2025年5月6日火曜日

ベトナム戦争終結50年

  ジャーナリストの高世仁さんが、「ベトナム戦争終結50年」と銘打ってブログで連載している。大学の後輩である高世さんもベトナム戦争によって人生を決められたひとりであった。

 「高世さんも」と、「も」をつけるのは、そういう人たちが、わたしと同世代の人には多いからだ。

 かつて2019年に書いたものを貼り付ける。

  高校時代の一つ上の先輩のKさんから電話があった。話すのは本当にほんとうに久しぶりであった。

 私の高校時代、ベトナムでは、ベトナムの民衆が、侵略してきたアメリカ帝国主義と戦っていた。その凄まじいまでの残酷さに、当時の若者は心を痛めていた。最近は戦闘の写真、当然そこには死体が転がり、血が流れている、を見ることはなくなったが、私が高校生の頃、そういう写真は新聞でも見られた。同じ人間として、こういうことはあってはならないという正義感なり倫理感は、誰もがもっていたことだろう。

 Kさんも、私もベトナム反戦の運動に関わっていた。人間として許せない!、人間としての怒りがその原動力であった。

 Kさんは、高校からひとりひとりにあてがわれていたロッカーにベトナム反戦の本を入れていて、そうした本を読むことをすすめていた。またKさんは校内で行われた弁論大会で、しばしば弁論を行った。そのひとつに「刺青と彫師」というものがあった。その内容もベトナム戦争に係わるもので、私たちは彫師として歴史に平和という「刺青」を彫っていかなければならない、というような内容であった。今日の電話では、その内容を本人は忘れているようであった。

 人間として許せない、と考えた高校生は、その当時たくさんいた。私たちは「社会科学研究会」、通称「社研」を組織した。もちろん届け出たわけではない。

 その「社研」ではどういうことをやったのか、ほとんど記憶はないのだが、そこに集っていた人々の顔は思い出すことができる。何度も会っていたはずだ。

 高校を卒業して、私はKさんだけには会ったことがある。といってもKさんが大学を卒業するかしないかの頃で、Kさんの結婚式に出た。当時東京から静岡まで、「東海〇号」という急行があり、私はそれに乗って東京・静岡を往復した。

 Kさんは静岡大学人文学部に進学、卒論は中世史、個別荘園の研究であった。卒業後は神奈川県の中学校の教員となった。そして今も平和に関わることをしている。

 高校時代に持った思い、人間として許せない!という感性は、今もなお、Kさんにも私にも生きている。

 思春期にもったそうした思いは、捨てることができない。捨てるということは、自分自身を裏切ることになる。おそらく死ぬまで持ち続けることだろう。

 あの頃、同じような思いを持った「社研」の人々は、その後、どういった生き方をしてきたのだろうか。

2025年5月4日日曜日

オルレア・ホワイトレース

  今、庭にはオルレア・ホワイトレースが咲き誇っている。白い、まさにレースのような花で、どうしてこんなきれいな造形の花ができたのかと思ってしまう。

 昨年、このオルレア・ホワイトレースの種を買って栽培してみたら、あまりにもきれいなので、今年も購入したのだが、昨年咲き終わったオルレア・ホワイトレースを捨てたところにも勝手に生えて咲いている。なかなか強い花である。

 近所のおばさんたちも、欲しいと言ってくるので、切ってあげている。花瓶に挿しても、そのきれいさは変わらない。

 オルレア・ホワイトレースが終わるころからは、ゴデチャが色彩豊かに咲き始めるはずだ。これももう何年も咲かせている。そしてその後ろにはアリストロメリアがあって、毎年花壇を豪華にしてくれている。これは放っておいても毎年咲く。

 花壇の前方には、ネモフィラ、わすれな草があるが、しかしそれらはもう盛りを過ぎた。

 春に咲く花はいいのだが、夏の花は、最近の酷暑で軒並みやられてしまう。いろいろな花の種を買って栽培しているのだが、酷暑のもとで強いのは百日草と千日紅である。他の花は最近の酷暑には耐えられないようだ。

