2025年6月21日土曜日

日本の冤罪はなくならない

  日本の警察(警視庁)、検察が、犯罪事件を捏造した大川原加工機に謝罪に来たそうだ。その際、謝罪に来た東京地検の森博英は、大川原加工機を大川原加工機工業株式会社と間違い、警視庁の鎌田徹郎は、もと取締役の島田さんについて「ヤマモト」と間違った発言をした。

 彼らが、ほんとうに謝罪の意思があったのかどうか。あったらそんな間違いはしないだろう。 いい加減な謝罪としかいいようがないだろう。

 日本の権力機構の面々は、悪事を働いても反省するどころか居直る者が多い。そもそも間違いを認めないという伝統を持っている。間違いを認めないから、軌道修正もしない。そうした伝統は、大日本帝国時代の天皇無答責(何をしようと天皇には責任はない)につらなって、国家機構の担い手たちも、同様にみずからも無答責だと思っているのだろう。

 日本の警察、検察、いろいろな不祥事が続いているが、改善される見込みはない。警察、検察とも、支配機構の担い手や、長年政治権力を握っている、自由民主党や公明党には、きわめて寛容な姿勢を示す。起訴すべきなのに起訴しないということがよくある。あの「裏金」問題でも、それが露呈した。

 さらに、袴田事件で、日本の再審制度がきわめて不備であることがはっきりしているにもかかわらず、自由民主党や公明党、警察、検察(法務省)は、改善しようという意思が見られない。

 日本はすでに「先進国」ではないが、人権の面では、あきらかに後進国である。それを支えているのが、自由民主党、公明党、そして権力機構の担い手たちだ。

 

2025年6月19日木曜日

ワクチンへの疑問

  新型コロナワクチンの接種を、日本政府は積極的にすすめた。しかし、そのワクチンについていろいろな問題がでてきた。ワクチン接種により亡くなった人、後遺症に苦しむ人びとがたくさんだされた。

 わたしの周りには、亡くなった人、後遺症に苦しむ人はいないが、しかし6回もうった人がコロナに3回もかかったりしていた。はたして、本当にコロナワクチンは効果があるのか、という疑問がわたしにも生じた。

 以前にも書いたが、物価高などで国民の生活が苦しくなっても、日本政府は何等救済しようとはしない。このブログで書いてきたように、自民党、公明党によって運営されている政権は、国民の苦しみを振り返ることはない。そんな政府が、何故にコロナワクチンだけ何度も接種させようとしたのか。それも無料で。わたしは、アメリカに日本のカネを献上しようとしたのではないかと思っている。

 さて、このワクチンに関する問題点を報じてきたのは、ただ名古屋の民放・CBCだけである。なぜほかのメディアはこれをとりあげようとしないのか。

 CBCは、今まで報じてきたことをまとめて「評価不能γ ワクチンの影」として報じている。ぜひ多くの人に見てもらいたい。

 わたしは、今までインフルエンザワクチンを打ってきたが、コロナワクチンが重大な問題を引き起こしていることを知って、打つのはやめた。

 コロナワクチンの問題を、日本政府だけではなく、世界が解決していく姿勢を示さなければ、ワクチンへの疑問は膨らむばかりとなる。 

日本の庶民は苦しんでいる

  日本の労働者の給料は、30年間ずっと上がらずに来た。近年続いている物価高は、そうした日本の庶民に大きな打撃を与えている。わたしも、銀行に行っておカネをおろすことが増え、同時に一度におろす金額も増えている。

 しかし、財界などから多額の政治献金を得、さらにパーティー券を購入してもらっている自由民主党は、いっさい庶民の苦しみを改善しようとしない。驚くべき政権である。その自由民主党にひたすら金魚の糞のようにくっついている公明党(カルト宗教・創価学会)も、同じ行動をとる。「王仏冥合」という宗教と政治権力をぴったりとくっつけるという教義があるからか、自由民主党が何をしようと、何をしなくても、ただぴったりくっつき、自由民主党の選挙を支える。

 苦しい生活を強いられている日本の庶民が、なぜに自由民主党に投票するのか、わたしは理解できていない。

 ガソリンの暫定税率廃止をめぐって、その法案をだそうとした野党に対して自由民主党は審議すらしようとしなかった。「ガソリン価格の全国平均が3カ月連続で1リットル160円を上回ると自動的に発動して暫定税率分(1リットルあたり25.1円)を免除」と決まっているのに、自由民主党・公明党は何もせずに、その維持を図っている。

 東京などの大都市は交通機関が発達しているから自家用車は必要ないだろうが、地方都市では車がない生活は考えられない。ガソリン価格の高騰は、庶民の生活に大きな打撃となる。わたしもできるだけ安い店に買いに行くほどだ。

 一方、自由民主党・公明党は、成立させない方がよい法案を次々と成立させている。その例としては学問の自由と独立性を冒し、学問研究を政権に従属させるという法案を通して、日本学術会議を解体しようとしている。 労働者なのに労働基準法を適用せずに、学校教員を働かせ放題にし、さらに学校現場を分断すべく、「主務教諭」などという階梯を設ける(校長ー教頭ー一般教員というのが学校の階梯だったのが、現在は校長ー副校長ー教頭ー主幹教諭ー一般教員)給特法案も成立させた。主幹教諭と一般教員との間に主務教諭という階梯をつくるというのである。そしてその階梯に給与をひもつけ、教員を分断しようとしているのである。学校教員のなり手が減っているというのに、政府・文科省は、そんなことを気にせずに、教育現場から働く魅力を奪おうとしている。

 最近の自民党・公明党政権は、庶民の生活には関心がなく、三菱重工業などの巨大企業を儲けさせる政策(軍事費の大幅増額)や専制的な国家機構づくりに邁進している。

 そういう政治勢力には、もう退いてもらわなければならないのだが、日本の選挙民は、自由民主党がお好き。少額でも利権につながっているからである。

 

