2025年12月30日火曜日

自由民主党と統一教会

  様々な問題を引き起こしてきた韓国を拠点とする統一教会が、自由民主党に食い込み、同党を支援し、強固な結びつきをつくってきたことが、統一教会の内部文書で明らかになった。

 韓国の「ハンギョレ新聞」のスクープである。

 

「安倍首相、選挙支援に非常に喜んだ」旧統一教会、内部報告文書で言及

2025年12月28日日曜日

金子文子のこと

  2026年は、金子文子の縊死から100年となる。いわゆる「金子文子没後100年」である。

 そこで、金子文子について、彼女の生の軌跡と、思想について紹介する。本稿は、『沓谷から』第4号に掲載したものである。

 

【アナキスト・金子文子】


 『時代をきりひらいた日本の女たち』(落合恵子・小杉みのり、岩崎書店、2021年)という本がある。ここには31人の女性が紹介されている。そのなかに金子文子(1903~1926)がいる。金子は、「人間の平等をうったえたアナキスト」とあり、金子の「自分の意志で動いたとき、それがよし肉体を破滅に導こうとも。それは生の否定ではない。肯定である。」という文を引き、「死にかえてでも自分の意志をつらぬくこと。それが文子の「生きること」だった」と記す。そして末尾では、「社会で「いないこと」にされ、たよれる人もなく生きてきた文子が、ただひとつのよりどころとしたのは自分自身だった。文子は自分の命にかえて、自分の思想を守りぬいた。」と書く。
 まさに文子は、短い人生を、みずからの意志を原動力として生きた。

【金子文子の生涯】


 金子文子は、広島県出身の佐伯文一と山梨県出身の金子キクノを両親として、1903年横浜に生まれたが、婚姻届を出していなかった両親は、文子の出生届を出さなかった。 その後、父は叔母(母の妹)と関係ができて家を出てゆき、母は、怠け者の中村、次いで小林と同棲生活を送り、文子を邪魔者のように扱い、ある時は文子を女郎に売ろうとしたこともあった。そして小林の郷里・に移ったあと、文子は、小林と別れた母と母の実家に移った。その間、文子は無戸籍のために、学齢期になっても学校には行けなかった。


 1912年、母方の祖父の子として入籍し、父方の祖母、叔母(父の妹)が住む朝鮮半島忠清北道の岩下家に送られた。しかしそこで、祖母と叔母による激しい虐待を受け、奴隷のようにこき使われた。学校には行くことはできた(高等小学校までは卒業できた)が、近所の子どもたちと遊ぶことは禁じられ、ひたすら女中として扱われた。


 誰にも愛されず迫害された文子は自殺を企てる。1916年のことである。しかし文子は、死ねば、「祖母や叔母の無情や冷酷からは脱(のが)れられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い。」、「そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらなければならぬ。そうだ、死んではならない。」(『獄中手記 何が私をこうさせたか』岩波文庫版、172頁、以下『獄中手記』と表記する)と、生きていくことを決意する。


 1919年4月、岩下家ではもう文子は必要なくなったのだろう、文子は山梨県の母の実家に帰されることになった。しかしそこも「安住するに足る落ち着き場所を持たぬ自分を発見しなければならな」(『獄中手記』209頁)かった。


 そのうち朝鮮から帰ったことを知った父が、やってきた。「小さい時、母と私とを捨て去った父」(『獄中手記』217頁)である。そして父は、金のために叔父(母の弟である破戒僧・金子元栄)と文子を結婚させることを画策した。


 文子は、父が住んでいた浜松に移った。浜松の下垂町(現在の尾張町)の借家であった。父は、「恐喝新聞の記者」(『獄中手記』229頁)であった。浜松で文子は、「実科女学校の裁縫専科に入れられた」(『獄中手記』233頁)。叔父・元栄が寺の「おだいこく」には、「裁縫ができること」が必要だと言ったからである。7月の半ば、学校が休みになったので、文子は山梨に帰った。しかし「父の家が私の家でなかったように、ここもまた私の真の家ではなかった。私は三界に家なき哀れな居候にすぎなかった」(『獄中手記』240頁)。八月下旬、文子は祖母らとともに「活動」(映画)を観にいった。そこで青年・瀬川と出会う。


 暑中休暇が終わり、文子は浜松へ戻った。しかし裁縫学校に通う意思もなく、結局学校をやめ、山梨へ帰った。しかしそこでも裁縫塾に通わされた。文子は瀬川と会うようになった。
 突然、文子は元栄、祖母とともに、浜松へ行かされた。元栄が文子との結婚をやめることを父に報告するためであった。父は、破談となったことを暴力的に責めた。父は、元栄の寺の財産目当てで文子と結婚させようとしていたのだ。


 1920年4月、文子は単身上京した。「生れ落ちた時から私は不幸であった。横浜で、山梨で、朝鮮で、浜松で、私は始終苛められどおしであった。私は自分というものを持つことができなかった。・・・運命が私に恵んでくれなかったおかげで、私は私自身を見出した。そして私は今やもう十七である。」(『獄中手記』279頁)。


 文子は東京では母方の大叔父窪田亀太郎宅に入ったが、その後新聞店に住みこみ、新聞売りをし、同時に正則英語学校と研数学館に通った。しかし生活が成りたたず、湯島新花町小松方に寄宿し、粉石鹸の夜店を出す。それも生活ができず、浅草の鈴木錠太郞家の女中となる。
 この間、文子は社会主義者と出会い、またキリスト者とも交流した。


 1921年に入り、文子は社会主義者の印刷屋などをへて、再び大叔父の家に転がり込んだ。
 しかし社会主義者と交流しても、「社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えたくれただけのことであった。私は貧乏であった。今も貧乏である。そのために私は、金のある人々に酷(こ)き使われ、苛(いじ)められ、責(さい)なまれ抑えつけられ、自由を奪われ、搾取され、支配されてきた。そうした私は、そうした力をもっている人への反感を常に心の底に蔵していた。と同時に、私と同じような境遇にある者に心から同情を寄せていた。(中略)私の心の中に燃えていたこの反抗や同情に、ぱっと火をつけたのが社会主義思想であった。ああ私は・・・・・・・してやりたい。私達哀れな階級のために、私の全生命を犠牲にしても闘いたい。」(『獄中手記』354~5頁)


 この年の夏、文子は浜松、山梨に行くも、どこにも自分の居場所はない、いたたまれないと、8月末東京に帰る。そして山梨から東京に出ていた瀬川の宿へ。しかし子どもができたらどうするの、と、文子は瀬川に問うが、「僕はそんなこと知らないよ」が答えであった。また朝鮮人留学生の社会主義者・玄とも知り合ったが、玄も瀬川と同じような人間であった。その他、久野という社会主義者の裏切りにあい、文子は、「今まで「主義者」というものを何か一種特別の、偉い人間のように思っていたことのいかに馬鹿らしい空想であったか」(『獄中手記』377頁)と思う。この頃、文子は朝鮮人の共産主義者、無政府主義者を知る。


 大叔父の家にいられなくなった文子は、家を出て、通称「社会主義おでん」のおでんやに勤めた。1921年11月のことである。


 1922年に入り、文子は朴烈と知り合う。


 朴は、1902年3月、慶尚北道の両班の家に生まれたが、朴家は没落への道を歩んでいた。朴は成育過程で、数多くの民族差別を見聞きし、民族独立の思想を抱くようになった。1916年、官立京城高等普通学校師範科に入学した。ここは官費で学ぶことが出来た。彼は、1919年の三・一独立運動に参加した。そして10月、日本へ。朝鮮では取締りが過酷で、永続的な独立運動を行うことが難しいと判断したからであった。


 その頃の朴の思想は、社会主義から無政府主義へ、そして虚無主義へと変遷した。しかし民族独立の意志は変わらなかった。日本で、朴は血拳団、苦学生同友会、黒涛会を組織したりした。


