現代は「分断の時代」だと言われる。その「分断」をつくりだしているのは、SNSではないかと思う。
現実の世界、そこでの人と人との交流は、暗黙の共有される前提の下でなされる。挨拶が交わされ、天候の話がされ・・・・・そしていろいろな会話がなされていく。そこには表立った「分断」はない。とはいえ、そのような表面的な会話がなされていても、それぞれのこころの内部には敵対心や侮蔑、怒りなどの表面には出されない感情が潜在されているかもしれない。しかしそれを表面にだすと人間関係は崩れるかもしれないから、感情の表出は抑制される。
別にそれは、個人同士の関係だけではなく、テレビなどのメディアでの報道その他に対しても、怒り、侮蔑などの感情は出るのであって、しかしそれは一過性の表に出ない感情の表出として消えていくものであった。
人は一瞬一瞬を生きていく中で、様々な感情をもつ。しかしそれは一過性であり消えていくものであった。現実の世界では、いちいちみずからの感情の動きをおもてに出していくなんてことはしない。そんな暇はないし、そんなことをしていたら、現実の世界での人間関係はおかしくなっていく。
ところがSNSが発明され、そのような感情を表出する場が生みだされた。そしてその場は、匿名でも表出できるところでもあった。人のネガティヴな感情を表出するにはうってつけの世界であった。そしてその感情の表出が、手元にある携帯電話を通じて即座にネットの世界に流され、そこでは同じような感情を持つ人びととつながることができるところでもあった。
その世界は、Twitter(X)、YouTubeなどへと広がっていった。とりわけTwitterは、短いことばで発信するから、感情の表出には最適であり、また匿名でも可能だから、感情のなかでもネガティブなもの、他人のこころを傷つけるようなものも自由に出せるようになった。
今まで、現実の世界では抑制され、一瞬で消えていったネガティヴな感情が、短い文であるから説明抜きで大量にあふれ出し、それらがつながるようになっていった。
人が持つ、今までは表出しない方がよいと自己抑制されていた感情がSNSの世界に放たれていった。それらは寄り集まってある種の渦となって、現実の世界に大きな影響を与えるようになり、現実世界を変えていった。
たとえば、兵庫県の竹内県議会議員が自死されたというが、その原因は、SNSで、大量の根拠なき誹謗中傷が流され、そして実際にそうした誹謗中傷を流した面々が実際に竹内県議の自宅付近をうろつき、また竹内県議宅に注文者がわからない物品が配達されるようになったからだといわれている。自己抑制すべきネガティヴな感情がSNSの仮想空間に渦となって出現し、現実世界に流れ出る、それが人を激しく攻撃する。
わたしはTwitterは見ないし、自分ではやらない。何らかの意見を表明する場合には、きちんとした根拠を提示し、みずからの思考過程を示すことが必要だと考え、短い文ではそれは不可能だと認識するからこうしたブログに書いている。
本来自己抑制すべきネガティヴな感情、それは現実世界では表出されることもなく消えていくようなものであったが、それがSNSを通してネットの世界、それは公共の空間でもあるが、そこに流れ出る中で渦となり現実世界を動かすまでになっている。その世界は、匿名でも可能なので、そこで使用されることばは、ネガティヴな感情を表すことから、現実世界ではほとんど使用されない悪意にみちたものとなる。
わたしがはじめてブログをはじめたのは、biglobeであった。すでにそこでもブログサービスを停止しているが、わたしの意見、それは政治権力への批判であったが、それに対して凄まじい悪罵が投げつけられたことがあった。その悪罵に、わたしは当初はつきあい、丁寧に反論を加えたりした。が、途中で討論が成りたたないことがわかり無視することにしたが、その人がつかうことばがあまりに汚い、現実世界では決して使われないことばの束であったことを覚えている。
SNSは、匿名の世界でもあり、ネガティヴな感情を表出できる場として利用され、一定の力を持つに至っている。
昨日届けられた『週刊金曜日』の巻頭で、想田和宏さんが「SNSから離れる」ことを宣言している。「利己的な目的で虚偽の情報を意図的に流す人たちがいて、それを善意の人たちが拡散する」「デマゴーグはいとも簡単にタダで情報を汚染できる」「誰もが川に毒を流せる以上、情報汚染は次から次へと起きる」「SNSがなかったら」、「SNSから離れようと思う」と 書いている。
まさにSNSには、「毒」が仕込まれた世界なのである。「毒」を仕込むことができる世界なのである。それが現実世界に生きる人びとを「分断」するのである。「二つの世界」を生みだしたのは、SNSなのである。
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