2025年5月22日木曜日

語る、学ぶ

  今日は農作業をせずに、ほとんど机の前に座っていた。

 zoomをつかった研究会。軍事郵便を解読している研究会に、遠くから一応参加している。一応というのは、研究会は神奈川県や東京都で開催されていることから、時々依頼されて参加するだけのメンバーであるからだ。

 今から30年近く前、南京事件に関わった軍事郵便を発見し、それを紹介する文を書いたり、地元のテレビ局と提携してドキュメンタリー番組をつくったりしたことがある。

 それを知った研究会のメンバーに半ば強引に入会させられたのである。

 今日は、軍事郵便研究にあたって何か話して欲しいと言うので、「軍事郵便解読からその先へ」というテーマで話した。

 軍事郵便には、きわめて形式的なものや印刷されたものもあるが、なかには、個々の兵士の具体的な行動、軍隊生活、兵士としての感情、戦争の実態(加害行為も)などが書かれているものもあり、軍事史的にも貴重なものがある。軍事郵便は、一次史料である。

 しかし、軍事郵便を書いて投函する兵士は、「駒」でしかない。自分自身がどのような作戦のなかにいるのか、今後どのように移動するのかなど、まったくわからない。とにかく上官の命令で動くしかない。

 したがって、兵士の戦争体験記と同様に、その内容は点、あるいは線でしかない。戦われている国家間戦争のどこに位置づけられるのか、書いた本人は理解していない。

 だからわたしは、軍事郵便は、解読するだけではなく、その軍事郵便を書いた兵士の部隊などを調べあげ、その部隊の動きなどを知った上で、書かれた内容を、戦争の歴史のなかに埋め込んでいく作業が必要である、軍事郵便に記された個々の兵士の具体的な行動が、戦争という歴史のなかに位置づけられるとき、一次史料としての軍事郵便は、歴史の「証人」としてよみがえってくる、ということを話した。

 その後、メンバーの中に高麗博物館に関係されている方がいて、在日コリアンの歴史などが話された。わたしは、在日コリアン史を書いたり、戦後補償裁判にも関わったことがあるので、語られた内容は知っていることばかりであった。わたしは黙って聞いていたが、そうか、わたしが何度も話したり書いたりしてきたことが、今も新鮮な内容として多くの方に聞かれるのだということを再認識させられた。

 歴史研究の成果は、人口に膾炙していないのである。

 わたしは語りながら、あるいは聞きながら、いろいろなことを学ぶことができた。

 珍しく昼頃から夕方まで、机の前にいたが、収穫は大きかった。人と交流することは大切なことだ。

 

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