刺激があると、やっと考える。日常生活は、まさにいつもしていることの繰り返し。刺激はほとんどないから、考えるということにつながらない。唯一刺激を与えてくれるのは、本である。
『週刊金曜日』を読んでいたら、劇団「燐光群」主宰者、坂手洋二の新作「高知パルプ生コン事件」の紹介記事があった。
高知パルプ事件というのは、高知市を流れる川、江ノ口川が大いに汚れた時期があった。パルプ工場が廃液を垂れ流していたからであった。市民はあまりのことに、排水を止めようとしたのだが、埒が明かない、そこで山崎圭次らが、パルプ工場の排水口に生コンクリートと砂嚢を投入し、廃液を工場敷地から外にあふれ出た。山崎らは罰金5万円の有罪判決を受けた。
その事件を「高知パルプ生コン事件」という舞台にあげたのである。その主題、「実力行使による画期的な民主主義の実現」として。
まったく知らなかった、「燐光群」も、坂手洋二も。坂手は「社会派演劇家」で、社会派の作品をたくさんつくっているという。
ユーチューブで、「燐光群」の舞台を見てみた。
学生時代によく見ていた前衛劇に近いと思った。普通に見る劇の流れではなく、台詞、間、演技・・・それぞれがビシッと迫ってくる。浜松演劇鑑賞会で上演されるのは、まさに普通の劇で、一定の筋の展開があり、その展開に沿った台詞や舞台装置があり、別にビシッと迫ってくるものではない。
学生時代に見ていた前衛劇は、ひとつひとつの台詞の彼方に何かわけの分からない世界があって、その一部が観客に投げ込まれてくる、そういう台詞であるから、それぞれのことばに新たな意味を持たせているようで、ことばを再考させられるというような気がしていた。
そういう刺激が欲しいと思った。
坂手は、「演劇は3週遅れのジャーナリズム」と語る。なるほどと思った。ジャーナリズムということばには、批判的精神が含意されている。たしかに、演劇には、何らかに対する批判がある。批判は、舞台の上では、葛藤となって現れる。葛藤がなければ、演劇は成りたたない。
舞台上の葛藤が、観客への葛藤として投げかけられる。その葛藤を、観客が受容し、考える契機とする。
さっそく、わたしは坂手洋二の戯曲をいくつかまとめた本を読みたくなり、図書館から借り出す手続きをとった。
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今日は、午後から雨だというので、午前中2時間畑にいた。土を耕し、畝をつくり、肥料を撒く。農業機械は持っていないので、鍬やスコップなどすべて手作業である。夏草におおわれていた畑が、土色となり、またマルチをはるので、黒色となる。はくさい、キャベツ、レタスなどが生長してきている。農業は、自然との対話である。自然は、最近の気候変動をはっきりと示している。都会に住む人びとには、わからないだろう。