2025年6月30日月曜日

国家(政府)を信じるな!

  今日の『中日新聞』の第一面に、「細る予算 共助頼みに」という記事があった。浜松市が周辺の11市町村を併合して現在の浜松市ができたのが20年前。いわゆる「平成の大合併」で誕生した、全国二位の面積を持つ浜松市。

 静岡県の中部以西は、この「平成の大合併」で多くの市町村がなくなった。天竜川以西では、現在浜松市と湖西市しかない。ほかの市町村は消されたのである。県西部の市町村は、自治省の政策にまんまと乗せられたのである。静岡県でも、東部、伊豆地方では自治体の数は多い。

 あの頃、政府は小さな自治体住民に大きな不安をもつように仕向けた。大きな自治体と合併しないと、町の財政は苦しくなり、とりわけ福祉に大きなしわ寄せがくる・・・・・不安になったのは町の老人たちだ。大きな自治体と合併しなければ・・・などと動き始めた。

 川根本町は、中川根町と本川根町とが合併した町である。この地域でも、近在の島田市との合併を模索していた。しかし町長や当局者と話す機会があったわたしたちは、それはやめるべきだ、大きな市と合併すれば、人口は減り、さらに町は衰退していくということをしきりに説明した。それには事例があった。静岡市にずっと前、1969年に合併された井川村、あっという間に人口は減っていき、インフラ整備もままならなくなった。

 結局、両川根町は島田市との合併はしなかった。

 過疎地域においては、自治体が独立していることはきわめて大事である。町村役場はそれだけで地域住民の就職先であり、企業も当該自治体の仕事を受けるためには、支店や営業所を当該自治体内にもっていなければならない。自治体がなくなるそのこと自体が、人口減につながるのである。

 また地域住民が当該自治体を盛り返そうとしたとき、大きな自治体ではそれがなかなか難しい。大きな自治体では、住民自治が動かなくなるのだ。

 この記事には、

 「旧水窪町役場には林道担当者が複数いたというが、現在は区役所庁舎内にある天竜森林事務所が管轄し、水窪には兼務の担当者一人がいるのみだ」、元自治会長が何かを頼んでも「予算がないと言われるし職員が足りていない」といわれてしまう、ということが書かれている。

 そうだろうと思う。「平成の大合併」は、弱小自治体、過疎地の切りすてでもあったからだ。

 こうした事態は、予想の範囲内なのである。

 あの頃、合併熱が急に高まり、市町村がなくなっていった。国家がそうした熱をつくりだし、煽ったからだ。しかし、その結果、合併された旧市町村の住民たちは、今、後悔しきりである。

 わたしはそのころ、そうした地域をまわっていろいろ話した。だからこう云いたい、「言ったとおりでしょ」と。

 だから国家(政府)を信じるな、なのである。

 

自由民主党「消費税守り抜く!」

  共同通信によると、自由民主党の幹事長である森山裕が、奈良県の講演会で「何としても消費税を守り抜く。代替財源を示さずに、消費税を下げる議論だけをするのはポピュリズムの政治だ」と語ったという。

 まず第一に、通常「防衛費」と読んでいる「軍事費」を、岸田内閣時に43兆円という整備費をぶちあげたが、「軍事費」の財源については、いっさい「財源」への言及がなされなかった。それはそうだろう、アメリカの軍需産業も、日本の三菱重工などの軍需産業も、いずれも自由民主党を支える政治・経済の支持勢力、彼らのためには、無条件で従う。それが自由民主党なのである。

 そして第二に、「消費税を守りぬく」には、輸出産業にはばく大な消費税の戻し税がばらまかれ、これも自由民主党を支える大企業群が儲かる仕組み、「内部留保」として貯められる。

 消費税が「社会保障財源」だなどと自民党・公明党政権はいうが、しかし消費税による税収が増えれば増えるほど、社会保障財源は「痩せ細っている」。おかしいではないか!

 日本の経済を破壊して不況にし、国民に大きな格差を生みだし富裕者や大企業だけが肥え太る社会を、消費税はつくりだした。

 森山裕は、そうした経済構造を維持し、国民の生活を破壊する政策を続けるつもりである。

 一部の巨大企業や富裕者だけが喜ぶという消費税、自由民主党や公明党は、続けていきたいのである。それは立憲民主党も同じである。

 

2025年6月29日日曜日

ゆりかもめ

  今日、ゆりかもめに初めて乗った。品川で新幹線を降り新橋へ。そこでゆりかもめに。たくさんの人が乗っていた。当然降りる駅、東京ビッグサイトまで立ち続けた。はじめて知った大学、武蔵野大学での研究会に参加するためであった。武蔵野大学は100年の歴史があると言うが、まったく知らなかった。校舎はとてもきれいで、設備も整っていた。

