2025年4月30日水曜日

生きていてよかった!

  時々、「あゝ生まれてきてよかった」、「生きていてよかった」、と思うときがある。そうなのか、人生はいろいろつらいことや、生きにくいことがあるけれども、でも、時々、そう思うことがあるなら、そのときが幸福なのか。

 いつも幸福であるわけではないけれども、でも時々訪れてくる幸福があるからこそ、人間は生きていける。

 今日、「学校」という映画をみた。山田洋次監督、西田敏行主演の、夜間中学校を舞台にした映画である。 「昭和100年映画祭」の一つとして、ユーチューブで見ることができる。でも5月4日までである。

 こういう人間味豊かな映画はいいなあ。いろいろ考えさせられる。

 人間ひとりひとり、生きる道は異なり、ある人は険しい人生を歩み、ある人は豊かで楽しい人生を歩む。人間の人生はいろいろだ。

 でも、どんな人間でも、いつも幸福ではない。つかの間の幸福、「生まれてきてよかった」「生きていてよかった」と思うとき、それがあるだけで、それが生きる原動力となって、ひとは生きていく。

 でもそれは、やはり他者という人間の存在があればこそ、である。共感する力、それもまた、生きるエネルギーとなる。

 「学校」、いい映画だ。

2025年4月29日火曜日

自民党・農政官僚の無策

  米の高騰がとまらない。その原因は、長年に亘る自民党・公明党政権、そして官僚たち(財務省、農水省)がおこなってきた政策がもたらしたものである。

 国民がその原因をきちんと見つめることがない限り、国内における米生産は衰退する一方である。減反政策を進め、生産者米価を抑制して来た結果、農業後継者が激減している。このままでは、米を作る農民がいなくなるのである。

 現在の日本の極端な人口減少、労働力不足、これらはずっと前から予測されていたことである。しかし、自民党・公明党政権と官僚たちは、目の前の利権のためのみの政策をしてきた結果、低賃金によりふつうの生活ができなくなった結果、結婚できず、子どももつくれず、人口減少への対策を放置してきた。

 利権まみれの自民党・公明党の輩を政権から追放すること、そして官僚たちの無為無策をただすこと、これが求められている。

 

【緊急取材】コメ高騰に解決策はあるのか?東大特任教授に真相を直撃しました。(東京大学大学院特任教授 鈴木宣弘)【ニュースの争点】

2025年4月26日土曜日

米、米、米・・・

  「報道特集」が「米騒動」を取材している。

  スタートは、アメリカで売られている日本米。日本では5㎏平均価格が4217円、ところがアメリカでは平均3000円、2500円で売られているところもあるという。

 日本では米がないというのに、日本から米が輸出されている。それも輸出米生産の場合、政府が10アールあたり4万円を補助しているという。

 今、「令和の米騒動」といわれるこの時、きちんと米の問題を国民全体で考えていかないと、これから先、日本の食糧問題は危機を迎えることになるだろう。

2025年4月25日金曜日

コボット

  『週刊エコノミスト』の特集が「アメリカ革命2025」ということで買い求めた。今日届いて、巻頭の池谷裕二氏の「闘論席」の文を読んで、何ということかと思った。

 日本の科学技術のレベルは後退に後退を重ねている。日本の工業生産の分野で世界に売れるのは、今や車だけだ。経産省は、車と原発に期待をかけていたが、原発は電気事業者らの奢りにより大事故を起こし、原発は消え去ることとなった。さらに、それでも原発にしがみつこうとして東芝が失速して、今や中国系企業に変身した。となると車だけになるわけだが、それでは困ると思ったのか、経産省やそれとつながる経団連は今度は軍需産業で生きていこうとしているかのようだ。

 池谷氏によると、コボットというのは、「ヒトと協働しながら作業を行うロボット」、ヒューマノイドと呼ばれる人型ロボットが注目されているそうだ。その分野でトップを走るのが中国で、中国政府は2025年を「ヒューマノイド量産化元年」とし、コボット生産に積極的に取り組んでいる。主要部品の現地調達率は75%以上、今や「世界の産業用ロボット設置台数の50%以上は既に中国製」なのだそうだ。

