったりして移動するが、日本兵はひたすら歩いていた。それを考えると、日本人は我慢強かったのだなあと思う。戦後、日本国憲法のもと、徴兵制がなくなったことに心から感謝したい。

 人びとが我慢強く「並んで待つ」姿から、いろいろなことを考える。

 

2025年6月23日月曜日

立憲民主党の今

  今日、辻元清美議員から「つじとも通信」号外が届いた。ずっと前、彼女が社会民主党の議員だったときに知り合った。といっても、一度話しただけだが・・・・。それ以来、時々「通信」が来る。

 しかし立憲民主党に移った辻元議員を支持するつもりはまったくない。わたしは立憲民主党をまったく信用していないからだ。「非自民」だからどの党でも・・という気にはなれない。

 立憲民主党代表の野田佳彦は、彼の考え方からは自由民主党議員であるほうが相応しいと思う。

 『日刊スポーツ』の「政界地獄耳」、この主張に賛成である。立憲民主党は分裂して、本当なら自由民主党に入りたかったという方々は、出ていけば良い。そうなったら、少しは立憲民主党を見直すこともあるかもしれない。

 わたしは、山本太郎の「れいわ新選組」の主張に賛同する。 

アメリカ人のDNA

  トランプが、暴虐極まるイスラエルのイラン攻撃に続き、核施設だというところを空爆したという。イスラエルの攻撃を、5日前、G7は「イスラエルの自衛権を支持するとともに、イランの核兵器保有を「決して容認しない」との立場を強調」したというから、基本的にイスラエルが行った攻撃を容認した。

 以前も書いたことがあるが、イスラエルをあの位置に置いた理由は、キリスト教世界・白人どもが「野蛮」だとみなすイスラム教徒を監視し、ときには牽制する役割を果たさせるためであった。だから、G7は、イスラエルを、どのような蛮行をしようとも、サポートするのである。

 さて、イスラエルに続いてアメリカ・トランプ政権もイランを攻撃した。

 アメリカ合州国という国家の歴史を振り返ると、つねに独善的な思考の下、支配領域を拡大してきた国であるということだ。アメリカ大陸には、私的所有権のない自由な大地に、西欧キリスト教徒が「インディアン」と名づけた人びとが生きていた。西欧キリスト教徒は、まずイギリスからの移民が、そして西欧、中欧、東欧、ロシアなどからの移民が大挙やってきて、「インディアン」を欺し、殺戮して、領土を拡大していった。西漸運動である。いずれもキリスト教徒である。 

 「インディアン」を蹴散らして西へ、西へと進む際、彼らの脳裡には、彼らだけの「正当性」があった。マニフェスト・デスティニー(「明白なる運命」)である。1845年7月号の『Democratic Revue』に載せられた「年々増加していく幾百万のわが国民の自由の発展のために,神によって与えられたこの大陸にわれわれが拡大するというマニフェスト・デスティニーの偉大さ……」と。

 メキシコ領であったテキサスにも多数の移民たちが入り込み、強引にメキシコからの独立を宣言し、そのあとアメリカ合州国はメキシコに宣戦し、カリフォルニアなどを強引に買い取った。さらにスペイン領であったキューバの中で独立運動が起こったとき、それを支援するという口実をもって、 メイン号事件(ハバナ湾停泊中の戦艦メイン号が謎の爆破、260人の死者
Remember Main )を契機に(ベトナム戦争時のトンキン湾事件を思い出す)、スペインに戦争をしかけて勝利し、グアム、フィリピンなどを獲得し、その際悪名高きグアンタナモなどを永久租借地として分捕った。

 また同じ時期、独立国であったハワイに多数のアメリカ人移民が入り込み、ホノルルに停泊中の米軍艦の力を得て革命を起こし、ハワイ併合を推し進めた。

 大陸にやって来たヨーロッパからの移民らは、このように、「神によって与えられたこの大陸」という独善的な観念の下、暴力的に領土を拡大してきたのである。

 アメリカ人には、そうした独善性がある。その思考のなかには、「インディアン」や、労動力として「陸揚げ」された黒人奴隷を同じ「人間」としてみることはない。いわんやキリスト教徒ではない、日本を含めたアジアの人びとも同じ「人間」ではない。日本への原爆投下にも、そのような意識があったはずだ。

 アメリカの歴史を少しでも振り返ると、アメリカの独善性、暴力性を発見することができる。

 トランプも、そうしたDNAをもっているはずだ。トランプだけではなく、アメリカの為政者たちは、民主党であろうと共和党であろうと、そうしたDNAを背景に政治を行っている。

 また「明白なる運命」をしょったアメリカ人と、「神によって選ばれた民」としてのユダヤ人が住むイスラエル人とは、同じ思考があるように思える。

2025年6月21日土曜日

日本の冤罪はなくならない

  日本の警察(警視庁)、検察が、犯罪事件を捏造した大川原加工機に謝罪に来たそうだ。その際、謝罪に来た東京地検の森博英は、大川原加工機を大川原加工機工業株式会社と間違い、警視庁の鎌田徹郎は、もと取締役の島田さんについて「ヤマモト」と間違った発言をした。

