2025年5月12日月曜日

式嫌い

  子どもの頃から「式」というものが大嫌いだった。入学式、卒業式など学校で行われる「式」、葬式、結婚式。

 そのなかで、葬式だけは余り抵抗感を持たずに参加できていた。しかし、わたしが死んだときには葬式はださないでほしいと思う。わたしはこの世からそっと消えていくことが望みである。

 そもそも、仏教による葬式は、坊主が主体のようになっている。わけのわからない読経を聞きながら、ひたすら座り続ける。それでも我慢しながら坐っているが、自分の場合はそうした苦行を他人に強いたくはない。

 キリスト教の葬儀に参列したことがあるが、キリスト教の場合は、亡くなられた方を中心にして挙行されていた。いろいろな人が、故人について語る。だから、わたしの知らない故人についての理解が深まったという記憶がある。

 さて学校関係の「式」。壇上に「エライ」人々が並んで、聞きたくないような話をする。いずれも聞きながらすぐに忘れてしまうようなツマラナイ内容の話である。毎年、毎年、同じことをして何か意味があるのかと思ってしまうが、『儀礼の象徴性』という本だったか、そこには、「式」というのは支配秩序というか上下関係を公然と示す(確認する)場だという記述を読んで、なるほどと思ったことがある。余計に「式」が嫌いとなった。

 学校の卒業式は、ずーーと前はある程度自由であった。40年ほど前だったか、文科省が強権的に、大日本帝国憲法下(天皇制下)の式のやりかたを復活させてから、まったく参加したくなくなった。まさに支配秩序の確認の場となった。したがって、できるだけ式場に入らないように、わたしは駐車場係をかってでていた。日の丸も見たくはないし、君が代も聴きたくはないし。 

 最近、ユーチューブで、東京藝術大学のチャンネルをみるようになった。東京藝大の「式」はユニークである。まったく支配秩序とは関係なく、創造の場となっている。そこで人びとは等しく参加者である。そして参加者が一緒になって創造の場をつくりだす。

 わたしの人間観は、ひとりひとり皆チョボチョボという小田実の考え方を是としている。わたしは学問上の権威は認めるが、人間関係に於いての権威はいっさい認めない。話してみて、こいつは権威をふりかざそうとしている、と判断したときには、以後その人との交流は遮断する。いろいろな人と交流してきたが、有能な人ほど権威的でないのである。無能な人ほど、自分自身にではなく、他者の権威や肩書きなどにこだわる。

 「式」が好きな人は、無能な人である。無能な人が「式」で中心になりたがる。

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