 日本はすでに中国と競争できる位置にはない。日本政府や官僚たちは、財界と癒着し、既得権益を持った企業の利権のために、産業政策を推進してきた。その結果、今や後退、後退・・・・という状況である。

 そのような悲惨な状況があるにもかかわらず、今も、自民党、官僚、財界が三位一体となって利権まみれ、カネまみれになっている。

 こういう体質を解体しない限り、日本には未来はない。

2025年4月24日木曜日

米 輸入、米国から・・・

  米価の高騰が止まらない。備蓄米を放出しても、米不足は続く。だから価格は高いままだ。日本の庶民は、米価の高騰に苦しんでいる。

 対米隷属の自由民主党+公明党政権は、こう陰で言っている。「うまくいった、日本の米生産を減反政策で減らしてきた結果、計画通りになった、これでアメリカから米を輸入できる!」と。

 欧米諸国は、政府からの手厚い保護があるが、日本の農家には所得補償など皆無である。以前にも書いたが、農家の収入には労賃は含まれていない。他に年金などの収入があるから農業はつづけられる、しかし農業だけで農家が生きていくことは出来ない、だから農業後継者がいない。平均賃金が保障もされない業種に若い人が参入するわけがない。

 そういう政策を、自由民主党はずっとつづけてきた。その結果が、米不足である。

 アメリカ産米を輸入できるチャンスがきたのだ。アメリカに隷属する政治家や官僚は大喜び。これでアメリカに褒められる、と。以下は『日本経済新聞』の記事の一部である。

  主食用の外国産米の民間輸入が拡大している。2025年度の輸入量は兼松や神明(東京・中央)など主要商社・コメ卸だけで約70万人分の年間消費量に相当する4万トンを超え、24年度の20倍前後に達する見通しだ。米国産が過半を占める。

 

2025年4月23日水曜日

法治主義の放棄

  トランプ大統領が行っているのは、法治主義の破壊である。その原動力はどす黒い怨念のようにみえる。政敵である民主党地盤を破壊しようとする動き、大学など高等教育機関への攻撃はトランプ批判勢力を潰そうとする動きだろう。

 トランプを報じる新聞などを読んでいると、そこまでやるかというほど、トランプは法や慣習を無視している。

 『日刊ゲンダイ』がトランプと安倍晋三との共通点をあげている。「メディア介入」「官僚組織の破壊」「分断の政治」の三点である。トランプはみずからに批判的な勢力、人物を排除する、安倍の場合は不都合なことを報じさせないために権力的に介入する、トランプは省庁の廃止をすすめる、安倍の場合は官僚組織を自分のやることを邪魔させないように人事に介入する、法制局長官を強引にヒラ目官僚に差し替えたことなどたくさんある。そして、二人とも自分自身が気に入らない特定の集団や個人を激しく攻撃する、その結果国民に分断を持ち込み、対立を先鋭化させ、ネトウヨなどを活気づける。

 新自由主義的な思考は、権力を少数の者に集中させ、権力者に自由な動きをさせるというものである。

 その結果、会社でも、学校でも、政治の世界でも、権力者への権力集中が進み、構成員の意思は無視する。独裁的な政治形態への「進化」である。

2025年4月22日火曜日

浄土真宗(一向宗)門徒

  今日、わたしは浄土真宗門徒(西本願寺)となった。東京の築地本願寺に行き、護持講の一員になった。

 以前にも書いてきたが、わが家の先祖(父)が祀られている寺院は、曹洞宗であった。子どもの頃、住職がいなくなり、近隣の寺の住職が兼務住職として、わが家の菩提寺にくるようになった。しかしその住職は、カネ、カネ、・・・子ども心に、坊さんがこれでよいのかと思い続けてきた。

 母が亡くなり、葬儀を浜松ではなく埼玉県の某市でおこなった。母は晩年の10数年、娘(わたしの姉)の住むところで生活し、住民票も移していたからであった。

 しかし葬儀を菩提寺でおこなわなかったことから、遺骨を菩提寺の墓に入れることはできないといわれ、良い機会だと思い、墓じまいをした。そうなると、遺骨をどうするかという問題が生じる。