 彼らが、ほんとうに謝罪の意思があったのかどうか。あったらそんな間違いはしないだろう。 いい加減な謝罪としかいいようがないだろう。

 日本の権力機構の面々は、悪事を働いても反省するどころか居直る者が多い。そもそも間違いを認めないという伝統を持っている。間違いを認めないから、軌道修正もしない。そうした伝統は、大日本帝国時代の天皇無答責(何をしようと天皇には責任はない)につらなって、国家機構の担い手たちも、同様にみずからも無答責だと思っているのだろう。

 日本の警察、検察、いろいろな不祥事が続いているが、改善される見込みはない。警察、検察とも、支配機構の担い手や、長年政治権力を握っている、自由民主党や公明党には、きわめて寛容な姿勢を示す。起訴すべきなのに起訴しないということがよくある。あの「裏金」問題でも、それが露呈した。

 さらに、袴田事件で、日本の再審制度がきわめて不備であることがはっきりしているにもかかわらず、自由民主党や公明党、警察、検察(法務省)は、改善しようという意思が見られない。

 日本はすでに「先進国」ではないが、人権の面では、あきらかに後進国である。それを支えているのが、自由民主党、公明党、そして権力機構の担い手たちだ。

 

2025年6月19日木曜日

ワクチンへの疑問

  新型コロナワクチンの接種を、日本政府は積極的にすすめた。しかし、そのワクチンについていろいろな問題がでてきた。ワクチン接種により亡くなった人、後遺症に苦しむ人びとがたくさんだされた。

 わたしの周りには、亡くなった人、後遺症に苦しむ人はいないが、しかし6回もうった人がコロナに3回もかかったりしていた。はたして、本当にコロナワクチンは効果があるのか、という疑問がわたしにも生じた。

 以前にも書いたが、物価高などで国民の生活が苦しくなっても、日本政府は何等救済しようとはしない。このブログで書いてきたように、自民党、公明党によって運営されている政権は、国民の苦しみを振り返ることはない。そんな政府が、何故にコロナワクチンだけ何度も接種させようとしたのか。それも無料で。わたしは、アメリカに日本のカネを献上しようとしたのではないかと思っている。

 さて、このワクチンに関する問題点を報じてきたのは、ただ名古屋の民放・CBCだけである。なぜほかのメディアはこれをとりあげようとしないのか。

 CBCは、今まで報じてきたことをまとめて「評価不能γ ワクチンの影」として報じている。ぜひ多くの人に見てもらいたい。

 わたしは、今までインフルエンザワクチンを打ってきたが、コロナワクチンが重大な問題を引き起こしていることを知って、打つのはやめた。

 コロナワクチンの問題を、日本政府だけではなく、世界が解決していく姿勢を示さなければ、ワクチンへの疑問は膨らむばかりとなる。 

日本の庶民は苦しんでいる

  日本の労働者の給料は、30年間ずっと上がらずに来た。近年続いている物価高は、そうした日本の庶民に大きな打撃を与えている。わたしも、銀行に行っておカネをおろすことが増え、同時に一度におろす金額も増えている。

 しかし、財界などから多額の政治献金を得、さらにパーティー券を購入してもらっている自由民主党は、いっさい庶民の苦しみを改善しようとしない。驚くべき政権である。その自由民主党にひたすら金魚の糞のようにくっついている公明党(カルト宗教・創価学会)も、同じ行動をとる。「王仏冥合」という宗教と政治権力をぴったりとくっつけるという教義があるからか、自由民主党が何をしようと、何をしなくても、ただぴったりくっつき、自由民主党の選挙を支える。

 苦しい生活を強いられている日本の庶民が、なぜに自由民主党に投票するのか、わたしは理解できていない。

 ガソリンの暫定税率廃止をめぐって、その法案をだそうとした野党に対して自由民主党は審議すらしようとしなかった。「ガソリン価格の全国平均が3カ月連続で1リットル160円を上回ると自動的に発動して暫定税率分(1リットルあたり25.1円)を免除」と決まっているのに、自由民主党・公明党は何もせずに、その維持を図っている。

 東京などの大都市は交通機関が発達しているから自家用車は必要ないだろうが、地方都市では車がない生活は考えられない。ガソリン価格の高騰は、庶民の生活に大きな打撃となる。わたしもできるだけ安い店に買いに行くほどだ。

 一方、自由民主党・公明党は、成立させない方がよい法案を次々と成立させている。その例としては学問の自由と独立性を冒し、学問研究を政権に従属させるという法案を通して、日本学術会議を解体しようとしている。 労働者なのに労働基準法を適用せずに、学校教員を働かせ放題にし、さらに学校現場を分断すべく、「主務教諭」などという階梯を設ける(校長ー教頭ー一般教員というのが学校の階梯だったのが、現在は校長ー副校長ー教頭ー主幹教諭ー一般教員)給特法案も成立させた。主幹教諭と一般教員との間に主務教諭という階梯をつくるというのである。そしてその階梯に給与をひもつけ、教員を分断しようとしているのである。学校教員のなり手が減っているというのに、政府・文科省は、そんなことを気にせずに、教育現場から働く魅力を奪おうとしている。