 文子との出会いはこの頃であった。文子にとって、朴との出会いは彼の詩であった。『青年朝鮮』に掲載されていた「犬コロ」という詩。「私はその詩を読んだ。何と力強い詩であろう。一くさり一くさりに、私の心は強く引きつけられた。そしてそれを読み終わったとき、私はまるで恍惚としているほどだった。私の胸の血は躍っている。ある力強い感動が私の全生命を高くあげていた。」(『獄中手記』385頁)。そして文子は、朴に会った。文子が思いえがいていた通りの人物であった。そして何度か会ううちに、文子も、朴も、お互いを必要とする関係となる。『獄中手記』は、文子が、電車に飛び乗った朴に心の中でこのように言うところで終わっている。「待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。私達は共に生きて共に死にましょう」(407頁)

【朴烈とともに生きる】


 文子は、1922年春から朴烈と同棲する。「同志として同棲する事、運動の方面に於ては私が女性であると云う観念を除去すべき事、一方が思想的に堕落して権力者と握手する事が出来た場合には直ちに共同生活を解く事を宣言し、相互は主義のためにする運動に協力する事を約して」(「第四回被告人訊問調書」)の同棲であった。二人は黒濤会を組織して機関紙『黒濤』を創刊した。しかし共産主義派と無政府主義派とが分裂し、前者は「北星会」、後者は「黒友会」を組織した。二人が関係したのは「黒友会」で、「民衆運動」を発行した。11月には『太い鮮人』を創刊した。ほんとうは『不逞鮮人』としたかったのだが、警視庁が許可しなかった。翌1923年4月には、無政府主義者らと不逞社を立ち上げる。不逞社は「秘密結社」とよばれることが多いが、そうした強固な組織ではなかった。
 こうした活動の中で、朴は爆弾を入手してのテロ計画を立てた。しかしその計画は実現性を大きく欠いたものであった。


【獄中へ】 


 1923年9月1日、関東大震災が起きる。そのなかで、多くの朝鮮人・中国人らが虐殺された。二人は、大震災の被害を受けることはなかった。3日、第一師団輜重兵鈴木亀男軍曹により、二人は検束され警視庁に引き渡された。行政執行法による保護検束であった。24時間経過後は警察犯処罰令により拘留を延長されたが、「一定の住居」を持つ者には適用できないため、警察は家主に「二人は帰らない」として、二人の住居を奪った。山田昭次は、「警察は「不逞鮮人の煽動者を作り出すのに懸命だったのであろう」(『金子文子』影書房、1996年、153頁)と推測している。


 また不逞社のメンバーも次々と検束され、予審訊問などの取り調べの中で、爆弾入手計画が発覚し、メンバーのひとり新山初代が爆弾は皇太子の結婚時に投擲される計画であったと陳述した。10月20日には、不逞社のメンバー16人が治安警察法違反容疑で起訴された。
 1924年にはいり、朴、文子も爆弾入手計画について証言し、その結果、同年2月、朴、文子、そして金重漢(朴から依頼され、爆弾入手のために連絡をとろうとした)が爆発物取締罰則違反容疑で追起訴され、他の不逞社のメンバーは不起訴となった。

 
 予審訊問のなかで、朴、文子の罪名が刑法73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」、いわゆる大逆罪に該当し、裁判は大審院の一審のみとなることから、予審判事は、文子の転向を求めた。
 しかし、文子はそれを拒否する。


 「「君等と妥協する」「改心して社会に順応して生きる」今と為って君等と妥協が出来るなら私はね、社会に居た時既に妥協して居た筈です。君等の御説教は聞かなくとも其の位の智慧はありました。此の位の事は覚悟の上です。何卒御遠慮なく御自由に。私もね実は一度出度いのです。で左様する為めには「改心しました」と頭を下げて一礼入れさへすれば甘く行く事は知って居ます。だがね。将来の自分を生かす為めに現在の自分を殺す事は私は断じて出来ないのです。御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しませう。「私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽く迄自分の裡に終始します。夫れが御気に召さなかったなら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです。」之れが昔も今も変らぬ私の心持であります。」(「第三回被告人訊問調書」1924年1月22日)


 1925年7月17日、検事総長は、爆発物取締罰則違反の罪に加え、刑法第73条違反の容疑で、朴烈と文子を起訴した。その起訴事実は以下の通りである(金子文子のみ)。


 被告人金子文子は内縁の夫婦たる佐伯文一、金子きくの長女なる処幼にして父に別れ、母もまた幾許ならずして被告人を棄て他家に嫁したるより、被告人は孤独幼苦の身を以て朝鮮其他各所に輾転流浪して具さに辛酸を嘗め、漸くにして人生を悲観し社会を呪詛するに至りしが、大正九年四月頃十七歳にして東京に出で夕刊売其の他下級労務に従事する中思想に関する出版物を耽読し、各種の主義者と交遊するに及び遂に虚無的思想を懐抱するに至り、自己は固より、一切人類の絶滅を期すると同時に皇室其の他の権力階級に対して反逆的復讐を為さんが為之を倒壊するの要ありと信念し居りたる折柄、偶々被告人朴準植と相識り、 同人の主義思想に共鳴して遂に前記の如く之と同棲するに及び、其目的遂行に付画策したる末、大正十二年秋頃皇太子殿下の御結婚式挙行せらるるを聞知し、右挙式の際行幸啓の鹵簿に爆弾を投じて畏くも天皇陛下又は皇太子殿下に危害を加へ奉らんことを共謀し、之が凶行の用に供さする為め被告人朴準植は大正十一年十一月頃京城に赴き、当時上海より爆弾を朝鮮に輸入せんと計画せる朝鮮民族主義者金翰と会見して其の分与方を申入れて其承諾を得、 更に大正十二年五月頃、東京市本郷区湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他に於て当時上京せる無政府主義者朝鮮人金重漢に対し、上海に赴き朝鮮の独立を目的とする義烈団と連絡して爆弾を輸入せんことを依嘱し其の承諾を得たるも、朝鮮に於ける金相玉事件検挙により未だ之を入手するに至らざる中事発覚して大逆を実行するに至らざりしものなり。(「予審終結書」1925年7月17日) 


 1926年2月26日、大審院で第一回公判が開かれた。被告席に着いた朴は朝鮮の礼服を、文子はチマ・チョゴリを着た。これらの服は、在日朝鮮人がカンパを集めて差し入れした物であった。


 そして3月25日、二人に死刑判決が」下された。その時、朴は朝鮮語で大声を張り上げ、文子は「万歳」を叫んだ。


 4月5日、若槻礼次郎首相は二人の「恩赦」を上奏、裁可をへて二人を死刑から無期懲役へと減刑した。


 山田昭次は、前掲『金子文子』で、「支配者も判決の根拠が薄弱であることを自認せざるをえないほど政治的なものであった。朴烈、金子文子を大逆罪犯人にすることで関東大震災時の朝鮮人虐殺の弁解材料とすることができても、他面では見えすいた政治裁判がもたらす朝鮮人の批判、反発を憂慮せざるを得ず、「恩赦」減刑による皇室の一視同仁の演出が行われたのであろう」(235頁)と書いている。


 朴は減刑状の受け取りを拒否したが、「君のために、その恩赦状を預かってやろう」と言って受けとったという(布施辰治)。しかし、文子は、減刑状を渡されるといきなり破り捨てたという。


 その後、朴は千葉刑務所に、文子は宇都宮刑務所栃木支所に移された。


 文子は、1926年7月23日、自分で編んでいた麻糸で縊死した(とされている)。23歳であった。


 しかしいまだに文子の死亡状況については刑務所側によって隠されつづけている。また文を書くことを厭わなかった文子の遺書その他も残されていない。なぜ文子は自殺したのか。その答えは空中に浮かんだままである。山田昭次は、「刑務所当局は文子が書いたものを抹殺し、死亡状況も曖昧にすることで、文子を自殺に追い込んだ転向強要の痕跡を掻き消そうとしたのであろう」(『金子文子』248頁)と書いている。


 文子の遺体は刑務所の共同墓地に埋葬されていたが、7月31日布施辰治らが死体を発掘し、同日栃木火葬場で荼毘に付し、布施宅で通夜が行われた。
 8月16日、朝鮮から朴烈の兄・朴庭植らが遺骨を引取にきた(しかし警察は文子の遺骨を朴庭植には運ばせることなく、池袋警察署から朝鮮尚州警察署に送った)。そして1926年11月5日、文子の遺骨は、朴烈の郷里・慶尚北道聞慶郡八霊里(現聞慶邑八霊一里)の山の中腹に埋葬された。文子は、3月23日、朴との婚姻届を出していた。死刑執行後の遺体引き取りを朴の兄弟に頼むためであった。
   
