わが家は、わたしが子どもの頃から「朝日新聞」を購読していた。学制となって上京したときも、とにかくずっと「朝日新聞」であった。
しかし、わたしは、2001年9月11日、その日の社説を読んで、即座に新聞販売店に連絡して同紙の購読をやめた。
この頃、小泉が郵政選挙を行っていた。その選挙中の社説「きょう投票 どんな4年を選ぼうか」にはこう書かれていた。
それにしても、小泉首相はこれまで見たこともない型の指導者だ。「郵便局は公務員でなければできないのか」「民間にできることは民間に」。単純だが響きのいいフレーズの繰り返しは、音楽のように、聴く人の気分を高揚させる。
その時わたしはこう思った。
「音楽のように、聴く人の気分を高揚させる」という社説子。おそらくあなたが1930年代のドイツにいたら、ヒトラーの話すフレーズが心地よく聞こえただろう。それはともかく、このような印象風な内容を社説に書いてしまうという怖ろしさ。社説子は、自ら高揚する気持ちを抑えきれなかったのだろう。小泉氏の叫びは、まさにワグナーの楽曲のように、『朝日』の社内を駆けめぐったのだろう。それが本当によくわかる社説であった。
当時の小泉人気は、こうした「朝日新聞」などがつくりだしたのだろう。
9月9日には、「小さな政府 国の将来像を競い合え」という社説を「朝日新聞」は掲げた。
その内容は、自民民主両党の政権公約を紹介しながら、社説子は「どんな経済社会システムを築くのかを示してもらいたい。」と要望する。そして「郵政改革への反対派を切り捨てたことで、小泉改革が目指すこの国のかたちはおぼろげながら焦点を結んできた。成長の成果を地方や低所得者にまんべんなく配ることで一律の平等を達成しようとするシステムとは一線を画し、ある程度の格差は認め、競争を重んずることで成長力を取り戻す路線だ。 」とする。当時「朝日新聞」は格差を容認していたのである。
そして、小泉政治の特徴をまとめる。「批判する側は、これに対抗できる政策の理念を示さなければならない。」と指摘して、民主党に対して、次のような「対抗できる政策の理念」を採用すればと奨めるのだ。
「所得の再分配や教育への公費の投入を増やすことなどで、だれもが機会の平等を得る。失敗した人や老後、病気の際の安全網づくりは政府が担う。「市場の失敗」にも目配りした中型か、やや大きめの政府である。 こうした方向性は共産党や社民党が掲げてきた。それを現実に即して鍛え上げる役割は民主党が担ってはどうか。改革ばやりのなかで難しい役回りかもしれないが、本当の選択肢を示したいのなら避けて通ってはならない。」
こうして社説子は、民主党に対して、「担ってはどうか」と提案し、「避けて通ってはならない」と押しつけもする。いわゆる新自由主義的な政策を、自民党と同様にやれっと促すのである。そして最後に、民主党のために社説子がせっかく掲げた「対抗できる政策の理念」は、そんなこと考えると「世界の潮流」に乗り遅れるよ、とでも言いたげに、こうまとめるのだ。
政府の肥大化を抑えることは世界の潮流だ。経済のグローバル化と技術革新の時代に、競争を封じては取り残される。選択の幅はおのずと狭まるが、それでも二大政党制を確かなものにする骨太の対立軸がここにある。
「朝日新聞」は、新自由主義の旗振り役であった。今はどうだろうか。
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