2025年11月2日日曜日

知ること

  『現代思想』の最新号「「終末論」を考える」を読みながら、無知の知を実感している。

 巻頭の「終わりへの幻想が砕け散ったあとで」を読んでいて、大いに学ぶものがあった。

 「現実にあるたいていの終末論というのは、実は人類の滅亡を宣言するのではなく、むしろひとびとの多くが死んでしまうなかで、それでも生き残る者がいるという話です。大きなカタストロフが来たときに、滅びていくのは誰で、誰がそこをサバイブして新しい世界を作っていくのかということにかかわっている。その意味で終末論は非常に差別的、さらに言えば優生学的な議論と言えます。生き残るべき命と滅びるべき命との間にどう線を引くかという発想に、ともすれば接近していく危険が終末論の議論そのものにある。」 

 終末がきても、生き残る者がいる、という終末論。なるほど。 

 「終末を、というよりそこで救われるべき者と滅びるべき者の選別がなされることを望む集団が、カタストロフが思うように来なかった場合に「我々がそれをおこすのだ」といって本気で準備し実行してしまうことがありうるということです。」

 オウム真理教のテロ事件が、まさにそれだった。しかし、このような思考は、おそらくオウムだけではなく、その他の集団や個人にもあるのだろう。

 このような考え方は、キリスト教の「携挙」(はじめて知ったことばだ)の「世俗版」だという。「終末の時に主イエス・キリストがやってきて、真のクリスチャンを空中に引き上げ、彼らに不死の体を与える、というキリスト教の(特にプロテスタントの中で強い)アイデアである。」と大澤真幸が書いている。 

 また「反出生主義」という語も知った。

反出生主義とは、「生まれてくる子どもが苦しむことを考えると決して生むべきではない」という思想と、「自分が生み落とされたことに対する否定感覚」をもち、「苦しみを感じる存在がゼロになることが将来の世界のあるべき姿であって、それを目指さなくてはいけない」という考えだという。

この「反出生主義」は、『現代思想』で、かつて特集していた。

現在思想の基礎的な知識を得るためには、『現代思想』を読まないといけないと思った次第である。

  

2025年11月1日土曜日

終末論

  今日、『現代思想』11月号が届いた。特集は、「「終末論」を考える」である。

 かなり前、わたしは新自由主義が波及する中で、世界の支配層は自分たちだけが生き残りたい、という意図をもって経済活動その他をしているのではないかと思ったことがある。持続的に自分と、自分の子孫を生かしていくためには、地球環境も大切だし、今を生きる多くの人びとも大切だし、食料やものをつくってくれる農業者や労働者も大切だ・・・つまり自分や自分の子孫を大切にしたいなら、この世界にある諸々のものを大切にしなければいけない、しかし、新自由主義の時代、「今だけ、金だけ、自分だけ」というきわめて利己的な生き方をする人間が増え、他者を切りすてるという風潮がたかまっている。そんなことをすれば、未来は閉ざされてしまう、だれが食料をつくってくれるのか、誰がものをつくってくれるのか・・・いやひょっとしたら支配層は、この世の終わりを見つめてるのではないか、そのためにせっせと蓄財に励んでいるのではないか、と。

 最近は、『現代思想』を毎月購読しなくなっているが、特集に応じて時に購入する。

 さて、大澤真幸の「破局に魅了されて・・」を読みはじめたら、大澤は、『世界』7月号のナオミ・クラインらの「終末ファシズムの勃興」をもとに論じようとしていた。確か読んだはずだと思い、『世界』7月号を手に取ると、目次に×印がついている。もちろんわたしがつけたものだ。わたしは、『世界』などに掲載された文について、読んだら◎、○、×などを目次に記す。もちろん、参考になったものは、◎、○である。読む必要がないと思ったのは×である。「終末ファシズムの勃興」をもう一度読みはじめたが、なぜわたしが×をつけたのかわかった。翻訳がよくない。こなれていないし、たとえば、サバイバリズムを「生存主義」と訳している。しかしわたしは、それを「生き残り主義」とする。語の意味を正しく伝えるなら、わたしの訳の方がよいと思う。災害や社会的混乱その他の最悪の事態を想定して、生き残るために危険に備える、というものだからだ。翻訳も、読む人が理解しやすいようにすべきなのだ。

 『現代思想』、読みはじめたばかりである。感想はまた書くつもりである。 

  

2025年10月31日金曜日

考えること

  刺激があると、やっと考える。日常生活は、まさにいつもしていることの繰り返し。刺激はほとんどないから、考えるということにつながらない。唯一刺激を与えてくれるのは、本である。