【近代日本国家に殺された文子】

 
 文子は、「近代日本国家に殺された」のだと、山田昭次は書く。
 不逞社の目的を問われた文子は、こう答えた。「不逞の徒が寄り集まって気焰を挙げ其「とばっちり」を持って行くのです。同志の中の気の合った者が自由に直接行動に出るのです。まあ貴方方御役人を騒がせる事です」(「調書」1923年10月25日)と。囚われた文子は、強大な権力に対して、決してひるまない。


 そして自らの来し方をふり返り、法制度の虚偽性を鋭く突く。


 文子は、無籍であった。文子の両親は文子の出生届を出さなかったことから、日本で生まれ生きているのに文子は、「日本の人間で無」く、義務教育といいながら学校にも行けなかった。やっと9歳の時母親の兄弟として籍が入れられたのだが、「無籍である事の責は毫も子の与り知らない事」である。「法律は自然の現実の存在を否認し親の兄弟として入籍せしめて初めて其の存在を認める程虚偽であり、社会は責無き幼き者を鞭打つ程惨酷であります」と(「第二回被告人訊問調書」1924年1月22日)。文子は、自らの体験を客観的に見つめ、苦しみの要因が国家制度にあることを的確に認識する。
 次に、文子の近代日本国家についての見解を紹介しよう。


 「第一階級は皇族であり、第二階級は大臣其の他政治の実権者であり、第三階級は一般民衆であります。私は第一階級たる皇族を丁度摂政宮殿下は何時何分に御出門と云ふ様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思ひます。第三階級たる民衆は先程申した様に救ふべからざる無智であり、第二階級たる政治の実権者は私初め弱者を虐る力の保持者でありますから、私は此の階級の者に対して恐ろしく憎悪の考えを持って居ります。而し実質的に第二階級が実権者であり乍ら形式的に第一階級が実権者であり この両者は表裏の関係に立って居ります故、私は主として第二階級に従として第一階級に私の叛逆心を満足する事を考えて居りました。夫れ故私は此の両者の階級に対して爆弾を投げ様かと考へた事もあ」(「第三回被告人訊問調書」)る。


 朴と文子が爆弾を入手しようとしたことについての思想的背景が語られていると言えよう。 
 そして「第十二回訊問調書」(1924年5月14日)には、天皇制の虚偽性を的確に指摘するのである。
 「元々国家とか社会とか民族とか又は君主とか云ふものは一つの概念に過ぎない。処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを付与せんが為めにねぢ上げた処の代表的なるものは、此の日本に現在行はれて居る処の神授君権説であります。・・・(中略)天皇を以て神の子孫であるとか、或は君権は神の命令に依って授けられたるものであるとか、若くは天皇は神の意志を実現せんが為めに国権を握る者であるとか、従て国法は即ち神の意志であるとかと云ふ観念を愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云ふ物を神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に一般民衆を欺瞞して居る。・・(中略)若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が此の神様の保護の下歴代の神様たる天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに何万と云ふ忠良なる臣民が死なない筈であります」と、天皇制にまとわりついている虚言を剥ぐ。


 さらに文子は、「嘗て私は海に沈んで魚の餌食と為ったと云ふ安徳天皇とやらは僅か二歳で日本の統治者としての位を負ふて居たと聞いて居ります。斯うした無能な人間を統治者として祭り上げて置くと云ふ事が、果して被統治者の誇でありませうか。寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与へて来たと云ふ事は、日本の土地に生れた人間の最大恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。」というように、天皇制を根柢から批判するのである。


 そしてこうも言う。
 「天皇に神格を附与して居る諸々の因襲的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮設した内容の空虚な機関に過ぎない事、故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云ふ日本の国是と迄見做され讃美され鼓舞されて居る彼の忠者(君)愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる欲望に過ぎない事、従て夫れを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである」
 見事な解説である。天皇制国家の時代にこのような認識を持つことができた文子には脱帽せざるを得ない。


 このような文子の天皇制批判とともに、文子の平等観も徹底している。「私は予て人間の平等と云ふ事を深く考へて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い、強者も無ければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云へば総べての人間は完全に平等であり、従って総べての人間は人間であると云ふ一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります」(第十二回訊問調書)


 さらにもうひとつ、朝鮮観である。徹底した平等観を持つ文子は、朝鮮人差別とは無縁であった。


 文子は、「私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を想ふ時、他人の事とは思ひ得ぬ程の感激が胸に湧きます」(「第四回被告人訊問調書」1924年1月23日)というように。朝鮮における文子は、父方の祖母と伯母により、迫害され、女中として酷使された。そのような状況にあった文子と、植民地支配の下、在朝日本人に抑圧されていた朝鮮人とのあいだに、深い共感が醸成されたのであろう。


 また山田昭次は、「天皇制国家は家を通じて国民を支配し、戸主に対する家族、とくに妻や娘の従順が天皇制国家への従順を培養するものとしてこれを重視した」、文子は、「天皇制国家と直接対決する以前に」「家のなかにまで浸透している天皇制とまず闘わざるを得なかった」(『金子文子』282頁)と書いている。


 ここまで文子の思想を紹介してきたが、家制度を含めた天皇制への徹底した根底的批判、朝鮮人差別とは無縁の朝鮮人との連帯意識をみると、文子の思想は近代天皇制国家の時代における(さらに現代に於いても、である)克服すべき思想を、他のほとんどの日本人(著名な思想家なども含めて)を差し置いて、克服していたということに心から感動する。それも、過酷な人生を主体的に生きるなかで、みずからが築き上げてきた思想であるということだ。


 だとすると、やはり、金子文子は、天皇制国家権力に殺されたというしかない。1923年9月16日、大杉栄、橘宗一とともに虐殺された伊藤野枝と同じように、天皇制国家権力にとって、文子も抹殺すべき人間であった。たとえ文子が自殺であったとしても、それは天皇制国家権力が強いた「自殺」であった。

【文子と浜松】


 文子が一時浜松にいたことが、文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』に書かれている。
 朝鮮から帰った文子が山梨にいた頃、「浜松から父が来た。小さい時、母と私とを捨て去った父である。」(『獄中手記』217頁)。その父のもとへ、文子は行く。1919年のことであった。


 父・佐伯文一の証人尋問調書(1925年8月10日の訊問第一回)によれば、当時文一は51歳、職業は酒類商、住所は浜松市元目町66番地となっている。浜松へは、「明治44、5年頃」(1911、2年)に横浜から移り住み、「染織新報」、「遠州毎夕」の雑報記者をしながら1923年からは酒類商を営んでいた。ということは、文子が浜松に来たときは酒類商を営んでいなかった。文子は、『獄中手記』で、「父は浜松の下垂町に住んでいた」(229頁)とある。下垂町(現在尾張町)は浜松城の東、元目町は尾張町の北に位置し、尾張町と隣接している。そして父は、「相も変らぬ与太仕事で、何でも質の悪い恐喝新聞の記者であった」(229頁)。


 文子は、「土地の実科女学校の裁縫専科に入れられた」(『獄中手記』233頁)。その学校は、おそらく現在の浜松学芸中学校・高校であろう。同校は、中村萬吉・みつ夫妻により始められた私塾で、1902年には「浜松裁縫女学校」となり、文子がいた当時、同校は常盤町にあった。常盤町は、尾張町の東に隣接している。しかし、文子は、裁縫が好きではなく、またできなかったので、学校に行っても「おしゃべりをしてその日その日を過ご」(『獄中手記』233頁)していた。


 7月の半ばから休みとなり、文子は山梨に帰り、暑中休暇終了と共に浜松へ戻った。文子はまた学校に通うことになった。それがいやで、「私はとうとう、学校をやめることに決心した。そして、教師にも父にも誰にも無断で、そのいやでたまらない裁縫学校から退いてしまった」(『獄中手記』251頁)。そして文子は山梨へ帰っていった。
 ところで、文子には、賢俊(『獄中手記』には、賢とされているが、賢俊が正しい)という弟がいた。賢俊は父佐伯文一と一緒にいた。叔母にも可愛がられていた。父は、賢俊を中学校に入れようとした。「賢に県立中学の入学試験を受けさせたのだったが、賢はとにかく、どうやらその試験に合格した」(『獄中手記』270頁)とある。当時、浜松市の県立中学校は、現在の浜松北高校(県立濱松中学校)しかない。同校の卒業生名簿を当たってみたが、佐伯賢俊という名はなかった。入学しなかったのではないかと思われる(名簿には、中途退学者の氏名も記されていた)。

