2025年5月17日土曜日

早稲田大学での川口君事件

  自分自身の性格は、あっさり系だと思っているが、若い頃に経験したこと、思いつめたことなど、今も忘れずに持ち続けている。部分的には粘着質なのかもしれない。

 樋田毅さんが『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋、現在は文春文庫)を著したが、その前からこのHPを偶然見つけて、いろいろな情報を得ることができた。  

である。

 この事件に関して、gooブログ「浜名史学」にいろいろ書いてきた。しかしgooブログが亡くなるということで、この欄に書きうつしておくことにした。

 

ふとみつけたHP(2018年5月23日)  

私が学生の頃、川口大三郎くんという学生が殺された。殺したのは革マル派という党派である。

 大学の文学部のキャンパスは本部キャンパスとは離れていた。文学部の自治会は革マル派が牛耳っていて、文学部キャンパスは革マル派の暴力支配が行われていた。私は法学部であったので、そのキャンパスにはほとんど行かなかったが、時々革マル派の暴力で顔面が土色となったぐったりした学生の姿をみることがあった。革マル派は、他の政治組織のメンバーに、特高並みの暴力を振るっていた。

 川口君が殺された後、その暴力支配に対し、文学部の学生をはじめとして全学の学生が立ち上がり、連日一号館前で革マル派糾弾の集会が開かれた。私も参加していたが、その集会で髪を長くした樋田毅くん、彼は特定の政治組織に加わっていない正義感の強い学生であったが、彼の演説を何度か聴いている。彼は文学部の自治会委員長に就任していたという記憶がある。

 しかしその運動も、盛り上がるときがあれば退潮するときもある。退潮するなかで、文学部に革マル派の暴力支配が復活し、樋田君はキャンパスに入れなくなった。また革マル派の暴行を受けて骨折などしたと聞いたことがある。

 その樋田君は、大学卒業後に朝日新聞に入社し、あの赤報隊事件の追及に全力を投入し、最近、『記者襲撃 赤報隊事件 30年目の真実』を出版した。私はもちろん購入して読んだが、持ち前の正義感がみなぎっている本だ。

 この事件や、あるいは国鉄分割民営化の時に、革マル派は国鉄当局と一体となって国労などの労働組合の排斥に協力したことから、私は革マル派に対しては、許さない、という気持ちをいまも持っている。労働法に「不当労働行為」というものがあるが、国鉄からJRに移行するときに、分割民営化に反対する特定の組合員を差別し、雇用しないという、国家的不当労働行為に協力したのが革マル派であった。

 その川口君虐殺事件のことをまとめたサイトを、偶然見つけた。

川口大三郎君追悼資料室がそれである。

 私が学生時代、もう一人忘れられない学生がいる。山村君と言って、在日の学生で、ちかくの穴八幡神社で焼身自殺した。彼の自殺の背景にも、革マル派の暴力がある。

 この資料室には、当時のビラがPDFで掲載されているが、私も実は当時のビラを保存している。文学部ではなく、本部キャンパスで配られたものだ。このビラをどこかでひきとってもらえないかと思っているところだ。
 
【付記】最近、保存していたビラ類は処分した。「終活」の一環である。 
 

ドストエフスキーの肖像(2021年11月20日)

 昨日、図書館から『アレクシェーヴィチとの対話』(岩波書店)を借りてきた。以前はよさそうな本はすぐに購入したものだが、今は本を増やしたくないという思いから、できるだけ図書館から借りている。

 さて、NHKはこのテーマで番組をつくったようなのだ。テレビを見ない私はそれを知らなかった。その番組を活字化したのが本書である。

 NHKの鎌倉英也は、アレクシェーヴィチの部屋でドストエフスキーの肖像に出会った。やはり、と思った。『セカンドハンドの時代』を読みながら、私はドストエフスキーを想起していた。彼の作品に通底する何かを感じていたのだ。