 だから今年は百日草と千日紅で、酷暑の花壇を覆うつもりである。とはいえ、タキイ種苗のカタログを見て、これはというものを選んで注文している。栽培してみて、酷暑に耐えられるかどうかをチェックしようと思う。

 テーブルの上には、オルレア・ホワイトレースが咲いている。時々じっとみつめ、真っ白だけど、どうしてこんなに豪華に感じられるのかと思う。

 近所で花を咲かせている家は、少ない。最近新築される家には庭がない。樹木もなく、石を敷き、コンクリートで覆う。建物の色も黒が多く、窓が少ない。いろいろな意味で余裕がなくなっているのだろう。

 

 しかし、

 

盛況の防衛産業

 『地平』6月号の半田滋氏の「よみがえる日本軍需産業」の冒頭部分、

  防衛産業が好景気に沸いている。岸田文雄政権が2022年12月に閣議決定した「敵基地攻撃能力の保有」「防衛費の対GDP比2%」を受けて、防衛省からの発注が殺到している。

 閣議決定の次年度、2023年度の契約額を見ると、受注額の多い順に三菱重工業が一兆6803億円(対前年度比4.6倍)、川崎重工業が3886億円(同2.3倍)、NECが2954億円(同3.1倍)、三菱電機が2685億円(同3.6倍)、富士通が2096億円(同3.2倍)となった。

 岸田政権は2027年度まで五年間の防衛費をその前五年間の1.6倍の43兆円としたが、1から5位までの契約額はこの伸び率をはるかに上回った。しかも防衛省は2023年度から利益率を8%から15%に増やしたから、各社とも利益がさらに増えている。業界最大手の三菱重工業の株価は閣議決定直後からの三年間で約4倍も上昇した。

 衝撃的な数字が並んでいる、とわたしは思った。

 庶民が米の高騰で、うどんなどで腹を満たそうとしているそのなかで、軍需産業が大儲けをしている。ここに書かれている数字は、もちろん国家財政(税金)から支出される。軍需産業やその株主は大喜びである。

 今や日本の主要な輸出産業は、車だけとなっている。それ以前には原発の輸出も考えられていたが、福島原発の爆発でそれは潰えた。それまでにも、日本にはいろいろな産業が勃興してきたが、官僚や政治家は利権につながらないからか、それらを育成してこなかった。車と原発でいこうと彼らは考えていたのであるが、原発が潰えたことから、次は軍需だと考えているようだ。しかし軍需品は実際に使用されてみないとその効果は信用されない。そこで日本の財界はどこかで戦争をしようと考えているように思う。

 日本の支配層に、日本国憲法は眼中にない。カネだけをみつめている。

 わたしが主に使用しているパソコンはNEC(補助的に使っているのはマウス)、残念ながらWindows11に対応していないので、あたらしく買わなければならない。やはりNECと富士通はやめよう。 

 半田氏の軍事に関する知識は相当なもので、彼が書いたものはすべて読むに値する。この論考から、新たな知見を得ることができた。

 なお半田氏は、ユーチューブのデモクラシータイムスで、軍事に関する番組を持っている。

 

直球 “「永遠の戦後」目指して”

  5月3日の『東京新聞』の社説、直球といえるようなストレートの主張である。腐敗する自由民主党という政党と、創価学会の公明党が結託して、日本を戦争の出来る国家へにしようとしている。もちろんその背後には、政治資金を贈り続ける経団連の意向がある。経団連など財界は、戦争によって国土が破壊され、人びとが殺されたり傷ついたりすることに関心はない。

 そのような動きを押しとどめる力は、市井の人びとしかない。『東京新聞』社説は、それを訴える。

 