2025年6月18日水曜日

作況指数

  毎年、米の作況指数が報じられていたが、それをやめるそうだ。

 昨年の米の作況指数は、100という平年並みだと報じられていた。しかし、一昨年も昨年も猛暑というか酷暑であった。

 稲作は、田に張る水を出したり入れたりする。ずっとむかし岩波新書の『大地の微生物』を読んだとき、水が張られているときには嫌気性の微生物がはたらき、水が無いときには好気性の微生物がはたらく、というようなことが書かれていた。昔の人は経験から、水を張ったり抜いたりして、稲の生長を図っていたのだろうが、なるほどと思ったことがある。眼に見えないところでいろいろな生物が植物の生長に力を貸しているのである。

 さて今日も猛暑であるが、昨年夏、ふつうだったら水を抜き時期ではあったが、どこの田んぼも、ずっと水を張り続けていた。それだけではなく、ずっと田んぼの水を流し続けていた。水を入れないと、田の水が高温になってしまうのである。したがって、米の出来具合は一昨年に続いてよくなかった。にもかかわらず、作況指数は100位であった。そんなことはあるわけがないと思っていたが、やはり米が足りなくなった。

 昨年の畑作も不作であった。猛暑が続き、雨も降らなかった。わたしは一反ほどの畑を耕しているが、子どもや近所の人にあげるだけの野菜ができなかった。

 気候変動が、日本の農業におおきな悪影響を及ぼしていることを、東京等に住まいしている支配層の方々は知るべきである。

 気候変動は、畑に生える雑草にも変化がある。数年前から畑に生える雑草の中で、今まで見たこともないようなものが生えているのである。

 わたしのように、農作業をしている人びとはそれに気付いていると思うが、大方の人は気付くことはないであろう。

 気候変動対策は、急務であると思うが、しかしろくでもない国家群と軍需産業=死の商人らが、今も各地で戦争をしている。まったく愚行としかいいようがない。宇宙船地球号の未来よりも、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の欲深な輩が権力を握っているのだからどうしようもない。

 

「喰われる自治体」

  最新の『週刊東洋経済』の特集が「喰われる自治体」だったので、購入した。しかし期待外れであった。

 わたしが住む浜松市が、長い間、SUZUKIのトップ鈴木修によって支配され、彼の言うとおりの行政が行われてきたことから、自治体問題に関心を持ってきた。

 現在静岡県で問題になっている県営野球場の建設問題も、鈴木修の要請に基づくものである。SUZUKIには陸上競技部がある。浜松市には陸上競技場があるが、世界大会が行われるほどの設備は持っていない。そこで、鈴木修は、陸上競技場に隣接する市営球場をなくして陸上競技場を拡張してつくりなおし、大会ができるようにしたいという願望をもった。そのためには、市営野球場をどうするかが問題となり、浜松市には新たな陸上競技場をつくらせるから、野球場は県につくらせれば良いと考えたのである。

 現在の競技場、野球場は、遠鉄西鹿島線の駅から徒歩圏内にあるが、計画されている県営野球場の位置は遠州灘の海岸沿いにあり、交通アクセスは最悪である。市民には、したがって評判が悪いし、そんなところに計画されているから、野球以外に使用することはほとんどない。またそこは海岸に近く、この地域、冬には強い季節風が吹くから(遠州のからっかぜ)、冬の野球には適さない。 そんなところに強引につくらせようとしている。

 このように、大企業のトップが市政を思うがままに動かすという事例があるので、わたしも自治体問題に関心を持っているのだが、しかし、同誌には、紙幅もあるのだろうが、自治体を食い続けるNTT、コンサルタント会社に食い物にされる自治体(自治体は新自由主義的改革で、正規職員が大幅に減らされ、非正規に頼るなかで、人員が足りない状況が続いている)、他地域の大企業に食い物にされる自治体、中央官僚の天下り問題が取り上げられるだけで、こうなった背景などへの分析がない。

 やはりこういう問題については、雑誌ではいくつかの事例を報じるだけで、深く掘り下げることはできないのだと思った。関心をもって購入したが、期待外れであった。

 

2025年6月17日火曜日

バラマキの金額

  石破政権が、参議院選挙を前にして、ひとり2万円を支給するという提案を行った。この2万円という数字がどこからでてきたか、わたしはマイナンバーカードをつくれば約2万円のポイントをあげるよ、という過去の施策を思い出した。

 わたしは、マイナンバーカードについて信用していないので、こうした政府の施策には従わない。2万円程度をもらうことが出来たとしても、従うべきではない施策には飛びつかないのである。

 しかし多くの庶民は、2万円あげるよという宣伝にのせられて、市役所などに殺到していた。

 石破政権は、このときのフィーバーぶりを解雇して、国民には2万円程度で「買収」できると思っているのではないか。

 

 わたしは、消費税はなくすべきだと考えているし、またすぐにガソリンの暫定税率1リットルあたり25.1円をなくすべきだと考えている。この暫定税率は、トリガー条項があって、ガソリン価格の全国平均が3カ月連続で1リットル160円を上回ると自動的に発動して暫定税率分を免除し、発動後3カ月連続で同130円を下回ると免除が停止するとなっている。すでにガソリンの価格は、160円をはるかに上回っている。

 約束通りのことをしない、自民党・公明党政権には腹が立つ。

 自民党・公明党政権は、税金はとりやすいところからとるという原則をもって、税制度をつくっている。税制度により、社会的平等をつくるというあるべき原則など振り向きもせずに、ひたすら税をとりあげ、その税金を自民党や公明党のお友だちや財界に流し込んでいる。

 そんな政権ははやく退場させなければならないと思うが、しかし利権にまみれた自民党・公明党政権とつながる人びともいる。彼らはそう簡単にそのつながりをなくすことはできず、自民党、公明党を支持するのである。

 その結果、「先進国」の位置からただただ滑り落ちていく日本をつくりだした。

 海外から、そんなに豊かではない国の人びとも観光に来て、日本は安い、安いといって、日本を買い叩いている。しかし日本の庶民は、「安い」という感覚はなく、高物価に苦しんでいる。おかしな国・日本、それでもこんな自民党・公明党政権が続いている。悪夢である。