 わたしは死後にも位階をつけ差別する曹洞宗などの宗派には疑問を抱いていた。その位階に応じて寺に収奪されるカネも変化する。しかし浄土真宗は、「居士」、「信士」とかの位階はなく、すべて「釈」で平等である。こうであるべきだ、ということで、父と母を浄土真宗のお墓(大谷本廟)に納骨することにした。

 ところが、そのためには、浄土真宗西本願寺派の寺院の承認が必要だという。わたしとしては、特定の寺院と関係を持ちたくはない。もう曹洞宗寺院で懲(こ)りているからだ。

 築地本願寺に行ったのは、特定の寺院とつながることなく、築地本願寺の護持講に入ることにより、父と母の遺骨を大谷本廟に納骨することができることがわかったからだ。

 ということは、わたしは今日から浄土真宗、すなわち一向宗門徒となったわけである。

 一向宗門徒は、戦国時代、織田、松平(徳川)などの戦国大名に徹底的に弾圧・迫害された。三河や北陸ではとりわけひどかった。大坂城は、石山(大坂)本願寺の跡地に建てられたものだし、金沢城も一向宗の寺院である尾山御坊を織田が攻め落とした後につくられたものである。

 一向宗こそ、戦国期の軍事勢力に対して果敢に闘った宗教といえよう。

 わたしも一向宗門徒としてこの世を去り、遺骨は大谷本廟にいくことになるであろう。

 

2025年4月21日月曜日

思うこと

  ネットニュースなどをみていると、女性が殺される事件が目につく。さいたま市で女子高校生が殺害された事件、被疑者は人を殺そうとして徘徊し、目にはいった高校生を殺害した事件ではないかと思われる。なぜ女性か、男性ならば激しく抵抗されて目的を達成できそうもないから女性を狙った?

 殺された女子高校生はほんとうに気の毒で、おそらく楽しい人生を送ることができただろうに、ひとりの迷える男のために人生を絶たれてしまった。ご家族の悲しみはいかばかりか。

 『週刊金曜日』4月18日号に、『韓国、男子 その困難さの感情史』が紹介されていた。発刊時に読まなければならない本として記憶していたものだ。

 「男性支配とは、権力を持った少数の男性のために、さして見どころのないその他大勢の男性が、情熱と誠意を尽くして使える不公正なゲーム」だと、著者は書いているそうだ。みずからが男性であるという意識から、男性支配構造を支える。その男性は、傲慢さともろさをもち、「不安定な社会で」「男たちの不安が女性たちをひどく抑圧」する。

 紹介文を読むだけで、これは読まなければと思う。評者も「紛れもなくここには僕らのことが書かれている」と書く。韓国だけの問題ではないのだ。

 『週刊金曜日』同号には、田中優子さんの選択的夫婦別姓問題にも、これは続いている。

 夫婦別姓の「反対論者はなぜか、約2000年の日本の歴史のうち、明治の男子承継天皇制国家に、1898年の同姓家族制度が加わった、敗戦までのたった47年間だけを伝統としている」。日本の「伝統」を守ろうとして、民主主義的な制度、思想を攻撃する者たちが「伝統」とするのは、明治に打ち立てられた支配構造のなかで生みだされた「伝統」だけを「伝統」とし、それを押しつけようとする。夫婦別姓こそ日本の伝統であり、「東アジアの中で、西欧にならって夫婦同姓を法制化したのは日本だけ」なのだ。何という西欧崇拝!

 そして夫婦別姓を主張する自民党系の人たちは、女性皇族が宮家を創設するという案に、女性皇族の結婚相手は民間男性であるが、その民間男性は「それまで通りの姓を持ち、仕事をし、選挙権があり、憲法で人権を保障される」、つまり「皇族」には含めない、という。

 記者会見で、「身分も姓も生活も異なるわけですが、家族生活を営めるのでしょうか」という問いに、「家族の営みに姓は関係ありません」と答えたそうだ。論理をもたない自民党系の議員たち。

 生活不安が渦巻く現在、なくならない差別構造が時に飛びだし、女性がその構造に留まることを要請される。

2025年4月20日日曜日

なぜこれにしたか

  gooブログのサービス停止という事態に対応してどこのブログを使用させていただこうかと考えた。ブログサービスを提供しているところはこのblogger以外にもある。Amebaブログ、はてなブログ、ライブドアブログ、楽天ブログ、WordPress.com、FC2ブログ、WordPress.org・・・