 鎌倉がその肖像について尋ねると、アレクシェーヴィチはこう答えた。

そうです。ドストエフスキーは私を育ててくれた作家なんです。私に大きな感銘を与えてくれた作家で、彼の作品の強い影響を受けながら、私は「大人になった」ともいえます。ドストエフスキーが描き出したのは、それまでのロシア文学が認めようとせず、またあえて書こうとしてこなかった人間の多様な側面と暗黒です。人間の心を見抜く洞察力ですね。ドストエフスキーは、現代においても、つまり、現在のロシア人がつい先ごろ体験した世界観や価値観の劇的な変化ーそれは連邦崩壊という歴史的大転換でしたがーが起きても耐え抜いた唯一の作家と言っていいのではないでしょうか。彼の世界観と現実認識は、こうした時代の試練にも耐えたのです。この世に普遍的一般的な真理などというものは存在せず、人にはそれぞれ個別の真理しかないと初めて示したのもドストエフスキーだと思います。彼は、貧しく小さいとされてきた人々の心が、歴史的英雄や偉大な聖職者のそれに決して劣っていないことを示しました。ロシア文学のみならず世界の文学が描いてきた大人物的な主人公に比べても、「小さい人々」が少しも小さくないということを示したのだと思います。(32~33)

 だから、本書の副題は、「「小さき人々」の声を求めて」なのである。

 先日『彼は早稲田で死んだ』という本について書いた。その本に、大岩圭之助明治学院大学名誉教授との対談がおさめられている。大岩は、スローライフを提唱する学者。しかし早稲田大学の学生のとき、彼は暴力を振るいまくり、多くの学生に脅威を与えた(死さえも導いた)革マル派のメンバーの幹部であった。大岩にとって、学生時代に様々な暴力を振るう側であった時代は、あまり振り返ることのないこと、つまり彼にとってあまり重要ではないことなのだ。他方、樋田君にとって、あるいは暴力支配に抗した者にとって、彼の存在は現在とつながっているのだが、当の加害者である大岩にとって、あの時期は人生の一コマでしかないのだ。

 加害者は忘却し、被害者にとっては重い記憶として残る。それはかつての大日本帝国が侵攻していった地域で行われた残虐行為に対する加害者と被害者のその後と相通じるものだ。

 なぜ人間は平気で暴力を振るうことができるのか、そしてそれをいとも簡単に忘れることができるのか。ここにも「人間の多様な側面と暗黒」があると、私は考える。

 私が最近になって「人間てえ奴は?」を再び、いや三度・・・・考え始めたのは先の総選挙の結果である。あんなにひどい悪政を自民党・公明党政権がやってきたのに、日本の国民は怒っていない。野党が伸びるだろうという予想はみごとにはずれた。おそらくそう予想していた人々は、みずからの価値観、つまり悪政への怒りを日本の国民のなかに発見したかったのだろう。

 だが日本の国民は、そうではなかった。なぜ?と私は考える。

 スターリンの時代、ソ連は全土が「収容所」であった。突然人々は官憲に連行され、ある者は銃殺され、ある者はシベリアでの重労働を課せられた。自分がなぜ連行されるのか、なぜ銃殺されるのか、人々はその理由もわからずにその「運命」に従った。ロシア人に、その時代を懐かしむ人々がいる。なぜ?

 アレクシェーヴィチはこう語る。

今起きていることや歴史というものを知るためには、私たちは「小さき人々」の声に耳を傾ける必要があります。(33頁)

 ドストエフスキー生誕200年だということで、『現代思想』(青土社)は臨時増刊号を出すようだ。もう一度ドストエフスキーを読むこと、そしてアレクシェーヴィチの作品を読むこと、「小さき人々」を見つめること、「小さき人々」の声を聴くこと、ここから始めなければならない。


時流に乗る人(2022年1月28日)

 
 学生時代、S君がいた。S君は研究者になった。父君も大学教授であった。大学卒業以降一度も会っていないが、かなり前、『法学セミナー』で彼の論文を読んだ。その内容は、新自由主義的な色彩の濃いものであった。S君は学生時代、学生運動をしていたので、その内容に驚いたことがある。S君は変わった?いや本質的には変わっていない。彼はおそらくその時々の「時流に乗りながら生きて行く」ということにおいては変わっていない、のではないか。
 