 

2025年6月16日月曜日

「独立」ということ

  昨日の『東京新聞』のコラム「時代を読む」は、宇野重規さんの「「知の独立」の転換点」である。

 アメリカのトランプがハーバード大学などに対して攻撃を仕掛けている。それに関して、日本の大学などが、留学生や留学しようとしている学生を引き受けようと言明している。

 しかし、独立して業務を行っていた日本学術会議を解体して、学問を政権の従属下におこうとしている法案が成立した、そんな日本社会が「自由な知の交流の場」となるだろうかと、疑問を呈している。その通りだと思う。

 国立大学が法人化された後、文科省からの天下りを受け入れ、理事会などに経済界の人員を入れて、大学も独立性を失ってきている。 

 考えてみれば、アベ政権以降、内閣法制局、日本銀行・・・・・・など、今まで独立して業務を行っていた国家機関が、次々と政権の意向を実現するような従属機関へと変質させられている。

 こうした国家機関だけではなく、あちらこちらで、独立性がなくなっている。独立性がなくなる契機は、カネ儲けではないかと思う。

 大学が文科省の役人を天下りで受け入れ、理事会に財界人をいれるのは、大学への国からのカネ、経済界からのカネを受け入れやすくするためである。

 また、同紙の「こちら特報部」には、明治神宮外苑の再開発を厳しく批判している石川幹子さんについて報じている。

 再開発の主体となっている大企業や明治神宮なども、カネ儲けがその原動力になっている。

 カネを前にして、独立性をなくし、隷属への道を歩もうとする組織、個人が増えている。

 確かに、独立性を保持しようとすると、経済的に損することもあるが、しかし独立性を維持することは、みずからの尊厳を守ることでもある。

 学問の独立を守ろうとして闘っている学者たち、その一方で学問の独立よりもカネのために隷属化を受け入れようとする御用学者たち。

 わたしは、カネの前に独立性を失い、みずからの尊厳を売り渡したくはない。そういう人間が増えれば良いのだが、それは難しい。社会のニュースをみれば、独立性を失った人びとが動き回っている。そういう人びとには、尊厳は不要なのである。

 

2025年6月15日日曜日

「ヒトの類」から「野蛮」を消す、ということ

  イスラエルがイランを空襲、核施設などを破壊した。それに対して、イランが反撃したが、しかしみていると、イスラエルが圧倒的に計画的にかつ的確な攻撃を行っている。イスラエルの攻撃は、用意周到だったことがうかがえる。

 イスラエルは、ガザ攻撃、西岸地区でのパレスチナ人居住区の占拠など、まさにパレスチナ人の殲滅作戦を展開している。そのイスラエルを批判すると、西欧諸国は、イスラエル批判は「反ユダヤ主義」だとする。 

 イスラエルの暴挙については、アメリカなど西欧諸国は寛容である。その状況を考えると、第二次大戦後、イスラエルをあの場所に建国させた理由が、「野蛮」なイスラム世界の監視役としての機能を果たさせる、というものであったことが思い出される。

 イスラエルは、西欧キリスト教国の支持を得て、パレスチナ民衆はじめ、イスラム世界の弱体化を狙っているのだろう。そしてイスラム世界の石油利権を獲得しようとしているのではないかと思われる。

 実際サウジアラビアなどイスラム世界の多くの国々は、アメリカや西欧キリスト教国と友好関係を確立し、今やイスラエルとの対決姿勢を示しているのは、イランのみである。イスラエルのイラン攻撃の背景には、イランの政治体制を崩壊させ、昔のパーレビ国王時代のようにするためのアメリカの策謀があるのではないだろうか。

 パレスチナからパレスチナ人を殲滅ないしは放逐し、イランの体制を崩壊させれば、「野蛮」なイスラム世界は、従順な「ヒトの類」となっていくのだろう。その尖兵の役割を果たしているのがイスラエルなのであって、その役割は西欧世界公認なのである。

 パレスチナの民衆に連帯を示す人びとは、イスラム世界を「野蛮」とする西欧世界とも闘わなければならない。その西欧世界の方針を、トランプがかってでているのである。

  

2025年6月14日土曜日

本の紹介文

  今日届いた『東京新聞』の読者欄に、D・グレーバーの『啓蒙の海賊たち』(岩波書店)が紹介されていた。評者は、いとうせいこう。

 グレーバーは、「啓蒙主義」の源を、マダガスカル北東部に定住した海賊の「頑ななほど平等主義的」で、支配者をおかない社会があったところに求める。

 いとうは、海賊ということから、中世東アジアの「倭寇」も、そのような傾向を持っていたのではないかと推測する。

 わたしは、この指摘に、倭寇について調べてみたいと思うようになった。

 また、いとうは、シリア北部のロジャヴァ自治区のクルド人の全員参加の民主主義を実践した実験に言及する(『女たちの中東 ロジャヴァの革命』青土社)。

 そして、最後にこう結ぶ。

こうしてある意味辺境で自由平等が目指されたことを中央は積極的に忘れる。抵抗は思い出すことから始まる。

 短い文ではあるが、こころを動かされる書評であった。

 東京都で都議選が始まった。中央は忘れても、辺境では抵抗の炎はくすぶり続いている。 

テキトーで安易な発言

  テレビを見なくなって久しいが、見なくなった理由の一つが、報道番組などで適当な発言をするコメンテーターの質がおそろしく低いこと、であった。それぞれ専門的な知識がある人物に解説させればよいのに、ほとんど知識もないような輩に解説や感想を語らせる、それを聞いていると、あまりにばかなことをしゃべるので、わたしに相当なストレスが生じることがわかったからである。