 ゆりかもめが人びとを運ぶところ、わたしが学生時代、なにもなかった。学生時代、伊豆七島の神津島でキャンプをするために竹芝桟橋から乗船、しかし体育の授業があったので仲間と離れてわたしだけが1日早く帰った。帰りの日は台風が来ていて、船が揺れに揺れた。でもわたしはまったく酔わなかった。船の揺れに身を任せて、そのリズムにのってしまえば酔わないということがわかった。船から海を見ていると、波が船より高く、その波の中を航行したのだが、東京湾に入るとまったく静かになってしまい、な~んだと思ったことがある。桟橋まで、東京湾には何もなかったと思う。 

 だが今、ゆりかもめの窓から見える風景は、高層ビルの林立であった。わたしは、これは自然に対する人間の悪しき挑戦ではないかと思った。それも、おのれの力を過信してつくったものだと思った。自然の破壊、本来あってはならないものをつくってしまった、という感慨である。

 そういうところに、子ども連れや若い人たちが大挙して押し寄せる。

 東京には、絶対に住みたくないと思った。

 

2023年から

  今日の『中日新聞』には、「令和の米騒動、予兆は2年前から 農林水産省の作況指数に卸売会社社長は「そんなわけがない」と声を荒らげた」という記事が載せられている。

  わたしも農業をしているからわかるが、2023年からの夏は異常に暑かった。それは2024年もであり、今年もそうなるだろう。

 夏、毎年わたしは3時頃から畑に出ていた。そして生育の早い夏の雑草をとっていた。2022年まではそれができていた。

 ところが2023年夏は、異常に暑く、20分炎天下で労働するだけで、「これは倒れるな」という気がして、早々と退散したものだ。わたしは畑だけだが、稲作農家も今までとは異なる状況に、いつもは止めている用水の流水を止めないで流しっぱなしにしていた。あまりにも暑かったからで、それは2024年も同じだった。2023年に出来た米の粒は小さかった。

 2023年から、酷暑のため、米の出来は悪かった。しかし農水省はそれを無視した。様々な情報があったはずなのに、ボーッとしていたのだ。長年続く減反政策・生産調整で、米の需給がピッタリするように供給を抑え続けてきた結果、2023年米から不足し始めた。それでも、自民党・公明党政権下の農水省はボーッとし続けた。

 そうした無策の結果、供給不足が続いたために、米の価格は2倍以上に高騰したのだ。まさに自民党・公明党政権の無策、農水省官僚のサボタージュが、米の高騰を招いた。

 今年も酷暑が予想されている。おそらく米の価格はあまり下がらないだろう。

 主食である米を供給できない自民党・公明党政権、農水省官僚は、いったいどうするつもりなのか。

 そういう輩を、いつまで選挙民は政権の座につけておくのか。自民党は自分の栄華のために政治をし、公明党は創価学会のために政治をしているのだ。そんな輩を選挙で当選させてはならない。

 

  

生活保護費の削減は安倍自民党の所業

  2013年からの生活保護費削減は、安倍晋三が自民党の総裁時の選挙公約に掲げられた政策だった。厚労省は、2012年の総選挙で勝った安倍・自民党に忖度し、安倍自民党の命令の下に、とにかく削減しなければと、根拠なき削減を行ったのだ。

 今回の最高裁判決は、安倍自民党への断罪であった。

 日本の生活保護施策においては、本来保護費が支給されなければならない人びとができるだけ少なくなるように設計されている。したがって、生活保護費を受給できる人びとの生活よりもさらに下回るような貧困世帯がたくさんある。

 安倍自民党は、本来生活保護の対象としなければならない人びとへの不支給を「調整」するために、生活保護費の減額を図ったのである。これは長年の自民党・公明党政権による、酷薄なる政策の結果である。

 消費税は、そういう貧困世帯からも税金としてむしりとる悪税であり、自民党の各級議員はパーティー収入をウラ金として自分の懐に入れ、さらに税務申告もせずに自由にそのウラ金をつかう。そして税務当局も、それに対して課税すらしない。

 国税庁などの官僚は、ヒラ目ばかり。国民ではなく、自民党だけを見つめ、あわよくば「出世」しようと政権与党に目配せばかりしている。

 そんな日本がずっと続いている。そういう日本にしたのは、自民党・公明党政権である。彼らの罪は重い。

 

2025年6月27日金曜日

二つの世界

  現代は「分断の時代」だと言われる。その「分断」をつくりだしているのは、SNSではないかと思う。

 現実の世界、そこでの人と人との交流は、暗黙の共有される前提の下でなされる。挨拶が交わされ、天候の話がされ・・・・・そしていろいろな会話がなされていく。そこには表立った「分断」はない。とはいえ、そのような表面的な会話がなされていても、それぞれのこころの内部には敵対心や侮蔑、怒りなどの表面には出されない感情が潜在されているかもしれない。しかしそれを表面にだすと人間関係は崩れるかもしれないから、感情の表出は抑制される。

 別にそれは、個人同士の関係だけではなく、テレビなどのメディアでの報道その他に対しても、怒り、侮蔑などの感情は出るのであって、しかしそれは一過性の表に出ない感情の表出として消えていくものであった。