 最近の自民党・公明党政権は、庶民の生活には関心がなく、三菱重工業などの巨大企業を儲けさせる政策(軍事費の大幅増額)や専制的な国家機構づくりに邁進している。

 そういう政治勢力には、もう退いてもらわなければならないのだが、日本の選挙民は、自由民主党がお好き。少額でも利権につながっているからである。

 

2025年6月18日水曜日

作況指数

  毎年、米の作況指数が報じられていたが、それをやめるそうだ。

 昨年の米の作況指数は、100という平年並みだと報じられていた。しかし、一昨年も昨年も猛暑というか酷暑であった。

 稲作は、田に張る水を出したり入れたりする。ずっとむかし岩波新書の『大地の微生物』を読んだとき、水が張られているときには嫌気性の微生物がはたらき、水が無いときには好気性の微生物がはたらく、というようなことが書かれていた。昔の人は経験から、水を張ったり抜いたりして、稲の生長を図っていたのだろうが、なるほどと思ったことがある。眼に見えないところでいろいろな生物が植物の生長に力を貸しているのである。

 さて今日も猛暑であるが、昨年夏、ふつうだったら水を抜き時期ではあったが、どこの田んぼも、ずっと水を張り続けていた。それだけではなく、ずっと田んぼの水を流し続けていた。水を入れないと、田の水が高温になってしまうのである。したがって、米の出来具合は一昨年に続いてよくなかった。にもかかわらず、作況指数は100位であった。そんなことはあるわけがないと思っていたが、やはり米が足りなくなった。

 昨年の畑作も不作であった。猛暑が続き、雨も降らなかった。わたしは一反ほどの畑を耕しているが、子どもや近所の人にあげるだけの野菜ができなかった。

 気候変動が、日本の農業におおきな悪影響を及ぼしていることを、東京等に住まいしている支配層の方々は知るべきである。

 気候変動は、畑に生える雑草にも変化がある。数年前から畑に生える雑草の中で、今まで見たこともないようなものが生えているのである。

 わたしのように、農作業をしている人びとはそれに気付いていると思うが、大方の人は気付くことはないであろう。

 気候変動対策は、急務であると思うが、しかしろくでもない国家群と軍需産業=死の商人らが、今も各地で戦争をしている。まったく愚行としかいいようがない。宇宙船地球号の未来よりも、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の欲深な輩が権力を握っているのだからどうしようもない。

 

「喰われる自治体」

  最新の『週刊東洋経済』の特集が「喰われる自治体」だったので、購入した。しかし期待外れであった。

 わたしが住む浜松市が、長い間、SUZUKIのトップ鈴木修によって支配され、彼の言うとおりの行政が行われてきたことから、自治体問題に関心を持ってきた。

 現在静岡県で問題になっている県営野球場の建設問題も、鈴木修の要請に基づくものである。SUZUKIには陸上競技部がある。浜松市には陸上競技場があるが、世界大会が行われるほどの設備は持っていない。そこで、鈴木修は、陸上競技場に隣接する市営球場をなくして陸上競技場を拡張してつくりなおし、大会ができるようにしたいという願望をもった。そのためには、市営野球場をどうするかが問題となり、浜松市には新たな陸上競技場をつくらせるから、野球場は県につくらせれば良いと考えたのである。

 現在の競技場、野球場は、遠鉄西鹿島線の駅から徒歩圏内にあるが、計画されている県営野球場の位置は遠州灘の海岸沿いにあり、交通アクセスは最悪である。市民には、したがって評判が悪いし、そんなところに計画されているから、野球以外に使用することはほとんどない。またそこは海岸に近く、この地域、冬には強い季節風が吹くから(遠州のからっかぜ)、冬の野球には適さない。 そんなところに強引につくらせようとしている。

 このように、大企業のトップが市政を思うがままに動かすという事例があるので、わたしも自治体問題に関心を持っているのだが、しかし、同誌には、紙幅もあるのだろうが、自治体を食い続けるNTT、コンサルタント会社に食い物にされる自治体(自治体は新自由主義的改革で、正規職員が大幅に減らされ、非正規に頼るなかで、人員が足りない状況が続いている)、他地域の大企業に食い物にされる自治体、中央官僚の天下り問題が取り上げられるだけで、こうなった背景などへの分析がない。

 やはりこういう問題については、雑誌ではいくつかの事例を報じるだけで、深く掘り下げることはできないのだと思った。関心をもって購入したが、期待外れであった。

 

2025年6月17日火曜日

バラマキの金額

  石破政権が、参議院選挙を前にして、ひとり2万円を支給するという提案を行った。この2万円という数字がどこからでてきたか、わたしはマイナンバーカードをつくれば約2万円のポイントをあげるよ、という過去の施策を思い出した。