【朴烈のこと】


 朴烈(1902~1974)についてはほとんど触れてこなかった。
 朴は、日本の敗戦後、1945年10月、秋田刑務所から出獄した。1946年1月、結成された新朝鮮建設同盟の委員長に就任、10月には在日本朝鮮人連盟(朝連)に対抗して結成された在日本朝鮮居留民団(民団)の団長となる。1949年4月、団長を辞任し、韓国に帰国した。李承晩政権の国務委員となる。1950年6月朝鮮戦争が勃発し、朴は行方不明となる(北朝鮮に連行された)。のち、在北平和統一促進協議会に就任したといわれる。1974年、北朝鮮で死去。

【金子文子の獄中歌集から】
                                
歌詠みに何時(いつ)なりにけん 誰からも学びし事は別になけれど

我が好きな歌人を若し探しなば
夭(わか)くて逝きし石川啄木

派は知らず流儀は無けれ 我が歌は圧(お)しつけられし胸の焔(ほのお)よ

指に絡み名もなき小草つと抜けば かすかに泣きぬ「我生きたし」と

生きんとて只生きんとて犇(ひし)めき合ふ娑婆の雑音他所事(よそごと)に聞く

光こそ蔭をば暗く造るなれ 蔭の無ければ光又無し 

我が心嬉しかりけり 公判で死の宣告を受けしその時

これと云ふ望みも無けれ 無期囚のひねもす寝(い)ねて今日も送りつ

詫び入りつ母は泣きけり 我もまた訳も判らぬ涙に咽(むせ)びき

笑ふこといとまれなりき 又しても思ひ出さるるBの面影(Bは朴烈)

手足まで不自由なりとも 死ぬという只意志あらば死は自由なり

さりながら手足からげて尚死なば そは「俺達の過失ではない」

※本稿は、冒頭に挙げた『時代をきりひらいた日本の女たち』のほか、岩波文庫の『獄中手記 何が私をこうさせたか』、鈴木裕子編『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、2006年)、山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房、1996年)、『続現代史資料3 アナキズム』(みすず書房、1988年)をもとに書き上げたものである。


 山田昭次さんは、今年2025年3月15日に亡くなられた。山田さんには、わたしが静岡県史の調査の過程で知り合った釜山のもと朝鮮人女子勤労挺身隊の方々からの、「給与が払われていない」という訴えをうけて起こした「東京麻糸紡績沼津工場もと朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の控訴審で、短期間のうちに厖大な意見書を作成していただき、東京高裁の法廷にも立っていただいた。また関東大震災における朝鮮人虐殺に関する著作・資料なども送っていただいた。


 山田さんが書き上げたこの『金子文子』には、長年にわたる朝鮮に関わる研究の問題意識が書き込まれている。山田さんは、金子文子を研究する中で、金子文子に「未来に向けての日本人の可能性」を見出し、文子から「与えられたものを他の日本人たちに返そうと」この本を書かれたという。わたしも、この本から学ばせていただいた。ありがとうございました(合掌)。

2025年12月23日火曜日

学校教員の「心の病」 Mental Illness Among School Teachers in Japan

  先日、公立学校教員の7119人が「心の病」で休職しているというニュースが流れた。こうしたニュースには驚かなくなっているが、わたしにはその原因に心当たりがある。

 「教師集団」ということばがある。授業などではひとりの教員と多数の生徒と相まみえるのだが、しかし何らかの問題が起こると、教員はひとりで悩まずに同僚に話し、教師集団をバックにしながら問題に対処する。

 むかしは教師集団が生きていた。

 しかし最近聞くところによると、そうした教師集団の姿が見えないそうだ。

 教師集団を消したのは、文科省である。給与に差がつく教員評価制度を導入し、また教員に「主幹教諭」などという階梯を設け、教員が集団として動けないようにしてきた。つまり教員のなかに分断を持ち込んだのだ。教員が分断されることなく、平等に遇されていれば、教師集団は助けあいながら学校を支えていく。

 文科省にとって大切なのは、生徒や教員ではない。教育現場に上意下達のシステムをつくり、文科省の方針が徹底されることこそが大切なのだ。文科省の手先となって働くのが、都道府県の教育委員会事務局であり、ほどんどの教育委員会事務局は、文科省の下請け機関化している。

 学校現場から、自由や平等がなくなっていくなかで、「心の病」に苦しむ教員が増え、また学校に行かない不登校の子どもが増えるのだ。

 学校に自由と平等を、それが唯一の解決策である。 

 Recently, news broke that 7,119 public school teachers are on leave due to “mental illness.” While such news no longer surprises me, I have an idea about the cause.

There is a term called the “teacher collective.” In classrooms, one teacher faces many students, but when problems arise, teachers don't struggle alone; they talk to colleagues and tackle issues with the teacher collective as their support.

 In the past, this teacher collective functioned effectively.

However, I've heard recently that this kind of teacher collective is no longer visible.

It was the Ministry of Education that dismantled the teacher collective. They introduced a teacher evaluation system that creates pay disparities and established hierarchical ranks like “lead teacher,” effectively preventing teachers from acting collectively. In other words, they sowed division among the teachers. If teachers were treated equally without being divided, the teaching community would support the school through mutual aid.

For the Ministry of Education, what matters most is not the students or teachers. What matters is creating a top-down system in educational settings and ensuring the Ministry's policies are thoroughly enforced. The prefectural boards of education act as the Ministry's agents, and most of these boards have become subcontractors for the Ministry.

 As freedom and equality disappear from schools, more teachers suffer from mental illness, and more children become truant.

Bringing freedom and equality back to schools is the only solution. 

Translated with DeepL.com (free version)

2025年12月21日日曜日

人間を信頼する? I trust people?

  わたしは、長い間岩波書店発行の『世界』の編集長であった吉野源三郎を、ことのほか敬愛している。吉野は、『君たちはどう生きるか』の著者でもある。

 ベトナムで、アメリカの侵略に対してベトナム人民が抗米闘争を戦っていた頃、吉野はそのベトナム戦争について、時々『世界』に書いていた。1970年代初めの頃だ。それは後に、『同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書)として出版された。『世界』を購読していたわたしは、吉野の文に強く惹きつけられた。

 その最後に、「一粒の麦」という文があった。ホーチミン、そして祖国の人びとのために身を挺して戦い、亡くなったベトナムの青年たちを、「一粒の麦」だと表現した。

 今月号(1月号)の『世界』で、森本あんりが「人はなぜ真実に生きたいと思うのか」という短い文を書いている。そこで、森本は吉野が書いた「ヒューマニズム」に言及している。その文は、『人間を信じる』(岩波現代文庫)に収録されているが、あなたは人間を信頼できるかという根本的な問いの前に、読者を立たせる。

 「人間を信頼するか、どうか。」「人間を愛するか、どうか。」という問題は、矛盾した可能性を同時に持っているこの人間、その可能性の中から自由な意志で何かを選びとらねばならないこの人間、そして、現実からどんな選択を迫られても逃げることができないこの人間、それをそのまま信頼するか、愛するか、という問題なのでした。そのように考えてくると、信頼するか、しないか、愛するか、愛さないか、ーこれも私たちにとっての一つの選択だということになります。そうです。「人間はこんな馬鹿なことをやるのだ。こんな醜悪なこともやるのだ。こんな悪魔のようなこともやるのだ。それでも、おまえは人間を信頼するかね。」という問いかけを受けて、「そうだ、信頼する。」と答えるか、「いや、できない。」と答えるかは、理由や証明にもとづいての帰結ではなくて、私の決意による選択の問題なのです。

 森本は、人は真実に生きていないからこそ、真実に生きたいと思っている、という。残念ながら、わたしはそうは思わない。真実なんてクソくらえ、だという人間もいるのだ。

 だがそういう人間もいることを前提に、吉野は、「それでも、おまえは人間を信頼するか」と問う。

 青春期、ドストエフスキーやロマン・ロランを読んでいた頃は、わたしは「人間を信頼する」と即答できた。

 だが長く生きてきて、時に裏切られたこともあり、容易に人間を信頼することができなくなった。 

 いま、わたしはその問いにこう答える。「それでも、わたしは人間を信頼したい」と。 

 I have long held a special admiration for Genzaburō Yoshino, who served as editor-in-chief of Iwanami Shoten's magazine "Sekai" for many years. Yoshino is also the author of " How Will You Live?"