 テレビ局が集めるコメンテーターなる人物のレベルと、テレビ局のレベルとは等しい、というのが、わたしの結論である。

 フライデーにこういう記事があった。「 田﨑史郎氏の“トンデモ解説”で『ミヤネ屋』がJAから猛抗議→後日謝罪訂正の「ドタバタ舞台裏」」。

 そもそも田﨑史郎という人物、顔からして信用できない。 彼も新自由主義をまき散らす人物で、小泉進次郎とともに、JA農協を株式会社化して、JAがもっている預貯金などをアメリカに差し出そうとしているのかもしれない。

劣化

  日本の劣化は進むばかりだ。

 最近の関西系のテレビをYouTubeでみると、万博パビリオンの工事代金の未払い問題が、アンゴラ館だけではなく、他の工事でもあるという。実際に工事を行った下請け企業が、工事費の未払いでたいへん苦しんでいるという。

 おそらく日本の建設工事などの悪しき慣行、「中抜き」がまかり通っているからで、発注した各国も驚いていることだろう。日本は、これだけでも「先進国」とはいえない。

 このような日本にしたのは、長期にわたる自民党・公明党政権が、利権政治を展開していたことによる。それはさらに、そんな自民党や公明党などに投票してきた選挙民にも原因がある。

 その利権政治の典型は、石破政権によるひとり2万円のバラマキ政策である。国民から集めた税金を、自民党、公明党とつながる企業などにばらまく慣行を、今度は低額ではあるけれども、選挙民にもやってみようということである。その2万円をばらまいて参議院選挙で票を得ようということで、いかにも悪人が考えそうなことである。

 それよりも、消費税をなくせ!といいたい。格差社会を推進する政策のその中心に、消費税がある。大企業や富裕者を富ませる一方で、大衆から消費税を収奪して、大衆を苦しめようという、いかにも悪代官がやりそうなことである。テレビ番組であった「水戸黄門」の悪代官や悪徳商人も真っ青になるような(「俺たちよりスゴイ!!」)政策を、自民党・公明党政権が推進してきたのである。

 残念ながら、悪代官や悪徳商人、悪徳企業が跋扈する日本を変革する展望は見えない。今後も、地獄への道、「先進国」からの大きな後退の中を生きるしかないのだろう。

 

2025年6月12日木曜日

悪魔のような自民党

  今日の新聞は、大河原加工機の冤罪事件に関して、警察や検察が上告しないと決定したことが大きく報じられていた。袴田事件やこの事件を経ても、自民党・公明党政権は、再審法改正に着手しない。

 公立学校の教員のただ働きを残す給特法改正案が成立した。多くの教員が、これでは長時間労働はなくならないと批判していた法案である。これだけ学校現場が苦しんでいるのに、また教員のなり手が減っているのに、自民党・公明党政権はこの法案を成立させた。

 自民党・公明党政権は、悪法ばかり成立させた。

 日本学術会議を法人化し、政府の統制下におくという法案も成立させた。学問の自由、学問の独立を踏みにじるものだ。

 しかし、自民党の裏金が問題となっていたにもかかわらず、企業団体献金問題は結論を出すことはなかった。自民党・公明党政権は裏金を反省していないということであり、今後も賄賂としての企業団体献金をせしめようとしている。

 そして長年の懸案であった空襲被害者に対する救済法案も成立させなかった。自民党・公明党政権は、もとから成立させるつもりはなかったのだ。

 悪法ばかりを成立させ、国民が望む法案は、徹底的に無視した。選択的夫婦別姓も、無視した。

 自民党・公明党政権は、大日本帝国下の日本に戻そうとしているかのようだ。

 自民党、公明党は、悪魔だ。悪魔の支配を断たなければならない。

 

2025年6月11日水曜日

危機にある社会民主党

  以下に紹介する文は、2009年1月に、社会民主党静岡県連合の「旗びらき」における講演で話したことである。題は、「社会民主党に期待すること」であった。このなかで、わたしはかなり厳しい指摘をし、同党が過去の歴史をきちんと総括することを願ったのだが、それはなされなかった。政党要件の危機にある社会民主党、それは同党がみずから招いたものであるとわたしは思っている。

******************************************************

 “19961月、日本社会党はその党名を「社会民主党」に改称した。しかしこの党名変更は、党の心機一転、さらなる躍進のシグナルではなく、半世紀に及ぶ党史への晩鐘となった。事実、日本社会党はこのときすでに昔日の面影を遠くに残し、党名変更に合わせるかのようにその歴史的役割を終えようとしていた。人の改名が過去の自分に決別したいという思いを潜ませているのと同じく、日本社会党もまた、その名の消滅とともにみずからその実体をも亡きものにしてしまったといえるのかもしれない。(原彬久『戦後史のなかの日本社会党』中公新書、2000年、p.2

 

1 社民党への期待を言う前に

(1)権力への加担と日本社会党の凋落

 現在の社会民主党は、国会において少数政党の一つとなっている。かつては大きな勢力を国会に持って自民党と激しく闘っていた姿を振り返ると、失礼ですが今では見る影もありません。どうしてこうなってしまったのでしょうか。詳しく見ていく時間はありませんので、その劃期となったことだけ申し上げます。

   まず社会党が与党であった細川護煕政権(1993819944)において成立した「小選挙区比例代表並立制導入の政治改革関連法」に賛成票を投じたことでした。この法は199412月に施行されました。

 施行される前の衆議院の議席は、自民223、社会70、新生55、公明51、日本新35、共産15、民社15、さきがけ13、社民連4、無所属4019937月第40回総選挙)でした。社会党は、70の議席を有していたのです。しかし小選挙区制の下では、この議席はおそらくとれない、しかしそれが予想されても、社会党は賛成したのです。

 そのあと自民党などとの連立政権に、加わりました。村山富市政権(1994619961)です。村山政権は、様々なことを行いました。その一覧を掲げると、以下のようになります。