 わたしは、マイナンバーカードについて信用していないので、こうした政府の施策には従わない。2万円程度をもらうことが出来たとしても、従うべきではない施策には飛びつかないのである。

 しかし多くの庶民は、2万円あげるよという宣伝にのせられて、市役所などに殺到していた。

 石破政権は、このときのフィーバーぶりを解雇して、国民には2万円程度で「買収」できると思っているのではないか。

 

 わたしは、消費税はなくすべきだと考えているし、またすぐにガソリンの暫定税率1リットルあたり25.1円をなくすべきだと考えている。この暫定税率は、トリガー条項があって、ガソリン価格の全国平均が3カ月連続で1リットル160円を上回ると自動的に発動して暫定税率分を免除し、発動後3カ月連続で同130円を下回ると免除が停止するとなっている。すでにガソリンの価格は、160円をはるかに上回っている。

 約束通りのことをしない、自民党・公明党政権には腹が立つ。

 自民党・公明党政権は、税金はとりやすいところからとるという原則をもって、税制度をつくっている。税制度により、社会的平等をつくるというあるべき原則など振り向きもせずに、ひたすら税をとりあげ、その税金を自民党や公明党のお友だちや財界に流し込んでいる。

 そんな政権ははやく退場させなければならないと思うが、しかし利権にまみれた自民党・公明党政権とつながる人びともいる。彼らはそう簡単にそのつながりをなくすことはできず、自民党、公明党を支持するのである。

 その結果、「先進国」の位置からただただ滑り落ちていく日本をつくりだした。

 海外から、そんなに豊かではない国の人びとも観光に来て、日本は安い、安いといって、日本を買い叩いている。しかし日本の庶民は、「安い」という感覚はなく、高物価に苦しんでいる。おかしな国・日本、それでもこんな自民党・公明党政権が続いている。悪夢である。

 

2025年6月16日月曜日

「独立」ということ

  昨日の『東京新聞』のコラム「時代を読む」は、宇野重規さんの「「知の独立」の転換点」である。

 アメリカのトランプがハーバード大学などに対して攻撃を仕掛けている。それに関して、日本の大学などが、留学生や留学しようとしている学生を引き受けようと言明している。

 しかし、独立して業務を行っていた日本学術会議を解体して、学問を政権の従属下におこうとしている法案が成立した、そんな日本社会が「自由な知の交流の場」となるだろうかと、疑問を呈している。その通りだと思う。

 国立大学が法人化された後、文科省からの天下りを受け入れ、理事会などに経済界の人員を入れて、大学も独立性を失ってきている。 

 考えてみれば、アベ政権以降、内閣法制局、日本銀行・・・・・・など、今まで独立して業務を行っていた国家機関が、次々と政権の意向を実現するような従属機関へと変質させられている。

 こうした国家機関だけではなく、あちらこちらで、独立性がなくなっている。独立性がなくなる契機は、カネ儲けではないかと思う。

 大学が文科省の役人を天下りで受け入れ、理事会に財界人をいれるのは、大学への国からのカネ、経済界からのカネを受け入れやすくするためである。

 また、同紙の「こちら特報部」には、明治神宮外苑の再開発を厳しく批判している石川幹子さんについて報じている。

 再開発の主体となっている大企業や明治神宮なども、カネ儲けがその原動力になっている。

 カネを前にして、独立性をなくし、隷属への道を歩もうとする組織、個人が増えている。

 確かに、独立性を保持しようとすると、経済的に損することもあるが、しかし独立性を維持することは、みずからの尊厳を守ることでもある。

 学問の独立を守ろうとして闘っている学者たち、その一方で学問の独立よりもカネのために隷属化を受け入れようとする御用学者たち。

 わたしは、カネの前に独立性を失い、みずからの尊厳を売り渡したくはない。そういう人間が増えれば良いのだが、それは難しい。社会のニュースをみれば、独立性を失った人びとが動き回っている。そういう人びとには、尊厳は不要なのである。

 

2025年6月15日日曜日

「ヒトの類」から「野蛮」を消す、ということ

  イスラエルがイランを空襲、核施設などを破壊した。それに対して、イランが反撃したが、しかしみていると、イスラエルが圧倒的に計画的にかつ的確な攻撃を行っている。イスラエルの攻撃は、用意周到だったことがうかがえる。

 イスラエルは、ガザ攻撃、西岸地区でのパレスチナ人居住区の占拠など、まさにパレスチナ人の殲滅作戦を展開している。そのイスラエルを批判すると、西欧諸国は、イスラエル批判は「反ユダヤ主義」だとする。 

 イスラエルの暴挙については、アメリカなど西欧諸国は寛容である。その状況を考えると、第二次大戦後、イスラエルをあの場所に建国させた理由が、「野蛮」なイスラム世界の監視役としての機能を果たさせる、というものであったことが思い出される。

 イスラエルは、西欧キリスト教国の支持を得て、パレスチナ民衆はじめ、イスラム世界の弱体化を狙っているのだろう。そしてイスラム世界の石油利権を獲得しようとしているのではないかと思われる。

