2026年4月19日日曜日

意味を問う

  秋山清全集のの第六巻は、竹久夢二について書かれたものを集めたものだ。以前、竹久夢二について「竹久夢二とその時代」という話をしたとき、秋山が夢二について書いたものを読まなかった。その他の文献はかなり集めて、今も書棚に並んでいる。

 先年、ある人から秋山清全集をいただき、折角だからと思い、第六巻を読んでいる。さすがに夢二論として秀逸である。とても参考になる。夢二については、年内にもう一度まとめようと思っているので、それはこのブログにも掲載しようと思う。

 今日は、夢二について書くわけではなく、秋山の「抒情の世界」のなかの一節に注目したので、それについて書く。 秋山は、

  「近代画の方向が、美の追求を本願として意味を画面から追放することを最大の眼目としたとき、夢二は形態を描いて美を追求する以上に、形態の生ずる要因を求めて、すなわちそこに立つ女、見える風景の中に、歴史的現実的社会的意味を求めつつそれらを描いた。姿や形はだから彼の絵の目的の手段にすぎなかったこともあった。」

 これを読みながら、最近の歴史研究が、「意味」を考えない、「歴史的現実的社会的意味」をいっさい顧慮しないでなされていることについて、怒りさえ覚えている自分をふたたび発見した。

 最新の『週刊金曜日』に掲載されている高橋和夫氏へのインタビューの末尾に、「研究者の「総与党体制」」という文字を発見した。そうだろうなと思う。現実に対する危機感というか、問題意識をもたないでなされている研究の多いこと。

 わたしは、歴史研究は、現代的課題を常に脳裡に浮かべながらなされるものだという教えを先輩の研究者らから受けてきた。だから、これってどんな意味があるの?と問いたい研究が多くなっていることに、大きな違和感を抱く。

 

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