 樋田毅の『彼は早稲田で死んだ』のなかに、革マル派の活動家、それもかなりの武闘派だったと言われ、その後は明治学院大学の教授に収まり、スローライフなどを提唱している大岩との対談が載っている。
 
 川口大三郎君をテロリンチで殺害した仲間の一人であった大岩が、その頃のことをどう思っているのかを、樋田は問う。しかし、大岩の人生には、そうした蛮行の「経験」が刻印されていないことに気づく。大岩は学生時代にみずからがふるった暴力(当然、暴力を振るわれた人がいる)、革マル派による川口君虐殺などについて、おそらくみずからを振り返ることなく生きてきたようなのだ。 
 
 樋田は、学生時代にみずからが経験したことをみずからに刻印し、それを反芻し考えながらその後の人生を生きてきた。「時流に流されず」、「時流に抗って」、自分自身をしっかと持ち続けて生きてきた樋田と、大岩とは本質的に異なった人間なのだ。
 
 先ほど私は、「時流に乗って生きていく」ということを書いた。ふつうの人々は、「時流に流されて生きていく」のだが、なかには「時流に乗って」それを利用しながら生きて行く人もいるのだ。その「時流」が、時の流れのなかで正反対のものになっても、その人間にとっては問題にならない。「時流に乗る」ことが、彼の生の本質だからだ。
 
 大岩は、時流にうまく乗って生きていくという生き方をしてきたのではないかと思った。
 
 かれは、みずからの生の軌跡を自分自身の生に刻印していかない人たちの一人なのだ。樋田とは異なる人間なのだ。樋田は、自分自身がこうだから、大岩も学生時代のことをみずからに刻印して生きてきたのだろうと思い込んだ。しかし大岩はそうではなかった。
 
 他人も自分と同じであると思ってはいけないのである。
 
 樋田は、大岩と対談し、あんなにヒドイ暴力をふるったのだから、暴力集団の強力な一員だったのだから、それが心の傷として残っているはずだと推測したのだろう。しかしなかった(私はそのように読み取った)。
 
 私は、たくさんの「時流に流されている」人々、「時流に乗ってその時流を「有効に」利用して生きている」人々を見てきた。もちろん、時流に流されず、「時流に抗する」人もいるが、そういう人は、実は少ないのである。
 
 最近、かつて書いたブログ、「「哀しい」転向」へのアクセスが多い。ここでとりあげた弁護士は、時流に乗った人ではない。「時流に抗する」人であった。しかし「時流に抗する」なかで、大きな挫折を味わった。そして今までは労働者の権利擁護に奔走していた彼が、次には労働者の権利擁護に敵対する立場の弁護士となった。
 戦前、日本共産党の活動家のなかから、「転向」して労働運動などの社会運動をつぶす活動を専門に行うようになった鍋山貞親らがいる。
 
 その弁護士は、しかし鍋山らとは違うと思う。おそらく彼は、心の中で泣き叫びながら、企業のための弁護活動をしているのではないか。彼も、みずからの生を刻印して生きてきた人間だと思うからだ。しかし、彼は中途で刻印するのをやめた。だが、過去に刻印してきた人格は、おそらく消えてはいない。だからきっと苦しい生き方をしているのではないか。その点で、大岩とは異なる。大岩は過去の自分に苦しんだことはないのではないか。
 

【付記】 「哀しい」転向(2013年1月9日)

 
 今月号の『世界』に、「ある弁護士の「転向」」という文があった。アメリカの大手通信社「ブルームバーグ」という会社から不当解雇された人の裁判に関する記事であった。

 「転向」とは、「思想的・政治的立場を変えること」をいう。「戦前」という時代には、国家権力、とくに特別高等警察による激しい弾圧・拷問に屈して、共産主義者などが政治的思想を変えることがたくさんあった。