 実際サウジアラビアなどイスラム世界の多くの国々は、アメリカや西欧キリスト教国と友好関係を確立し、今やイスラエルとの対決姿勢を示しているのは、イランのみである。イスラエルのイラン攻撃の背景には、イランの政治体制を崩壊させ、昔のパーレビ国王時代のようにするためのアメリカの策謀があるのではないだろうか。

 パレスチナからパレスチナ人を殲滅ないしは放逐し、イランの体制を崩壊させれば、「野蛮」なイスラム世界は、従順な「ヒトの類」となっていくのだろう。その尖兵の役割を果たしているのがイスラエルなのであって、その役割は西欧世界公認なのである。

 パレスチナの民衆に連帯を示す人びとは、イスラム世界を「野蛮」とする西欧世界とも闘わなければならない。その西欧世界の方針を、トランプがかってでているのである。

  

2025年6月14日土曜日

本の紹介文

  今日届いた『東京新聞』の読者欄に、D・グレーバーの『啓蒙の海賊たち』(岩波書店)が紹介されていた。評者は、いとうせいこう。

 グレーバーは、「啓蒙主義」の源を、マダガスカル北東部に定住した海賊の「頑ななほど平等主義的」で、支配者をおかない社会があったところに求める。

 いとうは、海賊ということから、中世東アジアの「倭寇」も、そのような傾向を持っていたのではないかと推測する。

 わたしは、この指摘に、倭寇について調べてみたいと思うようになった。

 また、いとうは、シリア北部のロジャヴァ自治区のクルド人の全員参加の民主主義を実践した実験に言及する(『女たちの中東 ロジャヴァの革命』青土社)。

 そして、最後にこう結ぶ。

こうしてある意味辺境で自由平等が目指されたことを中央は積極的に忘れる。抵抗は思い出すことから始まる。

 短い文ではあるが、こころを動かされる書評であった。

 東京都で都議選が始まった。中央は忘れても、辺境では抵抗の炎はくすぶり続いている。 

テキトーで安易な発言

  テレビを見なくなって久しいが、見なくなった理由の一つが、報道番組などで適当な発言をするコメンテーターの質がおそろしく低いこと、であった。それぞれ専門的な知識がある人物に解説させればよいのに、ほとんど知識もないような輩に解説や感想を語らせる、それを聞いていると、あまりにばかなことをしゃべるので、わたしに相当なストレスが生じることがわかったからである。

 テレビ局が集めるコメンテーターなる人物のレベルと、テレビ局のレベルとは等しい、というのが、わたしの結論である。

 フライデーにこういう記事があった。「 田﨑史郎氏の“トンデモ解説”で『ミヤネ屋』がJAから猛抗議→後日謝罪訂正の「ドタバタ舞台裏」」。

 そもそも田﨑史郎という人物、顔からして信用できない。 彼も新自由主義をまき散らす人物で、小泉進次郎とともに、JA農協を株式会社化して、JAがもっている預貯金などをアメリカに差し出そうとしているのかもしれない。

劣化

  日本の劣化は進むばかりだ。

 最近の関西系のテレビをYouTubeでみると、万博パビリオンの工事代金の未払い問題が、アンゴラ館だけではなく、他の工事でもあるという。実際に工事を行った下請け企業が、工事費の未払いでたいへん苦しんでいるという。

 おそらく日本の建設工事などの悪しき慣行、「中抜き」がまかり通っているからで、発注した各国も驚いていることだろう。日本は、これだけでも「先進国」とはいえない。

 このような日本にしたのは、長期にわたる自民党・公明党政権が、利権政治を展開していたことによる。それはさらに、そんな自民党や公明党などに投票してきた選挙民にも原因がある。

 その利権政治の典型は、石破政権によるひとり2万円のバラマキ政策である。国民から集めた税金を、自民党、公明党とつながる企業などにばらまく慣行を、今度は低額ではあるけれども、選挙民にもやってみようということである。その2万円をばらまいて参議院選挙で票を得ようということで、いかにも悪人が考えそうなことである。

 それよりも、消費税をなくせ!といいたい。格差社会を推進する政策のその中心に、消費税がある。大企業や富裕者を富ませる一方で、大衆から消費税を収奪して、大衆を苦しめようという、いかにも悪代官がやりそうなことである。テレビ番組であった「水戸黄門」の悪代官や悪徳商人も真っ青になるような(「俺たちよりスゴイ!!」)政策を、自民党・公明党政権が推進してきたのである。

 残念ながら、悪代官や悪徳商人、悪徳企業が跋扈する日本を変革する展望は見えない。今後も、地獄への道、「先進国」からの大きな後退の中を生きるしかないのだろう。

 

2025年6月12日木曜日

悪魔のような自民党

  今日の新聞は、大河原加工機の冤罪事件に関して、警察や検察が上告しないと決定したことが大きく報じられていた。袴田事件やこの事件を経ても、自民党・公明党政権は、再審法改正に着手しない。

