いまわたしは、届いたばかりの『世界』7月号を読んでいる。
まず望月優大の連載の「アジアとアメリカのあいだ」、その第7回「人間を消す国、記憶も消す国」を読んだ。日本だけではなく、世界各地で、みずからの妄想にもとづく歴史像をつくろうとする人びとが増えている。この文は、アルゼンチンのことについて書かれたものだ。暗澹たる気持ちになる。
アルゼンチンは軍事独裁政権の下、人びとの拉致、拷問、抹殺が国家権力により遂行された。その歴史を「記憶」し、「真実」を明らかにし、「正義」を実現すべく、「記憶ミュージアム」がある。もちろん、ミュージアムを設けたのは、いわゆる「左派」の人たちであるが、しかしその後の選挙で、トランプを崇敬する大統領が選出され、彼らはその歴史を自分勝手に「発見」し、「自由」に創作しようとする。
望月は文の末尾で、「見勝手な「自由」や「納得」のために「記憶」を弄ぶ現在の政治によって、かれらが通過した「歴史」は、どれほど深く否定されるのだろうか」と書く。その「かれら」とは、軍事政権下で「抹殺」され、消されていった人々のことである。
歴史を書くという作業に従事していたわたしにとって、その行為は決して楽なものではなかった。数々の史料を、それぞれ、その内容の信憑性を検討しながら、過去に記された史書に描かれた歴史を背景に、歴史の流れの中に、それらの史料に記された事実を位置づけていく。多くの時間と、集中力と持続力を維持しながらのその行為は、時に苦痛でもあった。
だが、そういう地道な作業によってつくられた歴史像は、身勝手で頑迷な者たちによって、容易に足蹴にされる。自分たちに都合の良い歴史像を、史実とは無関係につくりあげていく。それは、わたしにとっては、歴史の「抹殺」というしかない。
すでに引退しているつもりになっているわたしは、こういう歴史否定の現実を知るにつけ、やはり歴史的真実を発信していかなければならないと思う。
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