 人は一瞬一瞬を生きていく中で、様々な感情をもつ。しかしそれは一過性であり消えていくものであった。現実の世界では、いちいちみずからの感情の動きをおもてに出していくなんてことはしない。そんな暇はないし、そんなことをしていたら、現実の世界での人間関係はおかしくなっていく。

 ところがSNSが発明され、そのような感情を表出する場が生みだされた。そしてその場は、匿名でも表出できるところでもあった。人のネガティヴな感情を表出するにはうってつけの世界であった。そしてその感情の表出が、手元にある携帯電話を通じて即座にネットの世界に流され、そこでは同じような感情を持つ人びととつながることができるところでもあった。

 その世界は、Twitter(X)、YouTubeなどへと広がっていった。とりわけTwitterは、短いことばで発信するから、感情の表出には最適であり、また匿名でも可能だから、感情のなかでもネガティブなもの、他人のこころを傷つけるようなものも自由に出せるようになった。

 今まで、現実の世界では抑制され、一瞬で消えていったネガティヴな感情が、短い文であるから説明抜きで大量にあふれ出し、それらがつながるようになっていった。

 人が持つ、今までは表出しない方がよいと自己抑制されていた感情がSNSの世界に放たれていった。それらは寄り集まってある種の渦となって、現実の世界に大きな影響を与えるようになり、現実世界を変えていった。

 たとえば、兵庫県の竹内県議会議員が自死されたというが、その原因は、SNSで、大量の根拠なき誹謗中傷が流され、そして実際にそうした誹謗中傷を流した面々が実際に竹内県議の自宅付近をうろつき、また竹内県議宅に注文者がわからない物品が配達されるようになったからだといわれている。自己抑制すべきネガティヴな感情がSNSの仮想空間に渦となって出現し、現実世界に流れ出る、それが人を激しく攻撃する。 

 わたしはTwitterは見ないし、自分ではやらない。何らかの意見を表明する場合には、きちんとした根拠を提示し、みずからの思考過程を示すことが必要だと考え、短い文ではそれは不可能だと認識するからこうしたブログに書いている。 

 本来自己抑制すべきネガティヴな感情、それは現実世界では表出されることもなく消えていくようなものであったが、それがSNSを通してネットの世界、それは公共の空間でもあるが、そこに流れ出る中で渦となり現実世界を動かすまでになっている。その世界は、匿名でも可能なので、そこで使用されることばは、ネガティヴな感情を表すことから、現実世界ではほとんど使用されない悪意にみちたものとなる。

 わたしがはじめてブログをはじめたのは、biglobeであった。すでにそこでもブログサービスを停止しているが、わたしの意見、それは政治権力への批判であったが、それに対して凄まじい悪罵が投げつけられたことがあった。その悪罵に、わたしは当初はつきあい、丁寧に反論を加えたりした。が、途中で討論が成りたたないことがわかり無視することにしたが、その人がつかうことばがあまりに汚い、現実世界では決して使われないことばの束であったことを覚えている。

 SNSは、匿名の世界でもあり、ネガティヴな感情を表出できる場として利用され、一定の力を持つに至っている。

 昨日届けられた『週刊金曜日』の巻頭で、想田和宏さんが「SNSから離れる」ことを宣言している。「利己的な目的で虚偽の情報を意図的に流す人たちがいて、それを善意の人たちが拡散する」「デマゴーグはいとも簡単にタダで情報を汚染できる」「誰もが川に毒を流せる以上、情報汚染は次から次へと起きる」「SNSがなかったら」、「SNSから離れようと思う」と 書いている。

 まさにSNSには、「毒」が仕込まれた世界なのである。「毒」を仕込むことができる世界なのである。それが現実世界に生きる人びとを「分断」するのである。「二つの世界」を生みだしたのは、SNSなのである。

 

2025年6月26日木曜日

学歴

  静岡県の伊東市で、つい最近市長に当選した田久保真紀氏に学歴詐称問題が起きている。選挙時に、東洋大学を卒業していると経歴に書いてあったが、実際は卒業していないではないのかと言われているのだ。

 卒業しているかどうかを証明するのは簡単なことだ。

 最近実家の片付けをしていたら、わたしの大学の卒業証書が出て来た。卒業以来一度も見たことがなかった。卒業証書がなくても、大学に問い合わせればすぐわかることだ。

 しかし田久保市長はそういうことをせずに言葉を濁している。おそらく卒業していないのだろう。ならば、最初から事実を述べていればよかったのだ。

 れいわ新選組の代表山本太郎さんは、自らを中卒だといっている。現在の自分に自信を持っていれば、学歴何ぞはどうでもよいのだ。中卒だからといって、山本太郎さんを侮蔑するなんてことはあり得ない。

 学歴に伴う資格が必要な場合は学歴は必要だが、そうでなければほとんど生きていく上で関係ない。人生を生きていくということは、そういう付属物は意に介さないことだ。学歴がなくとも、立派な人物はたくさんいる。