 947自衛隊合憲の所信表明、日の丸・君が代の学校での指導を容認、7韓国    訪問、8東南アジア諸国訪問(シンガポール「血債の塔」訪問)、949社会党大会、政策転換を承認、臨時閣議19974月からの消費税5%の引き上げ決定、12 被爆者援護法の制定955中国訪問(蘆溝橋訪問)、717回参議院選挙(社会16で戦後最低)、7「女性のためのアジア平和基金」発足、95612水俣病未確認患者の救済、8「戦後50年に当たっての首相談話」9大田沖縄県知事の米軍用地更新の代理署名拒否→12職務執行の行政訴訟を福岡高裁に提訴、11 新防衛計画大綱の決定、12破壊活動防止法の適用、12住専への公的資金投入決定、12ゴラン高原へのPKO派遣決定、961伊勢神宮参拝 

 

 下線部分は、評価できるものです。しかし下線を引かない政策は、従来の社会党の政策と真っ向から対立するものでした。消費税を5㌫に決定したのは、村山政権なのですよ(実施は橋本内閣)。かくも簡単に今まで墨守してきた政策を放棄するとは、思っても見ませんでした。これ以外にも、長良川河口堰に賛成し、AWACSの導入を認めるなど、それぞれの地域で地道に運動をしている人々に冷や水を浴びせかけました。これにより、日本社会党に失望し、あるいは支持しなくなる人たちも多くでたのではないでしょうか。私もこの段階で、社会党に大きく失望した一人です。

 明治大学の政治学者・岡野加穂留氏は、「現実政治の権力のかじ取りになった途端に、うれしさのあまり社会党は、党本来の原点を忘れてしまった。やはり革新勢力は、永久に革新勢力でなければならない。政治における現実化と保守化の意味を取り違えて、精神の保守化にまで突き進んでいく危険性こそ指摘をしておかねばなるまい。そのためには、絶えず厳しい自律の心がけ忘れずに、不断に自己変革の哲学をもって改革・革新を連続させる“永久革命”を心がけることであろう。」(「村山富市考ー社会党首相論の落とし穴」、岡野、藤本一美編著『村山政権とデモクラシーの危機』ー臨床政治学的分析』東信堂、2000年、16頁)と指摘します。

 確かにこの頃、社会党議員には「大臣病」にかかる者がいて、嬉々として大臣の席に座っていたという記憶を、私は持っています。「大臣」たちは、日本社会党らしい政策をほとんどしなかったのではないでしょうか。

 また朝日新聞で長年政治担当記者であった石川真澄氏も、「社会党は80年代半ば頃から徐々に路線の「現実化」をはかってきており、小沢らの新生党とともに細川内閣の与党に参加したこと自体、保守党と政策の違いがほとんどなくなっていたことを表していた。村山の政策転換は、首相になった以上やむを得ないという形で、最後のハードルを強引に乗り越えたものであった。そのことはまた、冷戦の終焉、ソ連・東欧社会主義国の崩壊などの「時代の転換」を反映していた。しかし、そうではあっても社会党のかつてから見れば明らかに180度の路線転換は、共産党を除く「政策ののっぺらぼう化」をはっきりともたらした。その結果、戦後政治を主導してきた「保守」は、日本政治全体を覆う広い合意の体系となり、より強い継続に向かいつつあるように見えた。というより、保守政治に対峙してきた「革新」が、従来もっていた意味をほぼ消し去ったために、対立概念を失った「保守」は、保守と限定する必要さえなくなりつつあったといえそうである」(『戦後政治史 新版』、岩波新書、2004年、185頁)と記しています。

 まさに日本社会党は「原則」すら捨ててしまった、日本社会党の「大転換」でした。しかしこれにより、社会党への失望を大量につくったことは確実です。先ほども指摘しましたが、社会党の姿勢が、浜松のAWACS反対闘争にも悪影響を与えました。「AWACS反対」から「AWACSを浜松基地に着陸させるな」という一致点での目標の変更は、社会党のある意味での「変節」によるものでした。

 また私はこの政治学者をあまり信用していませんが、山口二郎氏(北海道大学)は、「村山政権は、戦後の繁栄の陰で置き去りにされてきた問題を、落穂拾いするように、解決することが課題であった。その意味で誠実に取り組んできたと評価できる。しかし、この政権は未来に向けた政策の面では何ら展望を示せなかった。」(『朝日新聞』)と指摘しています。

 過去の選挙結果、消費税に大胆に反対していた頃の議席は、以下の通りです。1989年第15回参議院選挙では、社会46、自民36・・・、1990年第39回総選挙では、自民275、社会136、公明45・・も議席を獲得したのです。自らの政策を大胆に主張するなかで議席を増やしたこと、これがなぜか教訓化されなかったようです。

 

(2)「政治改革」

  ここで小選挙区制導入の問題について、特に指摘しておきたいと思います。当時「政治改革」という言葉が、テレビや新聞で叫ばれました。「政治改革」が行われないと日本はだめになるというような、ほとんど根拠のない無茶な報道でした。この「政治改革」の眼目は、小選挙区制の導入でした。

 ではなぜ小選挙区制を導入するのか。現在は民主党にいる小沢一郎は、明確な戦略をもっていました。その戦略とは、社会党を壊滅させ、それにより政界を再編し、結果的に保守二大政党をつくりあげるというものでした。小沢は、こう発言しています。「現実的にいえば、野党第一党だからいうんだが、社会党をまずぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃいかんと」(朝日新聞政治部『小沢一郎探検』1991年、200頁)。この本は1991年に出されています。日本社会党の人々はこれを読まなかったのでしょうか。しかし、社会党は「政治改革」に賛成したのです。政治改革4法案は、199434日、参議院本会議で可決され、311日に公布されました。そしてその選挙制度で行われた19961020日の選挙(第41回総選挙)では、自民239、新進156、民主52、共産26、社民15、さきがけ2、という結果でした。まさに少数政党への転落です。 

 まさに“時流”に押し流され、日本社会党は、自滅への途を選びとったのです。

 

2 「成果と課題」

 しかしだからといって、日本社会党をまったく消し去ることはできません。現実に社会民主党として一定の役割を果たしているわけですから、今後の展望も含めて考えてみたいと思います。日本社会党の「成果と課題」です。