 そのなかで、bloggerだけ運営側の広告がない、というのが気に入った。

 わたしはパソコンに広告を表示させないソフトを入れているから広告をみることはないが、ふつう無料で見られるサイトでは、必ず広告が表示される。それがきわめて鬱陶しいのである。わたしのブログを読んでくださる方々に、広告で煩わすわけにはいかないと思ったからである。

 ただコメントを寄せる場合には、Googleのアドレスを打ち込まなければならないようになっているが、そのアドレス、わたしの方にはまったく報じられない。

 使ってみて、シンプルで、画面もすっきりしているように思う。

 これからもよろしくお願いします。

 

2025年4月18日金曜日

殺すな!

  gooブログに書いたものをすべてダウンロードしてもらった。その中から、今書いても通じるようなものだけを、ここに再掲していこうと思う。

  ブログ開設の頃に書いたものを読んでいたら、このブログの対象は、高校教員を定年前に退職したときにわたしの日本史の授業を受けていた生徒、私と共に高校を去った卒業生に向けてはじめたことを思い出した。彼らは、放課後の近現代史の補講に参加して熱心に聴いていた(日本史の授業では日本近現代史をすべて網羅することはできなかった)。補講の内容は、大学受験も意識はしていたが、わたし自身が研究してきたことを中心に話した。それらは自治体史などに書いてきたものだ。

 すでに退職することを決めていたから、わたしの近現代史研究の集大成を伝えたいと思って展開した補講であった。

 そのなかで、伝えられなかったことを、ブログを通して伝えようと始めたのが「浜名史学」であった。

  以下は、2011年3月1日、ちょうどかれらの卒業式当日にかいたものである。

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 人生には何度も劃期(かっき)、けじめと言ってもいいかな、それが訪れてきます。卒業もその一つです。歴史研究でも劃期というのがあります。徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、つまり1868年が劃期となります。特徴的な一つの時代が終わって新しい特徴をもった時代になるのです。

 高校卒業という劃期も、高校時代という一つの時代から別の新しい時代へと自分自身を変化させていく、つまり諸君は今、新しい自分自身の歴史を創っていくスタートラインに立っているのです。今までは親の庇護のもとにありました。高校卒業は、その庇護(経済的、精神的庇護は存続しますが)から飛び出て、直接的な庇護のない、いわば荒野に出て行くと行っても良いでしょう。皆さん一人一人にどう生きるか、ということが問われてくるのです。

 私にも子どもがいます。高校時代までは、たとえば私は門限を決めそれを破ると厳しく叱ったりするなど、ある程度厳しく育てました。しかし高校を卒業して大学へ進学するとき、子どもを自らの監督下に置くことができなくなります。私は子どもにただ一つのことを言いました。

 私より先に死ぬな、です。親より先に死んではならない、ということです。

 人間は、生まれてきた以上、死は避けられません。岡本太郎の本に『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている』というものがあるそうです。まだ読んだことはありませんが、まさに瞬間瞬間を生きると言うことは、瞬間瞬間死へ向かって生きていると言うことになります。死と生は同時に、生の中に宿っているのです。

 話は飛びますが、私は高校時代、親を呪ったことがあります。なぜ私をこの世に生んだのだ!と言って。私は自らの意思でこの世に生まれてきたのではない、なぜ生んだのだ!と。そういう叫びを上げた理由の一つは、死に対する恐怖であり、もうひとつはその頃自らの生の価値に疑問を持っていたからです、私には生きる価値はあるのかという、根本的な疑問です。

 私は数々の人生論を読みました。あるいは海外文学を読みふけりました。日本文学には、私の問いに答えを与えるような本はありませんでした。そのなかで、亀井勝一郎という人の本の中に、「悔いなき死」ということばがありました。悔いのない死を迎えるためにはどうしたらよいのかを考えました。そのとき、「悔いなき生」ということばが浮かびました。そして悔いなき死を迎えるためには、悔いなき生を生きなければならないと考え始めたのです。

 では「悔いなき生」とはいかなる生き方か・・・・?