 日本現代史は戦前、戦中、戦後に区分できます。日本軍は1937(昭和12)年から中国と戦火を交えていましたが、41(同16)年12月8日の日米開戦を起点にすると開戦前が戦前、開戦から45(同20)年8月15日の終戦までが戦中、終戦以降が戦後となります。
 「もはや『戦後』ではない」と56(同31)年度の経済白書は宣言しましたが、私たちは今も、戦後を生き続けていると言えます。
 そうした中、近年は「新しい戦前」との指摘が聞かれるようになりました。2022(令和4)年末、タレントのタモリさんが黒柳徹子さん司会のテレビ番組「徹子の部屋」に出演した際、翌23年の予測として発したそうです。
 当時、岸田文雄内閣が相手国の領域内で軍事拠点などを攻撃する「敵基地攻撃能力の保有」を容認する新しい国家安全保障戦略を閣議決定した直後でした。

◆軍事傾倒「新しい戦前」

 歴代内閣は憲法の趣旨ではないとして認めてこなかった攻撃能力の保有を一転して認めたのですから、「集団的自衛権の行使」容認に続き、専守防衛に徹してきた戦後の安保政策の大転換です。
 タモリさんはそうした軍事への傾倒を、日米開戦に突き進む戦前と重ね合わせたのでしょう。
 きょうは憲法記念日です。終戦から2年後の1947(昭和22)年に現行の日本国憲法が施行された日です。それまでの旧憲法を敗戦を経て改正したものですから戦争との決別を誓い、平和を創造する意志にあふれています。
 前文にはこうあります。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
 そして、9条に戦争放棄、戦力と交戦権の否認を明記します。
 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 当初、連合国軍総司令部(GHQ)案を基にした政府案の条文に「平和」という文言はなく、新憲法制定に向けた衆院「帝国憲法改正案委員小委員会」での審議の過程で加えられました。
 95(平成7)年に公開された速記録によると、法学者出身の鈴木義男・社会党議員が「唯(ただ)戦争をしない、軍備を皆棄(す)てると云(い)うことは、一寸泣言(ちょっとなきごと)のような消極的な印象を与えるから、先(ま)ず平和を愛好するのだと云うことを宣言して置いて、其(そ)の次に此(こ)の(戦争放棄の)条文を入れようじゃないか」と提案し、各委員の賛同を得ます。

◆平和の愛好をまず宣言

 これを受ける形で芦田均委員長(後の首相)が修正案を提示。議論の末、1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」との文言が挿入され、今の9条となりました。
 国際平和の希求は、戦争の惨禍を生き延びた人々の切実なる願いであり、犠牲となった人々や国際社会への誓いでもあるのです。
 先に述べたように近年、集団的自衛権の行使容認や敵基地攻撃能力の保有など、憲法9条に反する動きが加速し、防衛費の増大や防衛力の強化も続きます。
 しかし、日本が戦後、平和を維持し、国際社会の評価と尊敬を得たのは、憲法9条の下で専守防衛に徹し、他国に脅威を与える軍事大国にならず、非核三原則を守る「平和国家としての道」を歩んできたからにほかなりません。
 「新しい戦前」の状況を転換するには、先人たちが憲法9条に込めた理想に立ち返り、今を生きる私たちがその実現に努めねばなりません。それが「永遠の戦後」にとどまることになるのです。
 18世紀ドイツの哲学者カントが「永遠平和のために」(集英社、池内紀訳)に記した言葉を紹介して、結びとします。
 「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」

宗教とカネ

  浜松市の片田舎に住んでいると、自分自身を刺激する情報は基本的に本(雑誌も含む)しかないという状況に陥る。すでに退職し、農作業と読書に時間を費やしているわたしには、他者からの刺激はほとんどなくなっている。それにテレビも見ないし、Xもやっていないので、情報源は本、新聞となる。