  私はこの地域の歴史を研究していますが、個別の研究について、まず今までの成果を確認し(研究史)、次に自分自身の研究により何を明らかにするのか(課題)を明確にすることが求められます。そしてその課題についての研究を行い、どれだけ研究を深化・発展させることができたか(実践)によって他者に評価されるのです。

 社会党についても、それを考えてみたいと思います。

(1) 「成果」=日本社会党が果たしてきた役割

 日本社会党の歴史を振り返って、歴史のなかから浮かび上がってくることは、以下のようなものです。箇条書きで紹介します。

1951年の「平和4原則」(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)に見られるように、平和希求の活動を行ってきたこと。

②護憲の旗を掲げてきたこと。

③総評と連携して、労働者の生活と権利を守ってきたこと。

1958年の警職法闘争など、民主主義擁護の闘いを展開してきたこと。

 以上です。これらについては、誰も非難することはないでしょう。

 

(2) 「課題」

 さて次は課題です。それを考えるに当たって、今以て見えていないことがあります。

 いったい社民党は、「保守」と同化した日本社会党なのか?それとも新しい社民党なのか?社民党は、社会党の何を継承しているのか?あるいは断絶したところから出発しているのか?・・・こういう問いに対して、明確に答えがでないのです。村山政権時に変更した政策は、今どうなっているのか。そのままなのか、やっぱりもとに戻したのか・・・これがなかなか伝わってこないのです。

 自滅を招く小選挙区制に賛成したこと、そして村山政権の功罪について、社民党はきちんと総括したのだろうか、そしてまたそれを国民に知らせることをしたのだろうか、という疑問が常につきまとうのです。

 それがわからないので、現在の社民党にとっての課題を、社会党の成果に即した課題を設定することができないのです。従って私は、課題ではなく、期待として以下のようなことを考えています。

 「現代」を見据え、歴史から何を学び、何を課題とするか、それは①護憲の旗を高々とあげること、②平和軍縮、他民族との共生、③貧困のない世界を創る、④労働者の権利と生活をまもること、⑤原則を崩さずに、戦術面では「共闘」を、⑥期待を「裏切らない」という保障の5点です。

 日本社会党が行ってきたこと、そしてグローバルな世界のなかで日本が何をなしうるかということ、そして1990年代前半の「混乱」に鑑みて、こういうことをしていただきたいという期待です。

 

3 実践

 これらの「課題」、この場合では「期待」に対して、どういう実践を行わなければならないかというと、以下のことを申し上げたいと思います。

 まず、理念・原則を曲げないこと(ダメなものはダメ!!)ということです。最近「社会民主党宣言」を読みました。良いことがたくさん書かれていました。これを実践することだと思います。しかしこれはあまり多くの国民に知られていないと思います。もっと幅広く宣伝する必要があると思います。

   次に、憲法の平和主義をまもりきる決意護憲勢力の大同団結運動を提起することです。日本国憲法が危機的な状況を迎える可能性が増しています。改憲を阻止するためには社民党の力だけではとても無理だと思います。憲法を守るという一致点での大共闘組織をつくりあげることが必要だろうと思います。

  そしてもちろん、 労働者など資本主義社会における社会的弱者のために闘うことです。新自由主義経済学が日本社会を席巻し、労働者をはじめとした弱い立場の人々が苦しんでいます。労働者の生活が安定する社会こそが、よい社会だと思います。

 そして最後に、地方でも見える政党になること、です。党首である福島瑞穂氏らはよくテレビに出ています。しかし地方では社民党の姿をあまり目にすることはありません。中央で活動する政党のイメージを払拭し、地方でも目に見える政党になっていただきたいと思います。そのためには、情報発信力を強化することです。マスコミに報道されること、あまり好きではありませんが、宣伝力は残念ながらこれに勝るものはありません。 

 たとえば、具体的な活動として、静岡の社民党から、こういう行動提起をしたらどうでしょうか。

   2010年には改憲のための国民投票法が発動します。それを阻止するために、「知憲」の運動を展開すること、また反貧困・権利擁護の運動として、「使い捨てにするな!」という運動です。

  地方から、創造的なことを発信する力をつくりあげることが社民党を大きくすることにつながるのだと思います。     

 

4 おわりに

 最後に、最近読んだ本の一節を紹介して、私の話を閉じさせていただきたいと思います。

   フランシス・ウェストリーら『誰が世界を変えるのか』(英治出版)から

「歴史から何かを学べるとすれば、それは、どんなに頑強な世界でも、ほんとうに変わるということだ。変化-驚きに満ちた、ときには革命的な変化-はほんとうに起こる。時として世界はほんとうにひっくり返る。そして夢のまた夢だった未来が過去になる。

 私たちは、切実に変化が求められ、望まれる時代に生きている。このまま同じ道を進み続けることはできない。今日の世界を苦しめている深刻な環境問題や社会問題を、無視することはできない。それは人類を破滅させるかもしれないからだ。私たちの社会のほころびや、快適な生活に恵まれている人々と貧困に押し潰されて生きている世界各地の大勢の人々との間の裂け目を、無視することはできない。今が重要なときだ。私たちはチェンジメーカーにならなければならない-有能なチェンジメーカーに」

 もう一つ、ハンナ・アーレントのことばです。

「思考する能力は・・・あらゆる能力と同様、ただ実践によって、練習によってのみ、獲得できるのだ」

  以上で終わります。


 

給特法の問題点

  『世界』7月号には、「憲法問題としての教員の働き方改革」(高橋哲)という文が掲載されている。

  給特法改正案はただ単に、残業代の代わりに教職調整額を増やすというだけではなく、教員にさらに階梯をつくるという、教員分断策を伴っていることが指摘されている。長い間、教員の階梯は、校長、教頭だけが管理職で、主任は互選などで選ばれていて、手当は当初はなかった。在職中、途中で主任には主任手当として月5千円が支給されるようになった(クラス主任にはない)。その後、校長と教頭の間に副校長という管理職が設けられた。

