最近はあまり行くことはないが、東海道本線で静岡から浜松へ帰る途中、愛野駅からたくさんの人が乗り込んでくることがある。近くに多くの人を集めて開催できるコンサート会場があるからだ。空いていた電車が、急激に人びとで満員となる。人びとは、ほぼ同じような格好をして、何らかのグッズを手にしている。興奮冷めやらぬ人びとは、みずからの熱狂を語り合う。冬であっても、そうしたとき、電車内は熱気で暑さを感じるほどである。
わたしが不思議に思うのは、ジャニーズ系のコンサートがあったときには、人びとの服も動きも華やかな感じで、「いきものがかり」の時には地味な服装で大人しい・・・・というように。
集団のなかで同じように振る舞うことが当然であるかのようである。集団行動は、日本の学校では当たり前のように、教育活動の一環として子どもたちに課される。
最近、「推し活」ということばをよく聞くようになった。斎藤美奈子さんの定義では、「アイドルなどの特定の対象(推し)を応援する行為のこと」である。わたしには、「推し」はない。
斎藤さんは、「熱狂を生みだすビジネスである以上、ときとしてそれは宗教に近づく。推し活はファンダム(SNSなどを通じて熱心なサポート活動を行うファン集団)を形成し、彼ら彼女らの行動が布教の鍵を握る。チャーチマーケティングとも呼ばれるその活動は選挙活動にも応用可能だ。」(『東京新聞』「本音のコラム」2025年12月31日付)と指摘する。
確かに、最近の選挙を見ていると、政治のレベルとは無関係の何らかの力が働いて、こんな人が・・・という人が当選することが多くなっている(昔もあったが・・)。 投票行動を決める要因は、政治的な知識、あるいはその候補者に関する知識ではまったくなく、ある種の感情的な熱狂のようだ。だからそれは一過性でもある。
人びとの、その時の「推し活」によって、選挙が左右される事態となっている。政治の動きを注視しているわたしにとっては、由々しき事態である。
こうした事態に、『世界』や『週刊金曜日』などの雑誌で特集を組み、その分析を試みている。こうした事態は、克服すべき課題であるからだ。
最近書いた原稿を掲載する。
メディア史から感情史へ
『現代思想』( 青土社)8月号の特集は、「昭和100 年」から問う」である 。巻頭には 、成 田龍一とメディア史の佐藤卓己の対談、記憶の場としての「昭和」/方法としての「昭和」」が掲載されていた。直近に参議院議員選挙もあったので、その対談を読みながら、いろいろ考えさせられるものがあったので紹介しようと思う。
2025年は「昭和100年」、「戦後80年」。まず遠山茂樹らの『昭和史』(岩波新書、1955 年)を検討し、同書には「戦争を率いた悪とは軍部」、「戦争は人びとにとって外在的な存在とされ」、「人びとの戦争への参加は受け身の立場で記され」ている、と指摘している。原爆投下や激しい空襲もあったことから、そのような意識が広く流布し、人びとは戦争に於いて「 被害者」であったという意識が強く形成された。その後、日本は侵略戦争を行い、また植民地支配も行ったことが顧みられ、日本の加害者性も論じられるようになった。ところで、この対談で、佐藤は、「ラジオ放送開始100年」、「(男子)普通選挙制度100年」、「大衆娯楽雑誌『キング』創刊100年」を挙げている。佐藤のメディア史の研究について、「「民衆」あるいは「国民」とは一方的に抑圧された存在ではなく、積極的に体制への参加を望み、「ファシスト的公共圏」を担う 」とし、「ファシズムを「外在的」ではなく「内在的」に把握し“ 歴史化”
する営み」であると成田は指摘する。それをうけて、佐藤は「大衆の参加とメディアの役割が無視できない」とし、ラジオが普及し(1941年にはラジオ聴取者は630万人、1944年には750 万人となっていた)、戦時下の新聞の発行部数は右肩上がりに伸びていったことを指摘する。
統制下にあったラジオ、新聞は、戦意高揚の重要な手段となっていた。そのようなメディアと大衆とが「世論」をつくりだし、「世論」が国策の決定に力を及ぼすようになった。その点で、「ファシスト的公共性が大衆的公共性と重なるという議論は当然、大衆の政治的責任を問うことを意味」する、と佐藤は言う(「民衆の戦争責任」を問う研究もある)。
さて、先の参議院議員選挙において、「日本人ファースト」を掲げた参政党が躍進した。参政党について、7月21日、BBCは、The rise of the far-right 'Japanese First' party(「極右日本第一」党の台頭)という記事を発信し、 参政党を「極右」とした。比例での同党の得票数は、約742万5053票であった。他党の得票数も合わせて考えると、日本全体では「右」へと大きく動いたということができよう。古賀茂明は「参政の躍進は一時的現象だ。そういう意見も聞くが、残念ながら、今回の参院選では選挙の構造変化が起きた。それは、(中略)政治的リテラシーがほとんど、いや、全くないと言ってもよい人たちが、その時々のSNSの情報に感化されて、投票に行くという現象が起きるようになったということだ。」(アエラデジタル、7月29 日配信)という。この「SNSの情報に感化されて」は検討されなければならないと思う。
SNSが投票行動に大きな影響を与えていることが問題とされて久しいが、その状況に対応して「感情史」が注目され始めた。2023年12月号の『現代思想』は「感情史」を特集とした。巻頭の対談で、森田直子はインターネットの普及が感情への注目が高まったきっかけだという。小野寺拓也は「( SNSは)文字であるにもかかわらず非常に強烈な感情が伝染する」、「理性で説得できる正しさとか経済的な損得勘定ではなく“ピンとくる”かどうかで人々が動くようになってきていて、政治の側もどんどんそういう言説を投げかけていく」と指摘する。
1930 年代から戦時中にかけて、ラジオや新聞が戦争への熱狂をつくりだした(NHK スペ
シャル取材班『日本人はなぜ戦争へと向かったのか メディアと民衆・指導者編』参照、
新潮文庫、2015 年)ことを考えると、SNS の普及に伴う危険性を視野に入れた研究が求め
られているのではないかと思う。(2025 年 7 月)
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