 今はそういう激しい弾圧や拷問はなくなっているが、政治的立場を180度変える人は時々いる。学者の中にも、共産党員だった教育学者が何らかのきっかけで、国家主義的・反民主主義的言動に走った人がいた。またマルクス主義の立場から日本古代史を論じていた人も、最近は「皇国史観」的な発言をしているということも聞く。

 考え方が変化していくというのはある意味で仕方がないことだ。生きていく上で、新しい発見をしたり、今まで経験したこともないようなことに際会し、自らの精神が大きく変動させられることもあるだろう。だから私は、いわゆる「転向」を責めることはしない。

 だが、なぜ?という問いはもつし、なぜかを知りたくなる。

 この文にある弁護士とは岡田和樹氏。ボクはこの人の名をしばしば見ていた。国鉄の分割民営化に際して、国鉄労働組合の組合員がJRにより徹底的に差別され、国鉄からJRへの採用を拒否されたことがあった。当時の首相、中曽根康弘は、国鉄分割民営化は国鉄労働組合をぶっつぶすためにやったのだと、後に豪語している。
まさに国家による不当労働行為であった。

 そのとき、岡田氏は、国労組合員の権利を守るべく奔走した。ボクも、国労を支援する会のメンバーだったから、『国労新聞』で岡田氏の名は見ているし、彼がかつて属していた東京法律事務所には友人がいて、そこのニュースは送られているので、知っていた。確かに今のニュースに、岡田氏の名はない。

 その岡田氏が、今、企業側の弁護士として、労働者の不当解雇を正当とする弁護活動を行っているというのだ。まさに180度の「転向」だ。

 労働弁護士時代、岡田は国労組合員の不当差別に抗して、各地の労働委員会に提訴し、救済命令を勝ち取った。しかしJR側は民事訴訟を提起し、東京地裁は労働委員会の救済命令を取り消したのである。もちろんこの判決は不当である。

 岡田は、この東京地裁の判決に「茫然自失」し、「法廷に通えないほど落ち込ん」だという。そして他の弁護士事務所に移り、今は企業側の弁護士として活動しているという。

 岡田氏のプロフィールを調べてみた。

 1969年、開成高校卒業。
 1973年、一橋大学法学部卒業、司法研修所入所。一橋大学在学中の1972年に司法試験合格。
 1975年、当時の小島成一法律事務所(現在の東京法律事務所)に入所。以後、様々な労働事件で労働者       側で活躍。
 1987年の国鉄分割民営化をめぐる1047名の解雇事件を担当し、国労弁護団の代表として、全国で2       00件の救済命令を勝ち取る中心として活動。
 1998年、救済命令を取消す東京地裁判決を機に、労働弁護士をやめ、
 1999年にフレッシュフィールズ法律事務所に入所。


 岡田氏は、一橋大学在学中に「当時最年少で司法試験に合格」したという。卒業した高校も開成高校という私立の有名進学校だ。まさにエリートコースを順調に進み、挫折を知らずに、おそらく1998年まできたのだろう。

 ふつう、普通の人間は、小さな挫折を繰り返しながら成長していく。だから少しの挫折に対しては耐性があるのだ。おそらく岡田は、その耐性がなかったのだろう。

 だがボクは、「転向」というとき、どのレベルまでの「転向」なのかを考える。人間性そのものも変わってしまったのかどうか、と。彼に関するブログを探したところ、人間性はかわっていないようだ。

 『カラマーゾフの兄弟』だったか、抽象的な具体像をもたない「人民」は愛することは出来るが、日常生活を生きる具体的にそこに存在する「人民」を愛せるか?というような文言があったような気がする。ボクはこれを読んで、大きなショックを受けた記憶がある。

 その後ボクは、二つの「人民」の距離を埋めていくことを意識的に行った。

 岡田氏は、今の自分を「無責任のようだが、自分の人生であって、自分の人生でないような不思議な感覚である」と、記しているという。

 大きく挫折した後の生は、その挫折を正視しそれを克服しない限り、おそらく大地にしっかと足を踏みしめるのではなく、浮遊しながらの生を生きるしかない、だから労働者を不当解雇するための企業側の弁護も可能になるのだ。
 