During the Vietnam War, when the Vietnamese people were fighting against American aggression, Yoshino occasionally wrote about the conflict in "Sekai". This was in the early 1970s. These writings were later published as "Contemporary Matters: Do Not Forget the Vietnam War" (Iwanami Shinsho). As a subscriber to "Sekai", I was deeply drawn to Yoshino's articles.

At the end of that collection was an essay titled “A Single Grain of Wheat.” It described the young Vietnamese men who fought and died for Ho Chi Minh and their homeland as “a single grain of wheat.”

 In this month's issue (January) of "Sekai", Anri Morimoto wrote a short piece titled “Why Do People Want to Live Truthfully?” In it, Morimoto refers to Yoshino's essay “Humanism.” That essay is collected in "Believing in Humanity" (Iwanami Gendai Bunko), and it confronts readers with the fundamental question: Can you trust humanity?

 The question of “whether to trust humanity” or “whether to love humanity” is this: Can we trust or love this human being—who simultaneously holds contradictory possibilities, who must freely choose something from within those possibilities, and who cannot escape whatever choice reality forces upon them—just as they are? Thinking this way, whether to trust or not to trust, whether to love or not to love—this too becomes one choice for us. Yes. When confronted with the question, “Humans do such foolish things. They do such ugly things. They do such devilish things. Even so, do you trust humanity?”, whether one answers, “Yes, I trust them,” or “No, I cannot,” is not a conclusion based on reason or proof, but a matter of choice driven by my own resolve.

 Morimoto says that precisely because people don't live truthfully, they yearn to live truthfully. Unfortunately, I don't see it that way. There are people who say, “Truth be damned.”

But assuming such people exist, Yoshino asks, “Even so, do you trust humanity?”

 In my youth, when I read Dostoevsky and Romain Rolland, I could have answered immediately, “I trust people.”

But having lived a long time, having been betrayed at times, I can no longer trust people easily.

Now, I answer that question thus: “Even so, I want to trust people.”

2025年12月20日土曜日

『世界 名画の旅』1  Picasso Blue

  亡くなった母の書棚に、『世界 名画の旅』1(朝日新聞社)があった。1985年刊行、もう40年前である。価格は2400円。なかなか高い。ぱらぱらと眺めると、印刷された絵画はなかなか美しい。

 わたしも憶えている。『朝日新聞』日曜版に連載されていた。名画と、それについて書かれた名文。といっても、当時はそれが名文であるとは思っていなかった。本多勝一や外岡秀俊関係の本を読んでいて、朝日新聞の疋田という人は、かなり凄い記者であったことを知った。

 最初の文は、疋田が書いている。ピカソの「青の時代」についてである。ピカソの絵には、「青の時代」があった。

 「青の時代」を書くために、疋田はバルセロナに行った。そしてピカソ美術館に足を運んだ。その後、疋田はマラガに飛んだ。そして思った、「青の時代」の青は、地中海の色ではなかったか、と。

 わたしもスペインに行ったことがある。夏だった。バルセロナ、グラナダ、マドリッドを訪れた。

 バルセロナでは、わたしもピカソ美術館に入った。絵はがきなどを購入した。しかしあまり記憶はない。それよりも、ミロ美術館の方が記憶に残っている。そこで購入したものは、今も使っている。また友人がバルセロナにいたので、彼の車で深夜まであちこち連れて行ってもらった。売笑婦が立っているというところも見せられた。

 いやそんなことよりも、ピカソの「青の時代」の青は何であったか、である。

 スペインに降り立って、わたしは空の青さに驚いた。クリアな青。また太陽に照らされた土の色も濃いと思った。 クリアな土色。強い太陽の光は、すべてのものをクリアに見せる。

 わたしには、ピカソの青は、あのクリアな青が影響を与えているのではないかと思う。 

 マドリッドでは、ゴヤの絵をたっぷりとみた。スペインへの旅の目的は、ゴヤの絵を見るためであった。そのために、堀田善衛の『ゴヤ』をしっかりと読んでいった。

 『世界 名画の旅』の発刊が40年前、わたしがスペインを訪ねたのは、30年ほど前である。 

 On my late mother's bookshelf sat A Journey Through the World's Great Paintings, Volume 1 (Asahi Shimbun Publishing). Published in 1985, it's already forty years old. The price was 2,400 yen. Quite expensive. Leafing through it, the printed paintings are quite beautiful.

 I remember it too. It was serialized in the Asahi Shimbun Sunday edition. Famous paintings, accompanied by famous essays about them. Though, back then, I didn't think of them as famous essays. Reading books related to Katsuichi Honda and Hidetoshi Sotooka, I learned that this reporter Hikita from the Asahi Shimbun was quite an amazing journalist.

The first essay was written by Hikita. It was about Picasso's “Blue Period.” Picasso's paintings had a “Blue Period.”

To write about the “Blue Period,” Hikita went to Barcelona. He visited the Picasso Museum. After that, Hikita flew to Málaga. And he thought, wasn't the blue of the “Blue Period” the color of the Mediterranean Sea?

 I've been to Spain too. It was summer. I visited Barcelona, Granada, and Madrid.In Barcelona, I also went to the Picasso Museum. I bought postcards and such. But I don't remember much about it. What sticks in my memory more is the Miró Museum. I still use the things I bought there. Also, a friend of mine was in Barcelona, so he drove me around until late at night. He even showed me the places where prostitutes stood.

 But more than that, what was the blue of Picasso's “Blue Period”?

Upon landing in Spain, I was struck by the sky's blue. A clear blue. I also thought the color of the sunlit earth was deep. A clear earth tone. The strong sunlight made everything appear clear.

To me, Picasso's blue seems influenced by that clear blue. 

In Madrid, I saw plenty of Goya's paintings. My purpose for traveling to Spain was to see Goya's work. For that reason, I had thoroughly read Hotta Yoshie's ‘Goya’.

The publication of ‘Journey Through the World's Great Paintings’ was 40 years ago; my visit to Spain was about 30 years ago. 

2025年12月14日日曜日

【ミュージカル】音楽座「リトルプリンス」

  ユーチューブで、音楽座の「リトルプリンス」が全編無料放映された。

 若い頃、音楽座のミュージカルをたくさん見た。むかしは、音楽座は地方公演が行われていたが、今では、音楽座がある町田市、東京、大阪、名古屋で公演をしているので、実際に見ることはなくなった。

 今日、YouTubeで、約2時間30分、感動しながら見た。「リトルプリンス」。

 音楽座のミュージカルは、魂が浄化されるような気がする。他者とつながること、つながるにはこころを通わせないといけない、でもこころは見えない、見えないものが大切なんだ、ということ、いろいろな気持ちをよびおこす。

 音楽座のミュージカル、最初に見たのは、「シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ」だった。それから、音楽座のミュージカルの公演があると聞くと、足を運んだ。

 みられてよかった。 

2025年12月11日木曜日

庶民に寄り添う政策を Policies that stand by the common people

  庶民が求める政治は、自分たちの苦しくなっている生活を立て直してくれること、である。日本のリベラルととばれる政治勢力は、そのための政策をどの程度示しているのだろうか。

 ニューヨーク市長に当選したマムダニは、バスと保育の無料化、公営の食料品店の開設、家賃値上げ凍結など、苦しくなっている庶民の生活を具体的に改善する政策が提示され、それによって当選した。

 日本のリベラル勢力はどうか。具体的に庶民の苦しくなっている生活を改善する政策を示しているか。

 いまもっとも重要なのは、異常に高騰した日本人の主食である米の価格をどうしたら引き下げられるのか、であろう。だが、もちろん庶民の生活を振り返ることもしないで好戦的な姿勢を示す自由民主党政権は高騰する米価なんか気にしない、市場に任せるしかないと言い放っている。政権は、米価が高騰していても知らないよ、という姿勢である。