 ちょうどその頃、ベトナムでは激しい戦闘が行われていました。ベトナム戦争です。その頃の新聞には、毎日のように繰り広げられていた戦争の残酷な写真や記事が載せられていました。あるとき、私は『ジェノサイド』というベトナム戦争の本を見て、一枚の写真に釘付けになりました。一人の少女の上半身裸の写真です。彼女の上半身は、ナパーム弾(燃えた油が落ちてくる爆弾だと思えばよい)を浴びて、やけどの傷におおわれていました。

 そのとき思いました。私は生きる価値とはなにか、などと机の前で考えている。爆弾が落ちてくる心配などありません。しかしベトナムでは、私と同じ世代の人びとが、生きる価値とは何かなどと考える暇もなく、落ちてくる爆弾の下で生きるために這いずり回っているのです。その落差!!!

 私はこの落差を埋めなければならないと思いました。彼女にも生きる価値についていろいろ考える権利がある、少なくとも爆弾が落ちてくる心配のない状態でそういうことを考えることができる環境をつくるべきではないか。ぐずぐずと考えているより、私にはまずすべきことがるのではないか。

 そして私は、ベトナムに平和をつくる運動に参加していきました。岡本太郎の字をしるしたバッジがその頃大量につくられました。「殺すな」と書かれたバッジです。

 

 私はベトナム戦争反対の運動に関わる中で、私自身の生きる価値というのは、こういう理不尽な戦争をなくしていくこと、人びとが戦争のもとで逃げ惑うような状況をつくってはならない、そのために尽力することだと思い始めました。自分自身の生きる価値というのは、私一人だけでつくりだせるものではなく、人びととつながる中でこそ生まれてくるのではないか。

 このことは、内容は全く違いますが、Sくんの答辞の中にもありましたね。文化祭の成功のために多くの人びと一緒に創りあげていくこと、そのなかできっと「俺(あるいは私)は、今生きている!」という実感を得たのではないでしょうか。「俺(私)は今生きている」という実感は、他者とつながるなかでこそ獲得されるものです。

 なお後年私は、あまりに美しい夕焼けをみたとき、この夕焼けを見ることが出来ただけでも生まれてきて良かったな、と思ったことがあります(のちに、アウシュビッツに収容された人の中にも、私と同じようなことを感じた人がいることも知りました)。

 ひとりだけで自分の人生を創りあげることはできない、他者とつながるなかでこそ自分の人生は創りあげることができるのです。そしてその他者とは、人びとだけではありません。他者の中には、書物や絵画、音楽など人間が営々と築き上げてきた知的文化遺産もあります。他者との関わりが多ければ多いほど、自分の人生は豊かになります。

 しかしそのためには、生きていなければなりません。

 生きていろいろなことをしたい、と私も思っています。生きとし生けるものすべてがそう願っているのだと思います。であるがゆえに、理不尽な死を強制される事態(世界には、戦争や飢餓、人身売買など理不尽なことが山のようにあります。)には、心から怒りを持ちます。

 だから、「殺すな!」

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  わたしは、青春時代から、理不尽なことはなくしたい、と思って生きてきた。しかし理不尽なことはまったくなくなっていない。大学の先輩で憲法史の研究者である古関彰一さんと話していたとき、「こんな時代にするために頑張ってきたのではない」という意見で、悲しいかな一致した。ウクライナ、ガザ、その他の地域に関しても、「殺すな!」ということを叫び続けなければならない。 今も、これからも、である。

2025年4月17日木曜日

本の紹介 金正美『しがまっこ溶けた』(NHK出版)

  この紹介文は、2006年に書いたものだ。

  大学生であった金さんが、ふとしたことから詩人桜井哲夫とであい、桜井さんと共に韓国や桜井さんの故郷青森に行ったことなどを、背伸びしないでのびのびと描いた本が、これである。さわやかな、それでいて桜井さんが抱える問題群をきちんと呈示している、読み甲斐のある本である。私は、一気に読んでしまった。読み終わらずに寝ることができなかった。

 その理由は、詩人桜井さんの人間の大きさである。正直写真の顔は衝撃的だ。ライに冒され、金さんも最初は正視できなかったと書いている。しかし、桜井さんの精神の気高さは尋常ではない。