 『週刊金曜日』を読んでいたら、劇団「燐光群」主宰者、坂手洋二の新作「高知パルプ生コン事件」の紹介記事があった。

 高知パルプ事件というのは、高知市を流れる川、江ノ口川が大いに汚れた時期があった。パルプ工場が廃液を垂れ流していたからであった。市民はあまりのことに、排水を止めようとしたのだが、埒が明かない、そこで山崎圭次らが、パルプ工場の排水口に生コンクリートと砂嚢を投入し、廃液を工場敷地から外にあふれ出た。山崎らは罰金5万円の有罪判決を受けた。

 その事件を「高知パルプ生コン事件」という舞台にあげたのである。その主題、「実力行使による画期的な民主主義の実現」として。

 まったく知らなかった、「燐光群」も、坂手洋二も。坂手は「社会派演劇家」で、社会派の作品をたくさんつくっているという。

 ユーチューブで、「燐光群」の舞台を見てみた。

 学生時代によく見ていた前衛劇に近いと思った。普通に見る劇の流れではなく、台詞、間、演技・・・それぞれがビシッと迫ってくる。浜松演劇鑑賞会で上演されるのは、まさに普通の劇で、一定の筋の展開があり、その展開に沿った台詞や舞台装置があり、別にビシッと迫ってくるものではない。 

 学生時代に見ていた前衛劇は、ひとつひとつの台詞の彼方に何かわけの分からない世界があって、その一部が観客に投げ込まれてくる、そういう台詞であるから、それぞれのことばに新たな意味を持たせているようで、ことばを再考させられるというような気がしていた。

 そういう刺激が欲しいと思った。

 坂手は、「演劇は3週遅れのジャーナリズム」と語る。なるほどと思った。ジャーナリズムということばには、批判的精神が含意されている。たしかに、演劇には、何らかに対する批判がある。批判は、舞台の上では、葛藤となって現れる。葛藤がなければ、演劇は成りたたない。

 舞台上の葛藤が、観客への葛藤として投げかけられる。その葛藤を、観客が受容し、考える契機とする。

 さっそく、わたしは坂手洋二の戯曲をいくつかまとめた本を読みたくなり、図書館から借り出す手続きをとった。

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 今日は、午後から雨だというので、午前中2時間畑にいた。土を耕し、畝をつくり、肥料を撒く。農業機械は持っていないので、鍬やスコップなどすべて手作業である。夏草におおわれていた畑が、土色となり、またマルチをはるので、黒色となる。はくさい、キャベツ、レタスなどが生長してきている。農業は、自然との対話である。自然は、最近の気候変動をはっきりと示している。都会に住む人びとには、わからないだろう。

 

2025年10月28日火曜日

熊の出没

  連日、クマの被害が報じられている。熊が出没している地域では、気が気ではない緊張した日々を送っていることだろう。

 野生の動物は、どこにでもいる。わたしの住むところにも、ハクビシンがいた。野生の猫がたくさんいて、整地したところや芝生の上に糞を出すため、猫を捕獲しようと近所の人が、箱罠を仕掛けた。わたしの実家の日当たりの良いところによく猫がまどろんでいる、というので、そこに仕掛けた。ところが入ったのは、ハクビシンであった。ハクビシンは、近所の天井裏に入り込んで大きな被害をもたらしたことから、地域の自治会が殺処分を依頼した。

 昨日、隣家の方から、アライグマをみかけたという話を聞いた。野生の動物が、人間が住む世界に侵出し、人びとの生活を脅かしているのだ。そのなかで、もっとも大きな被害を及ぼすのが熊ということになるだろう。熊は人を襲う。もう10人程度殺されている。

 熊が出没するニュースとともに、政治の世界でも、デマを生業とする政治団体が出没するようになり、人びとを惑わすようになった。

 ふつうの人はデマに惑わされるようなことはないのだろうが、SNSだけから情報を得ているひとたちは、惑わされる確率は高くなる。SNSは根拠なきデマや作り話などを、公的空間に投げ入れることができる。誹謗中傷も、である。匿名という身を隠す手段があるので、責任感を持たずに情報をだすことができる。 

 先日、新聞で、中高生だったか、ほとんどが本を読まなくなっているというニュースがあった。別にそれは、中高生に限らない。大人たちも読んでいないと思う。読む人はたくさん読むが、読まない人はほとんど読まない。読書の格差も拡大している。

 また新聞も読まなくなっている。新聞配達の方に尋ねたら、確かに配達する家庭は減り、そのために配達地域が拡大しているのだそうだ。購読者数が減る新聞社、危機を感じているようだ。しかし権力を監視するという本来の職務を放棄して、権力におもねるような報道をしてきたことが購読者数の減少の原因の一つであったと思うが、『東京新聞』を除いて、藩士絵するところがないようだ。

 SNSのデマに対抗しうる手段は、ないようだ。デマは、熊のように人の身体に直接危害を加えるものではないが、精神に大きな危害を与える。デマは、間接的に、人の命を奪うこともある。