 だが、リベラルな政治勢力も、米価をこのようにして引き下げますという提案をすることもない。彼らも、庶民の生活に寄り添うことをしないのである。

 また、もちろん一部の日本人による外国人排撃の風潮はあってはならないことだ。だが、外国人が増加している現状を、きちんと説明しているだろうか。

 長年にわたる自民党政権の悪政により、庶民の所得は減り、非正規労働者が増え、いままで当たり前となっていた結婚して子どもを産み育て、新しい家をつくる、という基本的な生活が奪われている。その結果、少子化が進み、日本は労働力が不足し、外国人労働力に頼らざるを得なくなっている。実際、政府や財界は、海外から低賃金でも働いてくれる労働者を導入しているが、彼ら外国人に対する法的な地位について不安定なままにし、彼らの人権などに何の関心も持たない。ただ低賃金で働き、一定の期間働いたら帰国させる、という方針である。したがって、日本は外国人労働力に依存しないと経済を回していくことが出来なくなっていることを、自民党政権は庶民に説明することなく放置している。

 実際に外国人が居住する地域では、政府・自治体による外国人対策が不十分なため、住民は外国人と、直接関係を持たざるをえない。ゴミの出し方始め、地域の慣行は、地域住民がそれぞれの場で教えていくしかない。そこで摩擦が生じることもある。

 わが家の裏に6室あるアパート、その半分が外国人家族である。それも出入りが頻繁である。地域の慣行を教えるのは、わたしを含めた近隣住民である。

 徐々に増加している外国人、それに対して不安を抱く住民たち。政府、自治体や外国人を雇用する企業は、なんの説明もしない、放置したままである。

 外国人排撃はあってはならないと主張するリベラル勢力は、地域住民と外国人との摩擦をなくし、共生を図るための具体的な政策を提示しない。

 つまり、リベラル勢力は、地域や庶民の視点から政策をつくりだすという努力をしていない。それがないから、外国人排撃を主張する極右の政治勢力を支持する人が増えていくのである。

 好戦的な自民党の悪政を終わらせたい、しかしそれにかわる政治勢力が出て来ていない。それが現代日本の大きな問題となっている。

 

 The politics the common people seek is one that will rebuild their increasingly difficult lives. To what extent have Japan's so-called liberal political forces presented policies to achieve this?

Mamdani, elected mayor of New York City, presented concrete policies to improve the lives of struggling citizens—such as free buses and childcare, opening publicly operated grocery stores, and freezing rent increases—and was elected on that platform.

 What about Japan's liberal forces? Are they presenting concrete policies to improve the increasingly difficult lives of ordinary people?

The most critical issue now is surely how to lower the abnormally high price of rice, the staple food of the Japanese people. Yet, the Liberal Democratic Party government, displaying a belligerent stance without any reflection on ordinary people's lives, dismisses concerns about soaring rice prices, declaring it must be left to the market. The government's stance is essentially, “We don't care if rice prices are skyrocketing.”

Yet liberal political forces also fail to propose concrete measures to lower rice prices. They, too, neglect to address the realities of ordinary people's lives.

Furthermore, the trend of some Japanese rejecting foreigners is, of course, unacceptable. But are they properly explaining the current reality of increasing foreign populations?

 Years of misrule by the LDP government have reduced ordinary people's incomes, increased non-regular workers, and stripped away the basic life once taken for granted: marrying, having and raising children, and building a new home. As a result, the birthrate has fallen, Japan faces a labor shortage, and it has become unavoidable to rely on foreign labor. In reality, the government and business community are bringing in workers from overseas willing to work for low wages. Yet they leave these foreigners in an unstable legal status and show no concern for their human rights. The policy is simply to have them work for low wages and send them back home after a set period. Consequently, the LDP government has neglected to explain to ordinary people that Japan can no longer sustain its economy without relying on foreign labor.

 In areas where foreigners actually reside, inadequate government and local authority measures mean residents inevitably interact directly with them. Local customs, starting with garbage disposal, can only be taught by residents themselves in their respective settings. This sometimes leads to friction.

Behind my house is a six-unit apartment building; half of the families there are foreign. They also come and go frequently. Teaching local customs falls to neighbors like myself.

 The number of foreigners is gradually increasing, while residents harbor anxieties. The government, local authorities, and companies employing foreigners offer no explanation whatsoever, leaving the situation neglected.

Liberal forces who argue that rejecting foreigners is unacceptable fail to propose concrete policies to eliminate friction between local residents and foreigners and foster coexistence.

 In other words, liberal forces are not making the effort to create policies from the perspective of local communities and ordinary people. Because this is lacking, support for far-right political forces advocating anti-foreigner sentiment continues to grow.

People want to end the belligerent, misguided policies of the Liberal Democratic Party, but no alternative political force has emerged. This has become a major problem in modern Japan. 

Translated with DeepL.com (free version)

2025年12月9日火曜日

日本のファシズムのこと Modern Japanese fascism

  科学史家の山本義隆さんの、「テクノファシズムと高度成長―― 戦後80年を顧みて」の講演録を読んだ。とても知的触発を受けた。

https://yamazaki-project.com/from_secretariat/2025/12/01/7304 

 講演録を読みながら、知らなかった文献についても知り、さっそく購入して読んだ本もある。

 読みながら、最近歴史学界で、日本のファシズムに関する文献が少なくなっていることに気づいた。ファシズムと言っても、ドイツやイタリアと異なる特質を持つことは言うまでもないが、もし日本が再びファシズムへの道に舵を切った場合、必然的に日本的特質を帯びたものになるのではないかと思う。もちろん、SNSが政治状況に大きな影響を及ぼす現代に於いては、1930年代から40年代前半にかけての日本のファシズムと全く同じというものではないだろうが、その時代のファシズム化の道のりから学ぶことはあるのではないかと思う。

 高市某が首相となって、軍拡を推進し、中国との対立を深め、対米隷属の度合いを強め、戦争準備の政策をおこなっている現状を見ると、ファシズムの危険性をもういちど認識すべきではないかと思う。翻訳書では、『ファシズムはどこからやってくるか』(青土社)などが出版されている(購入済み、しかし未読)が、近代日本のファシズムの研究は停滞しているのではないかと思う。 

 そのために、山本氏の講演録は十分に読み応えがある。ただ、戦後に関するところでは、戦後日本が何故に対米従属の途を選び取ったのかが説明されていない。戦後日本史を考える上では、日米関係の分析は不可欠である。

 わたしも最近、日米関係史を歴史講座で話し、1951年まで、つまり戦後日本が日米安全保障条約を締結し、対米従属の途を選択したところまでは到達した。その準備の過程で、敗戦から日米安全保障条約締結までの期間は、戦後日本のあり方をきめた重要な時期であることがわかった。 

 勉強し、考えなければならない事項がたくさんある。 

   I read the lecture transcript of “Technofascism and High Economic Growth: Reflecting on 80 Years Since the War's End” by science historian Yoshitaka Yamamoto. It was highly intellectually stimulating.

https://yamazaki-project.com/from_secretariat/2025/12/01/7304

While reading the transcript, I learned about previously unknown literature and promptly purchased and read some of the books mentioned.

Reading it, I noticed that recent historical scholarship has produced fewer works on Japanese fascism. While it goes without saying that Japanese fascism possessed distinct characteristics from that of Germany or Italy, I believe that if Japan were to steer toward fascism again, it would inevitably take on uniquely Japanese traits. Of course, in the modern era where social media significantly influences the political landscape, it wouldn't be identical to Japanese fascism from the 1930s to the early 1940s. Still, I think there are lessons to be learned from the path toward fascism during that era.

 Observing the current situation where a certain Takaichi has become Prime Minister, promoting military expansion, deepening confrontation with China, intensifying subservience to the US, and implementing policies preparing for war, I believe we should once again recognize the danger of fascism. Translated works like Where Does Fascism Come From? (Seidosha) have been published (I've purchased it but haven't read it yet), but I suspect research on modern Japanese fascism has stagnated.

For this reason, Mr. Yamamoto's lecture transcripts are thoroughly worth reading. However, regarding the postwar period, they fail to explain why postwar Japan chose the path of subservience to the United States. Analyzing Japan-U.S. relations is indispensable when considering postwar Japanese history.