 彼の詩をひとつだけここに掲げさせてもらう。

  おじぎ草

  夏空を震わせて

 白樺に鳴く蝉に

 おじぎ草がおじぎする

  包帯を巻いた指で

 おじぎ草に触れると

 おじぎ草がおじぎする

 指を奪った「らい」に 

 指のない手を合わせ

 おじぎ草のように

 おじぎした

 

  この詩を書いた理由が記されている。

「あのね、部屋でぼんやり座っていたら、普段気にならない蝉の声がふと耳についたの。あんまり元気にミーンミーンと大声を張り上げているから、今日は晴天だなと思った。というのも、蝉って曇りの日には大して鳴かないからね。ああ、青空がいっぱいに広がっているんだなって。目の見えない俺に、そのことを蝉が知らせてくれたわけ。そうしたら急にうれしくなってね。久々に散歩に出かけたの。みんな空っていうと、上を見上げるんだけど、俺は空ってどこから始まっているのかよくわからないのね。いま座っているこの胸のあたりから、もう空なんじゃないのかな。そうしたら、胸の中、心の中いっぱいに青空が広がるんだよね。何ともない平凡な一日が、あっという間に素敵になったの。それで思わず、蝉にありがとうっておじぎしたの。そうしたら道端にそっと咲く小さな花にも、いつもおじぎしているおじぎ草にも、今日という日をこんなに素敵にしてくれてありがとうって言いたくなって。ここでこんな出会いがあるのなら、らいになってよかったって思ったんだよね」(1415頁)

  私は、この詩とこのことばを読んで、もうことばがでない。桜井さんという人間そのものが、確かに私をギュッとつかんだのだ。

 この本には、桜井さんの発言がところどころにある。それが心に迫ってくる。

「俺はね、自分の顔に誇りを持っているの。この顔には、苦しみや悲しみがいっぱい刻まれているのね。またそれを乗り越えてきたという自信も刻まれているの。だからね、崩れちゃって入るんだけど、いい顔なんじゃないかな。だってこの味わいは、俺にしか出せないものでしょ。エステに行って磨いても、そう簡単には出せないよな。でもね、この顔で人を怨んだり、泣いたりしていると、もう目も当てられない。自分だって見ているのが苦痛なくらいひどい顔になっちゃうと思うよ。だからね、いつだって笑顔でいるの」(21頁)

 「たとえば、詩の構成を考えているとき、どうにもスッキリまとまらないことがあるでしょう。それで頭がキリキリしてきても、ああ、めんどうくさいから今日はここまでにして明日またやろう、なんてことは絶対にしないの。そんなことをしてては、いつまでたってもいい作品は書けない。もう明日はないんだと思って、この今日という日に自分の全力を尽くす。そういう気持ちで今日まで生きてきたし、書いてきたんだから」(74頁)

 「世の中に詩を書いている人はたくさんいて、何も50を過ぎて、今さら俺なんかが史をはじめなくたっていいんだけど。俺が書いているんじゃないんだよね。何かに書かされているというか、書かせてくれるというか。俺は文字で詩を書かない。文字で詩を書いている人はたくさんいるから。俺はね、言葉で詩を書きたい。俺の詩は、たくさんの人が俺にくれた優しい、暖かい、愛がいっぱいの言葉から生まれてくるわけだから」(120頁)

  桜井さんは韓国に行ったり、17歳の時に離れた故郷を訪ねる。韓国旅行、青森訪問について書かれた内容が、また心を打つ。桜井さんは韓国へ行きたいという理由をこう語る。

「戦争に行かなかったからこそ、よく見えたの。この療養所の中にも、韓国・朝鮮人患者がたくさんいたでしょう。彼らがここにいることだって、日本の植民地政策によるもの。どんな人にも、人の生きる場や自由を奪う権利はないの。それを日本人は、自分たちの理想を押しつけて、朝鮮の人たちの人間としての尊厳を奪ってきた。俺も、俺の人生の時間を長い間奪われてきた。だからこそ、二度と同じことが繰り返されないようにきちんと謝罪したい」(140頁)

 そして韓国で、多くの人々と交流し、そこに暖かい人間の関係が生み出される。

 まさに、いま桜井さんが生きているそのこと自体が、詩であり、感動なのである。しかしそこまでに到る桜井さんの人生の厳しさを想像しないわけにはいかない。そのことも記されているが、想像を絶する苦労があったはずだ。

