2026年2月5日木曜日

「中道」ということば

  立憲民主党と公明党がタッグを組んで、「中道」某という政治団体を結成した。今まで公明党のポスターが貼られていた創価学会信者の家の塀などに、「中道」なんとかのポスターが貼り出されている。

 しかし「中道」という言葉の意味は、確定的ではない。「中道」とは、ふわふわと世の動きに流されながら、定点を持たないということで、同時に「中道」という言葉にあるのは、現状肯定という観念があると思う。

 公明党は、長い間、日本を衰退させた自由民主党と共に政権を担っていた。ということは、現状の日本、先進国とは言えない日本の実態、貧困、アメリカの言うがままになっている「防衛」問題など、公明党にはそれらにかかわる政治責任と言うものがあるはずだ。しかし政権与党から離れたからということかもしれないが、そうした責任についてはまったく語ろうともしていない。

 考えてみれば、一定の歴史をもつ政党は、それぞれの歴史の中で、悪事に手を貸してきた。社会民主党も、である。年表を繰ってみれば分かるが、日本の軍事大国化、あるいは憲法改悪の動きは、小選挙区制以後に、自由民主党などが積極化させてきている。その小選挙区制に、当時の社会党(社会民主党)は賛成し、みずから弱小政党への途をつくりだした。今、まったくの少数と化した社会民主党は、断末魔を迎えている。

 「中道」ということばは、リベラルということばと響き合う。リベラルも、現状肯定で、現状の根底的批判は行わない。立憲民主党が「中道」何とかに合流したら、たちまちにして原発肯定、安保法肯定へと舵を切った。

 酒井隆史の論稿(『賢人と奴隷とバカ』)を前提にすれば、その原因は、日本社会の中で、「対抗的実践が衰弱し、知的言説が保守化するなか」(286)、現状の根底的批判の言説がほとんど聞かれなくなったことにある。「中道」とは、そうした流れに身を託すということであって、何となく現状を批判しながら、しかし現状の改革には進むことなく、ふわふわと浮沈をくり返しながら流れ去っていく政治勢力といえるのではないか。

 酒井の前掲書に、「世界のエリート層は、破局を富のさらなる蓄積の機会に転じつつ、一手に集中させた膨大な富の防衛のために地球上の人びととたたかう意欲をますます隠さなくなってきた。富裕層とその同盟者は、システムの正当化が困難になればなるほど、「切腹」や「安楽死」などを口にしながら、「たちどころ」の解決、つまり暴力による解決をもとめていくだろう。」 (445)とあるが、今後の世界は「暴力」が躊躇もなくふるわれる時代と化していくだろう。

 ネオリベラリズム(「新自由主義」)という、資本主義のもっとも先鋭化し、もっとも本質を顕現する資本主義が、その仮面をとるとき、そこでは「暴力」が自由にふるわれる。まさにトランプがその典型を見せている。

 「中道」は、そうしたネオリベラリズムの暴力に対抗できない。「中道」には、対抗する核というモノがない。流されていくだけだ。

 今後の社会は、対抗する核を持った、マイノリティが時代を切り開いていくのだと思う。多数が寄り集まっただけでは、ネオリベラリズムがつくりだす潮流に対抗することは出来ない。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