演劇をみることとは、こういう作品をみるということだ。2時間を越える作品、じっと見つめる観劇者。いろいろな思考や推理を喚起する。
前回の演劇鑑賞会は、加藤健一事務所の「ジン・ゲーム」 であった。しかしわたしは見なかった。加藤健一事務所の上演するものは、「軽い」し、観劇者になんらかの思考をうながすようなものはないので、わたしの貴重な人生の時間をこうした劇のために費消することはもったいない、ということで、加藤健一事務所のそれはほとんど見ないことにしている。最近は、地方の演劇鑑賞団体の構成員が減り、経済的に劇団を招聘することが大変になっていて、加藤健一事務所の作品は、キャストが少ない、したがって経費があまりかからない、だから、2年に一度は加藤健一事務所の作品が上演されるということになる。
さて「聖なる炎」の「炎」とは、「性欲」のことであるか。
モーリスとステラは夫婦である。しかしモーリスは事故で下半身が動かない。その世話を、看護師ウェイランドが献身的に世話をしている。モーリスは、若いステラに自分の世話をさせたくないので、自由な行動を促している。モーリスの弟・コリンとオペラ鑑賞に行かせたりしている。そしてモーリスは、ステラの前では、元気にジョークを飛ばしたりして、みずからの境遇を悲観していないことを示す。だが、ウェイランドの前では、みずからの絶望を隠していなかった。
ある夜、モーリスは、突然亡くなった。医師のハーベスターは病死とする死亡鑑定書を書こうとするが、ウェイランドは、モーリスの死は他殺であることを主張する。
では誰が殺したのか。ステラか、コリンか・・・・実はステラとコリンは男女関係にあり、ステラはコリンの子を宿していた。
殺したのは、母親のタブレット夫人であった。タブレット夫人は、全員の動きを俯瞰していて、若いステラの自由な行動を支持し、モーリスの絶望をも知っていた。
看護師のウェイランドは、ステラの妊娠を確信し、ステラの行動は倫理的に許せない、また世話をしてきたモーリスに愛情を持っていたがゆえに、ステラに対する怒りの炎はいや増していた。
登場人物は、もうひとりリコンダ少佐がいるのだが、登場人物の人間関係、感情のもつれ、など様々な葛藤が舞台上で繰り広げられる。葛藤の中で、浮かび上がる炎、それは若者の性欲の炎であった。性欲の炎は、そのまま燃え上がることはない。社会倫理的に、人間関係の中で様々に制約される。 しかしその制約を超えて、人びとは性欲の炎に身を任せてしまう。ある意味の暴走をどう操縦するか、そして周囲はどう理解するか。
タブレット夫人は、ステラ、コリンの炎を肯定的にみつめる。そして、モーリスの絶望をも理解する。モーリスが絶望に打ちひしがれたとき、タブレット夫人はモーリスとの間に交わされたある約束を実行する。それはモーリスがこの世から去るという選択である。モーリスの死は、タブレット夫人とモーリスとの共同作業であった。
タブレット夫人の語りを聴き、ウェイランドは、みずからの直情的な判断をふり返り、人間関係の複雑さ、一筋縄ではいかないことを理解する。
ほぼ2時間半の舞台。ほとんどの観劇者は、じっと舞台を見つめる。舞台を見つめるのは、ほとんど高齢者であった。観劇者は、若かりし頃の自らをふり返りながら、舞台上で繰り広げられるそれぞれの感情のぶつかり合い、リコンダ少佐の常識的な見解、そしてタブレット夫人の包容力のあることばにじっと耳を傾ける。
人間と人間の関係は、そう簡単に割りきれるものではなく、複雑に絡み合い、対立し、そしてお互いの理解へと進んで行く。
演劇というのは、そうした深みのあるものでなければならない。深みがあると言うことは、単純ではないということでもあり、重層的であるということでもある。そうした展開を通して、人間への理解を深めていくのである。
よい演劇を見た。
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