 ところで、桜井さんの本名は、長峰利造という。現在81歳だろうか。著者の金正美さんも、岩村正美という通名をもつ。日本の近代が、桜井さんにも、金さんにも別の名を持たせた、その問題群に思いをはせる。

 「しがまっこ」は津軽弁で「氷」のことだという。日本の国内で、本当に「氷」は溶けたのだろうかと、ふと思うのである。

 ※のちにわたしは、『桜井哲夫詩集』を購入した。

「朝日新聞」購読をやめたとき

  わが家は、わたしが子どもの頃から「朝日新聞」を購読していた。学制となって上京したときも、とにかくずっと「朝日新聞」であった。

 しかし、わたしは、2001年9月11日、その日の社説を読んで、即座に新聞販売店に連絡して同紙の購読をやめた。

 この頃、小泉が郵政選挙を行っていた。その選挙中の社説「きょう投票 どんな4年を選ぼうか」にはこう書かれていた。 

 それにしても、小泉首相はこれまで見たこともない型の指導者だ。「郵便局は公務員でなければできないのか」「民間にできることは民間に」。単純だが響きのいいフレーズの繰り返しは、音楽のように、聴く人の気分を高揚させる。

 その時わたしはこう思った。

 「音楽のように、聴く人の気分を高揚させる」という社説子。おそらくあなたが1930年代のドイツにいたら、ヒトラーの話すフレーズが心地よく聞こえただろう。それはともかく、このような印象風な内容を社説に書いてしまうという怖ろしさ。社説子は、自ら高揚する気持ちを抑えきれなかったのだろう。小泉氏の叫びは、まさにワグナーの楽曲のように、『朝日』の社内を駆けめぐったのだろう。それが本当によくわかる社説であった。

 当時の小泉人気は、こうした「朝日新聞」などがつくりだしたのだろう。

 9月9日には、「小さな政府 国の将来像を競い合え」という社説を「朝日新聞」は掲げた。

  その内容は、自民民主両党の政権公約を紹介しながら、社説子は「どんな経済社会システムを築くのかを示してもらいたい。」と要望する。そして「郵政改革への反対派を切り捨てたことで、小泉改革が目指すこの国のかたちはおぼろげながら焦点を結んできた。成長の成果を地方や低所得者にまんべんなく配ることで一律の平等を達成しようとするシステムとは一線を画し、ある程度の格差は認め、競争を重んずることで成長力を取り戻す路線だ。 」とする。当時「朝日新聞」は格差を容認していたのである。

 そして、小泉政治の特徴をまとめる。「批判する側は、これに対抗できる政策の理念を示さなければならない。」と指摘して、民主党に対して、次のような「対抗できる政策の理念」を採用すればと奨めるのだ。

 「所得の再分配や教育への公費の投入を増やすことなどで、だれもが機会の平等を得る。失敗した人や老後、病気の際の安全網づくりは政府が担う。「市場の失敗」にも目配りした中型か、やや大きめの政府である。 こうした方向性は共産党や社民党が掲げてきた。それを現実に即して鍛え上げる役割は民主党が担ってはどうか。改革ばやりのなかで難しい役回りかもしれないが、本当の選択肢を示したいのなら避けて通ってはならない。」

  こうして社説子は、民主党に対して、「担ってはどうか」と提案し、「避けて通ってはならない」と押しつけもする。いわゆる新自由主義的な政策を、自民党と同様にやれっと促すのである。そして最後に、民主党のために社説子がせっかく掲げた「対抗できる政策の理念」は、そんなこと考えると「世界の潮流」に乗り遅れるよ、とでも言いたげに、こうまとめるのだ。 

 政府の肥大化を抑えることは世界の潮流だ。経済のグローバル化と技術革新の時代に、競争を封じては取り残される。選択の幅はおのずと狭まるが、それでも二大政党制を確かなものにする骨太の対立軸がここにある。

 「朝日新聞」は、新自由主義の旗振り役であった。今はどうだろうか。

2025年4月16日水曜日

万博会場の子ども用トイレの問題の背景

 

