2025年6月10日火曜日

世代ということば

  わたしたち、つまり1950年前後に生まれた者は、「全共闘世代」ともいわれる。わたしが高校生だった頃、大学生だった頃、確かに高校や大学でいろいろな紛争が起きていた。紛争とまではいかなくても、学内の色々な問題に対して、声をあげていた。

 わたしは今、「覚書「高校紛争」の頃」という文を書いている。1960年代末、全国に吹き荒れた「高校紛争」について書かれた本はあるが、それは「紛争」が激化した高校しかとりあげられていない。しかし、当時、「紛争」とまではいかなかったが、高校生は様々な活動を繰り広げていた。そのことを、わたしは書きのこしておきたいと思った。

 先月号の『世界』で、宮本ゆきさんが、第二次トランプ政権下の大学の状況について報告している。その文のなかで、「Z世代」ということばが使われている。「Z世代」とは、リベラルな学生というイメージを持つが、しかしアメリカでは、「大学は都市部だけではないこと、また大学に進学しない層のほうが、Z世代においても数において上回っている」のであって、「Z世代」といわれる世代の若者がほとんど「リベラル」というわけではないとする。

 それはその通りであって、「高校紛争」の頃においても、何らかの活動に参加する高校生の数はいつも少数であった。それに「全共闘世代」といっても、大学に進学する者の数は少なく、わたしの中学校では、大学に進学した者は学年の生徒数のほぼ一割でしかなかった。

 「〇〇世代」と呼称されても、それによって示される特徴をもつ集団は、まったくの少数派でしかないのである。

 アメリカにおいて、「Z世代」と呼ばれるリベラルな学生の廻りには、同じ世代ではあっても、リベラルではない多数の若者が存在する。

 そしてその若者たちは、今までマイノリティとして逆境の位置にあった者たちの権利が拡充されていくなかで、みずからの地位が脅かされていると感じているのである。

 たとえば、女性の権利が主張され、女性の社会的進出が顕著になるなかで、昔ながらの家父長的な意識をもった男たちがそれに脅威を抱き、ミソジニー(女性嫌悪)に至るという事態も生じている。

 だから「世代」で括って論じることには慎重でなければならない。

 社会は、直線的に良い方向へと動くことはないのである。少数の知識階級が理想に向かって困難な道を開く一方、その理想に脅威を抱き、足を引っ張る、そしてかれらに憎悪をもつ、そんな傾向が世界的に目立ってきている。

 SNSが、そうした脅威をもつ者たちに声をあげさせ、そのことによって横につながる手段を提供したのである。従来からのマスメディアは、そうした人びとの声をすくいあげることなく、やはり理想を実現することを良しとする報道を展開してきたから、そうした存在はみえなかったのである。

 いわゆるサイレントマジョリティは、もはや沈黙することなく、SNSによってみずからの主張をあげはじめている。その点では、民主主義は進んだともいえるし、しかしそのことによって、良識を基盤とする民主主義が危機に陥る事態となっている。

 どのようにして打開するか、そのためには「世代論」はすでに有効ではなくなっていることを自覚すべきなのである。

 

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