 『地平』6月号に「統一教会の行方」(藤田庄市)という文があった。統一教会は、宗教団体というより、カネ集め集団であるという認識が、わたしにはある。わたしの大学時代においても、東京の駅頭では彼らが様々な理由をつけて(たとえば洪水に見舞われたバングラデシュの民衆を救済しよう、とか)カンパ活動を行っていた。かれらの人を騙してカネを奪うという手法は、一貫している。大学を卒業して浜松に帰っても、彼らは自宅を訪問して、北海道の珍味を売りに来たり、署名カンパ活動をしていた。署名用紙をみたら近所の人びとが一律1000円のカンパをさせられていた。集められた多額のカネは、韓国にわたり教祖とそのまわりの人たちに豊かな生活を生みだし、自由民主党という利権政党にわたり、おそらく日本国内の幹部たちの豊かな生活を支えているのだろう。

 わたしは統一教会に関していろいろな本を読んできたが、キリスト教を名乗りながら因縁とかわけのわからないことばを弄して人を騙し続けていることに怒りを感じていた。「先祖解怨」とかも、カネを集める手段となっている。

 統一教会が宗教法人として存続することはできないだろう。当然のことだ。人からだまし取ったカネを私的に費消し、自由民主党に流し、しかも税金が課せられていないというのはまったく不当である。

 統一教会への批判の高まりの中で、彼らは活発に宣伝活動を行っているという。「デモや街頭宣伝、集会の頻繁な開催、ユーチューブ、SNSをはじめとするネット上での大宣伝と、教団批判の元二世への攻撃は凄まじい」らしい。その原動力は、おそらく宗教的なものではなく、カネへの執着だろう。かれらは人を騙すことが人倫に反するとはまったく思っていないだろう。

 だが、である。統一教会と同じようなことが、日本の仏教界でも行われている。近くの日蓮宗の寺院では、塀を新調するためといって檀家に最低30万円を求め、また庫裏(住職の家族らが住むところ) を増築したいからカネを求めるなど、カネ集めに余念がない。「坊主丸儲け」ということばがあるが、まさにその通りである。

 だからわたしは、墓じまいをした。子どもや孫に不要な負担をさせたくないからだ。

 仏教界、寺院がおこなっているそのような下地があって、統一教会のカネ集めがあるのではないかと思う。

 統一教会は、集めたカネを韓国に送っている、日本の寺院はみずからの安楽のためにカネを集めている。わたしが墓じまいをした寺院に来ていた兼務住職(すでに亡くなっている)は、夕方になるとバス停に立つ。白っぽいスーツを着てお出かけである。外見は、〇〇〇風であった。おそらく夜の街にくりだすのだ。

 統一教会も、ほとんどの仏教の寺院も、カネ、カネ、・・・・では共通している。

2025年5月3日土曜日

「人がたたかうのは、愛と怒りからです」

  このことばは、『地平』6月号の酒井隆史さんの「後ずさりして前をみる」のなかの一文である。

 愛と怒りがあるから「人はたたかう」。これと同じようなことばが韓国でも語られた。それについては、gooブログに書いた。そのまま転載する。

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「私たちは、愛だから!」

2025-04-08 09:45:29 | 社会

 『世界』5月号、たくさんの文が並んでいる。なかにはツマラナイもの、自分たちの「世界」だけに通用するような内向きの、一般読者に何を伝えようとしているのかわからないものもある。だが、なかにすごい!と思ったものがあった。

 チョン・スユンさんの「私たちは、愛だから」がそれだ。韓国の若い女性たちの動きを印象的に綴ったものである。韓国は、ここまで進んできているのかと、驚いた。

 昨年の12月21日、韓国は日本よりずっと寒かっただろう。その日、多くの人々がソウルの光化門に集まっていた。いつもは夜10頃にそれは解散するものであった。

 ところがこの日、農民たちがトラクターを連ねてソウルに向かっていた。米の価格保障を求める農民たちのデモンストレーションであった。ところが農民たちは、ソウルの南・南泰嶺(ナムテリョン)で、警察に足止めを食らって動けないでいた。農民たちは高齢であった。