 公立学校の教員のただ働きを残す給特法改正案が成立した。多くの教員が、これでは長時間労働はなくならないと批判していた法案である。これだけ学校現場が苦しんでいるのに、また教員のなり手が減っているのに、自民党・公明党政権はこの法案を成立させた。

 自民党・公明党政権は、悪法ばかり成立させた。

 日本学術会議を法人化し、政府の統制下におくという法案も成立させた。学問の自由、学問の独立を踏みにじるものだ。

 しかし、自民党の裏金が問題となっていたにもかかわらず、企業団体献金問題は結論を出すことはなかった。自民党・公明党政権は裏金を反省していないということであり、今後も賄賂としての企業団体献金をせしめようとしている。

 そして長年の懸案であった空襲被害者に対する救済法案も成立させなかった。自民党・公明党政権は、もとから成立させるつもりはなかったのだ。

 悪法ばかりを成立させ、国民が望む法案は、徹底的に無視した。選択的夫婦別姓も、無視した。

 自民党・公明党政権は、大日本帝国下の日本に戻そうとしているかのようだ。

 自民党、公明党は、悪魔だ。悪魔の支配を断たなければならない。

 

2025年6月11日水曜日

危機にある社会民主党

  以下に紹介する文は、2009年1月に、社会民主党静岡県連合の「旗びらき」における講演で話したことである。題は、「社会民主党に期待すること」であった。このなかで、わたしはかなり厳しい指摘をし、同党が過去の歴史をきちんと総括することを願ったのだが、それはなされなかった。政党要件の危機にある社会民主党、それは同党がみずから招いたものであるとわたしは思っている。

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 “19961月、日本社会党はその党名を「社会民主党」に改称した。しかしこの党名変更は、党の心機一転、さらなる躍進のシグナルではなく、半世紀に及ぶ党史への晩鐘となった。事実、日本社会党はこのときすでに昔日の面影を遠くに残し、党名変更に合わせるかのようにその歴史的役割を終えようとしていた。人の改名が過去の自分に決別したいという思いを潜ませているのと同じく、日本社会党もまた、その名の消滅とともにみずからその実体をも亡きものにしてしまったといえるのかもしれない。(原彬久『戦後史のなかの日本社会党』中公新書、2000年、p.2

 

1 社民党への期待を言う前に

(1)権力への加担と日本社会党の凋落

 現在の社会民主党は、国会において少数政党の一つとなっている。かつては大きな勢力を国会に持って自民党と激しく闘っていた姿を振り返ると、失礼ですが今では見る影もありません。どうしてこうなってしまったのでしょうか。詳しく見ていく時間はありませんので、その劃期となったことだけ申し上げます。

   まず社会党が与党であった細川護煕政権(1993819944)において成立した「小選挙区比例代表並立制導入の政治改革関連法」に賛成票を投じたことでした。この法は199412月に施行されました。

 施行される前の衆議院の議席は、自民223、社会70、新生55、公明51、日本新35、共産15、民社15、さきがけ13、社民連4、無所属4019937月第40回総選挙)でした。社会党は、70の議席を有していたのです。しかし小選挙区制の下では、この議席はおそらくとれない、しかしそれが予想されても、社会党は賛成したのです。

 そのあと自民党などとの連立政権に、加わりました。村山富市政権(1994619961)です。村山政権は、様々なことを行いました。その一覧を掲げると、以下のようになります。

 947自衛隊合憲の所信表明、日の丸・君が代の学校での指導を容認、7韓国    訪問、8東南アジア諸国訪問(シンガポール「血債の塔」訪問)、949社会党大会、政策転換を承認、臨時閣議19974月からの消費税5%の引き上げ決定、12 被爆者援護法の制定955中国訪問(蘆溝橋訪問)、717回参議院選挙(社会16で戦後最低)、7「女性のためのアジア平和基金」発足、95612水俣病未確認患者の救済、8「戦後50年に当たっての首相談話」9大田沖縄県知事の米軍用地更新の代理署名拒否→12職務執行の行政訴訟を福岡高裁に提訴、11 新防衛計画大綱の決定、12破壊活動防止法の適用、12住専への公的資金投入決定、12ゴラン高原へのPKO派遣決定、961伊勢神宮参拝 

 

 下線部分は、評価できるものです。しかし下線を引かない政策は、従来の社会党の政策と真っ向から対立するものでした。消費税を5㌫に決定したのは、村山政権なのですよ(実施は橋本内閣)。かくも簡単に今まで墨守してきた政策を放棄するとは、思っても見ませんでした。これ以外にも、長良川河口堰に賛成し、AWACSの導入を認めるなど、それぞれの地域で地道に運動をしている人々に冷や水を浴びせかけました。これにより、日本社会党に失望し、あるいは支持しなくなる人たちも多くでたのではないでしょうか。私もこの段階で、社会党に大きく失望した一人です。