 デマは、したがって、暴力そのものだ。その点で、熊と同等だ。

 デマによって一定の政治勢力が支持を広げているようだが、それは暴力によって人びとに危害を加える中ででてきた結果である。その点で、熊の出没と同じだ。

 熊に警戒するだけでなく、デマにも警戒しなければならない。いずれも、人間に対する暴力という点で軌を一にする。

 

2025年10月26日日曜日

「楽しかったね!」

  毎年、この時期になると『みぎわ』という雑誌が送られてくる。内村鑑三につながる無教会派のクリスチャンの方々による強い信仰の証しを記したものだ。

 不勉強のわたしは、いまだ一度も『聖書』を完全に読んだことはない。書庫に、2種類の『聖書』があるが、なかなかそれを読もうという気にならない。他に読まなければならない本がたくさんあるからで、いつか、いつかと思いながら今になってしまっている。

 だから、『聖書』の解釈について書かれた文は、よくわからないので、そこは読まずにいる。わたしが熱心に読んだのは、2024年に昇天された西川求さんについて書かれた文である。

 人は必ずこの世から去らなければならない。高校生の頃、そのことについていろいろ考えたことがあった。その時の結論は、「悔いなき死」を迎えるということであった。「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きなければならない、というものであった。

 それからあまり考えることはなかった。しかし、一昨年2月、母が100歳で亡くなった。母の死に関わる諸々のことを処理していく中で、わたしが思ったことは、みずからの死を考えないで来られたのは母のおかげであるということだった。母が生きているということは、息子であるわたしにとって死は直面するものではなかった。母が盾となって、わたしを死から遠ざけていてくれたのだ、ということを思った。しかし母が亡くなったとき、あゝ次はわたしの番だと認識した。母が長生きしたように、わたしも、子どもたちの盾となって、子どもたちを死から遠ざけておかなければならない。生きているということは、すばらしいことであるからだ。

 西川求さんが素晴らしい人間であったことは、書かれた文から読み取ることができる。模範的な人生を送られた方だ。エネルギッシュで、思いやりがあり、統率力もあり、頑張り屋で・・・・まさに生き方を学びとるべき人間である。

 そしてその仲間たちも、同じように素晴らしい人びとであったことだ。そういう仲間たちをもったことが、西川求という人間をつくったのだろう。人はひとりでは生きていけない、仲間たちと触れ合い協働するなかで、人間はよりよい人間になっていく。

 西川求という人間とその仲間たちを結びつけたのは、キリスト教という信仰であった。

 その仲間たちも、ひとり、またひとりと昇天していく。仲間のひとり、竹内羊さんが亡くなられ、火葬にふすとき、奥さまの礼子さんが「お父さん、楽しかったね!」と語りかけた。

 「楽しかったね!」、何気ないことばではあるが、このことばは、人生をともに歩んできた人だからこそ、言えるものだ。それは、竹内さんという人間の人生を全面的に肯定することばでもあるし、同時に奥さまや家族との生活をも肯定する、力強いことばだ。

 わたしは、なぜ母が火葬にふされたとき、母に「楽しかったね」と言ってあげなかったのか。わが家は、わたしが2歳のときに父が病死し、母が働いてわたしと姉とを育てた。苦労した話も聞いている。だけど、苦しかったという思い出よりも、母と共に生きてきた日々は、「楽しかったね」ということばをこそ、かけるべきであった。母の苦労や人生を、全面的に肯定することばであるからだ。「ありがとう」ということばは、何度も何度も繰り返した。そのあとに、「楽しかったね!」というべきであった。

 西川求は、「生きる(永遠の命)ために死」を迎えた。神のもとで、永遠に生きる、そのための死であること、キリスト教の信仰である。西川求の仲間たち、家族は、西川求が「神様に招かれて天国に」行ったと思っている。

 キリスト者でないわたしも、母は浄土に旅立ったと思っている。毎日毎日、わたしは母に語りかけている。そのなかに必ず、「楽しかったよ」と言おう。いずれわたしも、同じところに行く。わたしを浄土に送り出す子どもや孫、仲間たちから「楽しかったね!」といわれるような人生を生きようと思う。 

2025年10月25日土曜日

まさか・・・・!