 わたしが退職してから、「主幹教諭」という職が設定された。この職の手当がどうなっているかはわからないが、さらに給特法では「主務教諭」という職を設け、そして給与表に「級」を設定し、教員給与をさらに差別的な体系にしようとしているようだ。

 教員は、集団として教育実践をしているのであって、このように差別的な給与体系を導入・強化することは、教員集団を分断することにつながり、百害あって一利なしというしかない。 

 文科省がおこなう施策が打ちだされればされるほど、学校教育は破壊されてきたという気がしている。もちろん、教員の給与を上げ、残業手当をきちんと支給することには全面的に賛成であるが、給特法は残業手当の代わりに「教職調整額」を増額することによって教員の「ただ働き」を放置しようとしている。政府、文科省は、教員の自発的行為としての「在校等時間」という法に基づかない語を使用して、「ただ働き」をさせつづけようとしているのである。

 部活動や生徒会の指導、補習など、勤務時間を超えて教員は働いているのであるが、それらは「自発的行為」だから残業手当は支給しない、というのである。しかし、それらは、まさに教員の業務として行われていることであって、支給がないこと自体不法である。

 今回の給特法改正案は、不法である。その不法に賛成した政党に投票することはいっさいしないだろう。反対したのは、れいわ新選組、日本共産党である。 

 自民党・公明党政権は、日本学術会議法案はじめおかしな法案はせっせと成立させるのに、再審法改正や選択的夫婦別姓については、頰被りをして内もしようとしない。自民党、公明党、そして維新、国民民主党は、これも百害有って一利もない政党である。そういう政党に権力を握らせている日本国民も、おかしい。

 

  

えっ!社会から立憲へ

  公立学校教員をただ働きさせる給特法の改正案を立憲民主党が賛成したそうだ。反対は、日本共産党とれいわ新選組だけだという。立憲民主党の立場は、誰が何を言おうとも、自民党、公明党、維新、国民民主党と同様であると言わざるをえない。立憲民主党に何らかの期待を持っている人もいるが、わたしはいっさい支持をしない。

 数年前、社会民主党の静岡県連合が、戦後の静岡県での社会党や総評系労働組合の闘いを本にまとめたいという要請があり、手弁当でたくさんの原稿を書き、その歴史をまとめたことがある。非売品であるが、すでに書籍となっている。

 その直後、社会民主党静岡県連合の代表と幹事長が、立憲民主党に移った。

 わたしはそれにたいへん驚いた。

 今まで、わたしは社会民主党を一定支持し、いろいろな助言をしてきたが、この件で、社会民主党を完全に見限った。

 日本社会党からつながる社会民主党という政党を支えていた人が、いとも簡単に他党に移ることが出来るということ、それも党外の人間に、日本社会党・社会民主党の歴史を書かせておいて、自分たちはさっさと他党にいく、ということは、倫理的にどうなのかと思う。

 適正な原稿料をもらっていたというならそれも我慢しよう。しかし昼食と交通費だけで協力したわたしにしてみれば、裏切られたと言うしかない。 

 今回、給特法の改正案に立憲民主党が賛成したことを知り、彼らが移っていった立憲民主党は、働く人びとと共に立つ政党ではないことを実感した。 

2025年6月10日火曜日

戦争への道を開く自民党、公明党、維新

  日本学術会議を解体する「日本学術会議法案」が、自民党、公明党、維新の賛成により、参議院内閣委員会で可決された。

 アベ政権以降、国家機構のなかにある独立的な組織を、内閣の指令のままに動かそうとする動きが強まった。日本銀行、内閣法制局、そして今度は日本学術会議。

 先日も書いたが、大学などの研究機関に軍事研究をさせるため、その障害となっていた日本学術会議を実質的に解体することをめざす法案が、今国会で成立することになる。

 戦争に多くの研究者が協力させられたことを反省し、学術は戦争には協力しない、平和のための研究を推進するということを最大の方針でつくられた学術会議。

 その法には、 「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」とある。自民党・公明党政権、そして金魚の糞のようにくっついている維新は、経団連などを含めた支配層の意向を受け、今後は武器輸出をカネ儲けの手段とするつもりである。

 武器弾薬などの軍需品にとって、買ってもらうためにその性能を実証しなければならない。実証する機会は、実際の戦争で使われることであるから、 ついに日本国は戦場へと進み出ていくのである。

 日本の平和は、近いうちに消されていくことだろう。

 カネ儲けのためには戦争を辞さないという決意を、日本の支配層が持ったということである。

 アジア太平洋戦争において武器弾薬を作り続けて、ばく大なカネを儲けることができた三菱などの財閥は、過去の経験をもう一度繰り返そうとしている。

 財閥はカネが儲かればよいのであって、国土が破壊されても、人びとが殺されても、そういうことには関心を持たなかったのである。今後も、同じ状況がつくられていくことだろう。

 

 

世代ということば

  わたしたち、つまり1950年前後に生まれた者は、「全共闘世代」ともいわれる。わたしが高校生だった頃、大学生だった頃、確かに高校や大学でいろいろな紛争が起きていた。紛争とまではいかなくても、学内の色々な問題に対して、声をあげていた。

 わたしは今、「覚書「高校紛争」の頃」という文を書いている。1960年代末、全国に吹き荒れた「高校紛争」について書かれた本はあるが、それは「紛争」が激化した高校しかとりあげられていない。しかし、当時、「紛争」とまではいかなかったが、高校生は様々な活動を繰り広げていた。そのことを、わたしは書きのこしておきたいと思った。

 先月号の『世界』で、宮本ゆきさんが、第二次トランプ政権下の大学の状況について報告している。その文のなかで、「Z世代」ということばが使われている。「Z世代」とは、リベラルな学生というイメージを持つが、しかしアメリカでは、「大学は都市部だけではないこと、また大学に進学しない層のほうが、Z世代においても数において上回っている」のであって、「Z世代」といわれる世代の若者がほとんど「リベラル」というわけではないとする。