 明治大学の政治学者・岡野加穂留氏は、「現実政治の権力のかじ取りになった途端に、うれしさのあまり社会党は、党本来の原点を忘れてしまった。やはり革新勢力は、永久に革新勢力でなければならない。政治における現実化と保守化の意味を取り違えて、精神の保守化にまで突き進んでいく危険性こそ指摘をしておかねばなるまい。そのためには、絶えず厳しい自律の心がけ忘れずに、不断に自己変革の哲学をもって改革・革新を連続させる“永久革命”を心がけることであろう。」(「村山富市考ー社会党首相論の落とし穴」、岡野、藤本一美編著『村山政権とデモクラシーの危機』ー臨床政治学的分析』東信堂、2000年、16頁)と指摘します。

 確かにこの頃、社会党議員には「大臣病」にかかる者がいて、嬉々として大臣の席に座っていたという記憶を、私は持っています。「大臣」たちは、日本社会党らしい政策をほとんどしなかったのではないでしょうか。

 また朝日新聞で長年政治担当記者であった石川真澄氏も、「社会党は80年代半ば頃から徐々に路線の「現実化」をはかってきており、小沢らの新生党とともに細川内閣の与党に参加したこと自体、保守党と政策の違いがほとんどなくなっていたことを表していた。村山の政策転換は、首相になった以上やむを得ないという形で、最後のハードルを強引に乗り越えたものであった。そのことはまた、冷戦の終焉、ソ連・東欧社会主義国の崩壊などの「時代の転換」を反映していた。しかし、そうではあっても社会党のかつてから見れば明らかに180度の路線転換は、共産党を除く「政策ののっぺらぼう化」をはっきりともたらした。その結果、戦後政治を主導してきた「保守」は、日本政治全体を覆う広い合意の体系となり、より強い継続に向かいつつあるように見えた。というより、保守政治に対峙してきた「革新」が、従来もっていた意味をほぼ消し去ったために、対立概念を失った「保守」は、保守と限定する必要さえなくなりつつあったといえそうである」(『戦後政治史 新版』、岩波新書、2004年、185頁)と記しています。

 まさに日本社会党は「原則」すら捨ててしまった、日本社会党の「大転換」でした。しかしこれにより、社会党への失望を大量につくったことは確実です。先ほども指摘しましたが、社会党の姿勢が、浜松のAWACS反対闘争にも悪影響を与えました。「AWACS反対」から「AWACSを浜松基地に着陸させるな」という一致点での目標の変更は、社会党のある意味での「変節」によるものでした。

 また私はこの政治学者をあまり信用していませんが、山口二郎氏(北海道大学)は、「村山政権は、戦後の繁栄の陰で置き去りにされてきた問題を、落穂拾いするように、解決することが課題であった。その意味で誠実に取り組んできたと評価できる。しかし、この政権は未来に向けた政策の面では何ら展望を示せなかった。」(『朝日新聞』)と指摘しています。

 過去の選挙結果、消費税に大胆に反対していた頃の議席は、以下の通りです。1989年第15回参議院選挙では、社会46、自民36・・・、1990年第39回総選挙では、自民275、社会136、公明45・・も議席を獲得したのです。自らの政策を大胆に主張するなかで議席を増やしたこと、これがなぜか教訓化されなかったようです。

 

(2)「政治改革」

  ここで小選挙区制導入の問題について、特に指摘しておきたいと思います。当時「政治改革」という言葉が、テレビや新聞で叫ばれました。「政治改革」が行われないと日本はだめになるというような、ほとんど根拠のない無茶な報道でした。この「政治改革」の眼目は、小選挙区制の導入でした。

 ではなぜ小選挙区制を導入するのか。現在は民主党にいる小沢一郎は、明確な戦略をもっていました。その戦略とは、社会党を壊滅させ、それにより政界を再編し、結果的に保守二大政党をつくりあげるというものでした。小沢は、こう発言しています。「現実的にいえば、野党第一党だからいうんだが、社会党をまずぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃいかんと」(朝日新聞政治部『小沢一郎探検』1991年、200頁)。この本は1991年に出されています。日本社会党の人々はこれを読まなかったのでしょうか。しかし、社会党は「政治改革」に賛成したのです。政治改革4法案は、199434日、参議院本会議で可決され、311日に公布されました。そしてその選挙制度で行われた19961020日の選挙(第41回総選挙)では、自民239、新進156、民主52、共産26、社民15、さきがけ2、という結果でした。まさに少数政党への転落です。 

 まさに“時流”に押し流され、日本社会党は、自滅への途を選びとったのです。

 

2 「成果と課題」

 しかしだからといって、日本社会党をまったく消し去ることはできません。現実に社会民主党として一定の役割を果たしているわけですから、今後の展望も含めて考えてみたいと思います。日本社会党の「成果と課題」です。

  私はこの地域の歴史を研究していますが、個別の研究について、まず今までの成果を確認し(研究史)、次に自分自身の研究により何を明らかにするのか(課題)を明確にすることが求められます。そしてその課題についての研究を行い、どれだけ研究を深化・発展させることができたか(実践)によって他者に評価されるのです。

