gooブログに書いたものをすべてダウンロードしてもらった。その中から、今書いても通じるようなものだけを、ここに再掲していこうと思う。
ブログ開設の頃に書いたものを読んでいたら、このブログの対象は、高校教員を定年前に退職したときにわたしの日本史の授業を受けていた生徒、私と共に高校を去った卒業生に向けてはじめたことを思い出した。彼らは、放課後の近現代史の補講に参加して熱心に聴いていた(日本史の授業では日本近現代史をすべて網羅することはできなかった)。補講の内容は、大学受験も意識はしていたが、わたし自身が研究してきたことを中心に話した。それらは自治体史などに書いてきたものだ。
すでに退職することを決めていたから、わたしの近現代史研究の集大成を伝えたいと思って展開した補講であった。
そのなかで、伝えられなかったことを、ブログを通して伝えようと始めたのが「浜名史学」であった。
以下は、2011年3月1日、ちょうどかれらの卒業式当日にかいたものである。
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人生には何度も劃期(かっき)、けじめと言ってもいいかな、それが訪れてきます。卒業もその一つです。歴史研究でも劃期というのがあります。徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、つまり1868年が劃期となります。特徴的な一つの時代が終わって新しい特徴をもった時代になるのです。
高校卒業という劃期も、高校時代という一つの時代から別の新しい時代へと自分自身を変化させていく、つまり諸君は今、新しい自分自身の歴史を創っていくスタートラインに立っているのです。今までは親の庇護のもとにありました。高校卒業は、その庇護(経済的、精神的庇護は存続しますが)から飛び出て、直接的な庇護のない、いわば荒野に出て行くと行っても良いでしょう。皆さん一人一人にどう生きるか、ということが問われてくるのです。
私にも子どもがいます。高校時代までは、たとえば私は門限を決めそれを破ると厳しく叱ったりするなど、ある程度厳しく育てました。しかし高校を卒業して大学へ進学するとき、子どもを自らの監督下に置くことができなくなります。私は子どもにただ一つのことを言いました。
私より先に死ぬな、です。親より先に死んではならない、ということです。
人間は、生まれてきた以上、死は避けられません。岡本太郎の本に『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている』というものがあるそうです。まだ読んだことはありませんが、まさに瞬間瞬間を生きると言うことは、瞬間瞬間死へ向かって生きていると言うことになります。死と生は同時に、生の中に宿っているのです。
話は飛びますが、私は高校時代、親を呪ったことがあります。なぜ私をこの世に生んだのだ!と言って。私は自らの意思でこの世に生まれてきたのではない、なぜ生んだのだ!と。そういう叫びを上げた理由の一つは、死に対する恐怖であり、もうひとつはその頃自らの生の価値に疑問を持っていたからです、私には生きる価値はあるのかという、根本的な疑問です。
私は数々の人生論を読みました。あるいは海外文学を読みふけりました。日本文学には、私の問いに答えを与えるような本はありませんでした。そのなかで、亀井勝一郎という人の本の中に、「悔いなき死」ということばがありました。悔いのない死を迎えるためにはどうしたらよいのかを考えました。そのとき、「悔いなき生」ということばが浮かびました。そして悔いなき死を迎えるためには、悔いなき生を生きなければならないと考え始めたのです。
では「悔いなき生」とはいかなる生き方か・・・・?
ちょうどその頃、ベトナムでは激しい戦闘が行われていました。ベトナム戦争です。その頃の新聞には、毎日のように繰り広げられていた戦争の残酷な写真や記事が載せられていました。あるとき、私は『ジェノサイド』というベトナム戦争の本を見て、一枚の写真に釘付けになりました。一人の少女の上半身裸の写真です。彼女の上半身は、ナパーム弾(燃えた油が落ちてくる爆弾だと思えばよい)を浴びて、やけどの傷におおわれていました。
そのとき思いました。私は生きる価値とはなにか、などと机の前で考えている。爆弾が落ちてくる心配などありません。しかしベトナムでは、私と同じ世代の人びとが、生きる価値とは何かなどと考える暇もなく、落ちてくる爆弾の下で生きるために這いずり回っているのです。その落差!!!
私はこの落差を埋めなければならないと思いました。彼女にも生きる価値についていろいろ考える権利がある、少なくとも爆弾が落ちてくる心配のない状態でそういうことを考えることができる環境をつくるべきではないか。ぐずぐずと考えているより、私にはまずすべきことがるのではないか。
そして私は、ベトナムに平和をつくる運動に参加していきました。岡本太郎の字をしるしたバッジがその頃大量につくられました。「殺すな」と書かれたバッジです。
私はベトナム戦争反対の運動に関わる中で、私自身の生きる価値というのは、こういう理不尽な戦争をなくしていくこと、人びとが戦争のもとで逃げ惑うような状況をつくってはならない、そのために尽力することだと思い始めました。自分自身の生きる価値というのは、私一人だけでつくりだせるものではなく、人びととつながる中でこそ生まれてくるのではないか。
このことは、内容は全く違いますが、Sくんの答辞の中にもありましたね。文化祭の成功のために多くの人びと一緒に創りあげていくこと、そのなかできっと「俺(あるいは私)は、今生きている!」という実感を得たのではないでしょうか。「俺(私)は今生きている」という実感は、他者とつながるなかでこそ獲得されるものです。
なお後年私は、あまりに美しい夕焼けをみたとき、この夕焼けを見ることが出来ただけでも生まれてきて良かったな、と思ったことがあります(のちに、アウシュビッツに収容された人の中にも、私と同じようなことを感じた人がいることも知りました)。
ひとりだけで自分の人生を創りあげることはできない、他者とつながるなかでこそ自分の人生は創りあげることができるのです。そしてその他者とは、人びとだけではありません。他者の中には、書物や絵画、音楽など人間が営々と築き上げてきた知的文化遺産もあります。他者との関わりが多ければ多いほど、自分の人生は豊かになります。
しかしそのためには、生きていなければなりません。
生きていろいろなことをしたい、と私も思っています。生きとし生けるものすべてがそう願っているのだと思います。であるがゆえに、理不尽な死を強制される事態(世界には、戦争や飢餓、人身売買など理不尽なことが山のようにあります。)には、心から怒りを持ちます。
だから、「殺すな!」
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わたしは、青春時代から、理不尽なことはなくしたい、と思って生きてきた。しかし理不尽なことはまったくなくなっていない。大学の先輩で憲法史の研究者である古関彰一さんと話していたとき、「こんな時代にするために頑張ってきたのではない」という意見で、悲しいかな一致した。ウクライナ、ガザ、その他の地域に関しても、「殺すな!」ということを叫び続けなければならない。 今も、これからも、である。
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