学生時代のこと(2022年2月13日) 


 このサイトを時々訪問する。樋田君のこの本を読んだ感想のリンクがはられる。紹介されたサイトを読む。紹介されているもののうち、水島朝穂さん、高世仁さんについては、学生時代から知っている。同じ法学部であった。私にとって、彼らは後輩となる。同年齢・同学年の者たちは、この本を読まないのだろうか、と思う。4年間しかいなかったが、あの頃の早稲田は、異常だった。とにかく、革マルの暴力が熾烈を極めていた。私は、情け容赦もなく鉄パイプで殴りかかっていた革マル派の学生を見ている。

 暴力が吹き荒れていたキャンパス。大学当局(村井資長総長)が革マル派とつながっていたことは、当時大学にいた者として予想できていたことである。この本は、それをはっきりと指摘している。革マル派の暴力は、大学当局によって公認されていたのだ(革マル派は組織至上主義で、組織のためなら権力とも手を結ぶ。それは国鉄の分割民営化の際、革マル派の拠点であった動労という組合が、それに全面的に協力したことにあらわれている)。

 当時、革マル派の暴力は日常であったことから、大学という所はそういうところなんだと思っていたが、しかしそれはきわめて異常なことだったのだということを近年思うようになった。

 当時、多くの学生がいた。革マル派の暴力を目の当たりにしていたはずだ。そして川口君が殺された。革マル派追放運動もあった。

 そうした記憶を、どのようにみずからの人生に位置づけてきたのだろうか。すでに現役からリタイアしているであろう方々に、みずからの読後感を公表してほしいと思う。

 

大宅壮一ノンフィクション賞(2022年5月14日)

 

 今回の大宅壮一ノンフィクション賞に、樋田毅さんの『彼は早稲田で死んだ』が受賞したそうだ。おめでとう、である。

 かつての早稲田大学、とりわけ文学部キャンパスは、革マル派によって暴力支配がなされていた。その下で、川口大三郎くんが殺された。それを契機に、暴力支配に怒りを抱いていた多くの学生が革マル派糾弾、早稲田を革マル派から取り戻そうという闘いに参加した。樋田さんもその渦中に入り込み闘ったが、暴力支配を復活させた革マル派により暴力を受け、キャンパスに入れなくなった。それらに関わることを、70歳近くになってふり返り、暴力の張本人にも会って話を聞いた、それらのことが書かれた本である。私もその闘いに参加したひとりでもあるからだ。

 革マル派の正式名称は、革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革共同革マル派)の下にある、マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派(マル学同革マル派)という。彼らは、「革命的」ということばが好きなのだ。

 学生時代、各党派を眺めていたが、そのうち革マル派がもっとも組織至上主義であった。彼らは反帝国主義、反スターリン主義を唱えていたが、彼らこそもっともスターリン主義ではないかと思っていた。

 この本が受賞することにより、革マル派という組織がいかに暴力的であったか広く知られることになる。それはよいことだ。勢力はかなり小さくなっているだろうが、今もその流れの組織や人が運動のなかに入り込んでいるからである。

【付記】革マル派は許せない、という気持ちは続いている。単に彼等が暴力を振るっていたということではなく、国鉄の分割民営化の際、国鉄労働組合に対する不当労働行為に、みずからの組織(動労)温存のために、当局と協力したこともある(これは国鉄労働組合破壊、そして総評解体へとつばがる支配層の策謀であった)。もと革マル系であった知識人に、内田樹、福島泰樹(歌人)、石田英敬らがいることを最近知った。 

 

昨日の『東京新聞』を読んで(2024年5月4日) 

 まず目についたのは奥島孝輔氏の訃報である。彼は経済法の教授であったと思うが、教えを受けいたことはない。経済法では、私は宮坂富之助氏の講義を受けた。宮坂氏の講義はシャープであった。調べてみたらもう鬼籍に入られていた。