  『週刊金曜日』で、内田樹がトランプについて、「「まさか、こんなことまではしないだろう」という常識の意表を衝いて、憲法と法律を無視した大統領令を乱発して、独裁者の足場を着実に固めている」と書いている。

 それと同じようなことを、安倍晋三がやっていたことを思い出す。

 しかし、人びとのなかに、そういう人物を好む者がいて、SNSを通して彼らがつながってしまい、集団としての力を発揮するようになってしまった。その力は、ことばも行動も暴力的である。

 長年の自民党・公明党政権による悪政がつくりだした社会状況であるのに、その社会状況を利用して、たとえば排外主義的なことを叫び、それが人びとの共感を呼んでいる。少子化もそれをカバーするための外国人低賃金労働力の導入(外国人の法的地位を明確にしないままに、ただ働かせれば良いという政策)も、そして円安にして海外からの観光客を大量に招き入れること、これらは自民党・公明党政権がやってきたことだ。

 その挙げ句が、「日本人ファースト」。「日本人ファースト」を唱えるなら、日米地位協定を問題にしろよ!と言いたくなる。 

 新自由主義が現在の矛盾をつくりだし、世界的に、同じような状況が生まれている。アメリカも、ヨーロッパも。

 どうしたら、この状況を切り開くことが出来るのか。悩ましい。

 『週刊金曜日』で、森達也が「メディアは社会と合わせ鏡だ。知る権利や政治権力の暴走よりも低俗なスキャンダルに国民が関心を示すのなら、メディアが政治権力と闘えるはずがない。そのレベルの国民が選挙で政治家を選び、メディアの権力監視は満足に機能しないまま一党独裁状態が戦後80年続いてきた」と指摘している。その通りである。しかしそういうことを指摘しても、ある種の嘆きでしかない。問題は、どう一歩を歩み始めるか、である。わたしにはその一歩を示す力はない。ただただ、模索するのみだ。

 その間にも、「まさか、ここまでやるか」が積み重なっていくかもしれない。

 あゝ、どうしたらよいのだろうか。 

2025年10月23日木曜日

醜悪と長い文

  『東京新聞』のほか、日々、ネットでニュースを追っているが、ネットのニュースを見なくなった。なぜか。あの醜悪な顔が至る所にあるからだ。高市早苗を、女・安倍晋三とみるからだ。安倍の顔も見ないようにしていた。老齢期の人間にとって、ストレスは大敵だというので、ストレスの原因となるアベ、そして今は高市とそれを支える面々、いずれも醜悪な顔を持っている、かれらの顔は見たくないからだ。その顔に刻印された傲慢さ。庶民の生活を歯牙にもかけない獣性を、かれらの顔に見るからだ。

 熊が出没して庶民を苦しめているが、彼らは熊のような存在だ。山の中など、いるべきところに隠れていればいいのだが、彼らは表舞台に出てきてしまっている。

 政治は、世のため人のためになされなければならないという思想をわたしは持っているが、かれらはそんなことは関係なく、利権とつながり、政治家であり続けるため私腹を肥やすのに余念がない。まさに熊である。冬眠前にたくさん食べておかなければと人里に進出してきた熊だ。

 新聞を見たら、共同通信の世論調査があった。なんと、高市政権の支持率が64%だという。人里を荒らす熊に64%の支持が集まる。

 高市政権とトランプ政権は、同じ穴の「熊」である。

 今月号の『地平』で、三牧聖子さんがこう書いている。「トランプほどにあからさまに大統領という地位を利用し、巨額の利益を得ている大統領はいない。」とある。そして、「 7月4日、トランプは「一つの大きくて美しい法案」と名付けた大型減税法案に署名し、法律として成立させたが、その内実は明らかに富裕層を優遇するものだった。同法案には確かに労働者向けの目玉政策として掲げられてきた「チップ収入非課税」も含まれたが、低所得者向けの医療保険(メディケイド)など医療関連費の一兆ドルの削減が盛り込まれるなど、低所得層にとっては支援が削られる痛みのほうがはるかに大きい。議会予算局の試算によれば、法案成立により政府債務は今後10年間で3.1兆ドル拡大し、2029年時点で高所得層の所得が3%増加する一方で低所得層の所得は4%減少する。」

 そして「トランプ政権はその統合の実態が、ごく少数の金と権力を持つ人たちがさらにその富と権力を増やす一方、庶民は今かろうじてもっているものですら剥奪される寡頭政治であることを隠そうともしていない。」と。

 高市も、軍事拡大のために、増税、社会保障削減を推進して来るだろう。しかし、SNSやテレビのワイドショーなどで、そうしたことに触れることはない。テレビメディアは自民党政権とグルであるし、SNSには政権側の意図的な「情報」が流されている。

 わたしは、そうした人びとをだますような情報にはアクセスせず、『地平』『世界』『週刊金曜日』などで情報を得ているが、それぞれの文章は長い。

 最近、多くの、とりわけ若者は長い文章が読めないという。そうであるなら、日本の未来は明るくはない。どんなことでも、短文では一定の主張を、根拠を示して展開することは出来ない。長い文を読むことが出来なくなれば、しっかりとした判断はできなくなる。長い文を読んでいると、思考を止めたり、飛翔したり、新たな発見へとつながったり、とにかく思考が豊かになる。

 政治判断は、感情で行われるものではなく、きちんとした情報をもとに下されなければならない。今の時代は、それが出来なくなっているようだ。だから、現在に繋がる未来は危うい。