 社会党についても、それを考えてみたいと思います。

(1) 「成果」=日本社会党が果たしてきた役割

 日本社会党の歴史を振り返って、歴史のなかから浮かび上がってくることは、以下のようなものです。箇条書きで紹介します。

1951年の「平和4原則」(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)に見られるように、平和希求の活動を行ってきたこと。

②護憲の旗を掲げてきたこと。

③総評と連携して、労働者の生活と権利を守ってきたこと。

1958年の警職法闘争など、民主主義擁護の闘いを展開してきたこと。

 以上です。これらについては、誰も非難することはないでしょう。

 

(2) 「課題」

 さて次は課題です。それを考えるに当たって、今以て見えていないことがあります。

 いったい社民党は、「保守」と同化した日本社会党なのか?それとも新しい社民党なのか?社民党は、社会党の何を継承しているのか?あるいは断絶したところから出発しているのか?・・・こういう問いに対して、明確に答えがでないのです。村山政権時に変更した政策は、今どうなっているのか。そのままなのか、やっぱりもとに戻したのか・・・これがなかなか伝わってこないのです。

 自滅を招く小選挙区制に賛成したこと、そして村山政権の功罪について、社民党はきちんと総括したのだろうか、そしてまたそれを国民に知らせることをしたのだろうか、という疑問が常につきまとうのです。

 それがわからないので、現在の社民党にとっての課題を、社会党の成果に即した課題を設定することができないのです。従って私は、課題ではなく、期待として以下のようなことを考えています。

 「現代」を見据え、歴史から何を学び、何を課題とするか、それは①護憲の旗を高々とあげること、②平和軍縮、他民族との共生、③貧困のない世界を創る、④労働者の権利と生活をまもること、⑤原則を崩さずに、戦術面では「共闘」を、⑥期待を「裏切らない」という保障の5点です。

 日本社会党が行ってきたこと、そしてグローバルな世界のなかで日本が何をなしうるかということ、そして1990年代前半の「混乱」に鑑みて、こういうことをしていただきたいという期待です。

 

3 実践

 これらの「課題」、この場合では「期待」に対して、どういう実践を行わなければならないかというと、以下のことを申し上げたいと思います。

 まず、理念・原則を曲げないこと(ダメなものはダメ!!)ということです。最近「社会民主党宣言」を読みました。良いことがたくさん書かれていました。これを実践することだと思います。しかしこれはあまり多くの国民に知られていないと思います。もっと幅広く宣伝する必要があると思います。

   次に、憲法の平和主義をまもりきる決意護憲勢力の大同団結運動を提起することです。日本国憲法が危機的な状況を迎える可能性が増しています。改憲を阻止するためには社民党の力だけではとても無理だと思います。憲法を守るという一致点での大共闘組織をつくりあげることが必要だろうと思います。

  そしてもちろん、 労働者など資本主義社会における社会的弱者のために闘うことです。新自由主義経済学が日本社会を席巻し、労働者をはじめとした弱い立場の人々が苦しんでいます。労働者の生活が安定する社会こそが、よい社会だと思います。

 そして最後に、地方でも見える政党になること、です。党首である福島瑞穂氏らはよくテレビに出ています。しかし地方では社民党の姿をあまり目にすることはありません。中央で活動する政党のイメージを払拭し、地方でも目に見える政党になっていただきたいと思います。そのためには、情報発信力を強化することです。マスコミに報道されること、あまり好きではありませんが、宣伝力は残念ながらこれに勝るものはありません。 

 たとえば、具体的な活動として、静岡の社民党から、こういう行動提起をしたらどうでしょうか。

   2010年には改憲のための国民投票法が発動します。それを阻止するために、「知憲」の運動を展開すること、また反貧困・権利擁護の運動として、「使い捨てにするな!」という運動です。

  地方から、創造的なことを発信する力をつくりあげることが社民党を大きくすることにつながるのだと思います。     

 

4 おわりに

 最後に、最近読んだ本の一節を紹介して、私の話を閉じさせていただきたいと思います。

   フランシス・ウェストリーら『誰が世界を変えるのか』(英治出版)から

「歴史から何かを学べるとすれば、それは、どんなに頑強な世界でも、ほんとうに変わるということだ。変化-驚きに満ちた、ときには革命的な変化-はほんとうに起こる。時として世界はほんとうにひっくり返る。そして夢のまた夢だった未来が過去になる。

 私たちは、切実に変化が求められ、望まれる時代に生きている。このまま同じ道を進み続けることはできない。今日の世界を苦しめている深刻な環境問題や社会問題を、無視することはできない。それは人類を破滅させるかもしれないからだ。私たちの社会のほころびや、快適な生活に恵まれている人々と貧困に押し潰されて生きている世界各地の大勢の人々との間の裂け目を、無視することはできない。今が重要なときだ。私たちはチェンジメーカーにならなければならない-有能なチェンジメーカーに」

 もう一つ、ハンナ・アーレントのことばです。

「思考する能力は・・・あらゆる能力と同様、ただ実践によって、練習によってのみ、獲得できるのだ」

  以上で終わります。