 Recently, I also discussed the history of Japan-U.S. relations in a history lecture, covering the period up to 1951—that is, up to the point where postwar Japan signed the Japan-U.S. Security Treaty and chose the path of dependence on the United States. In preparing for this, I realized that the period from defeat to the signing of the Security Treaty was a crucial time that determined the nature of postwar Japan.

There are many matters I must study and consider. 


Translated with DeepL.com (free version)

 

2025年12月6日土曜日

ベートーベン第九  I listened to Beethoven's Ninth Symphony.

  今日は、浜松アクトシティの大ホールで、ベートーベンの第九を聴いた。オーケストラの出来不出来は問題とせず、合唱と独唱の方々の演奏は、第九らしいものであった。

 聴きながら、ベートーベンは偉大な作曲家だとつくづくと思った。

 わたしが最初に購入したレコードは、ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団のベートーベン第五番だった。音楽は構築される、という感覚を持ったような記憶がある。それからは、いろいろな作曲家の音楽を聴いているが、やはりベートーベンの曲は何度も聴く。

 ベートーベンの第九と言えば、1990年にレナード・バーンスタインがBerlinでバイエルン放送交響楽団を指揮したものが、わたしはもっとも印象に残っている。世界が平和へと向かっているという高揚した雰囲気があった。それが音となって響いていた。

 今日の第九は、最終楽章ではそれなりに劇的であったが、テンポが速かった。

 1990年にBerlinで演奏されたような第九は、今後聴くことができるだろうか。わたしは、ベートーベンの第九は、じっくりと音を確認しながら演奏されるものを望む。 

https://www.youtube.com/watch?v=Hn0IS-vlwCI  

 Today, I listened to Beethoven's Ninth Symphony at the Grand Hall of Hamamatsu Act City. Regardless of the orchestra's performance, the choir and soloists delivered a performance true to the Ninth.

Listening, I was deeply reminded that Beethoven is a truly great composer.

The first record I ever bought was Bruno Walter conducting the Columbia Symphony Orchestra in Beethoven's Fifth Symphony. I remember feeling that music is constructed. Since then, I have listened to music by various composers, but I still listen to Beethoven's music over and over again.

When it comes to Beethoven's Ninth, the performance that left the deepest impression on me was the one conducted by Leonard Bernstein with the Bavarian Radio Symphony Orchestra in Berlin in 1990. There was an uplifting atmosphere that the world was moving towards peace. That feeling resonated in the music.

 Today's Ninth was dramatic in its own way in the final movement, but the tempo was fast.

Will I ever be able to hear a Ninth like the one performed in Berlin in 1990 again? I want Beethoven's Ninth to be performed while carefully checking the sound. 

Translated with DeepL.com (free version)

2025年12月5日金曜日

日本の政府のやり方 The Japanese government's approach

  日本の庶民は苦しんでいる。30年以上庶民の所得はあがらず、ずっとデフレが続いていた。ところが、2022年以降、急激に物価が上昇し、所得があがらない庶民はどのように生活していったら良いか、悩んでいる。

 今年になって、日本人の主食である米の価格が、昨年前半期と比べると、2倍にもなっている。だから簡単に買えなくなっている。今日も、米価は過去最高値を記録している。

 それに対し、自由民主党政権は、お米券を国民に配ると言っている。その予算は、4000億円だという。そしてそれを発行するためには経費が12%、480億円かかる。ということは、お米券を委託されたところに480億円の大金が入る。だから国民に渡されるのは、4000億円ではなく、3520億円だけということになる。

 日本政府は、国家財政を支出するとき、直接庶民には渡さず、企業などを通して行うから、支出の大きな部分が企業の収益となる。

 そのようにしてもらった企業は、そのカネの一部を政治献金として自由民主党議員や同党支部に渡す。

 このようにして、国民が納めた税金が、企業へと支出され、その一部が自由民主党へと環流していく。政治献金は、企業による賄賂と言うしかなく、日本の政治は、国民のためではなく、私企業のために行われているといってよい。

 それでも、日本の庶民は怒らない。

 The common people of Japan are suffering. For over 30 years, their incomes have stagnated while deflation persisted. However, since 2022, prices have surged sharply, leaving ordinary citizens struggling to make ends meet as their incomes remain flat.

This year, the price of rice—the staple food for Japanese people—has doubled compared to the first half of last year. This makes it difficult to purchase easily. Today, rice prices hit a new all-time high.

In response, the Liberal Democratic Party government announced it will distribute rice coupons to citizens. The budget for this is said to be 400 billion yen. However, issuing these coupons incurs 12% in administrative costs, amounting to 48 billion yen. This means the entities entrusted with distributing the rice coupons will receive a substantial 48 billion yen. Consequently, the amount actually reaching citizens will be 352 billion yen, not 400 billion yen.

 When the Japanese government spends public funds, it doesn't go directly to ordinary people. Instead, it goes through corporations and other entities, meaning a large portion of the spending becomes corporate profit.

The corporations that receive this money then funnel part of it back as political donations to LDP lawmakers and local party branches.

In this way, taxes paid by the people are spent on corporations, and part of that money flows back to the LDP. Political donations can only be described as corporate bribes. It is fair to say that Japanese politics is conducted not for the people, but for private corporations.

Even so, ordinary Japanese citizens do not get angry.

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2025年12月4日木曜日

正義の空白ないしは欠如 The Absence or Lack of Justice

 今、ガザはどうなっているのだろう。報道が極端に少なくなっているが、停戦が成立しても、イスラエル側の攻撃は続いているという。

 ジェノサイドを受けた側が、今度はジェノサイドの主体となるという、歴史の皮肉に、私たちは直面している。

 今年10月、民衆法廷「ガザ法廷」の最終会合が、イスタンブールであったという。『地平』1月号で、根岸陽太が報告している。

 民衆法廷とは、「法が権力によって沈黙させられるとき、良心こそが最後の法廷でなければならない」という趣旨で開催されるもので、古くは、アメリカとその同盟国によるベトナム戦争を裁いた「ラッセル法廷」があった。ラッセルとは、哲学者のバートランド・ラッセルで、彼が中心となって、ベトナム戦争におけるアメリカなどの違法行為に対し開いたのが「ラッセル法廷」であった。

 さて「ガザ法廷」では、どのようなことが議論されたのか。

 イスラエルによるガザ攻撃は、「複合的ジェノサイド」であったということ、「意図的な飢餓」がつくられ、家屋などが破壊され(「住居体系破壊」)、農地や樹木などへの攻撃(「生態系破壊」)、病院の破壊や医療従事者への攻撃(「医療体系破壊」)、学校の破壊・教育活動の停止など(「学知体系破壊」)、政治や文化のリーダーの殺害や拉致(「政治体系破壊」)があった。

 そのようなジェノサイドに対して、アメリカや西欧諸国が支持を与え、軍事援助を行う、またアマゾンやグーグルなどのテック企業が監視・標的化システムを提供することが、法廷では指摘された。

 そのようなジェノサイドに対して、国際社会は不作為であったことが指摘され、「沈黙は中立ではない。沈黙は共犯であり、中立は悪への降伏である」ということばが結語であったという。

 第二次大戦後、正義が欠如した国家は、アメリカなど複数あるが、いまなおこのようなジェノサイドが行われることを悲しく思う。近年、正義を欠如した国家が増えていると同時に、全世界的に正義の空白が広まっているように思う。

 どのようにしたら正義は実現され、正義の空白をなくすことができるか、考えなければならない。 

 What is happening in Gaza now? While media coverage has dwindled drastically, reports indicate Israeli attacks continue even after a ceasefire was declared.

We are confronted with history's irony: those who suffered genocide now become the perpetrators of genocide.

 This past October, the final session of the People's Tribunal, the “Gaza Tribunal,” was held in Istanbul. Yota Negishi reports on this in the January issue of “Horizon”.

 People's tribunals are convened under the principle that “when law is silenced by power, conscience must be the final court.” Historically, there was the “Russell Tribunal,” which judged the Vietnam War waged by the United States and its allies. Russell refers to philosopher Bertrand Russell, who spearheaded the Russell Tribunal to address illegal acts committed by the US and others during the Vietnam War.