 奥島氏の唯一の功績は、学内の革マル派と闘い、彼らを文学部自治会、文連、大学祭実行委員会から放逐したことだ。彼ら革マル派は、自治会などを掌握して年間多額のカネを入手し活動費につかっていた。私も在学中、彼ら革マル派の暴力には心の底から怒りを持っていた。彼らは反スターリン主義を掲げていたが、彼らこそもっとも組織の温存を至上価値とするスターリニストであると思っていた。彼らは文学部校舎を暴力支配していた。スターリン時代のソ連とまったく同じであった。

 革マル派の暴挙は、樋田毅さんの『彼は早稲田で死んだ』に詳しいが、あの時代、キャンパスで彼らの暴行を目撃しなかった者はいないだろう。

 また革マル派は、国鉄の労働組合のひとつ、いわゆる動労を牛耳っていた。国鉄民営化という方針が示されたときには、その政策にのって、民営化を推し進める国鉄当局と癒着し、率先して民営化の旗振りを行い、動労という組織の温存を図った。しかしJR当局に見捨てられ、JR社内での革マル系労働組合の凋落は大きいようだ。

 学生時代、いろいろな党派がうごめいていたが、革マル派はとにかく許せない、というのが私の未だに消えない感情である。(以下略)

 【付記】奥島の革マル派一掃の方針は、それ以外の学生の活動をも抑圧するものであったそうだ。10年ほど前、サークルの同窓会があり早稲田のキャンパスを歩いたが、タテカンはなく、大人しそうな学生たちがたくさんいた。わたしが学生であった頃は、学内タテカンだらけであった。大学の管理体制は驚くほどに強化されていた。

 

ある映画について(暴力支配下の大学)(2024年5月27日)

「ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ」という映画が上映されている。残念ながら、私の住む浜松市では上映されないようだ。

 この映画は、1972年11月8日、早稲田大学文学部の学生であった川口大三郎君が、暴力集団革マル派に中核派のメンバーだとされて(川口君は、中核派のメンバーではない)、文学部校舎で革マル派によって惨殺された事件である。

 当時法学部の学生であった私も、その後に展開された虐殺抗議・革マル派追放運動に参加はしたが、しかし熱心に参加していたわけではなかった。

 この事件について、樋田毅さんが『彼は早稲田で死んだ』を著し、この事件を詳細に記した。

 そしてこの本をもとに、映画が制作された。上映される中で、11・8事件についてのサイトが立ち上がっていることを発見した。

 私は、樋田さんの本を読んで、暴力支配に抗する文学部の学生がどのような行動をとっていたかを改めて知ったし、彼らが体験したこと、そしてそれに伴う苦悩を知らなかったことを恥じた。さらにネット上で今日知った「川口大三郎リンチ殺害事件の全貌」は、まったく知らなかった、樋田さんの本でも詳しく記されていなかった事実を提示している。これを読み、またまた驚かされた。

 事件から50年以上経過して、こうして新たな事実が公にされていく。

 あの頃、私はサークル活動(裁判問題研究会)やアルバイトで日々を過ごしていて、そちらのほうに力を注いでいたので、他学部ということもあったが、反革マル運動に積極的に参加していなかった。しかし暴力支配(革マル派は、平気で鉄パイプを振り下ろしていた!!)の下にあった文学部生にとっては必死の闘いであったことが樋田さんの本や、このサイトで知らされた。

 革マル派の暴虐を見て見ぬふりをしていれば革マル派の暴力とは無縁であったが、そうでなければ彼らの鉄パイプは着実に振り下ろされたのである。

 私も法学部では彼らの暴力活動に抗する行動を行ったりしていたが、彼らは法学部の八号館では勝手な行動はとれなかった。

 振り返ってみれば、異常な大学であった。革マル派の暴力は日常的に振るわれていた。その暴力支配を利用して、大学当局は秩序維持を図っていた。暴力支配の構造を、大学当局と警察が支えていたのである。以前にも書いたが、大学正門を警察が入退構する者を見張っていたが、明らかにコートのなかに鉄パイプを隠し持っている革マル派の学生を見逃している姿を、私は見ている。