 それはその通りであって、「高校紛争」の頃においても、何らかの活動に参加する高校生の数はいつも少数であった。それに「全共闘世代」といっても、大学に進学する者の数は少なく、わたしの中学校では、大学に進学した者は学年の生徒数のほぼ一割でしかなかった。

 「〇〇世代」と呼称されても、それによって示される特徴をもつ集団は、まったくの少数派でしかないのである。

 アメリカにおいて、「Z世代」と呼ばれるリベラルな学生の廻りには、同じ世代ではあっても、リベラルではない多数の若者が存在する。

 そしてその若者たちは、今までマイノリティとして逆境の位置にあった者たちの権利が拡充されていくなかで、みずからの地位が脅かされていると感じているのである。

 たとえば、女性の権利が主張され、女性の社会的進出が顕著になるなかで、昔ながらの家父長的な意識をもった男たちがそれに脅威を抱き、ミソジニー(女性嫌悪)に至るという事態も生じている。

 だから「世代」で括って論じることには慎重でなければならない。

 社会は、直線的に良い方向へと動くことはないのである。少数の知識階級が理想に向かって困難な道を開く一方、その理想に脅威を抱き、足を引っ張る、そしてかれらに憎悪をもつ、そんな傾向が世界的に目立ってきている。

 SNSが、そうした脅威をもつ者たちに声をあげさせ、そのことによって横につながる手段を提供したのである。従来からのマスメディアは、そうした人びとの声をすくいあげることなく、やはり理想を実現することを良しとする報道を展開してきたから、そうした存在はみえなかったのである。

 いわゆるサイレントマジョリティは、もはや沈黙することなく、SNSによってみずからの主張をあげはじめている。その点では、民主主義は進んだともいえるし、しかしそのことによって、良識を基盤とする民主主義が危機に陥る事態となっている。

 どのようにして打開するか、そのためには「世代論」はすでに有効ではなくなっていることを自覚すべきなのである。

 

2025年6月9日月曜日

歴史の「抹殺」

  いまわたしは、届いたばかりの『世界』7月号を読んでいる。

 まず望月優大の連載の「アジアとアメリカのあいだ」、その第7回「人間を消す国、記憶も消す国」を読んだ。日本だけではなく、世界各地で、みずからの妄想にもとづく歴史像をつくろうとする人びとが増えている。この文は、アルゼンチンのことについて書かれたものだ。暗澹たる気持ちになる。

 アルゼンチンは軍事独裁政権の下、人びとの拉致、拷問、抹殺が国家権力により遂行された。その歴史を「記憶」し、「真実」を明らかにし、「正義」を実現すべく、「記憶ミュージアム」がある。もちろん、ミュージアムを設けたのは、いわゆる「左派」の人たちであるが、しかしその後の選挙で、トランプを崇敬する大統領が選出され、彼らはその歴史を自分勝手に「発見」し、「自由」に創作しようとする。

 望月は文の末尾で、「見勝手な「自由」や「納得」のために「記憶」を弄ぶ現在の政治によって、かれらが通過した「歴史」は、どれほど深く否定されるのだろうか」と書く。その「かれら」とは、軍事政権下で「抹殺」され、消されていった人々のことである。

 歴史を書くという作業に従事していたわたしにとって、その行為は決して楽なものではなかった。数々の史料を、それぞれ、その内容の信憑性を検討しながら、過去に記された史書に描かれた歴史を背景に、歴史の流れの中に、それらの史料に記された事実を位置づけていく。多くの時間と、集中力と持続力を維持しながらのその行為は、時に苦痛でもあった。

 だが、そういう地道な作業によってつくられた歴史像は、身勝手で頑迷な者たちによって、容易に足蹴にされる。自分たちに都合の良い歴史像を、史実とは無関係につくりあげていく。それは、わたしにとっては、歴史の「抹殺」というしかない。

 すでに引退しているつもりになっているわたしは、こういう歴史否定の現実を知るにつけ、やはり歴史的真実を発信していかなければならないと思う。

 

害悪のみ、自民党・公明党政権

  自民党・公明党政権は、軍事化政策を推進しようとしている自民党・公明党政権は、日本学術会議を解体しようとしている。日本学術会議は、1945年に終わった戦争の教訓から、戦争政策に科学者は協力しないということを基本的な姿勢としてきた。

 日本の支配層は、日本の主力産業として自動車と原発を押し立てていこうとしていたのだが、福島の原発による東電の原発が破壊され、大量の放射性物質を放出したことにより、原発は「当面」(まだ彼らはあきらめてはいない)主力産業にはならないことを悟った。となると、残るは自動車だけ。それまでに日本の産業では、液晶パネルなどが成長していたが、経産省は、ただただ自動車と原子力産業だけに力を投入し、それらの成長産業を無視していた。その結果、それらの産業は中国の成長産業へと転化した。

 自動車だけしかない日本の産業は、ついに軍需産業を成長させようと決意した。しかし軍事品は実際に使用されないと、その効果を示せない。したがって、日本の支配層は、戦争に参加する方向に舵を切った。

 しかし、そのためには、兵器などの研究を大学などの研究機関にさせるため、それに抵抗する日本学術会議を解体しようと強い執念で臨んでいる。平和のうちにしか生きていけない国民にとっては、とんでもない政策である。

 また現在国会で早期に実現させなければならない件、選択的夫婦別姓問題、再審法改正問題、苦しむ国民のためになすべき消費税の廃止問題については、自民党・公明党政権はまったく消極的である。やる気がない。

 国民の生活改善、人権や平和のための施策にはまったく消極的で、それに反するもののみに積極的である自民党・公明党政権。

 平和で人権が保障されている日本にはしたくない自民党・公明党。

 彼らに政治を任せていては、日本はどんどん危ない方向に走って行く。

 自民党・公明党政権はまったく害悪のみの政治集団である。