2026年7月29日水曜日

再び、書く。

  最近、新聞の政治の記事を読まなくなった。絶望なんかすべきではないと思うけれども、しかし、みずからが生きる世界がより良くなるという希望が、わたしのなかから湧いてこなくなった。

 一昨日、『逍遥通信』第11号が届いた。早速読みはじめた。読みながら、すべてを読んだわけではないが、書き手の多くは「高齢者」である。おそらく70代?

 70代は、そろそろこの世とおさらばしなければならないという気持ちをどこかに隠し持っている。だからこそ、自らが生きてきた軌跡をふり返る。

 まず読みはじめたのは、そういうことが書かれた文である。

 生きてきた軌跡をふり返りながら、現今の社会の変化をみつめ、未来を想像する。すると、その先には、明るいものがないことに気づく。不安、絶望、憤怒・・・・・ 

 『逍遥通信』は、札幌に住まいする澤田展人さんが中心となって発行している。

 わたしがこの『逍遥通信』を読みはじめたのは、すでに亡くなっているもと朝日新聞記者、外岡秀俊の特集号があることを知り、澤田さんに連絡して送ってただいたことが契機となっている。

 外岡の記事、あるいは書物を、わたしは読んでいた。そして外岡が、札幌南高校で高校紛争の当事者であったと聞き、同じように静岡で高校紛争の渦中にいたわたしは、大いに関心をもったのである。

 高校紛争に関わった人びとの多くは、その後「体制」のなかに入り込んでいった。わたしにはそれができなかった。いつも、「体制」には違和感というか、敵愾心を抱きながら生きてきた。外岡の文に、同じような感覚があることをわたしは感じとっていた。

 『逍遥通信』の刊行に中心的に関わっているのは、高校時代、外岡と同じような問題意識をもった人びとである。 

 原稿を寄せている人びとが皆そういう人というわけではない。しかし、生きてくる中で、同時代的な空気を吸っていた人びとではある。

 11号の「編集後記」に、澤田さんは、「きわめて困難で、未来が不安な世界に私たちは生きている。その不安は私たちの足もとを音もなく掘り崩している。このようなときこそ、書き、記録することをたいせつにしなければいけないと思う。」と書いている。

 わたしは、澤田さんのこの文に大いに感じ入ったのである。

 やはり、書きつづけなければならない。

 実は、ここ10年くらい慎重にやらなければならない仕事を抱えていて、それに注力する時間が多くなっているので、なかなか「書く」という行為に入れないできた、特に今年は。

 11号のいくつかの文を読み、みずからの来し方を愛惜しながら書き綴ることの大切さを間接的に教えてもらったような気がする。

 「高齢者」となった私たちの経験は、記録されなければならないのである。

 

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