 私が通っていた頃と大学の姿はかなり変わってしまっているようだ。またあの頃、政治の問題や社会の不正義に憤っていた学友たちのなかには、不正義の側に「転向」してしまった者が、あんがいいる。

 不正義への怒りを、何故に捨て去ることができたのだろうか。

 11・8事件に拘泥している人たちは、革マル派による暴力への怒りを捨てることなく、強く強く持ち続けている。私も、あの頃の記憶を持ち続けていたい。川口君、そしてその前に革マル派の暴力を受け、穴八幡で自殺を遂げた山村政明(梁政明君、彼は在日であった)君を忘れない。そして革マル派への怒りは、死ぬまで消えることはないだろう。

 【付記】某高校の校史の編さん執筆をおこない、その高校でおきた「高校紛争」についてもきちんと書いた。その当事者から手記を送ってもらったとき、当時生徒会長であった彼が民間の中企業に就職し、社長にまでなった。回想を読んだ限りでは、高校時代のことはその後の人生に影響を及ぼしていない。ただ退職したあとに、当時の仲間とベトナムを訪問したこと、高校生の頃に「ベトナム戦争反対」を叫んだことに関連しての訪問であったことが記されていた。高校時代の「紛争」への参加は、「一時」のことでしかなかったのか、と思った。

 

映画「ゲバルトの杜」 (2025年4月14日)

 アマゾンのプライムビデオで、「ゲバルトの杜」が公開されていることを、今朝知った。そしてみた。

 早稲田大学で、文学部校舎を暴力支配していた革マル派が、川口大三郎くんを虐殺した事件がテーマである。1972年のことである。

 この映画は、樋田毅の『彼は早稲田で死んだ』をもとに描いたものだ。その本を読んだり、またこの映画を見て、同じ時期に早稲田のキャンパスにいて、わたし自身革マル派の放逐運動に参加していた気持ちはあるのだが、しかし具体的なことはほとんど知らず、またそれに関わる運動に積極的に参加していなかったことがよくわかる。法学部生であったわたしは、革マル派の暴力からは守られていた学部であったから、文学部で闘われていた反革マルの運動は他人事だったようだ。

 この映画は、川口君事件は「内ゲバ」を激化させた、という。わたしは革マル派の暴力、彼らが服の中に鉄パイプを隠し持っていたことも知っている。そして情け容赦もなく、「敵」とした学生に激しい暴力を振るっていた場面もみている。

 革マル派も、中核派も、そして他セクトも、みずからと思想が異なる者を「敵」とみなし、暴力を「革命的暴力」であるとして、みずからの暴力を「正当」であるとしていた。しかし、それらのセクトに関わらなかった私たちには、彼らセクトに属している学生たちの暴力を「革命的暴力」として正当化していたその姿に、一㍉も同意することはなかった。独善的な組織に属している者たちが、その組織の歯車として、みずからを滅して組織に奉公する、私たちとは異なる存在としてみていたような気がする。

 わたしも社会主義的な文献を読み、暴力を伴った革命でないと、既成の政治権力は倒せないという論理は理解していたが、しかしその暴力はあくまで観念的なもので、目の前にいるセクトの暴力とは結びつくことはなかった。しかしセクトの学生たちは、みずからがふるう暴力こそが「革命」のための暴力だと思っていたのだろう。独善的な残酷な認識である。

 この映画は、暴力について考えさせようとしているように思えた。革マル派を追放するなかで文学部の自治会委員長に推挙された飛田は、非暴力を徹底的に唱えていた。他方、革マル派の暴力に抵抗する暴力は必要だとして、行動委員会を組織していた者もいた。しかしそうした行動委員会の行動も、革マル派やそれ以外のセクトの暴力をより過激化させただけで、解散していった。

 やはりわたしは、飛田と同様に、非暴力こそがもっとも力を持つのではないかと思う。暴力はさらに暴力を招く。暴力は、人を傷つけ、あるときは命をも奪う。非暴力が原則とされなければならない所以である。


 

 

 


 
 

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