 So, what was discussed at the “Gaza Tribunal”?

Israel's attack on Gaza constituted “compound genocide.” It involved the creation of “deliberate starvation,” the destruction of homes and other structures (“destruction of the housing system”), attacks on farmland and trees (“destruction of the ecosystem”), the destruction of hospitals and attacks on medical personnel (“destruction of the medical system”), the destruction of schools and cessation of educational activities (“destruction of the academic knowledge system”), and the killing and abduction of political and cultural leaders (“destruction of the political system”).

 The court noted that the United States and Western nations provided support and military aid for this genocide, while tech companies like Amazon and Google supplied surveillance and targeting systems.

It was pointed out that the international community remained inactive in the face of such genocide. The closing statement declared: “Silence is not neutrality. Silence is complicity, and neutrality is surrender to evil.”

 After World War II, multiple nations, including the United States, lacked justice. It is deeply saddening that such genocide continues to occur today. In recent years, it seems not only that nations lacking justice are increasing, but also that a global vacuum of justice is expanding.

We must consider how justice can be realized and how this vacuum of justice can be eliminated. 

Translated with DeepL.com (free version)

私たちは「売り物」ではない!! We are not for sale.

  来年1月から、ニューヨーク市長が替わる。民主社会主義を主張して当選した、ウガンダ出身のゾーラン・マムダニが新市長だ。ほとんど無名だった彼が、短期間のうちに多くの支持を得て市長選に勝利した。

 『地平』1月号に、彼が10月26日に演説した内容が掲載されていた。なかなか訴えるものをもった内容だ。

 「どう見ても暮らしを苦しめている生活費危機に対して、解決策を示すふりすらできないシステムは、もう信用しない」

 「政府の役目は私たちの生活を本当に良くすることです」

 演説の中の一節である。当たり前のことが主張されている。しかしそれが、アメリカでも、日本でも実現していない。

 日本政府とそれを支える自由民主党と経済界は、「私たちの生活を本当に良くする」ことにまったく関心はない。長年に亘って、人びとに低賃金を強制し、非正規労働者を増やし、今まで出来ていたふつうの生活すらできない状態に、人びとを追い込んできた。その結果、結婚も出来ず、またしたがって子どものいる家庭をも生みだすことが出来ず、人びとは孤立化させられてきた。

 日本政府とその同調者たちは、そうした政策の結果、若年人口の減少、労働力の不足を補うために、外国からの労働者を導入した。最初は日系人を、むかし日本から移民として出ていった人びとの子孫を、低賃金かつ非正規で働く労働力として導入した。しかし、それでも足りないと、技能実習生制度をつくりだし、アジアなどからさらに低賃金で働く人びとを導入した。今や、日本は外国人が多く住む国へと転化している。

 さらに自由民主党は、経済界の意向に沿って、低金利、円安政策を推進してきた。輸出企業を儲けさせるためである。その結果、日本は「安い」ということから、多くの外国人観光客が押し寄せるようになった。

 日本の人びとは、「売り物」として低賃金労働者として働かされ、低金利・円安政策で貧しい生活を強いられ、その結果、日本の人びとは、みずからを「売り物」として提供していくしかない生活を送っている。 

  自由民主党が政権を握ってきた日本政府による「どう見ても暮らしを苦しめている生活費危機に対して、解決策を示すふりすらできないシステムは、もう信用」できない、と、日本の人びとは怒らなければならないはずだが、なぜか日本人は、同じ自由民主党政権の高市政権に高い支持率を与えている。

 自由民主党政権が推進してきた悪政を何とか変えたいという意志をもつ人びとは、日本では圧倒的に少数派である。

 しかし、ニューヨーク市長選挙で、ほとんど無名だった彼が当選したことは、少しの希望を抱かせる。彼は演説の中で、こう語った。

 「友よ、世界は変化しています。変化が起こるかどうかが問題なのではない。誰が変化を起こすのかが問題なのです。」

 確かに、ゾーラン・マムダニは、それをみずから証明して見せた。

 彼の演説の中に、

 「安努も何度も、私たちの国は絶望の崖っぷちでよろめいてきました。いまもそうです。でもそんなとき、働く人びとは闇の中に手を伸ばし、私たちの民主主義をつくりなおしてきました」

 がある。日本も同様の歴史を繰り返してきた。未来はいまだ未知の世界である。未来は絶望だけではない。 

 

  Starting next January, New York City will have a new mayor. The new mayor is Zoran Mamdani, originally from Uganda, who was elected advocating democratic socialism. Despite being virtually unknown, he gained significant support in a short period and won the mayoral election.

 The January issue of ‘Horizon’ published the content of his speech delivered on October 26th. It contained quite compelling points.

“We no longer trust a system that can't even pretend to offer solutions to the cost-of-living crisis that is clearly making life difficult.”

“The government's role is to genuinely improve our lives.”

These are excerpts from the speech. They state the obvious. Yet, this remains unrealized in both America and Japan.

 The Japanese government, the Liberal Democratic Party that supports it, and the business community have absolutely no interest in “truly improving our lives.” For years, they have forced people into low wages, increased non-regular workers, and driven people into a state where they can no longer even maintain the ordinary lives they once could. As a result, people cannot marry, cannot create families with children, and have been isolated.

 The Japanese government and its supporters, facing a shrinking young population and labor shortages as a result of these policies, introduced foreign workers. Initially, they brought in Nikkei—descendants of people who emigrated from Japan long ago—as a low-wage, non-regular labor force. But when that proved insufficient, they created the Technical Intern Training Program, bringing in even more low-wage workers from Asia and elsewhere. Japan has now transformed into a country with a large foreign resident population.

Furthermore, the Liberal Democratic Party has pursued low interest rates and a weak yen policy in line with business interests. This was to make export companies profitable. As a result, Japan became “cheap,” attracting a flood of foreign tourists.

 Japanese people are forced to work as low-wage laborers, treated as “commodities.” The low interest rates and weak yen policies have forced them into poverty. Consequently, Japanese people are left with no choice but to live lives where they must offer themselves as “commodities.” 

  The Japanese people should be furious that the Japanese government, dominated by the Liberal Democratic Party, has a system that “clearly makes life difficult with a cost-of-living crisis, yet can't even pretend to offer solutions,” rendering it untrustworthy. Yet, for some reason, the Japanese people give high approval ratings to the Takagi administration, another LDP government.

People in Japan who genuinely want to change the harmful policies pushed by the LDP government are an overwhelming minority.

 Yet, the election of this virtually unknown candidate in the New York City mayoral race offers a glimmer of hope. In his speech, he declared:

“Friends, the world is changing. The question is not whether change will happen. The question is who will make the change.”

Indeed, Zoran Mamdani proved this point himself.

 In his speech, he said:

“Many times, our country has teetered on the brink of despair. It still does. But in those times, working people have reached out into the darkness and rebuilt our democracy.”

Japan has repeated a similar history. The future remains an unknown world. The future is not only despair. 

Translated with DeepL.com (free version)

2025年12月3日水曜日

下請法違反?

  TBSが、以下のようなニュースを流した。

 自動車メーカースズキの子会社が部品メーカーに対して「買いたたき」行為をしたとして、公正取引委員会が近く勧告する方針を固めたことが分かりました。 関係者によりますと、勧告を受けるのは静岡県磐田市にあるスズキの完全子会社「スニック」です。 スニックは遅くとも2024年以降、自動車の座席など部品の製造を委託していた下請け業者10社に安い値段で部品をつくるよう強制した疑いがもたれています。

 このニュースを聞いて、20年以上前、ある企業を訪問したときに聞かされた話を思い出した。その企業の社長は、SUZUKIへ納入する部品の価格は品質を問うことなく、とにかく安ければ安いほどよい、と語っていた。 その企業は、SUZUKIだけではなく、他の企業にも部品を納入していた。社長は、SUZUKIのそうした体質を厳しく批判していた。

 今はどうかは知らないが、SUZUKIの給与は相対的に低く、交通費支給の方法も、会社とその従業員の自宅と直線距離で結んで算出しているときいていた。

 いずれにしても、労働者にとってはきつい会社であるという風評はあった。

 鈴木修が亡くなって、少しは改善されたのかと思っていたが、このニュースを聞いて、変わっていないんだ、と思った。