大阪万博が開催されている。初日から悪天候に見舞われただけではなく、大勢の人がズブ濡れになりながら、長時間並ぶ姿が見られた。「並ばない万博」を標榜したのに、蓋を開けてみればそれはウソであったことが暴露された。

 そして子ども用トイレに仕切りがない、ということも問題視された。それについては以下の記事がある。「万博の「壁のない子ども用トイレ」はなぜ? 裏に保育の「当たり前」 保育現場では当たり前?子どもの人権は?」である。問題点を指摘していて、問題の所在がわかる。

 大きな問題は、なぜこうした安易なことが行われたのか。きちんとした検討がなされたとは思えない万博協会の姿勢に問題がある。

 それは、万博のメディア取材に開放された際に、赤旗記者や、万博に批判的なフリージャーナリストらを排除したことに現れている。しかも、通常の万博の記者会見さえ、基本的に記者クラブ所属の記者のみが参加できるようになっていて、そうでない者は寄せ付けない。他方、万博を宣伝しているインフルエンサーには開放し便宜を図っている。

 批判を許さない万博協会の姿勢が明確である。

 批判があってこそ、ものごとはより良い方向に改善されていく、その基本的な思考が万博協会にはない。それは日本の官僚に通じることで、万博協会のトップはもと経産省の官僚だという。

 これらのことは、万博を成功させようと実施主体が考えていない、ということに起因するのだと思う。

 なぜ夢洲で万博が行われたのか、それは夢洲にカジノを誘致することを第一目的として、そのインフラ整備を公費でやりたかったからである。それを大阪維新の会の創設者、松井や橋下らがアベ、スガを巻き込んで実現させてきたのだ。

 したがって、万博の成功不成功は、二の次三の次、カジノのためのインフラが、公費によって整備されればそれでよいのである。

 万博をみにくる人びとを尊重しない姿勢、批判をシャットアウトする姿勢などにそれは現れている。他方で、湯水の如く公金が投入されている。これも利権だからである。特定の人びとに公金を回していくという、自民党・公明党政権にとって不可欠の公的支出の条件がここにもある。

2025年4月15日火曜日

お札がとんでいく

  折からの物価高で、金融機関に行く機会が増えた。もちろんおカネをおろすためだ。今までよりも多めの金額をおろす。そうしないと何度も行く羽目になる。

 隣家のおばさんも、一万円札が次々と飛んで行く、と話していた。

 食料品を含めて、物価高は凄まじい。すべての食品の価格があがっている。それも一割とか二割というレベルではない。1・5倍、2倍になったものも多い。

 地方に住んでいると、公共交通機関がないから自家用車を使わざるを得ない。そのガソリンの価格も上がりっぱなしである。

 生活苦が続き、さらにその度合いが深まっている。

 その一方、政府にはたくさんの税が集まり、税収入は最高になっているともいう。税収の第一は消費税である。消費税を導入し、さらにその税率をあげるたびに、企業の法人税はさげられ、日本政府は庶民からの税収で利権政治を展開している。 

 わたしは思う。消費税をなくせ、少なくとも食品への消費税の課税はなくせ!と主張したい。

 国民の生活の悪化をみれば、心ある政治家は同じことを考えるはずだ。

 ところが、金まみれの自由民主党、裏金をふところに入れても課税されない自民党議員、彼らは消費税の減税なんか考えもしないだろう。彼らには、政党助成金、パーティー券収入、寄付金、それに世界でもはるかに高額な議員報酬、そしてその他のカネが集まるから、この物価高なんかは気にもしていない。

 立憲民主党という野党があるり、野党第一党だということだが、そのなかの実力者、枝野幸男が、党内で起きている消費税減税に恫喝を行った

 枝野と言えば、福島原発が爆破して大量の放射能がまき散らされたとき、「心配ない」とか言い続けて顰蹙を買った政治家である。

 立憲民主党、信頼できる政党ではない。それがさらに明確になってきている。

 

2025年4月14日月曜日

浜名史学の移転

  2011年から長い間、gooのブログとして「浜名史学」を展開してきました。しかし、同ブログが今年の11月でサービスを終了するということなので、ここに引越することにしました。

  なお今までgooブログに書いてきたものは、引っ越しできるというので、できるだけこの「浜名史学Ⅱ」に反映させようと思っています。