 この状態が、Xで伝えられたところ、ソウルに集まっていた若い女性たちその他が、ナムテリョンに向かったのだ。

 「今、農民のみなさんがたいへんなことになっている。」「困っているおじいさん、おばあさんがいる」「みんな助けに行こう」

 応援棒や携帯などを振りながら、農民たちのトラクターに駆け寄ってきた。若い市民たち、80%が女性であったそうだ。

 「警察は車をどけろ、農民を通せ!」「警察のみなさん、あなたたちもこの農民が作った米を食べているじゃありませんか」

 次々とリヤカーのようなものに乗って、若者が発言を始めた。ソウルで行われていたようなことが、ナムテリョンで起こった。

 「夜中の現場には、観光バスが何台も入ってきました。寒い人は誰でも入って体を温めてください、と。全国や海外から、この若者たちを心配する大人たちが送った暖房バスでした。続いてキムパップ(海苔巻き)、サンドイッチ、餃子、鶏のスープなど食べ物や温かい飲み物、防寒用具が配達されました。もちろん若者たちの予約ではなく、この子たちを応援する大人たちが電話で注文したものでした。真冬の深夜にバイク便やバスの運転手さんが見つかったのも信じられないことです。しかし、警察は、学生たちが集まったことに戸惑ってはいたものの、農民のトラクターをソウル市内にとうらせませんでした。」

 翌朝になっても、警察との対峙状態は続いていた。10時頃にはもっと人も増え、中年の男女も加わった。

 「警察は車をどけろ!農民を通せ!」の叫び声が続いた。

「結局、午後4時頃、警察のバスが動きました。冬至が過ぎて、昼間がだんだん長くなるその日に、壁がなくなったのです。10台あまりの農民のトラクターは、漢江の橋を越え、大統領の公邸付近まで進撃しました。農民のみなさんは、涙を流しながら娘たちにいました。「みんな、ありがとう。本当に、ありがとう。」一晩一緒に見守っていた若い女性たちは歓声を上げました。「私たちが勝った!」「私たちは勝てる!」」

 女性たちは言った。「だって私たちは、愛のために闘っているから!

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筆者のチョン・スユンさんは、こうした若者の動きの背景を書く。

 2014年4月16日のセウオル号沈没事故を挙げる。そのとき、ライフジャケットを着た学生たちが並んでいる。学生たちは「みんな、生きてまた会うんだよ」「うん、生きろ、生きろ」と会話していた。そのバックに、「皆さん、そのままにしていてください。今の場所で待機してください」というアナウンスが流れていた。その間に船長らは、脱出していた。そして学生たちは船と共に沈んでいった。

 「何もしないで、そのままに」という言葉にものすごい抵抗心があるわけです。何か不当なこと、不正義なこと、理不尽なことがある時、そのまま大人しくしていれば、死ぬ、死なれる、死んでしまう、という危機感とトラウマがあるから、とにかく行動に移す。これは今の若い世代の特徴だと言えます。

 そして。どこかに自分たちの助けを求める人がいれば、自分たちが助けられる立場にいれば、それがどれだけ辛くても駆けよって一緒に連帯し、力になろうとする。」

 その原動力は、愛、だという。「私たちは、愛だから」。

 そのような愛情は、日本にもある。石牟礼道子の詩に、「悶(もだ)え神」を記したものがあると、チョンさんは紹介する。「悶え神」とは、「自分は被害に遭っていなくても、被害者の悲しみを自分のことのように感じ苦しむ人のこと」をいうそうで、熊本県の水俣の言葉だそうだ。

 チョンさんは、石牟礼の詩を最後に紹介する。

花が/この世でもっとも悲しい人々の為に/ひらくように/平和は/泥にまみれ けりやられ つばをかけられ/してきた人々のためにある//今のあなたの暮らしが平和だから/平和を守れ というな/今のあなたの暮らしが/人々の貧困とうらみを土台にして/居る限り

 この連載の表題は、「言葉と言葉のかくれんぼ」である。ことばというのは、まだまだ美しく、輝くことができる。

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 酒井さんのことばは、2022年に亡くなった マイク・デイヴィスのものである。

 『地平』6月号の酒井さんの文の内容は、マイク・デイヴィスが著した本の内容を簡単に紹介するもので、5月号は「マリブは燃えるにまかせるべし」であった。マリブは高級住宅地、ロサンゼルス郡の美しい海岸部に造成され、住宅販売価格の中央値は400万ドル、約6億800万円だそうだ。そこは「悪魔の風」によって2年半ごとに大規模火災に見舞われる。しかし富豪たちはひるまない。保険をかけているし、そうした高級住宅地には当局が「厖大な予算を投入してくれる」からだ。

 同じように、ロサンゼルスのスパニッシュ・ハーレムであるウエストレイクも大規模火災に見舞われる。当局は、しかし「無視と無策」を提供(?)する。富豪には手厚い保護を、貧民には「無視と無策」を、これが現在の政府・自治体など「公共」がやっていることである。

 絶望?デイヴィスは、こう語るのだ。

 だれもがいつも知りたがっています。希望はないのか?希望を信じないのか?でも、人は希望があるからたたかったり、道をふみとどまったりするのではないとおもう。人がたたかうのは、愛と怒りからです。・・・絶望的にみえるたたかいであってもたたかってほしいと願いながら書いているんです。

 闘いの原動力としての、「愛と怒り」。アメリカと韓国から、同じようなことばがだされた。だが、日本からは?

 

憲法記念日

  毎年、日本評論社が発行している『法律時報』の5月号は、何らかのかたちで日本国憲法の特集をしていた。しかし、最近そういうことはなくなった。法律学のレベルでも、憲法は脇におかれている状態である。

 安倍政権以降、公然と憲法を無視する傾向が強まり、対米隷属のままの軍事拡大、「敵」との戦闘を前提とした軍事作戦が計画されている。沖縄県の諸島では、自衛隊が軍事基地を構築し、アメリカに言われるままに対中国との戦争を準備している。

 そのようなことがあっても、沖縄県の首長選挙では、悪名高き自民党・公明党推薦の候補が当選している。もうどうでもよい、と思うようになったのか、それとも「保守化」したのか、わたしにはわからないが、少なくとも、アメリカに隷属する自民党・公明党政権に対する、平和・軍事レベルでの抵抗感は少なくなっているように思われる。

 兵庫県でも、知事によって法を無視する行動が眼に見える形で行われている。あらゆる部門で、法を無視する動きが強まっている。

 それはアメリカでも、である。トランプ政権は、堂々と法を蹂躙する動きを強めている。まさに安倍晋三が、みずからの恣意的な政治を行うために、内閣法制局長官を意のままに動かすことができる人物を任命したように、法や慣例を歯牙にもかけない動きが、世界的に強くなっているように思う。

 昨日、ユーチューブでデモクラシータイムスの「三ジジ放談」をみていたら、平野貞夫が、番組の最後のあたりで、衆議院憲法調査会のトップにいる立憲民主党の枝野幸男が積極的な改憲論者であり、スガもと官房長官を大いに評価していたことを指摘していた。スガについては、雑誌『プレジデント』での対談記事に、そう書かれていたようだ。

 わたしはもともと枝野というのは胡散臭い人物だと思っていたが、やはりそうだったのかと思った。ひょっとしたら、立憲民主党をたちあげたのは、改憲を進めるための手段ではなかったのでは。

 いずれにしても、歴史は「法の支配」が確立していない時代に戻りつつある。

 なお『週刊金曜日』の特集は、「象徴天皇制」である。天皇制の骨格も、近代日本国家の創造物である。わたしは天皇制が日本の民主主義や人権を麻痺させていると思っている。毎年春秋に叙勲が行われているが、日頃批判的な言辞を展開している人士のなかに、堂々と叙勲を受けている人がいる。叙勲を受けるということは、天皇制に包摂されることだと思っている。

 若い頃、購読していた『歴史学研究』の月報に、歴史学者の江口朴郎が叙勲を受けないことについて書いていた。その通りだと思った。わたしが尊敬する歴史学者は、誰ひとり叙勲を受けていない。